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憂鬱が纏い付く

 随分昔の一時期だけ心療内科に通っていて今は行っていないが、私はいわゆる鬱病持ちだ。

 一年のほぼどの季節も鈍色にびいろの憂鬱に纏わりつかれている。

 むろん、日がな一日ずっと鬱々としているわけではなくて、多少は気持ちが軽くなったり何かを楽しめたりする瞬間はある。

 ただ、心に鉛を抱えている感覚はふとした時に頭をもたげて来て完全に消え去ることはない。

 鬱に襲われると、どうにも息苦しくなり、何も起きていないのに心が傷付いた感覚を覚える。

 いわゆる希死念慮というかその変形なのだろうが、私の場合は繰り返し自分や大切な子供たちの死の場面を思い浮かべる。

 曲がってきた車に巻き込まれて自分やまだ幼い次女が命を落としたり*1、家に自分一人でいる時に急病や災害で孤独で凄惨な死を遂げたり。

 自宅マンションでエレベーターを待っていてもすぐ傍のガラスの無い窓から飛び降りる場面が浮かんで来る。

 飛び降りた瞬間、

「まだ死にたくないのに」

と後悔しながら地面に叩きつけられる衝撃まで*2

 そうなると、どうにも恐ろしくなるから、私は結局まだ死にたくないのだろう。

 多分、鬱は私が命を終えるまで付き合っていく病気なのだ。

 話は変わって、この鬱による自己否定感があまりにも強くなると、ネットのフリマアプリやヤフオクで少しでも興味の持てそうでかつ廉価な本やDVD、映画のパンフレットなどを買ってしまう。

 そうすると、

「商品が届いて受け取った連絡をするまで、私はネットの向こうにいるこの見ず知らずの売主さんにとって生きている価値のある人間なのだ」

と思える。

「商品が届いて受取連絡をするまで死んではいけない」

とも。

 おかしな言い方だが、軽く死神と契約した気分になる。

 それから届くまでの数日間は

「自分は生きていて良いのだ。むしろ生きていなくてはならない」

と考える。

 ただ、そうなると外を歩いていても

「今、あの車に撥ねられて死んだら、荷物が届いても受取連絡が出来ないから、こちらの事情など知らない売主さんからは『連絡もないし無責任な人間』と思われるんだろうな」

と漠然とした不安や閉塞感に襲われる。

 そして、商品が到着して受取連絡をするとホッとすると同時に

「これでもう死んでも、ネットの向こうにいる相手にとっては知ったこっちゃない話だな」

と突き放された感慨を覚えるのだ。

 むろん、冷静な頭ではいちいちネットで物を買うだけでこんなことを考えるのはおかしいとは分かる。

 自分がもし物を売る立場でもネットの向こうにいる見ず知らずの相手からこんなことを思われていたら正直、気味が悪くなると思う。

 だが、鬱に陥ると、本当にそんな些事にすら左右される心境になるのだ。

 そして、入手の経路はどうでもいざ手元に届いた本を楽しむ局面でも鬱は障害になる。

 一応は何でも興味を覚えて買った本なのに、一部は繰り返し読んでも全体を通して読むということが困難になる。

 これには元から飽きっぽい性格も影響しているのだろうが、

「長編だと結局飽きたり飛ばし読みばかりしたりしてまともに読み通せないから」

と自覚して短編集を買っても結局、十編ある内の二本も読み通せば良い方である。

「色々な作家の作品に目を通して少しでも研鑽しよう」

「そうでなくとも読者として純粋に楽しもう」

と思って買ったアンソロジー集でも結局は読まない作品、作者ばかりになる。

 昨二〇二四年にノーベル文学賞を受賞した韓国の女性作家ハン・ガンについてもネット検索して実際には手持ちの河出文庫「あなたのことが知りたくて――小説集韓国・フェミニズム・日本」に短編「京都、ファサード」が収録されていたことを改めて知ったこともある。

 買った当時は興味を覚えず読み落としていたのだった*3

 むろん、これまでエッセイで取り上げたチョ・ナムジュ作「八二年生まれ、キム・ジヨン」やミン・ジヒョン作「僕の狂ったフェミ彼女」、綿矢りさ作「パッキパキ北京」は全編を読み通した上で記事にしたが(自分としてもまともに読み通せなかった作品はエッセイの主題にして書く気になれない)、自分としてはかなりの労苦であった。

 それはそれとして、紙の本は物理的に場所を取るので電子書籍で買えるものは極力そちらで入手することにした。

 しかし、それでもいざ買うと手元にあることに安心して結局最後まで読み通せない本ばかりになることに変わりはない。

 アプリで電子書籍の本棚を見ると、どれもこれも半分も読めずに投げ出した作品ばかりであまりの根気の無さに自己嫌悪に陥る。

 電子といっても紙媒体とほぼ等価にお金はかかるので金銭を浪費していることに変わりはないのだ。

 物を無秩序に溜め込んでしまう人を「ホーダー(hoarder)」というそうだが、恐らく私は本のコレクターというよりホーダーなのだという自覚はある。

 そこで、高い本は出来る限り図書館で借りてどうしても欲しい本だけ買うことにした。

 だが、やはり予約して借りても手元に本があると急に興味が色褪せ、結局まともに読まずに返す本ばかりになる。

 貸出記録に残った本のタイトルは増えても全ページの半分以上読んだ本は一割どころか一パーセントも無いだろう。

 何のために借りているのかという話だが、図書館としては期限内に汚損せずに返却されれば支障は無いので、内実は自分のような者でも表面上は問題の無い利用者として括られるのは皮肉である。

「上辺だけ取り繕っている空っぽな人間」

 そう思うと、また憂鬱が纏わり付いてくる。


*1 次女がまだ幼稚園生の頃、一緒に横断歩道を歩いていて曲がってきた車がスレスレの所を通り過ぎた。すんでのところで私が手を引いて後ろに引かせたから良かったものの、思い出すと今でもゾッとする。あの時、次女が死んで黒縁に入った園児の写真を来る日も来る日も眺めたり自分も首を括ったりしている世界線がどこかに存在している気がしてならない。ちなみに拙作「ワーちゃん」で亡くなった娘の名前は「瑠璃るり」だが、これは長女の時も次女の時も候補になったものの最終的に選ばなかった名である。

*2 私がファンだったレスリー・チャンもそんな風にして亡くなったのではないかとよく想像する。むろん、真相は故人にしか分からないが、彼もまた鬱病に苦しんでいたとの記事を没後に複数読んだ。また、死亡時は初の監督作品の準備中でそちらでトラブルになったのが死の原因ではないかとの見方も自殺当時からあった。彼にもクリエイターとして形にして世に出したい物語があったのだ。それが頓挫したまま死ぬのはどれほどの無念だったか。もし彼の霊魂が今もこの世にさまよっているとしても私の所になど来てくれるわけはないが、「この物語を代わりに小説にして出して欲しい」と告げられたら全身全霊で書き上げるだろう。

*3 改めて読んだが、韓国人女性のヒロインが日本人男性と結婚して病死した親友に語り掛ける二人称の短編だ。同アンソロジー集でトップバッターを務めた、率直に言ってこの企画の目玉であるチョ・ナムジュなどと比べると全般に抽象的な表現が多く、個人的には“not for me”であった。

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