第1話 街角、灰色の空の下で
――花びらが雪のように舞い落ちる中、俺達は行進する。
みなが笑っている。ある人は微笑み、ある人は雄叫びをあげ、ある人は涙すら混じらせて笑っている。路を挟む両側の家屋の窓から、子どもたちや女たちや老人たちがカゴにいっぱいの花びらを撒き続けている。花びらを用意できなかった家では、代わりに色とりどりの紙吹雪を撒いていた。
溶けない色雨が降り注ぐ中、俺達はゆっくりと進む。
――俺達もまた、笑っている。
喜びに微笑み、喜びに叫び、喜びに泣いている。
男たちは祝杯を浴びるように交わし、抱き合い、腕を組んで行進する。
女たちも通りに出てきて行進へと加わり、男たちへと抱きつき、キスを交わし、花束を投げる。
軍服を着た兵士たちが、それを乗せたトラックが、戦車が路をゆっくりと進む。
彼らと共に歩むのは、兵士たちと共に戦った民兵たちであり、それを陰ながら支えた大勢の女たちや子供たち、そして老人たちであった。
――凱旋である。
長かった『共和国』と『帝国』の戦争が、その終わりの兆しを見せ始めたのである。
皆一様に、いよいよやって来た勝利を祝っているのである。
永遠に続くかと思われた帝国軍による共和国首都への占領が、今日この日の『解放』によって終わりを告げたのだ。圧政の冬が終わり、自由の春が今や来ようとしているのだ。
「ヴィクトワール!」
誰かが叫ぶ。勝利を喝采する。
「ヴィクトワール!」
皆かが叫ぶ。勝利を喝采する。
「ヴィクトワール!」
友達が叫ぶ。勝利を喝采する。
「クロード!クロード!」
友が、相棒が笑い、俺の肩を抱く。
同じ民兵として、レジスタンスとして帝国軍と戦った男、アレクが笑っている。
「俺達は勝った!俺達は勝ったんだ!」
彼の笑顔に応じ、俺も笑う。あまり笑うのは得意でない俺は、はにかむような感じになって、どこか気恥ずかしい。
「クロード!」
シルクのような透き通って柔らかい声が、アレクとは反対側から俺を呼ぶ。
声と同じように透き通ったような金色の髪と、青色の瞳を持った彼女がそこにいる。
「カトリーヌ」
俺がその名を呼ぶと、彼女は笑いながら俺に飛びつき、首に両手を回して頬にキスをする。
俺はお返しとばかりに口づけをし、頬にもキスをしてやる。そして笑い合う。それを見て、アレクも笑う。皆が笑い合っている。喜びに笑いあい、これからの明るい未来を期待する。
――それが五年前のこと。今となっては一抹の夢、消え去った未来への夢だ。
そう、夢だ。
全ては夢に過ぎない。
◆
オルフェーブル駅に列車が着いたことを知らせる車掌の声に、少女は目を覚ました。
慌てて荷物のトランク二つを手に取ると、二等客車のコンパートメントを飛び出す。ホームを抜け、駅前のターミナルへと足早に歩き、適当なタクシーをつかまえた。
「この場所に行ってもらえるかしら」
『島国訛り』のある共和国語でそういった少女は、タクシーの運転手へと二つ折りにした紙を差し出していた。運転手がそれを開いて見て、書かれている住所に眉をひそめる。
「お客さん。ホントにこの場所であってるんですかね?」
「そうだけど、なにか問題でも?」
少女に返された質問に、運転手は頬を軽く指で掻きつつ答えた。
「いやねぇ。この辺りは下町でもガラのあまりよろしくない場所でね。お客さんは言葉の響きから察するに余所の国の人でしょ。外国の、それもお嬢さんが行くような場所じゃあ――」
「とにかく」
少女はやや冷たさを感じさせる声色で、運転手の言葉に割り込んだ。
「お金はちゃんと払うから、黙って書かれてる場所まで行ってくださらないかしら」
「ですけどねお客さん」
「いいから行きなさい」
運転手は軽く肩をすくめると、黙ってタクシーを走らせ始めた。
「……」
「……」
しかして車内に流れるのは沈黙のみである。
