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「スプラッシュ・マウンテン」と映画「南部の唄」、「プリンセスと魔法のキス」

(一)謎のキャラクターたち 

 前稿でも言及した東京ディズニーランド「スプラッシュ・マウンテン」とその元になったディズニー映画「南部の唄」については長くなるのでこちらで別に改めて書くことにした。 

 前の記事にも書いたように東京ディズニーランドの「スプラッシュ・マウンテン」「スペース・マウンテン」、「ビッグ・サンダー・マウンテン」に並ぶ三大ジェットコースターの一つだ。

 しかし、このアトラクションの元になったディズニーアニメ「南部の唄」は今の日本では話題にされることも滅多にない。

 そういう筆者も子供の頃から

「スプラッシュ・マウンテンのこの動物たちのアニメは観たことないな。キャラ名も作品のタイトルも知らない」

「多分このウサギさんはロジャー・ラビットみたいな古いアニメのキャラなんだろうな」

とは漠然と感じていた。

 アトラクション内で流れるカントリー調の明るい音楽がいかにも「古き良きディズニー」という雰囲気なので、だからこそ人気アトラクションであるにも関わらず、全く元の作品名もキャラクターの名も分からない、他の客も全く話題にする様子が無い(普通はアトラクション体験中に『あれはアリエルだね』『グーフィーだ』等とキャラクター名を口にして反応する人が必ず一人は出て来る)のが一種の謎というか密かな違和感として残っていた。

 今回の家族で二回目の東京ディズニーランド再訪に際してネット検索する内に、このアトラクションが「南部の唄」というディズニー映画を基にしたものであることを知った。初めて目にしたタイトルである。

 「スプラッシュ・マウンテン」はアトラクションの内容としてはウサギが悪賢いキツネに襲われつつハッピーエンドを迎えるストーリーを追うものだが、目玉である滝壺に落ちるのは本来はその「南部の唄」の展開に合わせたものであるらしいとも分かった。 

 ちなみにこれは一九四六年に公開されたアニメと実写を組み合わせた南北戦争直後のアメリカ南部を舞台にした作品で、公開当初から「黒人差別」との批判があり、一九八六年に四十周年のリバイバル上映以降はディズニー社の自主規制として再公開、動画配信サービスでの配信もしていないという*1 

 アメリカ本国のディズニーリゾートでもやはり作品内の黒人差別を理由に二〇二三年に「スプラッシュ・マウンテン」は閉鎖され、二〇〇九年に公開された黒人少女がヒロインの「プリンセスと魔法のキス」を元にした内容に改装されたそうだ*2

 日本の東京ディズニーランドは依然として「南部の唄」に基づく「スプラッシュ・マウンテン」のままだ。

 しかし、前述の通り、アトラクション内で提示されるのはイソップ寓話的な動物たちのおとぎ話であり、その限りでは人種差別の要素はないというのが率直な感想だ。

 本国のディズニーとしては旧い差別的なコンテンツのイメージを刷新したかったのかもしれないが、そうした歴史を含めての企業としての歩みであり、作品の痕跡そのものを抹消してしまう措置には改装のニュース記事を読んだ際には疑問を覚えた。

 ただ、ディズニーアニメでも戦後すぐの古い作品のせいか「スプラッシュ・マウンテン」内に展示された鳥などのキャラクターの造型には大人になって改めてアトラクション体験するとどこか不気味な印象も受けた。


(二)映画「南部の唄」について

 ディズニーランドから帰宅後にYouTubeにアップされている日本語吹き替え版の「南部の唄」を視聴した。

 尺としては九十分ほどの映画だ。

 黒人農夫のリーマスおじさんと白人少年ジョニーの交流を描く実写パートでは、もう一人のメインの黒人キャラクターであるジョニーの乳母*3に名画「風と共に去りぬ」(『南部の唄』の七年前である一九三九年公開)でもやはり乳母のマミーを演じたハティ・マクダニエルが扮していた。

 ちなみに彼女は「風と共に去りぬ」のマミー役で黒人女優初の助演女優賞に輝き、著名俳優として活躍したが、その後の黒人民権運動の流れで同映画で少女奴隷プリシーを演じたバタフライ・マックイーンと共に「奴隷制を賛美する作品で黒人にとって屈辱的な形象を演じた」と非難された。

 「南部の唄」への批判にもあるいは彼女の出演が一因として絡んでいるのかもしれない。

 それはそれとして「南部の唄」は設定としては南北戦争終結直後で登場する黒人たちはいずれも解放奴隷であり、一応は白人の雇い主に雇われた使用人の立場のようだ。

 しかし、映画を観る限り、彼らは実質的に奴隷であり続けているとしか言いようがない。

 そもそも私は改めて検索するまでこれが正に奴隷制時代の物語だと誤認していたし、公開当時もそうした誤解をした人は多かったそうだ*4

 具体的には、冒頭で裕福な白人であるジョニー少年一家の乗る馬車を目にした祖母宅の黒人使用人の子供たち(雇い主である祖母宅の敷地内に建てられた使用人用の小屋近くに裸足でたむろしている)が珍しがって追い掛ける、その内の一人であるジョニーと同年輩の少年が馬車の積荷を縛る縄に掴まる形で飛び乗ってジョニーの祖母の屋敷前まで着いてくるという描写がある。

 ジョニー一家が馬車を降りて祖母に迎えられたところのやり取りでこの黒人少年の名が「トビー」で女主人である祖母からジョニーの世話係兼遊び友達役に選ばれたらしいと判る。

 この子は決してフラフラ遊び歩いて他所の馬車にふざけて飛び乗った悪ガキなどではなく、生まれ持った肌の色のために幼くして使用人としての労役体制に組み込まれた一人なのである。

 ちなみにマーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」にもポリー伯母さんが家に置いている奴隷にジムというトムや弟のシドとさほど変わらぬ少年が出て来る*5

 子供や孫と同世代の子供の奴隷もとい使用人を大人の使用人の見習いとしてばかりでなく我が子や孫の遊び友達や世話係として家に置くのは、当時の南部の白人家庭ではポピュラーだったのかもしれない(むろん、子供の頃から家にいて大人になった使用人の方が大人になってから新たに外から雇い入れた使用人より気心が知れていて安心できるという事情もあるだろう)。

 なお、祖母宅の黒人使用人には「レッド」と呼ばれる老年男性もいるが、これは奴隷制時代に白人の所有主等の血が入って黒人としては髪や肌の色が薄く赤っぽい人によく付けられた呼び名である。

 黒人民権運動家として知られるマルコムXも母方の祖父が白人で髪や肌の色が薄かったために「レッド」と渾名された時期がある*6

 「南部の唄」のレッド役の俳優は髪はもう白いので、恐らくは奴隷だった若い頃に「レッド」と呼び名が付けられて老いてもそう呼ばれ続けている、もっと突っ込んで言えば髪の赤かった若い奴隷の頃から祖母宅におり、解放後も変わらずに使用人として仕えている設定なのだろう。

 この老解放奴隷もマルコムXのように立場の弱い黒人女性奴隷が所有主ら白人男性から性暴力を受けて産み落とした命をルーツに持つ可能性が高い。

 ちなみに名前は不明だが、祖母宅には一見して他の黒人使用人たちより肌の色の薄い、顔立ちも白人的な若い女中もいる。

 これは恐らく演じた俳優が白人の血を色濃く引く人であり、役の上でもそうした設定なのかもしれない。

 なお、奴隷制時代のアメリカでは主人格の白人女性が黒人男性の子を産む事態は社会としてまずあり得ず、逆に白人男性の所有主が黒人女性の奴隷に子供を産ませることはよくあったが、この場合、本来はダブルの子供は「黒人」として扱われ、奴隷としての売買の対象になった*7

 「アンクル・トムの小屋」のエライザなどもこのケースである。

 舞台となった当時のアメリカ南部の黒人と白人の格差、社会を示す描写ではあるが、これは確かに現代の黒人社会や観客にとって愉快なものではないだろう。

 というより、あどけない黒人少年トビーを演じる子役がごく無邪気な笑顔で馬車の後ろに飛び乗ってしがみつき、雇い主であるジョニーの祖母を「大奥様」と疑問なく呼ぶ姿、髪の白くなった老下男レッドの重そうなトランクを担いで運ぶ描写には痛ましいものを覚えた。

 彼らにとって生きることは白人の使用人として労働することであり、子供だからといって労役は免除されず、また老いても引退、退職といった選択肢は存在しないのだろう。

 これが生まれながらの奴隷でなくて何なのか。

 物語の表面上は奴隷制廃止後ではあっても、劇中の現実として奴隷制は続いているのだ。

 リボンを巻いたビロードの帽子と上等のコートを着込んだ白人少年のジョニーに対して使用人の黒人少年であるトビーは屋外でも裸足でペラペラの薄い帽子にシャツ姿だ(後の方の場面で後ろ姿が映ると、ズボンのお尻には継ぎが当たっている。ジョニーは母親の用意したビロードにレースの襟の着いた衣装や水兵服など場面ごとに服が変わるが、トビーは最初に登場した場面から服装の変わらない着た切り雀である。リーマスおじさんもズボンの片方の膝は擦り切れた衣装である)。

