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「シベールの日曜日」を観て

 表題の作品については、昔、主人公がガラス玉を「空から落ちてきた星の欠片だよ」と告げる場面の引用をした記事を読んでから興味を抱き、いつかは観たいと思っていた映画の一つだ。

 その後、観られないまま中古でパンフレットだけは入手して大まかなストーリーは把握していたものの、このほどようやく本編を観ることが出来た。

 なお、Wikipediaやパンフレットによると、この映画はベルナール・エシャスリオーの「ヴィル・ダヴレーの日曜日」という小説が原作のようだが、邦訳はされていないようでこちらは映画鑑賞時は未見だった。

 著名な映画の原作であるにも関わらず今より翻訳文学、特にフランス文学が盛んだった公開当時の一九六〇年代に一切訳出されなかったのは不思議だが、映画の視聴後に検索して原作小説を抄訳するばかりでなく映画との相違点を具体的に指摘するサイトを見つけた*1

 それはさておき映画に話を戻すと、主人公は第一次インドシナ戦争にパイロットとして従軍し、機銃掃射であどけない現地人少女を殺害し、直後に本人も墜落事故で九死に一生を得たものの、記憶喪失に悩む青年(というより途中の場面で年齢は『三十歳』と説明されており、十二歳の少女と親子と第三者からは当たり前に思われる描写なので、映画の制作された一九六二年当時*2のフランスの感覚としてももう壮年だろうか)ピエール。

 戦後のパリ郊外の街を一日歩き回って、辿り着いた駅で過ごして、美しい看護師の恋人マドレーヌと暮らす家に戻る毎日を送っている。

 このマドレーヌは職場にベルナールという好意を持ってくれる男性同僚がいるにも関わらず、明らかに記憶喪失の社会不適合者で定職にも就いておらず不安定な言動を繰り返すピエールの面倒を献身的に見続ける、視聴者にはやや不可解なほど自己犠牲的で愛情深い女性だ(客観的には同じ職場で働く言動も常識的なベルナールをパートナーとして選ぶ方が妥当に思えるし、そもそもマドレーヌの情深さに対してピエール側は最初から彼女を心から愛しているようには見えない)。

 だが、彼女の様子からはどこかピエールが記憶を取り戻して自分の下から去ってしまうことを恐れているような、敢えてピエールが自分に依存し続ける環境を意図的に作り出しているかのような共依存的なものも感じられる(こうした病的な関係性というか自他を不幸にする恋愛に依存する女性を妙な美化も矮小化もせず飽くまでナチュラルに描けた点で一九六〇年代のフランスは今の日本よりも先進的だったのだろう。マドレーヌのようなケアラーを買って出る女性は今の日本のコンテンツでも慈母のように美化されるか、あるいは嫉妬深い支配的な捕食者として悪魔化されるかの両極端になるように思える)。

 ある日の夕方、いつも通り駅のベンチに座っていた彼に幼い少女を連れた父親が孤児院への道を尋ねる。

 少女と父親のやり取りからどうやら父親が娘を施設に預けて捨て去ろうとしている状況を察するピエール。

 父娘を追い駆けて行って掌に載せたガラスの欠片を見せて少女に告げる彼。

「ごらん。これは空から落ちてきた星の欠片だよ」

「気に入ったのをあげるよ」

 道を尋ねた時の応答からピエールが精神不安定な社会不適合者だと察している父親は拒否して娘を連れて立ち去る。

 なおも二人の後を追っていくピエール(この時点で観客にも彼がどこか偏執的な犯罪者じみた傾向もある人物だと察せられる)。

 そして、彼は父親が嫌がる娘を孤児院(パンフレットでは『寄宿学校』、Wikipediaでは『修道院』とされているが、映画での字幕は『孤児院』であり、実質はシスターたちが預けられた子供たちを養育する修道院附属の孤児院と思われる)に預け、関係書類すらその場に捨てて逃げ去る姿を発見するのだった。

 後日、ピエールが孤児院を尋ねると、シスターは彼を少女の父親と誤認して少女に引き合わせる。

 シスターたちからは「フランソワーズ」と呼ばれている少女は駅で会ったピエールを覚えており、彼が父親から代理を頼まれて自分に会いに来たと解釈する。

 日曜日の午後、ピエールと少女は公園を散策し、心楽しく過ごす。

 それまで記憶を喪失した空虚な憂悶の日々を送ってきたピエールには思いがけなく心の晴れる体験であった。

 結局、ピエールが父親から代理を頼まれたのではなく、当の父親は娘を見捨てて旅立った真相も少女に分かってしまうが、彼女はピエールを慕い、

「私が十八歳になったら結婚しましょう」

「私たちは婚約者よ」

と告げる。

 そして、

「フランソワーズとは孤児院のシスターたちが勝手に与えた呼び名で本当の名ではない」

「本当の名はあなたが教会の天辺の風見鶏を取ってくれたら教える」

と告げる。

 こうして毎週日曜日に彼ら二人は逢うようになる。

 その姿は恋人同士のようでもあり、子供二人のようでもある。

 だが、ピエールは少女が同年輩の子供たちと遊べばその中の男児に嫉妬して殴打するなどのトラブルも起こし、彼と同棲する恋人のマドレーヌも少女の存在を知らないまま彼の様子に疑念を抱くようになるのだった。