まだ若いお嬢さんと言えば普通、運転手にとって喜ばしい類の客である。しかも今度の客はブロンドの上になかなかの美少女であるのだ。だからいつもなら多少なりともウキウキする所だが、残念至極、件の客はなんとも話しかけづらい重苦しい空気を持っており、お陰でこっちまで肩がこりそうな塩梅である。これはとっとと目的地まで行って降ろすに限ると、運転手は黙々とタクシーを走らせる。
一方、客の少女はと言うと口を真一文字に結んだまま、じっと外の景色を眺めていた。
オルフェーブルは『共和国』南方に位置する、取り立てて特徴のない地方都市に過ぎない。せいぜいある個性と言えば、更紗の工場が建ち並び、オルフェーブル産の更紗と言えば少女の故郷、海をまたいだ島国『連合王国』にも多少聞こえている、という一事だけであろう。
少女の眼に窓越しに写る景色は、灰色の雲に覆われた陰鬱な町並みである。少女にはどこか生気が無いように感じられるが、それは何も今日の天気のせいだけでは無いようである。見れば肩をすぼめた猫背の男たちが街のほうぼうに見える。どう見ても失業者であった。失業者の群れであった。
「……」
先の『大戦』において、戦争初期での連敗から国土ほぼ全てを『帝国軍』による占領にまで追い込まれた『共和国』であったが、同盟国たる『合衆国』や『連合王国』の援助もあってか、四年間に及ぶレジスタンス闘争の果てに、いよいよ『帝国軍』を追い出すことに成功した。
その勝利に共和国全土は湧き、国家の再興し失われた四年間を取り戻さんと、熱意と希望と夢が一時国全体に溢れたものだった。
――だが終戦からはや五年経過した今でも、戦勝国の筈のこの国は立ち直れないままでいる。
◆
目的地は入り組んだ路地裏の奥にあるとの事で、タクシーではそこまで行くことが出来なかった。故に少女は表通りのカフェの前で降ろしてもらい、そこで適当な地元の人間に道案内を頼むことにした。
トランクケースを両手に持って、カフェへと歩み寄る。
『カフェ・ドゥ・カントン』と書かれた看板は古ぼけていて、店自体もお世辞も綺麗とは言えない。まだ昼間だというのに労働者風の男たちが何人もたむろして、見るからに安っぽい酒を喰らっている。
道を聞くに適当な場所とは言いがたいが、他に選択肢も思いつかない。
少女は心中で溜め息一つつくと、何人かいる独りで飲んでいる客の内から適当な男を選んで声を掛けた。
「ムッシュゥ。申し訳ありません。少し良いですか」
「んあっ?」
酔っ払ってとろんとした眸子で、その労働者風の男は少女を見上げた。ちょうど居眠りしかけた所を、少女に起こされた様子である。目を手の甲でこすり、大きなあくびをする。
「なんでぇ。お嬢ちゃん。お嬢ちゃんみたいなのが来るところじゃあねぇぞココは」
大きな赤っ鼻の男はジロジロと少女の格好を眺め回した。
肩口で切り揃えられたブロンドの下には、上品だが冷たい印象を見る者に与える相貌がある。身にまとった茶のダッフルコートも、今は足元に置かれたトランクケースも、最高級品……とまではいかずとも、労働者階級の彼から見ればまず手に手に入りそうもない代物であった。性別的にも容姿的にも、こんな場末のカフェが似つかわしいとは思えなかった。
「人を探してるんです。この辺りに住んでいると聞いたので、探しに来たんですけれど」
その形の良い唇から聞こえてきたのは、その容貌から受ける印象通りの冷たい声であった。
「クロード・ノワールという方なんですが、ご存じありませんか?」
そしてその冷たい声で告げられた名前に、男は聞き覚えがあった。
「クロード・ノワール……珍しい名前じゃないが、俺の知ってるクロード・ノワールなら、確かにこの辺りに住んでるな」
「本当ですか?」
「ああ。なにせ同じ工場で働いてた同僚だしなぁ。もっともやっこさんは――」
そこで男の言葉は中断を余儀なくされた。
なぜなら――。