 あどけない二人の子供が親しく並んで祖母宅の時計を見上げるカットに残酷なまでの身分差が浮かび上がるが、これは当時としても意図的な演出だろうか。

 ジョニーの祖母は久し振りに目にした実の孫には愛しげに頬を撫ぜ、またトビーに対しても慈しむように優しく肩を叩く。

 これは「心優しい白人所有主と幸福な黒人奴隷」という美化されたイメージだろう。

 また、日本語吹き替えではトビーはジョニーに対し

「入ろう」

「でっかい時計、見せてあげるよ」

「面白いだろう?」

等と友達言葉で話しているが、本来この二人はそのようなフラットな関係性では有り得ないはずだ。

 恐らくはこの黒人の少年使用人が人懐こい性格で子供同士の気安さからくだけた口調で話している、かつそもそもまともに教育を受けていない奴隷なので無教養で言葉遣いがぞんざいであるという演出だろう。

 トビーに限らず劇中に出て来る黒人使用人の子供たちは馬車を目にすれば喜んで追い掛け、同じ黒人使用人のリーマスおじさん――彼は皆の祖父的な存在である――のお話には腹を抱えて笑う、総じて朗らかなイメージしか与えられていない。

 これも父との別離を悲しむ白人坊ちゃまのジョニーに対する「貧しくても幸福な(元)奴隷たち」というプロパガンダだろう。

 後述するフェイヴァーズ兄弟のように子供が陰鬱だったり偏屈だったりすると大人よりも不幸で周囲から虐げられた印象が強くなるからだ。

 しかし、白人雇い主の子弟であるジョニーに対して黒人のトビーは生まれながらの使用人である。

 テンピーおばさんが「早くうちに帰りなさい」と彼に声を掛ける描写からして、劇中には姿を現さないトビーの両親は恐らくは息子同様ジョニーの祖母に仕えており、敷地内に設けられた使用人用の小屋(これは恐らく家族単位で与えられていて独り者のリーマスおじさんもその内の一つに一人で住んでおり、そこがおとぎ話を語る舞台にもなる)に一緒に住んでいるようだ。

 だが、この直前の奴隷制時代の市場では母親の奴隷から幼い子供を引き離して別々の家に売ることも珍しくなかった。

 小説の「風と共に去りぬ」には大農園の地主であるスカーレットの父ジェラルドが他家から有能な中年女性奴隷ディルシーを買い取る際に

「娘と引き離すのは可哀想だから」

と温情で本来は怠慢で無能な娘のプリシーも一緒に買い入れるくだりがある*8

 これは親子で引き離して売られる場合が多かった史実を踏まえた作者ミッチェルの創作である。

 前掲の「トム・ソーヤーの冒険」のジムにしてもポリー伯母さんの家にいる奴隷が彼しか出て来ないことからして、恐らくは実の親とは早期に離別して売られたと察せられる。

 「南部の唄」に出て来るリーマスおじさんやレッド、テンピーおばちゃんのような老解放奴隷たちもあるいはそうした幼年期を経ているのかもしれないのだ。

 テンピーおばちゃんはもしかしたら過去には本人の産んだ子供(劇中現在での老齢の彼女は独身のようだが、若い頃はそれこそ白人の主人から子供を産まされたかもしれないし、奴隷制時代でも奴隷同士の結婚はあったから夫がいて子供を儲けた可能性はある)もいたのに引き離されて売られ、自分の子供や孫には会うことすら叶わないのかもしれない。

 それが当時の元奴隷の現実である。

 そうしたことを念頭に置いて観ると、父親が仕事のために元から一家の住んでいたアトランタに単身で戻ってしまい、別離を悲しむ白人少年ジョニーの姿が本人にとっては深刻な悲劇であっても

「君にはお母さんもお祖母ちゃんも優しく仕えてくれる黒人使用人たちもいるんだからいいだろ」

「甘ったれ坊っちゃんが」

と鼻白んでしまう*9

 前述のトビーが馬車に飛び乗る場面で後ろから馬車全体を遠巻きに映すカットもあるので、恐らく子役に本当にやらせていると察せられるが、明らかに危険である。

「白人の子供にはやらせられないが、黒人の子供になら危険なことをやらせても構わない」

 そうした空気が当時の映画製作の場に蔓延していた反映だとすれば、やはりこの作品は黒人社会からの批判を免れないだろう。

 そもそもフィクションとはいえ、

「白人の子は立派な衣装を着せられて主役を演じているのに、肌の黒い自分は粗末な衣装で裸足で駆けずり回り馬車に飛び乗る危険な撮影も強いられる脇役なのだ」

という自己否定がこの黒人の子役の幼い心に残らなかったとは思えないのだ。

 実際、この映画の公開当時、ジョージア州アトランタで開催された封切りイベントに白人俳優たちは揃って参加したが、肝心の主役であるリーマスおじさんを演じたジョージ・バスケットは参加できなかった。

 当時の法律でアトランタの白人専用映画館に黒人の彼は入場できなかったためである*10

 まず一八六三年の奴隷解放宣言から八十年余りも過ぎた第二次世界大戦後もまで白人専用映画館なる直球の人種差別的な施設が存在していた事実に驚くが、それが正に「南部の唄」公開時のアメリカの現実だったのだ。

 なお、ジョージ・バスケットは「南部の唄」主演でアカデミー名誉賞を得たが、これも「黒人に主演男優賞は与えるな」という一部の反発を受けたための措置だったという*11

 これが当時の黒人俳優を巡る実情であり、劇中で「白人の雇い主の下で朗らかで幸福に暮らす黒人の使用人」を演じた人たちの真相であった。

 役を離れたジョージ・バスケット氏がどのような人であったか(今より黒人差別の遥かに苛烈なハリウッドでディズニー映画の主演までした人であるから、劇中で演じたような好々爺ではなくそれこそ自我の強い人だった可能性もある)、リーマスおじさんというキャラクターを演じたことが彼の中でどのように捉えられていたかは不明である。

 しかし、温かく懐深いリーマスおじさんは彼という演技者あってのキャラクターであり、作品だ。

 率直に言って、私は劇中のリーマスおじさんのキャラクターは魅力的に感じたし、それを演じた彼が当時は黒人であるが故にあらゆる場面で排除されたこと、今となっては作品そのものが封印されていることがやり切れなくなる。

 生前も死後もこの人は演じた役と同じ黒人であるが故の蔑視を受け続けているのではないだろうか。

 話は変わって、「南部の唄」には祖母宅の近隣に住むフェイヴァーズ家という白人でも貧しい人々も出て来る。

 粗末な家に住むジョニーと同世代の兄弟二人は飼い犬を虐めて溺れ死なそうとする、初対面のジョニーのレースの襟の付いた服を「女みてえ」と囃し立てる(恐らくは裸足で粗末な服を着た自分たちと違って一見して裕福な家の子供と分かるジョニーの装いを僻んでの行動である)等、悪ガキというより幼くして荒んだ心性を感じさせる。

 トビーがこの悪童兄弟について

「(恐らくは雇い主であるジョニーの祖母や大人の黒人たちから)こいつらとは遊ぶなと言われている」

と語る描写から、フェイヴァーズ一家のようないわゆる貧乏白人《プア・ホワイト/クラッカー》が黒人元奴隷の人々からも侮られる立場だと分かる*12

 この幼い貧乏白人兄弟が飼っている犬を溺れ死なそうとする行動も恐らくは虐待の連鎖(この子供たちが貧困で余裕のない両親から折檻や虐待を受けている状況は想像に難くない。実際に後の方で木の棒を持った母親から叱責される場面が出て来る。母親はその場面では打擲は加えないが、場合によっては叩くことも有り得ると思わせる)というか、本人たちが周囲から受けている蔑視や排斥から来る鬱屈の現れに思える。

 しかし、兄弟の妹であるジニーは心優しい少女で兄たちが虐待する飼い犬をジョニーに託し、また、ジョニーは自分のレース編みの襟をジニーに譲る(これは富裕層の男児であるジョニーには煩わしいレース編みの付け襟が貧困白人の女児であるジニーには高価で素敵な服飾であるという二人の子供の哀しい格差を示すエピソードでもある)等の交流が生まれる。

 だが、ジニーから貰い受けた犬は祖母宅では受け入れられずジョニーは返すように言われる。

 そこで、リーマスおじさんにこの犬を引き受けてもらう運びになるわけだが、

「(ジョニーの祖母や母親のサリーは)そんな薄汚い雑種の犬は気に入らんと思うよ」

と語るおじさんの言葉には哀しいものを覚える。

 解放奴隷で今も使用人として暮らすリーマスおじさんには貧乏白人たちの飼っていた雑種の犬など受け付けないジョニーの祖母や母親ら所有主の裕福な白人たちの骨の髄まで染み込んだ純血主義、血統主義が身をもって理解されているのである。

 そもそもリーマスおじさんは所有主であるジョニーの祖母や母親のサリー(リーマスおじさんにとっては本来は娘ほども年若い相手である)と対話する場面でも常に謙らざるを得ず、彼女らは彼の賢さを知ってはいても

「出過ぎた真似はしないでちょうだい」

 と釘を刺す。

 ジョニーの祖母や母親のサリーといった上流白人女性たちはは夫や子供、孫といった肉親や配偶者には基本的に愛情深い人物であり、少し前までは奴隷だった黒人使用人たちに対しても決して嗜虐的に接する獰悪な人物としては描かれていない。