 こうしてピエールと少女の秘密の繋がりに決定的な危機が訪れる。

 ある日曜日、マドレーヌは彼女に好意を抱く同僚のベルナールの勧めもあり、友人夫妻の結婚式にピエールを誘う。

 逢えない旨を少女に告げに出る途中で連れ戻され、半ば強いられる形で正装して結婚式に出るものの全く上の空で

「今は何時?」

と早く帰りたそうに繰り返し周囲に尋ねて場を白けさせるピエール(しつこいようだが、こんな友人知人の前でも自分の顔を潰すような振る舞いをする彼にマドレーヌが冷めないのが不思議である)。

 なお、結婚式に参加しているマドレーヌの友人たちは元からピエールが飛行機の墜落事故で九死に一生を得た患者と看護師としてマドレーヌと知り合った経緯を知っており、明らかに情緒不安定な彼と彼女の交際を好意的には見ていない。

 式後に気晴らしにマドレーヌ及びこの友人たちと訪れた遊園地で水晶占いの女性占い師から

「あなたは過去に大事故に遭った」

「恋愛ではとても愛されているのね」

と言い当てられるピエール。

 曰くのあるナイフを持つこの水晶占いの女性は以前に少女が語った祖母の特徴に正に当てはまり、孤児院に入る前は少女を家に置いていたものの結局は父親共々見捨てた祖母その人ではないかと思わせる。

 秘かに女性占い師のナイフを手に取るピエール。

 場面は変わってマドレーヌの元に戻ったピエールは

「(水晶占いでは)とても愛されていると言われたよ」

とだけ伝える。

 そして、二人はゴーカートに乗るが、強引にキスしようとしたマドレーヌを人前も憚らず打ち据えるピエール。

 その様子を偶然シスターや他の子供たちと遊園地に来ていた少女も見ていた。

 ピエールのマドレーヌへの殴打をきっかけにゴーカートの会場は殴り合いの大乱闘になる(本来無関係な男性客たちまで殴り合いを始めるのは率直に言って不自然で不可解だが、暴力がまた新たな暴力を触発するという集団心理の描写だろうか。他の男性客たちも恐らく世代的にピエールと同様の従軍経験者であり、暴力を目撃することでPTSDが発動された場面にも思える)。

 後日、ピエールはマドレーヌには暴力を振るったこと、少女には逢いに行けずその旨を伝えられなかったことをそれぞれ謝罪して許される。

 マドレーヌはピエールが日曜日に逢っていた少女の存在を知り苦しむが、前々からピエールに目を掛けてアトリエでも雇っていた老芸術家のカルロスは

「ピエールは無心な子供としてその子と過ごしているだけだ」

「君は口うるさい母親になろうとするな」

「彼が君に依存しているのではなく君が彼に依存しているのだ」

と彼女を窘める(ただし、その場に居たカルロスの妻である老婦人は『子供を愛するなんて穢らわしい』とピエールの少女への想いを小児性愛と解釈して嫌悪を示す。これが当時というか今の社会でも一般的な反応だろう)。

 後日、ピエールの後をつけて少女と過ごす様子を目にしたマドレーヌは

「彼は無心な子供として過ごしている」

と安堵して受け止める。

 そして、訪れたクリスマス。

 マドレーヌは勤務先で夜勤があって留守である。

 ピエールは留守のカルロス宅のドアを突き破り、中の豪華なクリスマスツリーを奪って少女に逢いに行く。

 少女はプレゼントを用意できない代わりにツリーに自分の本当の名を記した紙を飾る。

“Cybèleシベール

 これはギリシャの水や木を守る女神の名であり、「フランソワーズ」と仮に名付けられていた少女の本名であった。

 ピエールはお礼に教会の天辺にある風見鶏を取りに登る。

 一方、カルロスは自宅のツリーが盗まれていることに気付き、またベルナールはピエールを警察に通報したとマドレーヌに告げる。

 ベルナールと共に警察の連絡を待つマドレーヌ。

 しかし、彼女の元には

「ピエールは少女を誘拐し殺害しようとした犯人として射殺された」

という連絡が届く。

 現場に駆け付けたマドレーヌが目にしたものは仰向けに倒れて事切れているピエールと意識を失って警官に抱き起こされているシベールの姿。

 目を覚ました少女に警官は問う。

「君の名は?」

 息絶えているピエールの姿を目にした少女は涙ながらに叫ぶ。

「そんなものはとっくにないわ」

 そこで物語は終わっている。

 この古い白黒映画は、恐らくは「記憶を失った社会不適合者ではあってもそれ故に純粋な少年の心を持つ男主人公が孤独な少女と心を通わし、彼女にとってかけがえのない存在となるが、周囲の無理解の果てに虐殺された」と読み取るべき作品なのだろう。

