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海に面した駅

 横浜には、ホームが直接海に面した駅がある。

 JR鶴見線終着駅の「海芝浦うみしばうら」だ。


 この字面を見ても「海」「浦」と「海」を意味する字が二つも入っている。

 ただし、「浦」に関しては「芝浦製作所」の「浦」であり、そもそもこの駅は芝浦製作所、転じて東芝の京浜事業所の敷地内にある。


 従って、この駅で降りても、東芝の社員及び同社の許可を特別に得た人間でなければ、改札を通ることは出来ない。


 実質として東芝の関係者のためにのみ機能している駅だ。


 駅という公共の機関、しかも元は国鉄の路線上に設けられたものでありながら、企業の敷地に食い込みその便宜を図っている立地に、国と大企業の癒着といった面が見えなくもない。


 そもそも、素人の私にもホームが海に直結している構造は台風や津波といった災害の際には非常に危険なのではないかと思われるし、ネットで検索すると、実際に台風の影響で閉鎖されたこともあると分かった。


 そもそも、鶴見線本体が海沿いの路線である性質上から台風時には運休になりやすいそうだ。


 それはそれとして、海芝浦は横浜という都市の中にありながら、ホームから直接海が臨める一種秘境めいた駅ということでネットでもしばしば取り上げられている。


 私もそうした記事から、偶然この駅の存在を知った。


 それまでは七年余りも横浜に住んでいながら、この駅の名前を目にしたこともなければ、耳にしたことがなかったのだ。


 これは私が出不精な性質で、外出しても決まりきった場所にしか行かない事情も影響している。


 しかし、社会人になってから多くの路線が絡み合う都市で暮らしていると、地理的には近くても、一度も乗ったことがない路線や立ち寄ったことのない駅はどこかで出てくるように思う(いわゆる『鉄オタ』、鉄道オタクと呼ばれる人たちも、日常的な生活の範囲では目にすることもない列車や立ち寄ることもない駅が膨大にあるからこそ、コレクター的な興味を強くそそられるのではないだろうか)。


 とにかく、この駅のホームから映した日暮れの海の写真記事を目にした時、「行きたい」と強く思った。


 というより、憂鬱の纏わり付く日常に少しでも風穴を開けたかった。

 確固とした理由がないのに目覚めた時から寝入る頃まで抑鬱的な気分が続いている状態だったから。


 ネガティヴな気分にもネガティヴなりに波がある。


 まずは、心が酷く傷付いた時のように胸が痛む。

 次に、過去の失敗を次々思い出して息苦しくなる。

 そして、これまでトラブルに遭った相手に対しての怨恨が燃え上がる。


 正確には、「燃え上がる」というほど自分を立ち上がらせるエネルギーを伴ったものではなくて、トラブルの遭った相手を鉄パイプで殴打したり(他にももっと肉体的な苦痛や現実的な損傷を与える方法はあるが、私の中で何故か『報復』というと頭を棒で強打するイメージが浮かんでしまう)、不幸な目に遭った相手に電話して「ざまあみろ」「お前なんか一生、下の方にいろ」と罵倒したりする想像をする内に、そうした自分に嫌悪を覚えてまた疲弊するのだ。