 それでも、解放奴隷や貧乏白人に対しては決して対等な人格とは見做さず常に一線を引いて上の立場から接する。

 フェイヴァーズ兄弟は妹のジニーがジョニーに譲った犬を取り返そうと祖母宅を訪れるが、

「サリー様にお願いしたいんです」

と玄関の階段下で応対した黒人女中に話すだけで家内に入ろうとはしない。

 また、声を聞いて出てきたサリーは飽くまで階段の上から本来は自分の息子と変わらぬ年配の子供たちと話す。

 同年輩のジョニーに対しては敵意を露わにしぞんざいな言葉を浴びせかける貧乏白人の悪童兄弟がその母親のサリーに対しては当たり前のように「様」付けで呼び、卑屈なまでに慇懃に接する姿には痛ましいものがある。

 まだ幼い彼らにも自分たちが社会では蔑まれる側であり、屈従を迫られる側である現実が理解されており、だからこそ荒んでいく境遇が見て取れる。

 ジョニーが自分の誕生パーティにジニーを呼ぼうとすると母親は同意しないが、祖母は

「一人くらいお友達が増えても大丈夫よ」

と許可を出すなど微妙な差異も見られるが、これも飽くまで上の立場からの温情である(母親より祖母の方が孫には甘いという描写でもあろう)。

 これが当時のアメリカ南部の上流階級のリアルであろう。

 黒人使用人同士でも乳母のテンピーおばちゃんは調理中に食事をねだりに来る旧知の解放奴隷仲間のリーマスおじさんに対して

「薪二、三本の代わりに図々しい」

「一日座って(ジョニー坊ちゃまや同じ黒人使用人の子供たちに)お話を聞かせるだけでまともに働きもせずいいご身分だよ」

と気安さからの軽口ではあるが非難する。

 恐らくは老齢になっても子守や台所仕事で忙しく立ち働くテンピー本人や同じ老齢男性でも荷運びをするレッドらと比べた上での批判であり、

「もうちょっとちゃんと働かないと、あんたは追い出されるよ」

という昔からの仲間として懸念を込めての苦言でもあるのだろうが(この老使用人二人の会話の場面は後に続くリーマスおじさんがジョニーの母から息子におとぎ話を聞かせることを禁じられて追い出される展開の伏線でもある)、リーマスおじさんが既に杖をついて歩く体になっていることを考えると、これも残酷に思える。

 ちなみにこの場面でリーマスおじさんはテンピーおばちゃんに

「南部一の料理人だ」

と告げる。

 これは最初の方でトビーがリーマスおじさんに

「ジョージア一のお話上手だ」

と称える場面を踏まえての言葉だが、

「自分には料理の腕のような使用人として実務面で必要とされ続ける能力はない」

という無力感の現れにも見える。

 もっと突っ込んで言えば、「ジョージア一のお話上手」だろうが「南部一の料理人」だろうが、

「自分たちは結局、持っている能力をひたすら白人たちから搾取されて使い捨てられる奴隷だ」

という絶望感を根底にした言葉にも思えるのだ。

 ここに心優しいリーマスおじさんというか「南部の唄」の中にある奴隷制批判の芽を読み取るのは穿ち過ぎだろうか。

 ジニーから貰い受けたフェイヴァーズ一家の飼い犬の件でリーマスおじさんと息子のジョニーの交流を好意的に見られなくなったサリーは

「私はあの子を正直に育てたいの。もうお話は聞かせないで」

とリーマスおじさんに釘を打つ。

 この後に続く自己否定と無力感に囚われたおじさんとジョニーのやり取りには胸を痛ませるものがある。

 そして、迎えたジョニーの誕生会。邸宅には母親のサリーと祖母が呼んだ良家の子供たちが集まり、ジョニーも普段よりも一際立派な赤いビロードの服を着ている。

 フェイヴァーズ家の母親は自分のウエディングドレスからジニーの晴れ着を仕立てて着せ、

「お行儀良くするんだよ」

と言い含めてパーティに送り出す。

 南部の上流マダムのサリーにせよ貧乏白人のフェイヴァーズ家の母親にせよ、それぞれの立場から我が子を少しでも良い方向に歩ませようとする愛情に変わりはないのである。

 そこに尊さと同時に痛ましさを覚える。

 だが、事態はまるで母親たちの思いを嘲笑うかのように悲惨な様相に転じる。

 ジョニーに敵愾心を燃やすフェイヴァーズ兄弟は末妹のジニーの晴れ着を泥で汚し、これに怒ったジョニーと取っ組み合いの喧嘩になる。

 駆けつけたリーマスおじさんによって止められるが、

「こんな格好ではもうパーティには行けない」

と泣き崩れるジニーに対し

「あんな気詰まりな所には行かなくていい」

とジョニーは慰める(彼にとっては誕生会も呼ばれてやってきた他の良家の子供たちも母親によるお仕着せでしかないのである。ここにも哀しい擦れ違いがある)。

 そこに現れたリーマスおじさんはまたも絶対絶命の危機を「笑いの国」という頓知で切り抜けたウサギのおとぎ話を語る。

「笑いの国は誰にでもある。でも大半の人は見つけに行く暇が無い」

と語るリーマスおじさん。

 大人の視聴者が見ると、どこか切ない台詞である。リーマスおじさんの言葉は決して子供騙しではないのだ。

 こうして話を聞いた二人の子供は元気を取り戻すが、そこに現れたサリーはジョニーが誕生パーティをすっぽかしたことを怒り、リーマスおじさんに

「もう息子には一切近づかないで」

と言い渡す。

 これは事実上の解雇通知であった。

 農作業を終えた他の黒人使用人たち(子供を含む。パーティに来るいかにも上流階級然とした子供たちはもちろんジニーや上の兄たちのような貧困層ですら白人の子供たちは明確な労役を課せられていないのに、繰り返しになるが黒人の子供たちは生活即労働の暮らしなのだ)が歌いながら帰宅する一方で出ていく荷造りをするリーマスおじさん。

「わしは話をすることしか出来ない老いぼれだ」

「しかし、話をすることは人に迷惑をかけることではない」

「もし悪いことならば、語り継がれるもんか」

 このモノローグには哀しい響きがある。

 そして、雇い主であるジョニーを探してやってきたトビーに

「わしは出ていく。アトランタに行くよ」

とおじさんは告げるのだった。

 同じ家に仕える黒人使用人であるトビー少年と解雇され出ていくリーマスおじさんの並んだ姿にはさながら同じ黒人男性の過去と未来のような痛ましさが漂う。

「わしの故郷ふるさとはここだ」

というおじさんの台詞からして彼は物心ついた時からこの家の奴隷だったのであり、幼い頃はトビー同様に主であるジョニーの亡き祖父の遊び相手だったのかもしれない。

 今は少年のトビーもこのまま主家に仕えて老いればリーマスおじさんのように身寄りもないまま追い出される可能性は常にあるのだ。

 一方、元気を取り戻したジニーは父親の帰宅した家に笑顔で戻っていく。その姿を目にしたジョニーは自分の父親の不在を改めて思い起こして寂寥に囚われるのだった。

 しかし、リーマスおじさんの小屋を見つけた少年の顔には笑顔が戻る。

「僕の笑いの国はここなんだ」

 喜び勇んで小屋に駆け込むが、そこは既にもぬけの殻。

 探しに来たサリーに

「おじさんがいないよ。どこに行ったの」

 と問うが、母親の顔にも苦渋の色が漂う。

 そこにトビーが駆けつけて

「サリー様。リーマスおじさんが出て行ってアトランタに行っちゃうよ」

と母子に告げる。

 ジョニーは

「リーマスおじさん、待って」

と馬車(冒頭で雇い主のジョニー一家が乗っていた、また後述のジョニーの父親が駆け付けた際の屋根付きの馬車とは異なる、粗末な二人乗りの造りで恐らくは黒人使用人のための物)を追い駆ける。

 しかし、パーティ用の赤い服を着たジョニーの姿は敷地内で飼っていた暴れ牛の標的になり、ジョニーは母親のサリーの目の前で跳ねられる。

 この場面は「風と共に去りぬ」でスカーレットの目の前で愛娘のボニーが落馬事故で死ぬくだりを彷彿させるが、意図した演出だろうか。

 ジョニーは瀕死の重体になり、屋敷の周りには黒人の使用人たちが集まり、遊び相手のトビーは涙を流してジョニーの眠る部屋の窓を見上げる。この描写は正に忠実なしもべの姿そのものである。

 そこに屋根付きの馬車が走って来てジョニーの父とリーマスおじさんが降りて来る。

 リーマスおじさんの帰還は唐突な印象を与えるが、恐らくはアトランタに行った後、元の雇い主の息子であるジョニーの父を頼って訪ね、再び雇われたと解釈するのが合理的だろう(恐らくこの辺りは編集の問題)。

 こうして病室では祖母と両親の三人がジョニーを見守り、サリーは

「ジョニー、パパがお帰りよ」

と声を掛けるが、意識不明の少年がうわごとで口にするのはリーマスおじさんの名ばかりである。

 その様子を目にして意を決した祖母は階下に降りて玄関の外に他の黒人の使用人たちと並んで立っていたリーマスおじさんに声を掛ける。

 そして、本来は白人の主人たちの居室である二階の病室に上がったリーマスおじさんは瀕死のジョニーに向かっておとぎ話を語るのだった。その語りに雇い主である祖母やジョニーの両親も聞き入る。

