ハロウィンからクリスマスまで。
今年のハロウィンは土曜日と重なったせいもあり、去年以上の盛り上がりを見せたようだ。
渋谷では機動隊数百人が出動するなど、白黒映像の安保闘争を連想させる騒ぎとなった。
むろん、思い思いの仮装をして渋谷のスクランブル交差点に集まる人たちは体制への反抗を意図している訳ではない。
だが、成人に達した人間が変装して一つ所に大挙する状況は、それ自体が不穏なのだろう。
加えて、普段と異なる装いの人が集まる場では、一種の匿名性を利用して悪事を働く人間が出る危険性は素人にも十分想定できる。
実際、ハロウィン後の報道では仮装してやって来た人々の間でスリ被害が多発した状況を伝えていた。
ただ、例えば将棋倒しで死傷者が出るといった大惨事には至らず、翌朝にボランティアでゴミ拾いする人たちの懸命な姿を映し出す等、メディアの報道はおおむね好意的であった。
一九八二年生まれの私が子供だった一九九〇年代の中盤まで、ハロウィンは「外国では子供たちが変装してお祝いをするお祭り」という認識は漠然とあったものの、いざ十月三十一日が来て皆で何かするかと言うとそうではなかった。
むしろ、一九九二年、アメリカに留学していた日本人の男子留学生がハロウィンパーティの招待先を誤って射殺される事件などが起きたために、この欧米由来の行事には漠然とネガティヴなイメージすらあったように思う。
なお、日本では少女向けホラーコミック誌に「ハロウィン」という雑誌があり、ウィキペディアによれば、これはちょうど一九八六年から一九九五年まで発行されていた。
留学生射殺事件が起きたのは、正にその刊行中である。
小中学生時代の私にとって、雑誌「ハロウィン」は、コンビニに行く度に、書棚の下の方に並べられているおどろおどろしい表紙の本というイメージだった。
「クリスマス」や「バレンタイン」はきらびやかでロマンチックな照明に彩られていたが、「ハロウィン」は大きなオレンジ色のカボチャをくり抜いて作った不気味な顔が暗闇に哄笑を響かせている。
その怪奇的なイメージは、大人になった今、仮装行列的な面が強調されて定着した日本のハロウィンにも揺曳しているように思う。
それはさておき、ハロウィンについて改めてウィキペディアを見直すと、本来はカトリックではなく古代ケルト人の土俗信仰に由来する祭事だという。
カボチャのお面ことジャック・オー・ランタンは、アイルランドやスコットランドの伝説に出てくる妖怪的な存在なのだそうだ。
クリスマスの起源がゲルマン人の土俗信仰であり、モミの木に飾り付けするクリスマスツリーの習わしもそこから来ている点とどこか似通っている。
そもそも十月三十一日のハロウィンにせよ、十二月二十五日のクリスマスにせよ、それぞれの土俗信仰において一年の終わり、区切りと目された日であった。
カトリックがこれらの日を取り込もうとして影響を与えた点も共通する。
ただし、イエス・キリストの誕生日と明確に認定されたクリスマスに対し、ハロウィンに関してはカトリックの公式見解で翌十一月一日を「諸聖人の日」、二日を「死者の日」と設定してはいるものの、十月三十一日のハロウィンそのものをキリスト教の祭りとは認めていない。
「聖夜」として神秘的なイメージが付与されたクリスマスに比して、ハロウィンにおどろおどろしいイメージが付き纏うのは本来の祭事の性格もあるだろうが、カトリックの視点では「邪教の祭り」である点も大きく影響しているように思う。
近年まで日本でなかなか定着しなかったのも、ハロウィンのそうした異教性が影を落としているのではないだろうか。
話は変わって、スコットランドの本来の伝承に習えばジャック・オー・ランタンはカボチャではなくカブをくり抜いたお面であり、アメリカにハロウィンが伝播した際に、現地で入手しやすいカボチャに変えられたのだという。
本場のスコットランドでは今でもカブでジャック・オー・ランタンを作るそうで、カボチャをモチーフにする日本のハロウィンはアメリカ式に改変された様式に倣っていると言える。
白く滑らかに丸いカブで作ったお面が人骨に近い印象なのに対して、オレンジ色で横に長く凹凸の多いアメリカのカボチャは不気味な中にも愛嬌がある。
日本で一般に売られているカボチャの多くは小ぶりで暗緑色の皮だが、ハロウィンのモチーフに使われるのは明るいオレンジ色のアメリカ風だ。
そんなところにも、日本人にとってのハロウィンが土着化されておらず飽くまでアメリカからの直輸入品だという現実が透けて見えるように思う。
そのせいか、現行の日本版ハロウィンはクリスマスのように屋内で飾り付けして暖かい食べ物に舌鼓を打つ家庭的なイベントになりきっておらず、見ず知らずの人間同士が仮装して喧騒の繁華街に集まって基本は没交渉にすれ違うといった、どこか空々しい孤独の匂いも漂うのだ。
ハロウィンが近年急速に広まったのは、好きな漫画やアニメのキャラクターに扮する、いわゆる「コスプレ」の定着と恐らく連動している。
ただ、コスプレイヤーの数がいくら増えても「珍妙なオタク趣味」という奇異の目線を免れないのが現状であり、コスプレイヤーの方でも「飽くまで自分がその格好を好きだから」「自分を満足させるために」しているのが本音だろう。
ハロウィンの日に仮装して繁華街に集う人々にも、そんな自閉的な孤独の匂いが感じられる。
事実、ハロウィン当日の渋谷でテレビの街頭インタビューを受けた中には、
「電車でここに来るまで、ずっとアウェーでした」
と苦笑する仮装男性もいた。
これは、ハロウィン以外の日でも街中を歩くコスプレイヤーたちが常に抱く感覚であろう。
