表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

急患

作者: じゃこ

 その日の急患は医師を困惑させた。妻が大変だとわめく男の傍らにはそれらしき人物は見当たらない。記録を見ても、救急車で運ばれてきたのは男一人である。精神疾患でも患って暴れているのだろうか。とりあえず落ち着かせようにも情報が少な過ぎる。どうしていいかわからずに途方にくれる医師の目に、男が抱える板のようなものが飛び込んできた。よく見れば絵本である。表紙を見るに、医師も小さい頃に読んだ事のある有名な奴だ。確かお姫様とオオカミの話だったか。


 随分男も落ち着いてきた。そこで詳しく話を聞いても、医師は首をかしげるばかりである。

「妻が絵本の中に入ってしまった。」

「危険な状態だ。」

「叩いても揺らしても、こちらからは干渉できない。」

やはり急患は妻ではなくこの男自身なのではないか。心療内科に回そうとした医師の前で、男は絵本を広げた。


 成程、意味はわからないが状況はわかってきた。絵本の中はやはり医師が睨んだ通り、お姫様がオオカミから逃げる話であった。しかし、本の中で逃げている筈の姫の様子がおかしい。明らかに現代の洋服を着ているのだ。医師の記憶では金髪であった姫も、やや茶色がかった黒髪である。この女性が、男の妻なのであろう。そして、中身はオオカミから逃げる男の妻らしき女性の絵一ページのみである。


 男の悪戯だろうか。それにしては慌て方がやや大げさ過ぎる。それに、こんな手の込んだ面倒な悪戯の、見せる相手が見ず知らずの医者というのもおかしな話である。医師が色々と思案していると、驚くべきことに絵本のページが増えた。花布はなぎれから、まるで生えてくるように新しいページが、である。成程、こんなものを見てしまってはただの悪戯として片付ける訳にもいくまい。


 次のページでも、男の妻は必死にオオカミから逃げていた。心なしかオオカミとの距離が縮まっているような気がする。そのページを見て、耐え切れなくなった男は泣き始めた。

「たしか元の話ではすぐに助けがやってくる。」

「あなたの奥さんはきっと大丈夫だ」

医師自身でもよくわからない励まし方で、必死に男をなだめる。絵本通りに事が運ぶとも限らないという考えが、頭の中によぎっては振り払う。いつの間にか、医師もすっかり絵本の続きを渇望するようになっていた。


 確かに外からの干渉は受け付けないらしい。オオカミと男の妻の間にペンで線を引こうとしてみても、ページの上をペン先がなぞるだけで線は現れない。オオカミを叩いてみても、絵本自体を揺さぶってみても内容に変わりは無かった。どうやら外の人間は動向を見守る他無いらしい。


 新たなページが生えてきた。そこには、森の茂みに隠れた男の妻を、涎を垂らしながら探し回るオオカミの姿があった。男の妻の顔は、恐怖で歪んでいる。靴は汚れ、服は所々裂けている。頬には枝でも引っ掛けたのか、痛々しい擦り傷が出来ていた。見ていられない。元の話では確か、見目麗しい異国の王子がそろそろ助けに来る筈なのだが。


 待ちに待った王子が助けにやってきた。絵本には、後光が射さんばかりの美貌の青年と、その背に縋る男の妻の姿があった。妻のひとまずの安全に、医師と男は手を取り合って喜んだ。次に生えてきたページには、オオカミをやっつけた異国の王子と、泣いて感謝する男の妻の姿があった。医師も男も、ただただ妻の無事を喜んだ。


 次のページが生えてきた。求婚する王子と、頬を赤らめる男の妻。そう、この童話王子と姫が結ばれるのだ。新たに持ち上がった問題に、先ほどとは別な理由で慌てだす男と医師。

「自分達は新婚なのだ。」

「妻の両親に反対され、度重なる説得の末ようやく掴んだ幸せだのだ。」

聞いてもいないことを、男はわめき始めた。これまでの展開が絵本通りだっただけに、次の場面も容易に想像がつく。どうか違う内容になってくれ。医師も男も、外から祈ることしか出来なかった。


 生えてきた次のページで、王子と男の妻の腕に双子の子供が抱かれていた。男は泣き喚き、医師はそれを必死になだめようとした。王子と瓜二つの整った顔立ちの双子が、男をより追い詰めた。

「こんな女クソ食らえだ。」

男がそう呟いた瞬間、医師の目の前で男が絵本に吸い込まれていった。残された医師は、ただ呆然としているしかなかった。


 絵本の続きは、たしかこうだ。殺されたオオカミの魂が乗り移った悪党が、双子を攫いに来るのだ。そして、絵本の生えたページも、それと変わらぬ内容であった。薄汚れた悪党の怒りに満ちた顔が、何処と無く男に似ている。何となく医師はそう思った。


 男は妻に絶望した瞬間、絵本に吸い込まれた。男の妻もまた、男に絶望したのだろうか。反対を押し切っての幸せな新婚生活ではなかったのか。医師には何もわからない。何より診察記録をどうつけよう。悩む医師の傍らで、絵本に新たなページが生えてきた。この先は確か、双子が両親から引き継いだ知恵と勇気で、悪党から逃げるんだったか。そして悪党は、追い詰められた双子が機転を利かせて仕掛けた罠にかかって…。あんまりにもあんまりである。見ていられなくなり、医師はそっと絵本を閉じた。絵本の隙間から、男のうめき声が聞こえた気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