 小さな白人少年のジョニーの手が大きな褐色のリーマスおじさんの手を握る。これは白人と黒人の友好を象徴する描写だろう。

「ウサギくんは笑いの国が自分の家だと気付いたんだ」

とリーマスおじさんが語ったところでジョニーは目を覚ます。

 目覚めて父親の姿に気付いたジョニーは

「もうどこにも行かないで」

と懇願する。

 父親は

「どこにも行かないよ。ここで楽しく暮らそう」

と答え、母親は

「ここを世界一の笑いの国にしましょう」

と語る。

 リーマスおじさんは雇い主のジョニーの祖母に

「大奥様、何もかも申し分なしですな」

と告げて、部屋を辞す。

 そして、完治したジョニー、ジニー、トビーは作品の挿入歌である「ジッパ・ディー・ドゥー・ダー」を歌いながら屋敷の敷地内の庭を歩いていく。

 三人の子供たちの姿をリーマスおじさんは薪を運びながら優しく見守る。

 と、子供たちの前におとぎ話のウサギや動物たちが姿を現す。

 三人の子供たちとリーマスおじさんは共に手を取ってウサギたちと道を歩いていく。

 これが幕切れである。

 先にも述べたようにこの作品は劇全体としては南部の裕福な白人一家の一人息子である幼い少年ジョニーが新聞記者としての使命感から自分と母を祖母宅に置いて去った父親の不在を嘆く、老齢の黒人使用人のリーマスおじさんがそれを勇気付けるヒューマンドラマだ。

 リーマスおじさんの語るウサギのおとぎ話がアニメーションで表現されるわけだが、アニメのキャラクターと実写のリーマスおじさんが語らう特撮の描写もあり、今観ても映像表現としては面白い。

 私が観た版ではスプラッシュ・マウンテンのクライマックスに繋がる滝壺に落ちる場面はアニメパートにも見当たらなかったが、本来はあったのにカットされたか、あるいはジョーエル・チャンドラー・ハリスの原作小説には該当するエピソードが存在するのかもしれない*13

 また、映画にはリーマスおじさんやテンピーおばちゃん、農作業をする解放奴隷たちが恐らくは当時の黒人たちの唄を歌う等(私が視聴したYoutubeの新吹替版では黒人たちの歌唱は原語のままで字幕なども付いていないため歌詞が判らないのが難点であった)、ミュージカル的な要素もある。タイトルの「南部の唄」にはそうした含みもあるのだろう。

 黒人の登場人物については確かにリーマスおじさんや乳母のテンピーおばちゃん、髪の既に白いレッド、あどけないトビーも含めて実質は奴隷制時代同然の境遇で白人に雇われる、理不尽に追い出されることもある社会的に弱い立場ではある。

 主人公のリーマスおじさんは雇い主の息子である白人少年から慕われる設定からして明らかにアンクル・トムを意識した善良な黒人男性である。

 というより、「アンクル・トムの小屋」のトムおじさんの非命に涙した読者たちの願望を反映した「生き延びて奴隷解放を迎えた幸福なアンクル・トム」という一種のリライト、二次創作的な造型だろう。

 テンピーおばちゃんはハティ・マクダニエルの起用からも明らかなように「風と共に去りぬ」のマミーの系譜に連なる働き者で世話好きの黒人ナニーである。

 遊び相手のトビーのような粗末な服を着たいたずらっ子の道化役的な少年もピッカニーニーというステレオタイプに分類されると赤尾千波氏は指摘している*14

 「アンクル・トム」がその後の公民権運動で「白人に媚びる卑屈な黒人」を意味する蔑称になったことからも明らかなように*15、リーマスおじさんやテンピーおばちゃん、トビーら「南部の唄」に登場する黒人たちも白人にとって都合の良い侮蔑的な形象と今では非難されるものなのだろうし、それは実際に視聴した筆者としても否定できない。

 しかし、純粋な作品としてはいかにもディズニーらしい温かなヒューマニズムに包まれた一篇である。

 ラストの三人の子供たちが連れ立って歩く場面からは、富裕白人のジョニー、貧乏白人のジニー、黒人のトビーという序列はあるものの、キング牧師の有名な演説である「白人と黒人の子供が仲良く遊ぶ」理想が体現されている。

 黒人女性初の大統領を期待されたカマラ・ハリスが敗れ、ドナルド・トランプ氏が来期の大統領に返り咲いた今のアメリカでも、これは果たして実現されている光景なのだろうか。

 そう思うと、ラストの子供たちの笑顔も優しく見守るリーマスおじさんの姿にも遣る瀬なさを覚える。

 実際には主演でありながら黒人であるが故に作品の舞台になったアメリカ南部ではプロモーションにも参加出来ず、アカデミーの主演男優賞でも排除されて間もなく亡くなったジョージ・バスケット。

 可憐な少年期の終わりと共にディズニーから使い捨てられ、不遇の内に孤独死したボビー・ドリスコール(映画の彼は両親や祖母やリーマスおじさんに見守られて蘇るのに、現実の大人になった彼は誰にも看取られず遺体になってから発見された)。

 彼らが笑顔で手に手を取って丘の向こうに去っていくラストシーンが色鮮やかでファンタジックであるほど、「スプラッシュ・マウンテン」のアトラクション内でも流れる挿入歌の「ジッパ・ディー・ドゥー・ダー」のメロディが明るく希望に満ちているほど、今は産みの親のディズニーから封印されている作品の扱いの落差と相まって痛ましい。

 リーマスおじさんの語る動物の寓話はイソップ童話を連想させるが、イソップは正に古代ギリシャの奴隷として生きた人であった。

 リーマスおじさんはアメリカ南部のイソップというか、ディズニー版のイソップと呼ぶべき人物だろう。


(三)「プリンセスと魔法のキス」について

 アメリカのディズニーリゾートで「南部の唄」から差し替えられた「プリンセスと魔法のキス」は、二〇〇九年制作でグリムの「カエルの王子様」をベースにしたファンタジーアニメーションだ*16

 ただし、ヒロインのティアナは原典のような甘やかされた王女ではなく黒人の貧しい娘で、しかもカエルになった王子に乞われてキスをすることで自分もカエルになってしまうという改変がなされている。

 筆者はこちらの作品は自宅で以前に地上波放送したものを録画で一部観ていたが、改めて観ようとした際には録画はもう家族が消してしまっていたので、Youtubeのディズニー公式チャンネルから四百円でレンタル購入する形で視聴した(ディズニーが新世代の黒人主人公の物語として打ち出したこの作品に対して、本来は公式では封印され、Wikipediaでも『視聴が困難』とされている『南部の唄』は、YouTubeでも日本語吹き替えで全編アップロードされた動画が無料で複数観られる。皮肉な話だが、これもネット社会が生み出した歪みだろう)。

 黒人女性をヒロインにして男主人公と一緒に困難を乗り越えるストーリーなので今は「南部の唄」より黒人社会に受け入れやすい作品ではあろう。

 舞台は一九二〇年代中頃のニューオリンズ*17

 なお、視聴後に購入して読んだ竹書房文庫刊のノヴェライズで確認したところでは一九二四年のようだ。

 ヒロインのティアナは貧しいレストランのウェイトレスだが、いつかは自分の店を持つ夢を持っており、「南部の唄」のテンピーおばちゃんのような飽くまで忠実な使用人に甘んじるのではなく自らが女主人ホステスになる目標を持っている(もっともテンピーおばちゃんの娘時代は正に奴隷制時代であり、女主人になる夢など持ちようもなかったという背景はあるが)。

 いわゆる「王子様(的な社会的に高位の男性)との結婚に憧れる」ヒロインではない点でも「アラジン」のジャスミンと並んで異色というか、「シンデレラ」など旧来的なディズニープリンセスへの一種のアンチテーゼが見える。

 しかし、ティアナの親友シャーロットなどは「軽薄で頭の悪い金髪娘」(目鼻立ちのハッキリした瞳の大きなディズニー的な美人顔のティアナに対してしまりのない顔つきにされている。Amazonプライムの予告編で少し観た原語版だといかにもキンキンした甲高い声で喋る)という黒人差別とはまた別の蔑視的な、ミソジニックなステレオタイプをなぞったキャラクターである。

 ちなみにシャーロットは元はティアナの母ユードラがナニーとして働く富裕な白人宅の一人娘でティアナも同年輩の遊び相手としてこの邸宅に出入りしていた設定であり、「南部の唄」のジョニーとトビーの間柄と重なる。

 物語の冒頭ではまだ幼いティアナとシャーロットの二人がユードラの語る「カエルの王子様」のおとぎ話を聞いている。

 竹書房文庫刊のノヴェライズによればこの場面は一九一〇年でティアナ五歳、シャーロット四歳とのことである(成長後のストーリーはその十四年後なので一九二四年、ティアナ十九歳、シャーロット十八歳である)。

 南北戦争が終結した一八六五年から四十五年。恐らくは母親のユードラも含めてリンカーンの奴隷解放宣言以降に生まれた世代である。

 おもちゃのティアラを着けてはいるが質素な服装のティアナは

「私は(好きでもない)カエルにキスなんかしない」

と語るのに対して、お姫様さながら着飾った(ただし、ユードラが雇い主であるシャーロットの父の依頼を受けて仕立てた物である)シャーロットは

「王子様と結婚すればお姫様になれるんだからカエルにキスする」

とはしゃぐ。

 この後、本物の王子と恋に落ちるティアナに対し王子との結婚に憧れたまま長じたシャーロットは偽物(正確にはブードゥーの呪術で王子の姿に化けた従者)に騙される展開になる。

 これは同じ金髪のプリンセスがヒロインの「シンデレラ」へのアンチテーゼというか、「女の子は王子様との結婚にいたずらに憧れるだけではいけません」というディズニーによる一種の過去作への自己批判を込めた教訓の提示なのだろう*18