こんな所にも、ハロウィンが現代の日本社会にとって仇花のような風俗である現実が見える。
むろん、あと数年もすれば、もっと家庭的、小さなコミュニティに適した形に変化するかもしれない。
十月三十一日のハロウィン自体は、世間一般に広く認知されているからだ。
話は変わって、十月三十一日の翌十一月一日は「古典の日」だそうだ。
“だそうだ”と他人事じみた書き方をするのは、私自身がその当日になって文部科学省のツイッターを偶然目にして知ったからだ。
ウィキペディアによれば、この「古典の日」は平成二十四(二〇一二)年に法律で制定されたそうで、いわば十一月三日の「文化の日」の前哨のようなポジションだが、「文化の日」と違って国民の休日とはされていない。
そもそも、「文化の日」自体が、多くの人にとって「土日でなくても休める日」といった位置付けであり(『文化の日』に限らず、日本の祝祭日の殆どはそんな扱いをされているけれど)、商業的にも特別なイベントを執り行うべき日として組み込まれていない。
そこに休みにもならない「古典の日」を新たに投入しても、安息のメリットもなければ、イベントとしての楽しみもない。
率直に言って、これでは、一般に普及するのは厳しい。
それでも「古典の日」には一応、京都で古典文学の朗読コンテストが開催されているようだが、これも個人的に検索して初めて知ったニュースだ。
なお、この朗読コンテストの公式ホームページによると、今年の第七回の応募総数は五五八。
二〇〇九年から始まって、去年の応募総数三八八からすると格段に増えたとはいえるものの、渋谷のハロウィンに機動隊数百人が出動したニュースと比べると、何とも寂しい。
そもそもこの「古典の日」は源氏物語にちなんで京都府が中心になって制定されたもののようだが、京都の朗読コンテスト以外には目立ったイベントもなく、正に京都のローカルイベントのために制定された日といった印象を受ける。
しかしながら、同じ京都の夏の祇園祭が一ヶ月で述べ一八〇万人、平均すれば一日六万人来場する規模からすれば、「古典の日」はローカルイベントとしてもあまりにも零細と言わざるを得ない。
ちなみに三日の「文化の日」で検索すると、全国各地で美術館や博物館が無料開放されるなど、一応は国民の休日らしい取り組みが見られる。
それでも、文化の日に「各地の美術館・博物館に観客が殺到し、施設側は大わらわ」といった記事がヤフーのニュース・トピックを賑わすことはない。
「古典」「文化」といったキーワードには、「ハロウィン」やあるいは「クリスマス」、「バレンタイン」ほど動員力がないのだ。
というより、「古典」「文化」といういかにも教科書的な字面は、心を躍らせるイベントを想起するには堅過ぎ、また、大量消費的なマーケティングに結び付けるにも抽象的過ぎるのだろう。
むろん、「古典の日」であれば内外の古典文学を扱った書籍、「文化の日」でもやはり書籍や美術関連の商品を重点的に売り出すといった取り組みは可能であるし、現実にどこかでそんなセールは開かれているかもしれない。
だが、「古典」「文化」といった普通名詞は、「ハロウィン」というカタカナ書きの固有名詞に比してどうにも決定打に乏しいのだ。
なお、日本ではあまり知られていないが、欧米では四月二十六日は親しい人に花や本を贈り合う「サン・ジョルディの日」だ。
家族でも、恋人でも、友人でも、大事な人に本に花を添えてプレゼントする場面を想像してみただけでも非常にロマンチックな香りがする。
これが日本にも輸入されれば、恐らく構造不況に悩む出版業界にとっては「古典の日」「文化の日」を上回る商機となるはずだ(というより、何故、出版を含むメディア産業が積極的にサン・ジョルディの日を宣伝しないのか私はずっと疑問に思っている。あるいは、そうしたマーケティングの拙さこそが、正に出版業界を低迷させている一因なのかもしれないが)。
こうしてみると、欧米由来の行事が日本で持てはやされるのは、やはりロマンチシズムやエキゾチシズムが根底にあるのだろう。
裏を返せば、多くの日本人にとって、欧米は洗練された憧れの地として機能し続けているのだ。
さて、ハロウィンの興奮から半月も経たない内に、パリで同時多発テロが起きた。
二〇〇一年、ニューヨークを襲った九・一一を彷彿させる大惨事だ。
ニューヨークがアメリカの主導する世界経済の最先端だとすれば、パリはヨーロッパ文化の中心地だ。
この二都市は、欧米的な価値観を持つ社会にとって正に「聖地」であろう。
どちらの同時多発テロも、この両都市だからこそ狙われた事実に疑いの余地はない。
そうこうする内に、日本の靖国神社でも爆破事件が起きた。
現時点でパリの同時多発テロとの関連は不明だが、戦没者を祀る神社であるばかりでなく、しばしば戦前の軍国主義の象徴と目される場所を選んでいる点に、日本社会への根深い憎悪が見える。
ハロウィンが終わった今、まだ、本番には一月の猶予があるものの、街はクリスマスの装いに変わった。
日本人自身がしばしば指摘するように日本社会は宗教には無節操というか、
「自分たちも楽しめそうなお祭りなら便乗しよう」
とむしろ積極的に受け入れる傾向が強い。
そうした態度が外国の人の目にはどのように映るか分からないが、私としては全否定されるべきとは思えない。
仮にエキゾチシズムから来る模倣であっても、同じ日に外国の人と一緒に楽しめるイベントは多い方が長い目で見て相互理解に繋がるのではないだろうか。
確固たる信仰など持たない自分だが、今年のクリスマスも平穏に迎えたいと切に思う。