 結局、どう転んでも気持ちは塞ぎ込んでいく。


 外に出ても日常的なテリトリーを歩いていると、理由のない不安に駆られるのだ。


 どこか、少し普段と異なる場所に行きたいと思っても、出掛けること自体、億劫だったりする。


 そうした状況を打破したいと思っていた時に、「海芝浦」の存在を知ったのだった。

 単純に「訪れたい」というより、自分の心のために少しでも早く「向かうべき」だと感じた。


 実際、行くなら、今の時期しかない。

 これ以上、季節が進むと、ベビーカーの娘を連れて外に出るのはいっそう厳しくなる。


 平日の込み合わそうな時間帯に行こう。

 そう思っていたが、もともと私の段取りが悪い上に、出掛けようとするとまだ二歳足らずの娘がぐずったりして、結局、家を出たのは夕方近かった。


 ただし、目的地までは一時間足らずで往復しても常識的な時間帯に帰ってこられる見込みはあったので、とにかく最寄り駅に足を向かわせる。


 幸か不幸か、ベビーカーに乗せた娘はすぐに寝入ってしまった。

 ベビーカーはいわば移動するゆりかごのようなものなので、振動が心地良くて眠りに就いてしまうらしい。


 携帯電話の路線案内アプリに従って、最寄り駅から横浜駅、横浜駅から鶴見駅までは迷わずに行けた。


 そして、問題の鶴見線の列車に乗ったわけだが、電車に乗って案内を確認してみると、鶴見線は「浅野」駅を分岐点にして「海芝浦」行と「大川・扇町」行に分かれており、私が乗り込んだのは実はもう一方の「大川・扇町」方面の列車だと判明した(後日、インターネットで検索して知ったが、鶴見線は『大川・扇町』行こそが本線であり、『海芝浦』行は支線とのことだ。考えてみれば、公共の鉄道路線が最初から企業の敷地内を終点にして作られるのはあまりにも不自然だから、『海芝浦』行は『東芝の事務所に直接行ける路線が欲しい』という希望で後から足された接ぎ木みたいなものだろう)。


 結局のところ、浅野駅で慌しく降りた。


 既に夕闇の迫り始めたホームで再度検索し直すと、「海芝浦」行きの列車に乗るにはそこから線路を踏み越えて別のホームに移動し、そこで二十分以上待たなければならないと分かった。


 同じ路線名が付いていても、実は途中で枝分かれしているという構造は都市ならではだが、途中駅で二十分以上待たされるのは大都市の圏内では珍しい。


「海芝浦」方面のホームは私とベビーカー以外に人影はない。

 線路と線路の間には猫じゃらしが風に揺れていた。

 正式にはエノコログサと呼ぶらしいけれど、こんな風に目にした瞬間、パッと浮かぶ名前は猫じゃらしの方なのだ。

 と思う内に、向かいのホームでは植え込みの茂みから野良らしい三毛猫がのそりと姿を現した。


 正に、「横浜に田舎あり」といった光景だ。


 藍色に暮れなずんでいく浅野駅周辺は、工業地帯特有の無機質で閑散とした空気が漂っている。


 福島出身の私は一時間に一本しか電車が来ないような田園地帯の駅周辺の荒涼とした空気は肌で知っている。


 ただし、田園地帯の閑散とした風景が「人影が全く見当たらない」物寂しさであるのに対し、工業地帯のそれは「実はどこかに何者かが息を潜めて待ち構えているのではないか」と思わせる不気味さを含んでいる。