 だが、いかにも教条主義的で、必要以上にキャラクターを貶めているように感じた。

 「プリンセスと魔法のキス」が制作された二〇〇〇年代の初頭には「キューティ・ブロンド」(二〇〇一年、リース・ウィザースプーン主演)のようなブロンド女性への偏見を風刺した作品が話題を呼んだ。そこに鑑みても、シャーロットの造型はポリティカル・コレクトネスの退化だろう。

 あるいは幼少期から着飾り舞踏会や恋愛遊戯に興じる裕福な南部白人女性であるシャーロットを戯画化することで、「風と共に去りぬ」で美人女優ヴィヴィアン・リーやオリビア・デ・ハビランドが演じてアメリカ社会というか世界中で美化され憧れの対象になった「南部美人サザン・ベル」*19をディズニーとしてはもう新時代の女性にはそぐわない旧弊として批判したかったのかもしれない。

 だが、「黒人女性を称揚するために白人女性を嘲弄する」という悪意を感じてアジア系女性の筆者としても肯定的に見られなかった。誇りある黒人女性を描く上で他人種の女性を侮辱する必要は無い。

 物語の冒頭で貧しくても娘の努力や資質に目をかける両親に恵まれたティアナに対して、シャーロットには溺愛して甘やかす父親ビッグ・ダディ(本名は『イーライ』だが、体格が大きいことに加えて『ビッグ・リバー』ことミシシッピ河の流れるニューオリンズの名士であることから『ビック・ダディ』と呼ばれていると思しい)しか出て来ない。

 恐らくシャーロットの母親は早くに亡くなっており、妻に先立たれた父親も幼い一人娘を小さな恋人として甘やかすような不適切な接し方しか出来ていないという設定なのだろうが、これも

「両親が揃ってこそ健全な家庭」

「シングルペアレントの家庭は不健全」

という偏見を助長するものではないだろうか。

 なお、この幼少期の場面でティアナの黒人の両親は若々しく、しかもその風貌は映画が公開された二〇〇九年にアメリカの大統領に就任したバラク・オバマ夫妻を明らかにモデルにしている。

 特に父親のジェームズはそっくりで、幼い娘に「願えば何だって出来る」と言い聞かせる台詞もオバマ氏の有名な“Yes,we can/そうだ、私たちには出来る”を連想させる。

 オバマ氏のこの言葉は先達であるキング牧師の“I have a dream/私には夢がある”を踏まえたものだが、成長後のティアナは正に父親の夢を引き継ぐ形で懸命に働く生活を送っている。

 つまり、ティアナはキング牧師を経て黒人初の大統領を戴く「アメリカの娘」という象徴であり、そこにディズニーの政治性というかアメリカのプロパガンダコンテンツとしての性格が露骨なまでに浮かび上がる。

 一方、シャーロットの父親「ビッグ・ダディ」ことイーライは正確な年齢は不明だが登場の時点でも明らかに中高年の風貌、体型でまだ四歳の少女の父としては今の感覚でも年配の印象を受ける(なお、原版でこのキャラクターの声を当てていた俳優のジョン・グッドマンは過去にはベーブ・ルースを演じるなど本人も巨体のイメージで有名だが、制作の二〇〇九年当時五十七歳である。むろん、役の設定はもっと若いとしても今でもいわゆるアラカンなら四歳の少女の父親より祖父の年配だろう)。

 一九一〇年と言えば日本では明治四十三年である。

 当時のアメリカとしてもビッグ・ダディはかなり高齢の父親ではないだろうか。

 アメリカ南部の富裕白人家庭、中高年を迎えた父親と溺愛する幼い娘という組み合わせから筆者は「風と共に去りぬ」のレッド・バトラーとボニー父娘を連想した(ノヴェライズではビッグ・ダディは綿花栽培で財を成したと説明されており、これも綿花の大農園の主人だったスカーレットの父ジェラルドを連想させる。なお、ジェラルドも物語の当時としては娘のスカーレットの祖父にこそ相応しい高齢である)。

 妻のスカーレットと擦れ違う結婚生活に疲弊したレッド・バトラーは当時としては中高年の年配(レッド・バトラーは本来はスカーレットの母親の一つ上でスカーレットとはいわば年の差婚である)で初めて儲けた娘のボニーを溺愛し、幼い娘を喜ばせるために仔馬を買い与えるが、それが正にボニーの死を招く。

 恐らくは妻を亡くしているビッグ・ダディは仔猫や仔犬といった命の危険まではもたらさない、その意味では安全な愛玩動物を幼い娘を喜ばせるために買い与えている。

 しかし、幼いシャーロットの動物に対する接し方は仔猫にきつい帽子を被せたり絞め上げるように抱き締めたりする、いわば生き物を「動いて鳴くぬいぐるみ」扱いするものであり、見かねたユードラから「猫をいじめないで」と窘められるように適切とはとても言えない。

 シャーロットは例えば「南部の唄」のフェイヴァーズ兄弟のように嗜虐的に他の子をいじめたり飼っている動物をわざと溺れさせたりするような荒廃した性質ではないが、父親がドレスや玩具と同じ感覚で愛玩動物を与えたために生き物もオモチャのようにしか扱えないのだ。

 その皮肉な描写にはリアリティを感じた。

 むろん、成長後のシャーロットは性根は優しく気前の良い娘でティアナの親友として彼女を諸所の場面で助ける、最後にはナヴィーン王子との結婚も諦めて彼とティアナの恋のために一肌脱ごうとする面すら見せる。

 「浮薄な面はあっても本質的には善人」としてこの富裕白人令嬢を描く作り手の意図は明らかだ。

 だが、物語の後半でこのキャラクターは明らかに「紳士は金髪がお好き」等のマリリン・モンローに似せた髪型とファッションで登場し、偽の王子と上っ面な恋を語らい、それが破綻した後も懲りずに王子との玉の輿婚を夢見てまだ幼いマルドニアの王子と踊る。

 パーティの場面では転倒して豪華なドレスの下のクリノリンが丸見えになるという、従来のディズニーのプリンセス扱いのキャラクターならまずありえないような皮肉な描写も出て来る(これはシンデレラやオーロラ姫といった旧作品のプリンセスはもちろん本来はヒロインのティアナも美しいドレスの下にはクリノリンを履いているという暴露でもあるが)。

 その「頭の悪いブロンドの女」の形象に何ともミソジニックなステレオタイプを感じて後味が悪くなる。

 モデルになったモンローがそうした「頭の悪いブロンドの女」を演じることに葛藤してそれが早過ぎる死の一因になったのは有名な話である。

 そもそもモンローは一九二六年に生まれて一九六二年に亡くなった。

 「プリンセスと魔法のキス」の舞台になった一九二四年の時点でモンローはまだ生まれてすらいない。

 彼女が活躍したのは二次大戦後の五〇〜六〇年代なのでその意味でも作品の時代に合っていないと言える。

 これは戦後のアメリカ社会で持て囃されたモンロー的な「頭の悪いブロンド娘」をひたすら冷笑して、「紳士は金髪がお好き」ならぬ「ディズニーは黒人娘がお好き」をアピールするプロパガンダである。

 二〇〇九年の「プリンセスと魔法のキス」のディズニーの制作スタッフにそうした逆差別を感じるのはあまりにも残念だ。

 ティアナの母ユードラについてもう少し言及すると、雇い主であるビッグ・ダディから

「ニュー・オリンズ一の仕立て屋だ」

と評されるほどの洋裁の腕前であり(『南部の唄』でも『ジョージア一の話し上手』『南部一の料理人』といった形容が出て来るがアメリカ人特有の感覚なのだろうか)、幼いシャーロットの振る舞いにもナニーとしてさらりと窘めるなど優秀な職業人である。

 「南部の唄」のテンピーおばさんも確かに優秀で頼りにされるナニー兼メイドだが、ユードラのように雇い主の子供に対して

「私たちはもう帰らなくてはいけないから(お相手はもう出来ませんよ)」

と一線を引くクールさは無い。

 そこに雇い主の敷地内の小屋で寝食を取る奴隷(制度上は解放されても実質は変わらない)と飽くまで自分たちの家を別個に持って職場に通う勤め人の差が見える。

 容姿に着目すると、ユードラはセミロングヘアを垂らしたブラウスの都会的な装いで体型も細身の美人型だ。

 これはモデルになったミシェル・オバマが弁護士として活躍するキャリア・ウーマンであるイメージに加えて、ハティ・マクダニエルに代表されるような「頭にハンカチを巻いた肥った世話好きな黒人ナニー」というステレオタイプからの脱却を図ったものと思しい。

 ただし、娘のティアナの成長後は父親との夢を受け継いで自分のレストランを開こうとするティアナを応援する一方で

「あなたも愛(するパートナーとなる男性)を見つけなさい」

「私は孫の顔が見たいの」

と従来的な恋愛・結婚・出産の人生を強いる古い面も見られる。

 これは二十世紀前半のアメリカの黒人女性(本人も若くして結婚して子供を儲けている)としては一般的な価値観なのだろうが(モデルになったミシェル・オバマも飽くまでバラク・オバマ夫人としてメディアに出て来て広く認知された女性である)、個人的にはロマンティック・ラブ・イデオロギーの押し付けに感じて窮屈さを覚えた。

 娘が仕事で充足して幸福ならばそれで良いではないか。

 筆者は既婚子持ちで専業主婦だが、そう思う。

 もし、ティアナが男性に恋愛や性的感情を持てないセクシュアリティの持ち主だったらこの母親の言葉は重圧になるはずであり、観客にも既にそうしたセクシュアリティの大人や将来的にそうなる子供はいるはずだ。