「そいつに頼むより俺らのほうが良いぜお嬢ちゃん」
――それ割って入ってきた奴がいたからである。
少女が振り返ると、店にいる面子の中でも特にガタイがよく、特に小汚い連中がそこに立っていた。数は三人。いずれも労働者風で、くたびれた服装をしていた。
「なんならその立派なカバンも持ってやって良いぜ」
「無論手間賃は頂くがな。こちとら失業中なんだぁ。人助けと思って頼むよぉ」
にやにやと気色の悪い笑みを浮かべ、酒臭い息を吐きながらにじり寄ってくる。
少女は例の冷たい瞳で冷静に男たちを観察したが、どう見てもまともに道案内してくれる手合ではない。連れられた先がいったい何処になるのか、それは容易に想像ついた。
「申し出はありがたいですけど、私はこちらの方に道案内を頼むともう決めましたので」
「そう冷たくあしらうなよお嬢ちゃん。その細んそい腕じゃデカいトランク二個も持つのはツレぇだろうがぁ。荷物持ちだけでもさせてくれよぉ~」
「結構です。余計なお世話というやつです」
少女はピシャリと切り捨てるような調子で断った。その声と言葉の調子に気分を害したのか、三人組のうちの一人がズイと進み出てくる。
「おい、お嬢ちゃん。余所者が、ましてや女一人であんまお高くとまってっと――」
そして月並みな脅し文句と共に、少女の肩を掴もうと伸ばした手が――止まった。同時に言葉も途切れた。
「結構です、と言いましたね。同じことは何度も言いたくありません」
いつの間にそんなモノを、一体どこから取り出したものか。一丁の軍用リボルバーが少女の手には握られ、その銃口は寄ってきた失業者の顎先に突きつけられている。その冷たい金属の感触と、その重々しいフォルムに、失業者は即座に本物の銃であることを悟った。彼とて戦時中はさんざん見たし触れたのだ。だからこそすぐに気づけたのだ。
「良いですね?」
飽くまで冷徹な声調子と共に、少女は銃口で相手の顎を小突く。その瞳に浮かぶ冷たい色に、三人組の男たちは一様に、この少女がこの場で引き金を引きかねない危うさを感じていた。
「ハッ……はぃぃ」
故に男は即座に踵を返し、転ぶようにカフェから逃げ出して行った。残り二人もそれに続いた。
「さて」
少女はリボルバーをコート下のホルスターにしまいながら、最初に話しかけた独り飲兵衛へと向き直った。思わぬ展開に、酒の赤ら顔を青ざめさせた男へと、少女は相変わらずの仏頂面のまま告げたのだった。
「行きましょうか」
◆
男に道案内を頼んだのは正しかったようだ。少女は無事に住所通りの場所に辿り着くことが出来たのだ。
少女の目当ての人物、クロード・ノワールの住んでいるのは、入り組んだ路地裏の行き止まりの一つにあって、三階建ての古びたアパートであった。
クロード・ノワールの部屋は二階の突き当りにあり、ギシギシと軋む階段と廊下を通りすぎれば直ぐに見つかった。扉の前に立ち、何度かノックをしてみる。
暫時待つが、反応が無いのでもう一度ノックしてみるが、やはり無反応である。
試しにドアノブを回してみれば、鍵がかかっていなかった。蝶番を軋ませて、ドアが開く。
狭い部屋であった。ベッドとテーブル、本棚がひとつに、そして安楽椅子があるだけ質素な部屋だった。
そして安楽椅子の上に、一人の男が座っていた。
玄関口から見えるのは男の後ろ姿に過ぎないが、どうやら目当ての男らしいと、少女は直感した。
「ムッシュゥ・クロード・ノワール。ムッシュゥ・クロード・ノワールですね?」
呼びかけてみるが、返事がない。故に開いてるドアを何度か拳で叩き、その上でもう一度呼びかける。
「ムッシュゥ・ノワール。ムッシュゥ・ノワール!」
見れば、テーブルの上には酒瓶が何本か乗っている。内、酒が残っているのは一本のみで、それも半ば以上すでに空けられている。いびきこそ聞こえないが、酔っ払って寝ているのだろうか。
