平和の祭典か、災いの呼び水か。
安保法案の紛糾がメディアを賑わせている一方で、二〇二〇年東京五輪のスタジアムやエンブレムを巡っても騒動が起きている。
安保法案もそうだが、「五輪担当相」なるポストを新たに設けた施策からも、安倍政権にとって五年後の東京五輪が政府主体で取り組むべきプロジェクトと見なされている事実が浮かび上がる。
改めて検索して確認したところでは、この五輪担当相は、一九六四年の東京五輪、一九七二年の札幌五輪に続いて三度目の設置だという。
私が中学生だった一九九八年、長野で冬季五輪が開かれた。
むろん、オリンピックの常として、開催中はメディア総出で選手たちの華々しい活躍や目ぼしい結果を取り上げていた。
しかし、国内での開催ではあっても、オリンピックの準備段階で政府が全面に出てくる気配はなかったと記憶している。
「五輪担当相」というポストがなかった長野五輪と新たに復活させて準備を進めている東京五輪の間には、明らかに取り組む政権や政府の温度差が見える。
そもそも、冬季五輪は扱う競技の性格上、冬季に積雪のない地域は実質的にエントリー不可能なので、夏季五輪に比して必然的に開催地が限定され、従って誘致上の競争率も低いと言える。
更に言えば、冬季五輪自体が、もともと古来から存在していた夏季五輪に対して二十世紀に入ってから「ウィンタースポーツにも五輪を設けて活性化させよう」と意図して生まれたイベントであり、程度の差はあれ「夏季五輪こそが本来のオリンピックだ」という認識を持つ人は多いと思う。
実際、夏季五輪は開催国の首都ないし代表的な都市で行われる場合が多い。
冷戦時代は一九八〇年モスクワ、一九八四年ロサンゼルスと、ソ連とアメリカという東西陣営のトップ国がそれぞれの拠点で相次いで競り合うようにして開催している。
アジアを見ると、一九六四年東京、一九八八年ソウル、二〇〇八年北京、と、ほぼ二十年の間隔を置く格好で、日本、韓国、中国が各首都での五輪を実現させている。
これらの三つの五輪は、いずれも開催国にとって「平和の祭典が執り行えるほどの先進国に成長した」と内外に知らしめる性格を持っていた。
ちなみに、これが冬季五輪になると、過去の開催地一覧を見ても、正直、オリンピックの開催地として初めてその名を国際的に知られ、その後はそれ以外で話題にされることは滅多にない地域が目立つ。
私が鮮明に記憶しているのは一九九四年のリレハンメルからだが、率直に言って、「リレハンメル」「ソルトレイクシティ」といった地名を見聞きしても、「昔、冬季オリンピックをやった所だ」としか思い浮かぶ要素はないし、そもそも、そういった文脈でしかこれらの固有名詞にぶつかることはまずない。
去年のソチ五輪にしても、開催地になって初めて「ロシアにそんな地名があったのか」と知ったくらいで、五輪の舞台として以外に目ぼしいニュースは寡聞にして知らない。
ちなみに、アジアでは、一九七二年札幌、一九九八年長野、そして、二〇一八年韓国の平昌で開催予定である。
つい最近、新たに入ってきた情報では、二〇二二年の冬季五輪開催地は北京に決定し、これが実現すれば、二〇〇八年の夏季五輪と合わせて、史上初の夏季・冬季双方の開催達成になるという。
ただし、これは「史上初」に拘る中国ならではの例外的なケースであろう。
冬季五輪の開催地はいずれも当該国の中では周縁地域が多く、誘致争いもさほどでないといった印象が拭えない。
実際、二〇二二年の開催地についても「北京に決定した」というニュースを見て初めて北京が立候補した事実を知ったくらいだ。
なお、カザフスタンのアルマトイと決選投票で争い僅差で勝ったとのことだが、カザフスタンが開催地に立候補していたことも、また「アルマトイ」という地名そのものも「北京決定」の報道で初めて知った。
むろん、これには日本の都市が誘致競争に加わっていなかった事情も大きいだろうが、夏季五輪の開催地は選考の過程も含めてメディアで詳細に取り上げるのとは大きな落差が感じられる。
夏季五輪の方が、開催地決定までの道のりを含めて、政治的な性格が圧倒的に強いのである。
北京は二〇〇八年の五輪開催地に選ばれたが、二〇〇〇年の開催地にも名乗りを挙げてシドニーに敗れた過去を経ていた。
ちなみに二〇〇〇年の五輪開催地決定は、それより遡ること七年、一九九三年の話だが、この決選投票に敗れた時の北京の人々の落胆振りを伝えるニュースを今でも覚えている。
体操でもしているのか、ひっつめ髪にしてレオタードを着た七歳くらいの女の子が涙ながらにマイクに答えている。
「どうして私たちが敗れたのでしょう」
「残念でなりません」
まるで、戦争映画の玉音放送を聴いた直後の小国民である(ちなみに、翌一九九四年に金日成が亡くなった時にも、北朝鮮の小学生が似たような調子で慟哭する姿が報道された)。