 二〇〇九年で既に十五年前の制作、しかも舞台となる時代は更にその一世紀近くも過去に遡る作品だが、そこに「少し古い物が最も古い」というか、比較的新しい作品であるだけに違和感が浮かび上がるのを感じた。

 この作品の四年後に公開されて世界的に大ヒットした「アナと雪の女王」ではヒロイン姉妹のうち姉エルサはパートナーを最後まで持たない。

 有名な“Let it go”(邦題『ありのままで』)は王族としての規範に縛られる生活に疲弊して出奔したエルサが一人で解放された心境を歌ったものである。

 また、これが「プリンセスと魔法のキス」との最大にして決定的な違いだが、妹アナが恋に落ちたハンス王子は実は作品最大の悪役で、土壇場でアナの危機をキスで救うどころか殺そうとする。

 アナを救うのは王子のハンスでもなければ最終的に恋人となるクリストフ青年でもなく実姉のエルサである。

 「王子のキスでハッピーエンドを迎えるプリンセス」というディズニーアニメというかおとぎ話の定石を完全に覆す展開であり、それが「アナ雪」を革命的な作品としての評価を決定付けた。

 「プリンセスと魔法のキス」は「シンデレラ」のような古典的なプリンセスストーリーを批判しつつ脱し切れていない過渡的な作品と言えよう。

 話はまた変わって、ティアナの一家が貧しいとは先に述べた。

 だが、シャーロットのような大邸宅に住む富裕な白人と比べれば倹しいものの、日本人の感覚からすると、家族全員とも洗練された装いをしており幼い娘にもフカフカの大きなベッドのある小綺麗な一人部屋を与えている等、さほど悲惨な貧窮生活の印象はない。

 ティアナがウェイトレスとして働く店に客として訪れる黒人たちも立派な軍服(これは黒人男性も軍人という公的な職に就いて白人男性に並んで上を目指せる社会になった証左である)を纏っていたりお洒落なファッションでダンスパーティーに行く話をしていたりする。

 なお、竹書房刊のノヴェライズでも偕成社刊の児童書でもティアナをダンスパーティーに誘う黒人の女友達は「ジョージア」と正に旧作「南部の唄」の舞台となった州と同じ名前にされているのが確認できる(『プリンセスと魔法のキス』の舞台はニューオリンズなのでルイジアナ州。同じアメリカの南部でもジョージア州とルイジアナ州とでは他州を挟んでいるので必ずしも近くはない)。

 「解放された南部の新しい黒人女性」といったネーミングだろうか。

 解放直後の「南部の唄」の黒人たちが継ぎの当たった服(子供たちに至っては屋外でも裸足である)を着て粗末な木造りの小屋で暮らしていた描写からすれば、半世紀余りを経た第一次世界大戦後を生きる「プリンセスと魔法のキス」の黒人たちは格段に豊かな生活を享受していると言えよう。

 だからこそ、十九歳のティアナも粋に着飾った黒人の男女が客として集うレストランを開く夢を描けるのである。

 この自分の店を開く夢の場面は一九二〇年代のレトロなイラスト風のタッチと歌で表現されるのも魅惑的である。

 「南部の唄」では実写とアニメを組み合わせた表現が目を引いたが、「プリンセスと魔法のキス」ではアニメの中でタッチが変わるのが特色である。

 さて、この作品の男主人公であるナヴィーンは架空の国「マルドニア」の王子だ。

 新聞に載った写真と初登場時でもいかにも近代のヨーロッパの王侯貴族的な金モール付きの軍服を纏っている。

 ただし、風貌はティアナよりやや薄い褐色の肌に黒髪、薄茶の目、濃い眉で南洋系にもラテン系にもアラブ系にも見える。

 これはラストで出てくる彼の両親であるマルドニア国王夫妻や幼い弟王子も同様である。

 ただし、マルドニアから付き従ってきたナヴィーンの従者は肥満気味の明らかに白人の風貌を持たされた中高年男性であり、「ローレンス」と明らかに英語圏の名で呼ばれている。

 これはナヴィーンの出身を現実の地域と結び付けないための配慮というかクレームを避けるための一種のアリバイ作りだろう。

 ただし、原版でナヴィーンの声を担当したブルーノ・カンバスはブラジル出身の俳優とのことで、「マルドニア」は実質は漠然と南米のどこかを想定している可能性もある*20

 ナヴィーンが所々で口にする「アシダンザ(素晴らしい)」といった架空のマルドニア語もイタリア語の「アンダンテ(ゆっくりと)」などラテン語系の言語に響きが似ている。

 そもそも彼の「女性と見れば口説こうとする享楽的な性格」自体も英語圏でしばしば揶揄されるラテン男性のステレオタイプである。

 ただし、スペイン語やポルトガル語圏の南米ならば従者のローレンスは本来は「ロレンソ」と呼ばれるはずである。

 「ナヴィーン」と「ローレンス」では同じ国というか言語圏のネーミングとして違和感が拭えない。

 後述するようにローレンスは初老の風貌になっても未婚で貧しく不遇な立場に怨念を抱いており、それが主君であるナヴィーンを裏切る動機となる。

 しかし、仮にも王室に仕えて王子の側近を務める人物が少なくともマルドニア本国でもそんなに貧しく不遇な立場だったのかと一見して違和感を覚えた。

 例えば、日本でも宮内庁の職員といえば国家公務員であり、侍従長といった役職であれば社会的にもステイタスというか一種の権威がある。

 ヨーロッパの王室でも恐らく事情は同様だろう。

 「プリンセスと魔法のキス」の劇中ではマルドニア王室が莫大な財産を所有していることは繰り返し語られ、ナヴィーンは「大理石の城で育った」と自らの過去を語っている。

 少なくともナヴィーンが本国にいて奢侈な生活を送っていた頃にはローレンスの待遇もマルドニアの一般国民の感覚としては相応にステイタスがあった方が自然である。

 もし、本国にいた頃もローレンスがひたすら不遇でナヴィーンを恨んでいたのならば、王室を追放されて全てを失ったナヴィーンに付き従ってローレンス本人にとっても異邦であるアメリカに来る行動はいかにも不可解である。

 それこそ王室を追放された時点でナヴィーンを

「今までよくも私を侮辱してくれましたね。もうあなたにお仕えする理由はありません」 

と見捨てる方が自然だろう。

 むろん、実際のところは若い息子の身を案じたマルドニア国王夫妻がナヴィーンをアメリカでも守るように側近のローレンスに言い含めて送り出した可能性もある。

 しかし、それならば、やはり国王夫妻から何らかの援助なり報酬なりローレンスに支払われるはずである。

 この老侍従やマルドニア王室の設定(温厚そうな国王夫妻は最後にナヴィーンとティアナの結婚式に笑顔で出席しているがナヴィーンの追放は果たして彼らとしても本質的な絶縁だったのか、ナヴィーンの弟王子はまだ六歳と幼いようだが後継問題は無いのか、ナヴィーンが更生したのならば本国に呼び戻して王位を継がせるのが妥当ではないのか等)にはどうも説明不足というか、本編で消化しきれていない感触が否めない。

 それはそれとして、素行不良を理由に本国を追放されたナヴィーンは金持ちの娘と結婚して寄生しようと考えてアメリカに渡り、魔法をかけられてカエルの姿にされる展開である。

 「美女と野獣」の王子は姿が野獣に変わっても霧深い城の主人として君臨し、家具に姿を変えられた臣下たちも彼に忠誠を尽くす。

 だが、ナヴィーンは登場時点で身分以外に実質的に王子としての財産を持たない流浪の身であり、しかも前述したように唯一残っていた従者のローレンスに裏切られる(ただし、この初老の従者は気弱で悪人としては中途半端であり、本来は自分の息子ほども若いナヴィーンを徹底的に虐げて死に至らしめるのは葛藤があるのか、カエルになった彼を閉じ込めた瓶の蓋を緩めて結果的に逃がしてしまう善良さも僅かに残している)。

 同じようにハンサムな王子から醜い姿に変えられる「美女と野獣」の男主人公と比べてもナヴィーンはもっと自堕落で浅はかな印象が拭えない。

 南米諸国から来たいわゆるヒスパニック系の移民は今のアメリカでは黒人より更にマイノリティだが、

「南米からアメリカに来た人間だから貧しく根性も卑しく軽薄である」

という印象を与える造型もやはりレイシズムの現れだろう。

 他のディズニー作品のキャラクターとの比較で言えば、ナヴィーンの名前や風貌は先行キャラクターのアラジンに似ている。

 しかし、アラジンは本来は貧困の中でも知恵を絞って生きてきた市井の一青年であり、ジンニーの魔法で偽の王子の身分に成り済ましていることに葛藤する。

 生まれついた王子の身分に自惚れるナヴィーンとはむしろ対極にある。

 女性に対して浮薄に振る舞う様子は「美女と野獣」のヴィランになるガストンを思わせなくもないが、ガストンもまた市井の青年であり、しかも力自慢という周囲が持て囃す能力を持っていたがために倨傲になった人物である。

 ナヴィーンに王子としての身分とハンサムな容姿以外にそうした能力のある描写は見当たらない(音楽が好きでカエルになってもウクレレを当たり前のように巧みに弾くが、これは例えるならイソップ童話のキリギリスのような王子としてのそれまでの享楽的な生活を裏付ける描写であり、演奏家として生計を立てるためにストイックに技術を磨こうとするといった性質のものではない)。