 工業地帯に特有の黒ずんだ古い倉庫や小さなオフィスビル、あるいは放置された重機といった風景には、それ自体がゾンビじみたおどろおどろしさがあるように思う。


 特に夕暮れに目にすると、

「この倉庫やビルは、まだ営業しているのだろうか?」

「あのクレーンみたいなものは、もしかすると昼間は動いていたのかな?」

 と一見して判断しがたいため、眺めているとふと活動を始めそうな感触を覚えるのだ。


 私の思いをよそに、向かいのホームをのそのそ歩いていた猫は、現れた時と同じく音もなく茂みの中に姿を消した。


 ベビーカーに目を移すと、娘はいつの間にか目を覚まして足をぶらぶらさせている。

 ここの眺めは赤ん坊にとってあまり刺激的なものではないらしい。


 海芝浦行きの列車がホームに入ってきた。

 疎らだが人影は見えることにほっとする。


 浅野駅を出ると、「工業地帯」というよりも企業の敷地そのものを通り抜けていく感触に囚われる。


 車窓はオレンジ色の灯りを点した作業中の倉庫の壁すれすれのところを通り過ぎ、広々とした事業所のエントランスで止まった。


 ここが「新芝浦」駅。

「海芝浦」の一つ手前だが、車窓の外に見える事業所の敷地が恐らく東芝のものだというのは何となく察せられた。


 この駅でも若干、乗り込んでくる人影が見られる。

 いずれも作業着風の服装で、仕事帰りと思われた。


 どう見ても工業地帯のいかなる労働にも従事していない服装で、しかもベビーカーと一緒に乗り込んでいる自分がいかにも場違いに思えてくる。


 なんでもない日の夕暮れ時にただ終点からの眺めを確かめるために子連れで乗るには、この路線は少し特殊すぎるのだ。


 そうこうする内に、車窓は加速度的に暗くなり、背面側の窓は暗い海とも運河ともつかない、黒光りする水の広がる光景を映し出すようになった。


 電車が止まって、とうとう終点の「海芝浦」駅に到着した。

 乗客は、しかし、シートに座ったまま、ほとんど降りる気配はない。


 この列車はこのままあと数分後には折り返しとして発車するのだ。

 そう察した私は急いでベビーカーごと電車から降り、携帯電話でホームから臨める海を撮った。


 率直に言って完全に夜になってしまっていたので、一面の海を見渡すというより、ライトアップされたベイブリッジを眺める格好になった。


 すぐ先に見える海水は微妙に泡立っていて、決して澄み切った水ではないのだと知れる。


 でも、こちらはホームの向こうに海の広がる開放感を求めてやってきたのであって、工業地帯の、しかも、企業の敷地に接している海に端から透明さは期待していない。


 ライトアップされたベイブリッジは、まるで電球の点線で描いた絵のようにも見える。

 東北出身の私にとって、この海に架けられた巨大な白い鉄橋はこちらに移り住む前は横浜というより都会そのものの象徴だった。


 横浜市民になって七年経った今でも、「ベイブリッジ」という言葉から連想されるのは、自分の日常からは切り離されたきらびやかなイメージだ。


 今、こうして企業の敷地から見やると、海を隔てた向こうの電飾の橋は、工業地帯の一部というか、巨大な工業地帯を支える大動脈といった存在に映る。


 ベビーカーの娘はじっと夜景の海を眺めていた。

 円らな両の瞳には、海の向こうに掛けられた電灯の橋が映りこんでいる。


 静まり返った中、小波の流れていく音と、車が鉄橋を走っていく音が微かに響いてくる。


 母親はさておき、お腹の中にいる時から横浜にいた娘は紛れもなく「浜っ子」だ。


 しかし、こんな風に海のすぐ傍で街を支える橋をしっかり見せてやったことは、一度も無かったように思う。


 まだ、言葉も話せない、解せないこの子が、大人になっても今日の光景を記憶していることは恐らくないだろう。


 私がこの子くらいの時に目にしたものを今、何一つ覚えていないようにだ。


 だが、こうして母子二人でちょっとした遠出をして普段と異なる風景を眺めたことが、娘の深層意識に何らかプラスの影響を残せれば良いと思う。


 周囲では、学生風の男の子がスマートフォンで夜景の海を撮っていた。

 同じ車両では見かけなかったものの、仕事帰りではなく飽くまでこの眺めを確かめる為にわざわざ乗り込んだ人が他にもいたと分かって少し安心する。


 乗り遅れると冷たい潮風の中、また少なからず待たされるので、急ぎ足で元の電車に乗り込んだ。


 電車の中は、そもそも前の新芝浦駅で乗り込んでからずっと席に座っている人に、新たに仕事帰りで乗り込んだ人が加わって、ほんの少しだけ混んでいた。


 折り返しの電車が緩やかに動き出す。


 窓ガラスはその向こうの夜景よりも、電灯の照らす車内の私たちの姿をありありと映し出していた。


「バイバーイ」


 ベビーカーの娘は唐突にそう告げると、窓ガラスに向かって小さな手を振った。

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