「別に自分の国で開催されなくたって、参加は出来るんだからいいじゃないの」
「テレビで後からいくらでも見られるんだから、自分の国で直にオリンピックを見られなくたってそんなに泣くほど残念でもないでしょう」
これが、当時小学生だった私の正直な感想である。
ちなみに、私は二〇〇六年に初めて上海を訪れたのだが、その際、お土産屋さんの棚に「二〇〇八年北京五輪/二〇一〇年上海万博」と刷られた記念品が大量に並んでいるのを目にして、「あれ? どっちもまだ開催されてないよね?」と一瞬、タイムワープしたような気分になった記憶がある。
多分、「二〇二二年北京五輪」の記念品も今年中には北京の土産物屋に並ぶはずだ。
それはそれとして、二十一世紀に入って中国が北京と上海の二大都市で相次いで五輪と万博が実施された現象は、高度成長期の日本で一九六四年東京五輪、一九七〇年大阪万博が開催された歴史を想起させる。
なお、東京、大阪という二大都市での夏季五輪、万国博覧会に続いて、一九七二年札幌での冬季五輪も開かれており、正に、敗戦から立ち直った日本の輝かしい時代であったと言える。
高度成長期の東京五輪と大阪万博が当時を知らない私にとっても「敗戦から復興した日本」を象徴する歴史的イベントとして認識されているように、リアルタイムで中国に生きる人々にとっても北京五輪と上海万博は豊かになった自分たちのアイデンティティを支えてくれる国家行事なのかもしれない。
二〇〇八年に夏季五輪を開いたばかりなのに、二〇二二年の冬季五輪開催地に再び北京がエントリーする動きからは、いかにも不自然で強硬的な印象を受けるが、中国としては一九七二年札幌ばかりでなく、一九九八年長野でも冬季五輪を実現した日本に対する対抗心を燃やしたのだろうか。
しかし、二十一世紀に入った現在の日本人の中で、そんなにも五輪開催に国民としてのアイデンティティを見出す人は果たして多数派なのだろうか。
個人的には疑問を覚える。
実際、二〇二〇年の開催地が東京に決定した時も、私はそこまで喜ぶ心境ではなかった。
誘致競争の報道を見ていても、「今までトルコでやってないから、イスタンブールが選ばれるんじゃないかな」と個人的には予想していたし、「むしろ、過去に一度開催した東京より、イスタンブールで開催した方が新鮮で良いだろう」と思っていた。
滝川クリステルの「お、も、て、な、し」と言った後にタイの仏僧よろしく両手を合わせるパフォーマンスを目にした時も、「この人のアピールしたい『日本』って、リアルな日本じゃなくて、外国人の頭の中にあるトンデモニッポンなんじゃないの?」と感じた。
いかにも白人的な風貌の彼女がそうしたパフォーマンスをすることで、「これは一体、どこの国の話なのだ」と不可解になっていく感触もあり、更に言えば、それが選考する外国人の委員にとって、さほど魅力あるイメージに映るとも思えなかった。
誘致競争の矢先にトルコで内戦が起きるなど政情不安が災いしてイスタンブールが落選し、東京に決定した時も、「あーあ、選ばれちゃった」となぜか失望に近い感慨を覚えた。
今、横浜に住んでいて転居の予定もなく、二〇二〇年のオリンピックはもしかすると直に見に行けるかもしれないほど近くで開催される。
にも関わらず、子供時代にテレビで遠い国のイベントとして目にした時ほどの期待が、なぜか沸き起こらないのだ。
むしろ、自国で初のオリンピック開催を待ち望んでいたであろうイスタンブールの人々をその不運に漬け込んで出し抜き、嘲ったかのような、嫌な感触を微かに覚えた。
イスタンブールは五度目の挑戦であったにも関わらず、またも苦杯を飲まされた。
確かに政情不安など開催地として失点の付く要素は否めないが、だからこそ、イスタンブールの人々には平和の祭典を切望する気持ちがあったのかもしれないと思うと、日本人としてもどうにも釈然としない。
のみならず、首都でのオリンピック開催ということで政権内に「五輪担当相」なるポストが生まれたことで、ナチスでゲッペルスが務めた「宣伝相」、そしてかの政権下で開催されたベルリンオリンピックを嫌でも連想してしまい、「これって本当に望ましい平和の祭典のあり方なのかな?」という疑念が生じるようになった。
なお、よく知られているように、このベルリンオリンピックを記録した女性監督レニ・リーフェンシュタールの「民族の祭典」「美の祭典」は、ドキュメンタリーとして今も高く評価されている。
歪んだ目的の下に開かれたイベントであっても、そこに参加するアスリートたちの輝きに変わりはないということなのか。
それとも、自身が毀誉褒貶に塗れた女性監督レニの捉えた「平和の祭典」は、ナチスという猛毒の土壌の上に咲いた仇花がごとき存在であり、その毒を孕んだ美の鮮やかさが観る者を惹きつけるのだろうか。