 ナヴィーンは「アラジン」のヒロインであるジャスミン王女がアラジン以前の求婚者の典型として嫌う「自惚れ屋の王子」そのものである。

 確かに、物語の中では自分と同様にカエルの姿になったティアナと冒険する内に

「城にいる時は召使いが何でもしてくれた」

「両親に勘当されて何も出来ないと気付いた」

とナヴィーンの浮薄さは実は自己否定や無力感の裏返しであったことが示される。

 しかし、故郷を追い出されても付き従ってくれたローレンスはずっと苦言を呈していたのに放埒なナヴィーンは耳を傾けなかったのであり、それ故に恨まれて裏切られたのである。

 そうした経緯を思い起こすと、「途中で立ち直る機会はいくらでもあっただろ」とあまり同情できなくなるし、結果的に彼が忠実だった従者の人生まで狂わせてしまった元凶にも見えてしまう(実際、終盤でカエルの姿で『なぜ自分を裏切ったのか』と問うナヴィーンに対してローレンスは憎しみの表情で『よくも私を侮辱し続けてくれたな』と返している。老侍従ローレンスの中でナヴィーンは自分を軽んじて虐げ続けた主君でしかないのだ)。

 本作のヴィランであるブードゥー教の呪術師ドクター・ファシリエはやはり先行作品「アラジン」の催眠術を操る悪宰相ジャファーに似ている。

 だが、本来は善良な国王に催眠術をかけて意思に反したことをさせるジャファーに対して、ファシリエは街で出会ったナヴィーンの自堕落で浮薄な性質と初老の侍従ローレンスの中にある鬱屈を見透かし、言葉巧みに二人を騙して突き落とす。

 この点で大人の観客からするとファシリエはジャファーより老獪で恐ろしい印象を受ける。

 私が観た日本語吹き替え版では、いわゆる歯抜けのディズニー的にコミックな風貌に反してアンニュイな色気すら感じさせる低音の声と口調で話すために余計にこの印象が強まった。

 前述したようにファシリエはブードゥー教の呪術師だが、これはニューオリンズの黒人社会でも浸透している民間信仰である*21

 ファシリエをヴィランにすることで起きるであろう「ブードゥー教を悪として描いている」という批判を避けるためか、カエルになったティアナとナヴィーンを助ける善玉としてママ・オーディというやはりブードゥー教の魔女も出て来る。

 こちらは盲目だが、朗らかな黒人のお婆さんといった造型である。

 ただ、ママ・オーディが結局、どういった力を持つ人なのか、ファシリエが操る影の人々や闇の存在との契約は何なのか、ブードゥー教に無知な筆者としては今一つ理解し難く未消化な印象を受けた。

 カエルになったティアナとナヴィーンが出会う非人間のキャラクターに言及すると、ワニのルイスはルイ・アームストロング(演奏する楽器も同じトランペットであり、また、アームストロングの愛称『サッチマ』は口の大きい風貌に因んだもので*22、ワニであるルイスの大きな口と重なる)、ホタルのレイはレイ・チャールズというアメリカ南部が産み出したレジェンド的な黒人ミュージシャンの名に肖っている。

 ちなみにレイは歯がところどころ抜けた風貌であり、「歯抜けの黒人を擬人化した侮蔑的な形象を出した」と黒人社会からは非難されたようだ*23

 モデルにしたレイ・チャールズもそうした風貌ではなく(話はずれるが、『南部の唄』でもジェームズ・バスケットやハティ・マクダニエルなど主要な役を演じた黒人俳優で歯抜けの人はいない)、そもそもホタルという歯牙は見るべき特色でない昆虫なのに何故そのような造型になったのだろうか。

 私の観た吹き替えでもホタルのレイはガラガラ声で一人称は「オイラ」、カエルになったナヴィーンを「大将」と呼ぶコミカルなキャラクターにされていた。

「コミカルな黒人男性をイメージしたキャラクターなら歯抜けの風貌にすべき」と制作者が考えてそうしたのならば、やはり偏見であり、レイシズムであろう。

 レイに似たキャラクターとしては「アナと雪の女王」シリーズのオラフが挙げられるが、こちらは雪だるまで強いて言うなら人参の鼻が白人男性の大きく高い鼻のステレオタイプを連想させるものの、レイの歯抜けほど露骨ではない。

 それはそれとしてレイはこの作品における「愛」を体現するキャラクターであり、夜空に輝く宵の明星を自分と同類であるホタルのメスの「エヴァンジェリーナ」と認識して一途な恋心を抱き続ける設定だが(名前の元になったレイ・チャールズがアメリカの芸能人としても女性関係の多いことで有名だったことを考えると皮肉な描写に思えるが、ベクトルが逆でも情熱的な性質という設定なのだろうか)、これは「アンクル・トムの小屋」に登場する白人少女と同名である。

 歯抜けの黒人男性が手に届かない白人女性に恋い焦がれるという暗喩にも取れるネーミングだ。

 とにかく一途に「エヴァンジェリーナ」を想い続けるレイはカエルになったティアナとナヴィーンの恋も取り持とうと奮闘した末、ファシリエに踏み潰されて死ぬ。

 いわゆる善玉側のキャラクターで彼だけが痛ましい最期を遂げる様を描かれるわけだが、これはモデルとなったレイ・チャールズの二〇〇四年の死がまだ記憶に新しい時期に制作された影響だろうか。

 そして、彼を葬ったティアナとナヴィーンは宵の明星の隣に新たに輝く星を見付ける。

 レイの魂は死して恋するエヴァンジェリーナと同じ星になったのである。

 このキャラクターは「恋は盲目」と「信じる者は救われる」という恋愛の両義性を体現している。

 レイのこうした造型は興味深くはあるものの、物語としては

「このキャラクターをここで殺さなくても良くないか?」

という疑問を観ていて覚えた。

 ナヴィーンとの恋に絶望したティアナがいみじくも指摘するようにレイのエヴァンジェリーナへの恋は客観的には錯覚、一方的な思い込みでしかない。

 それを生物としての彼を殺してエヴァンジェリーナと同じ星にすることで昇華する展開には、レイが生きたままエヴァンジェリーナの真相に気付く展開とはまた別な意味での残酷さが感じられるように思う。

 劇中で死を迎えるキャラクターにはティアナの実父ジェームズとレイの二者である。

 ジェームズは幼いティアナの夢を、レイは成長したティアナの恋をそれぞれ励ます。

 前者は明らかに父親だが、後者もカエルになったティアナに吹き替えでは「お嬢ちゃん」と呼びかけることからして年長男性の形象を与えられている。

 「アナと雪の女王」でもヒロイン姉妹の両親である国王夫妻は序盤で水難事故で死に、その数年後から成長した姉妹の物語が始まるので、ディズニーのコンテンツにおいて保護者である親の死は主人公の成長を描く上で通過儀礼的なイベントであると言える。

 しかし、レイの死には率直に言ってそこまでの必然性が感じられなかった。

 物語は人間に戻ったティアナとナヴィーンがティアナの夢だったレストランを開いてそこで二人で働くハッピーエンドを迎え、そこは子供たちに夢を与えるディズニーの定石というか俗に言うお約束から外れていない。

 だが、「プリンセスと魔法のキス」がディズニーの大作としては不発の部類に終わり*24、先行のディズニープリンセスたちや後発の「アナと雪の女王」のヒロイン姉妹と比べてもティアナがマイナーな扱いなのは作品全体に露骨なプロパガンダや教条主義、キャラクターに対する作り手のそこはかとない陰湿さが感じられたからではないだろうか。

 ちなみに、筆者の娘二人は「アナと雪の女王」シリーズや「アラジン」、「ラプンツェル」といった気に入ったディズニー作品は繰り返し見る。

 次女に関しては褐色の肌のジャスミン王女がお気に入りでわざわざディズニーリゾートでもジャスミン仕様のヘアバンドを買ったくらいだ。

 しかし、「プリンセスと魔法のキス」に関しては二人とも一度観たきりでその後話題にすることもなかった(『南部の唄』も基本は実写で今の小学生には作品の時代背景等が理解しづらいせいか、筆者視聴時に脇で少し観た小二の次女は『何これ。つまんない』と早々に視聴をやめてしまったが)。

 筆者としても評価できる部分は多々あるものの、新時代の黒人ヒロインを描いた作品として手放しで絶賛することは率直に言って出来なかった。

 「南部の唄」を塗り潰したアメリカのアトラクションがまた差し替えにならないことを祈る。


(四)終わりに

 「スプラッシュ・マウンテン」を巡るニュースから新旧のディズニー作品二作を見比べた。

 自分としては色々と難はあっても旧作の「南部の唄」を高く評価したいと感じたし、東京ディズニーランドの「スプラッシュ・マウンテン」は資料保存の観点からも残して欲しい。

 機会があれば、「南部の唄」の基になったハリスの小説(検索する限り邦訳は出ていないようだ)も読んでみたい。


【脚注】

 *1 Wikipedia「南部の唄」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E3%81%AE%E5%94%84