もう一度少女が呼びかけようと思った時、不意に男は安楽椅子から上体を起こし、彼女の方へと振り向いた。思わず、目と目が合う。
金髪碧眼の少女とは対照的に、男は癖のある黒髪に、黒い瞳の持ち主であった。無精髭まみれの顔にある双眸はどこか淀んでいて、生気がない。それは何も酒のせいだけでは無くて、生きる活力そのものに欠けているような第一印象を少女は抱いた。
「……ノックもしないで入って来たのか?」
男の口から最初に飛び出してきたのはそれだった。コレにはさすがに少女もムッとする。酔っ払いめ、自分が寝ぼけていただけじゃないか。
「いいえ。ノックは三回ほどさせて頂きました。ですが気づいてもらえなかったようで」
少女が皮肉な調子を混ぜた声で言うが、男は何も言い返さなかった。
ただジッと、少女の顔を見つめ続けている。
「何か?」
少女が問うと、ぼそぼそと囁くような声で返す。
「いや……前にどこかで見た顔だな、とな……よく知ってる顔に似てるような……」
それは返事をしていると言うよりも、単なる独り言のようにも聞こえた。
対して、少女は自ら名乗った。
「私はイライザ・アッシュ。ローレンス・アッシュの娘です」
その名前に、男はわずかに怪訝そうな顔をしただけだった。覚えがないらしい。男の表情を見て、少女は付け加えるように言う。
「あなたにはこう名乗ったほうが良いでしょう。私は『メルリーノ』の娘です」
今度の反応は顕著だった。濁った瞳の奥に、かすかに光が煌めいたのだ。
それは彼にとって懐かしい名前であった。
「メルリーノ…メルリーノ…そうかそうか」
男は何度も、『メルリーノ』という名を舌で転がし、言った。
「そうだったのか……ローレンス・アッシュ、あいつ……本名はそんなだったのか……」
『メルリーノ』。
それは彼女、イライザ・アッシュの父ローレンスが戦時中に使っていた暗号名であった。内務省情報部の一員だったローレンスの任務は、帝国の占領へと反抗を闘争を続ける共和国レジスタンスへの支援。
そして、目の前の男、クロード・ノワールこそ――。
「父はあなたに最後まで本名を名乗れなかったのが、心残りだったと何度も話していました」
――父ローレンス随一の戦友であり、レジスタンスきっての戦士だった男なのだ。
「そうか……」
男、クロードはイライザしげしげと見つめ、自得するように頷いた。
「確かにメルリーノに、君のお父さんによく似ている。目元なんかがほんとにそっくりだ」
「ところで、お父さんは今も元気にしてるのか?」
クロードの顔にズイと顔を近づけて、イライザは険しい声で言う。
「その父のことなのです。私が貴方のところまでやって来た理由も、父ローレンスのことについてなのです」
そこまで一息に言って、イライザは二つあるうちの一方のトランクを開き、取り出したモノをクロードに押し付けた。クロードが受け取ったそれは、新聞記事の切り抜きのようであり、それは島国の言葉で書かれていたが、幸いクロードには読むことが出来た。いや、不幸にも、かもしれない。
「……!」
クロードの濁った瞳に、再度驚きの光が瞬く。
「お読みになった通りです、ムッシュゥ・ノワール。父は三ヶ月前に死にました。いえ、殺された、と言うべきでしょう」
「私は父を殺した男を追っています。そしてその為に、あなたの協力が不可欠なのです」
クロードは眠たげだった目を今度こそ見開いて、喘ぐように叫び、イライザへと問いかける。
「ま、待て!あまりにいきなり過ぎて……メルリーノが、死んだ?殺された?」
しかしクロードの混乱にも構うことも無く、イライザは一方的に言葉を続ける。
「なぜならムッシュゥ・ノワール。殺人者は貴方も良く知る人間だからだ。他でもない…」
そして彼女は吐き捨てるように、殺人者の名を呼んだ。
「アレクサンドル・ブラン。通称アレク。戦時中の父の戦友であり、貴方の相棒だった男です」