ヒトラー政権下で彼の意思に沿う形で制作されたこの記録映画は、ベネツィア国際映画祭でも「ムッソリーニ杯」ともう一人の独裁者の名を冠した最高賞を獲得し、一九四〇年に公開された日本でも記録的なヒットとなった。
正にファシズム映画の金字塔とでも評すべき作品である。
ちなみに、私自身はこのドキュメンタリー映画は未見だが、ネットで検索したところ、「民族の祭典」には、当時、日本の統治下にあった朝鮮出身の孫基禎が「日本代表」としてマラソンで金メダルを獲得し、「君が代」が流れる中、日章旗に対して彼が頭を垂れる姿を収められているとの記事を複数確認した。
日本敗戦後、新たに成立した大韓民国の籍に入った孫氏本人は、この表彰台での経験を屈辱的で辛いものとして語っていたという。
胸に日の丸を付けた「日本代表」として金メダルを取った孫氏ばかりでなく、銅メダルの南昇龍もまた朝鮮出身(敗戦後は韓国籍)であった。
日韓併合時代の朝鮮半島については近年では肯定的に捉える動きも日本では目立つ。
しかし、当時の朝鮮半島で発行されていた東亜日報では、ベルリンオリンピックの表彰台に立つ孫基禎氏の胸に付いた日の丸を故意に消した写真を掲載して彼の金メダルを報じ、当時の朝鮮総督府から停刊処分を受け、記者が逮捕される事態に発展した。
また、孫氏本人も警察の監視を受け、故郷の朝鮮で予定されていた歓迎会も中止されるという不幸に見舞われた。
なお、孫氏のウィキペディアを参照すると、彼はもともと民族意識が強く、ベルリン滞在時も外国人へのサインに「KOREA(朝鮮)」と記していたことが当時の特別高等警察、いわゆる特高から目を付けられる要因となり、警察の監視に繋がったという。
前述したように金メダルの孫氏も銅メダルの南氏も終戦後は韓国籍に入り、母国で後進の指導に当たった。
韓国にある孫氏の母校(日本の統治時代に作られた)は彼の功績を称える記念館に作り変えられ、また、南氏の故郷の順天市では「順点南昇龍マラソン大会」とその名を冠したマラソン大会が毎年開かれるという。
一九八八年のソウル五輪で、聖火をスタジアムに持って登場した孫氏は、既に七十六歳の高齢に達していた。
だが、現役時代の彼は、一度も「韓国人」「朝鮮人」として走ることを許されなかったのである。
この一連の事実に、民族としてのアイデンティティを否定された半島の人々の悲しみや怨念を読み取らなければ、歴史認識としてやはり正しくないように思う。
こうした事実を踏まえると、「民族の祭典」というタイトルそのものに苦い皮肉が漂ってくる。
「平和の祭典」と称されてはいても、というより、「平和の祭典」と位置づけられているからこそ、オリンピックには、その時々の政治に影響され、また利用されやすい面があることは否定できない。
話を現在の安倍政権に戻すと、長野で冬季オリンピックを開催した時にはなかった役職を、首都で夏季オリンピックを開くにあたってわざわざ政権内に復活させる行為は、首都の偏重、地域差別、更には国際的な大会である冬季オリンピックへの侮蔑ではないのだろうか。
夏季・冬季、また競技の種目に関わらず、五輪に出場するアスリートたちの労苦に変わりはないはずだ。
そもそも、そんなにも大々的に打ち上げようとしている東京五輪の開催後には、国民の私たちに何が残るのだろうか。
国内の直近の例としては、一九九八年の長野五輪は、経済効果四兆六千億円を見込んでおきながら、結果として開催した長野県に多額の債務を負わせた。
海外に目を向けても、二〇〇四年の夏季五輪はギリシャのアテネで開催されたが、十年経った今、競技に使われたスタジアムや球場はことごとく雑草のはびこる廃墟と化した。
ネットに出回った、かつての選手村の部屋の壁に残された、千切れた五輪マークの横に「welcome home」と記されたボロボロの横断幕の写真などは、わずか十年前の輝きを記憶する人間にとって、何とも寒々しい気分にさせるものであった。
今、ギリシャは経済破綻の危機に瀕しているが、これにはアテネ五輪で出した巨額赤字が大きく影響しているという。
夏季五輪にせよ、冬季五輪にせよ、大々的に作られた施設を維持するには相応の費用が掛かり、また、その後もスポーツ関連のイベントで再利用してもオリンピック並の観客動員は期待できないので、結果として赤字に陥りやすいのが、近年の五輪開催地の実情のようだ。
現時点ですら、スタジアムの総工費用に疑問符が付いて計画が白紙に戻るような体たらくで、東京五輪が最終的に国民にプラスの遺産をもたらす見込みがどれほどあるのだろうか。
二〇三〇年の日本にとって、二〇二〇年の東京五輪はどのような影を落とすのか。
せっかく五輪担当相を設けたのであれば、開催後の明るい青写真が見えてくる平和の祭典であって欲しい。