 *2 同上

 *3 日本語吹き替えでは「テンピーおばちゃん」とジョニーに呼ばれているが、冒頭のやり取りからすると元は父親の子供時代から二代に渡って仕えた乳母であり、ジョニーのもう一人の祖母に近い役割である。ちなみに『風と共に去りぬ』のマミーも本来はヒロインであるスカーレットの母エレンから二代に渡って乳母として仕えた老年の家内奴隷であった。演じたマクダニエルの実年齢は「風と共に去りぬ」出演時四十六歳、「南部の唄」出演時五十三歳。これは今なら中高年であり、劇中のマクダニエルの風貌も「肥った黒人のおばさん」という雰囲気だ。しかし、作品の舞台になった奴隷時代はもちろん制作された一九三〇〜四〇年代のアメリカにおいても孫がいるのが当たり前の年配だったのだろう。なお、リーマスおじさん役のジェームズ・バスケットは「南部の唄」出演時四十二歳。こちらも今なら中年だが、劇中での風貌はもう老年に近く(むろん、役の上で老け作りにした可能性もあるが、バスケット氏は実年齢では一回り上のマクダニエルより年上にすら見える。率直に言ってこの当時の彼が今の筆者と同じ四十二歳と知ってショックを受けた)、杖をついて歩いている設定である。「南部の唄」出演でアカデミー名誉賞を受賞した一九四八年、四十四歳で没した。ジョニー役のボビー・ドリスコールは当時九歳。ディズニー専属の子役として活躍したが、成長後は数多のトラブルに見舞われ、三十一歳で夭折した。ディズニー社による「南部の唄」封印の背景には、黒人差別への批判もあるが、主演した白人子役ドリスコールが後年同社と決裂し悲劇的な最期を遂げたことも一因となっている可能性はある。

 Wikipedia「ハティ・マクダニエル」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%80%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%AB

 Wikipedia「ジェームズ・バスケット」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88

 Wikipedia「ボビー・ドリスコール」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB

 *4 *1に同じWikipedia「南部の唄」参照

 *5 昭和の日本で制作されたアニメ「トム・ソーヤーの冒険」(一九八〇年/昭和五十五年)では恐らく主人公のトムやハックと同世代の少年を奴隷として出すのは子供向けの作品としては残酷だと判断されたのかトムより明らかに年長の青年として描かれているが、原作ではトムの玩具を珍しがるような年配の子供である。

 *6  Wikipedia「マルコムX」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%A0%E3%83%BBX

 *7 こうしたアメリカの人種意識は今も続いており、本来はアメリカ白人の母とケニア人留学生の父を持つダブルである第四十四代大統領バラク・オバマ氏もかの国では「黒人」としてカテゴライズされている。オバマ氏はアメリカ黒人として一般的な奴隷の子孫ではないが、かの国においては「黒人」として生活すること自体がマジョリティの白人に対するマイノリティに組み込まれることに他ならない。

 *8 映画ではトラブルメーカーになる娘のプリシーしか登場しないが、原作小説では有能な母ディルシーのおまけとして買い取られた「要らない奴隷」の設定である。ディルシーは黒人とネイティヴ・アメリカンの間に生まれた設定で小説中では同じ黒人奴隷仲間であるはずのマミーからも出自を侮辱される描写があるので、映画では当時の人種的な配慮として省略された可能性がある。

 *9 これは「トム・ソーヤーの冒険」も同様である。トムと同年輩の奴隷のジムには端から学校に行って正規の教育を受ける選択肢などない。また、悪役として登場するインジャン・ジョーはその名の示すようにネイティヴ・アメリカンの血を引くために社会から排除され続けた怨念を抱く人物である。彼らの境遇を考えると、学校嫌い、勉強嫌いで隙を見ては怠けようとするトムがいかにも甘やかされた白人の子供のいい気な我儘に見えて入り込めなくなる。ポリー伯母さんは甥のトムを躾のために平手打ちする行為(これは当時の教育としては妥当とされた)には躊躇を覚えるが、奴隷のジムに対しては仕事を怠けていると判断すれば迷いなくスリッパで打ち据える。当時の奴隷所有主、南部白人としては自然な感覚なのだろうが、だからこそ残酷である。この小説はマーク・トウェインの自伝的作品でトムは作者、ポリー伯母さんはトムの実母がモデルとのことだ。インジャン・ジョーはトウェインによる創作性の強い人物としても少年奴隷のジムについては恐らく限りなく作中人物に近いモデルがいたと察せられる。作家として名を成したトウェインの影でこの人がどのような生涯を送ったのか想像すると痛ましい。

 *10 *1に同じWikipedia「南部の唄」参照

 *11 「スプラッシュ・マウンテンで問題視された『南部の唄』はまた公開すべきだ

「過去の問題作」に対処するディズニー 赤尾千波 富学学部学科教授(アメリカ学・化専

 攻)」

 https://www.hmt.u-toyama.ac.jp/eibei/Akao/pdf/230412_01.pdf

 *12 「風と共に去りぬ」でもこうした貧乏白人として蔑まれるキャラクターは複数登場する。まず、スカーレットの父ジェラルドが下男として雇っていたウィル・カーソン。彼は同じ貧乏白人の娘エイミー・スラッタリーと私通して私生児を産ませた廉で解雇を言い渡され(当時の南部白人の上流層は性には厳しかったようである)、追い出される。その後、南部敗戦の混乱期に成り上がった彼は妻になったエイミーと共にかつての雇い主であるジェラルドの農園タラを奪おうと再び現れる。もう一人は映画には出て来ないキャラクターで敗戦後の経営の傾いたタラに現れて使用人として住み着いた南部復員兵のウィル・ベンティン(前掲のカーソンと対照させるためなのか、例えば黒人奴隷男性の呼び名に『サム』が多かったように『ウィル』も貧乏白人男性の使用人に多い通称だったのかは不明だが、同名である)。こちらは誠実な人となりで姉のスカーレットに許婚のフランクを奪われた妹のスエレンの心痛を理解した上で受け入れて結婚する。しかし、南部の大農園の美人令嬢として姉と共に華やかな社交界に出入りする立場だった気位の高いスエレンにとってこれは一種の貴賤結婚であり、社会的な挫折を意味していた。彼女にとっては許婚のフランクでなくても自分と同じ南部の上流育ちの男性と結婚して、実母のエレンと同じ大邸宅の女主人として生活するのが本来の人生だったはずである。奴隷制による南部の上流社会が維持されていれば、それは実現可能だったであろう。だが、南部の敗戦により全てが叶わなくなったのであった。南北戦争によるアメリカ南部社会の変遷を描いた「風と共に去りぬ」においては貧乏白人のキャラクターはいずれも階級社会の崩壊を象徴する役割で出て来る。

 *13 *1に同じWikipedia「南部の唄」参照

 *14 *11に同じ

 *15  Wikipedia「アンクル・トムの小屋」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%B0%8F%E5%B1%8B

 *16 Wikipedia「プリンセスと魔法のキス」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%82%B9%E3%81%A8%E9%AD%94%E6%B3%95%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%82%B9

 *17 「ディズニー『プリンセスと魔法のキス』 をもっと楽しめる裏話・トリビア20選」https://ciatr.jp/topics/189222

 *18 シャーロットの自宅で開催された仮面舞踏会(彼女の家に滞在する予定のナヴィーン王子の歓迎会を兼ねている)でドレスアップしたシャーロットが王子を出迎える場面は、明らかにディズニーの古典である「シンデレラ」のパロディである。しかも、どこかクールな水色のドレスを纏ったシンデレラに対してシャーロットはサーモンピンクのドレスに赤いリボンを結んだよりステレオタイプな女性らしさを演出した装いをしている皮肉を込めている。なお、ティアナはこの舞踏会では品の良いヴェールを被った配膳係を務めている。そこにも親友とはいえ舞踏会で着飾ってホステス役を務めるのは白人女性、黒人女性はメイドであるというアメリカ南部社会の縮図を示すと同時に「本物のシンデレラはこちら」という皮肉が見える。その後、服を汚してしまったティアナにシャーロットは自分のドレスを貸すが、そちらはシンデレラと同じペールブルーのドレスであり、ティアナを「二代目、新世代のシンデレラ」として打ち出す作り手の意図が見える。

 *19 Wikipedia「サザン・ベル」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB

「出て来る黒人たちが醜くて不愉快だ」と批判される映画「風と共に去りぬ」だが、白人令嬢役は本来はヒロインのスカーレットやメラニー役のオーディションを受けて惜しくも落ちた人たちを振り当てたため、舞踏会の場面などは一見して際立った美人揃いであり、これもヒロイン格のヴィヴィアン・リーやオリヴィア・デ・ハビランドと相まってサザン・ベルのイメージに貢献したと思しい。「南部の唄」でも富裕な白人女性であるジョニーの母サリーは洗練された美しい女優が演じていたが、これも典型的なサザン・ベルのイメージだろう。

 *20 慶應義塾大学塾生サイト「ディズニー作品に見る黒人表象」(法学部法律学科3年若松彩音氏による論文)

https://www.students.keio.ac.jp/hy/law/class/registration/files/a1495501281616.pdf

 *21 Wikipedia「ブードゥー教」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E6%95%99

 *22 Wikipedia「ルイ・アームストロング」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0

 *23 *16に同じ

 *24 *16に同じ

【参考資料】

 赤尾千波「アメリカ映画に見る黒人ステレオタイプ増補版」、富山大学出版会、二〇二二年

 アイリーン・トリンブル著、 倉田真木訳「プリンセスと魔法のキス (ディズニーアニメ小説版 81) 」、偕成社、二〇一〇年

 ロン・クレメンツ、ジョン・マスカー著、酒井紀子ノヴェライズ「プリンセスと魔法のキス」、竹書房、二〇一〇年

 油井正一著、「ジャズの歴史物語」、角川ソフィア文庫、二〇一八年

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