 だが、少女と遊ぶ見知らぬ少年に嫉妬して殴打する、こちらも疎ましくなっていたとはいえずっと親身に付き添ってくれた恋人の女性を公衆の面前で打擲する、鳥籠職人として雇って何くれと気に掛けてくれる知人宅に侵入してクリスマスツリーを盗み出す等、ピエールの一連の行動は明らかに犯罪、社会的に非難されても致し方ないものである。

 また、前述したように遊園地で出会う水晶占いをする中高年(のように見えるが若作りしているだけで本来はもっと老齢かもしれない)の女性占い師は職業や曰くのあるナイフを所持していることからして少女の祖母かと察せられる。

 直接には殺傷の場面を映していないが、ピエールはこの祖母を刺殺してナイフを持ち出したと思わせる描き方であり、これは明らかに殺人である。

 むろん、女性占い師の死が劇中でその後に確かなものとして描かれていない以上、ナイフを盗み出しただけの可能性もあるが、それにしても窃盗という明らかな犯罪であり、しかも盗品が大事な商売道具である以上、被害者にとっては悪質な加害行為である。

 現代を舞台にした寓話的な作品としても、ピエールは結果的に犯罪者として制裁されるに相当する人間としか言いようがない。

 孤独な少女シベールや忠実に彼を愛し支えようとしたマドレーヌの悲嘆には同情するとしても、ピエール本人にはネットミームで言うところの「残当」、「残念ながら当然の末路」という印象が拭えなかった。

 フランソワーズことシベールの描写にも個人的には疑問を覚えた。

 「私たちは婚約者よ」とピエールに積極的に恋愛感情を示し、公園で見掛けた馬に乗る男性*3に惹かれた発言をしてピエールに嫉妬させる等、大人の女性顔負けのコケティッシュな言動を取る。

 劇中でシベールは十二歳と設定されており、演じたパトリシア・ゴッジも撮影当時は同年齢だが*4、画面の彼女はもっと幼く見えるので余計に言動とのアンバランスさが目立つ。

 そこに「女は子供の内から女」「少女が見せる『女』の顔」という描写としてのあざとさやそこはかとないミソジニーを個人的に感じずにいられなかった。

 もっとはっきり言えば、「大人の男性を自ら望んで誘惑する少女」というペドフィルの認知の歪みを正当化する形象に思えた。

 前掲の原作小説を抄訳したサイトによれば、そもそも原作は暗黒街を舞台にしたノワール物でピエールはパイロットではなく裏社会の人間で過去にはシベールに似た少女と関係して殺害したと思わせる変質者であり、シベールも倒錯的に刺殺しようとしたところを射殺される展開だという。

 映画ではピエールが撃ち殺される場面は省略されているが、こちらでも本来はシベールを手に掛けようとした変質者として描かれていた可能性も当該サイトでは指摘されていた。

 何より小説は未読の筆者自身も映画を観ていてピエールの人物像には肯定できないものを感じた。

 シベールは映画でも自分が毒牙にかかる寸前だったことに気付かない残酷なグルーミングの犠牲者なのだろうか。

 だとすると、余計にこの少女が哀れである。

 話はまた変わって、日本ではこの映画の少女の名を取って「シベール」というロリコン漫画同人誌が一九七九年に創刊されたという*5

 こちらも映画鑑賞後にネット検索して知った時には苦々しく嫌な気分になった。

 シベールの大人びたコケティッシュな言動は、明らかに祖母や両親といった肉親からことごとく見捨てられた孤独や不安定な境遇から生じた被虐待児としての過剰適応である。

 それを本人も精神を病んだピエールの目線と同一化して美化するのは、被虐待児をグルーミングして新たに搾取する性虐待を肯定するものだろう。

 かつてはシベールと同じ少女(自分の場合は幸運にして肉親から見捨てられたりペドフィルから被害に遭ったりする境遇ではなかったが)であり、また今はシベールと同じ位の年頃の娘を持つ自分としてもこうした動きは肯定できない。

 そもそも映画の少女のあの哀しい結末を目にした後に何故寄りにもよってロリコン漫画の同人誌に彼女の名前を使おうと思えるのか。

 それこそ先達の作品への冒涜であり、現実に少なからずいる被虐待児への侮辱ではないのか。

 水に映る風景が波紋変じる神秘的な描写、車を運転する人物の視点で捉えられるミラーに映った主人公たちの孤独な姿や表情など映像表現としては今の感覚で観ても洗練されているだけに、鑑賞後に割り切れないものが多く残る作品であった。

*1 「映画『シベールの日曜日』原作『ヴィル・ダヴレーの日曜日』覚え書き」(鷺澤伸介氏によるサイト)

http://blaalig.a.la9.jp/dimanches.html,(参照 2025-3-1)

*2 Wikipedia「シベールの日曜日」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5,(参照 2025-3-1)

*3 *1に示したサイトの説明ではこの乗馬男性は監督本人とのこと。

*4 ウィキペディア「パトリシア・ゴッジ」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%83%E3%82%B8,(参照 2025-3-1)

*5 Wikipedia「シベール (同人誌)」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%AB_(%E5%90%8C%E4%BA%BA%E8%AA%8C),(参照 2025-3-1)


参考資料

パンフレット「シベールの日曜日」(ヒビヤみゆき座、No63~7)

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