表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
47/123

自由恋愛時代の憂鬱

 内閣府が公表した「結婚・家族形成に関する意識調査」で、恋人がいない若者の四割が「恋人は欲しくない」と答えたニュースが話題を呼んでいる。


 理由としてその半数近くが「恋愛が面倒」「自分の趣味に力を入れたい」と答えたという。


 また、交際の不安として半数以上が「出会いの場がない」、三分の一が「自分には魅力がないのではと思う」と回答している。


 ちなみにこの調査の対象は二十代と三十代の男女であり、「若者」とはいえ、結婚を現実的に考える年齢層だ。


「結婚・家族形成に関する意識調査」というタイトルからしても、ここでの「恋愛」は、実質的に結婚を前提にした交際を指していると思われる。


 英語の“fall in love”を訳して「恋に落ちる」という言い回しがある。


 ここからも明らかなように、結婚はさておき恋愛は本来、社会的な義務として行うものではなく、一種の事故として発生するものである。


 更に言えば、周囲から禁じられてもなお燃え上がるのが恋愛感情の本質であろう。


 だからこそ、「不倫」「禁断の恋」と定義される恋愛関係も、世間ではしばしば発生するのであり、「落ちる(fall in)」というネガティブな言い回しで定着しているのだ。


 実際、身分制が固定していた社会において、結婚と恋愛は完全に切り離されており、恋愛はむしろ結婚制度に背く不倫行為として現れる場合が多かった。


 例えば、王妃マリー・アントワネットとフェルゼン伯爵の関係は、「道ならぬ恋」「悲恋」として後世の物語によく取り上げられる。


 こうした時代の大恋愛は、当事者ばかりでなくその周囲を含めて、正に面倒ごとであり、社会的な生命を揺るがしかねない厄介ごとであった。


 洋の東西を問わず、封建社会においては、地位の高い既婚男性が妻以外の女性を関係を持つことはある種の特権として認められていても、既婚女性が夫以外の男性と関係を持つことは少数の例外を除いて基本的にタブーであり、死の制裁を加えられることも珍しくなかった。


 日本も江戸時代までは「不倫を働いた妻は殺しても良い」と法規で明文化されていた。


 近代以降も、戦前は「姦通罪」が厳然と存在し、既婚女性が夫以外の男性と関係を持てば、相手の男性共々禁固刑の処罰を受けた。


 付記すれば、男尊女卑の封建時代においては、既婚男性と妻以外の女性の関係が黙認はされていても、それは「男性が女性を従属させる」関係の一形態であり、決して双方の恋愛感情の成立を意味していなかった。


 平たく言えば、女性側が心情として望まない関係を強いられるケースも多々あった。


 戦前まで存在した「妾奉公めかけぼうこう」という言葉は、「妾即ち既に本妻のいる男性の愛人になること」が、「女中奉公」「丁稚奉公」同様、苦役と認識されていた事実を裏書きしている。


 今の日本は、建前は四民平等、男女平等の社会であり、独身の男女が恋愛関係を経て結婚する人生がむしろ当たり前になった。


 一夫一婦が社会的なモラルとして確立し、不倫は男女問わずタブーとなった。


 その一方で、不倫への社会的制裁もそこまで厳しくはなくなり、飽くまで当事者間のトラブルとして収めるべきとの認識が広がった。


 有名な女性タレントが夫の留守に他の男性を家に連れ込んでトラブルになり、結果として夫に慰謝料を支払って離婚したゴシップが世間を賑わしたことがあった。


 彼女は「夫を侮辱する破廉恥な行為をした」と世間の非難を浴び、また、民事上の請求を受けて慰謝料を負担したものの、現代日本社会において刑事上の罪に問われることはなかった。


 元夫や世間のバッシングを受けたとはいえ、現実に生命の危険に晒されるレベルでは有り得ない。


 その後も彼女はメディアに出続けており、この件でイメージダウンしたとはいえ、社会的地位を完全に失うには至っていない。


 現代日本社会は、恋愛に対してかくも寛容になったのである。


 本来、タブーのはずの恋愛ですら漠然と許容されるようになった社会においては、「むしろ恋人のいない、恋愛できない人間は負け組だ」という意識が支配的になった。


 ネットスラングの「リア充」こと「リアルが充実している勝ち組の人間」とは「恋人がいる人間」の用途で使われる場合が多く、「他の方面が全ていい加減でも、恋人がいればそれだけで勝ち組」という恋愛至上主義的な認識をよく裏書きしている。


 恋愛に積極的な人を「肉食系」、消極的な人を「草食系」と呼び習わす風潮も、「恋愛に積極的な人間は強者、消極的な人間は弱者である」との見方を色濃く表している。


 現代日本のメディアにおいては、恋愛は禁じようとしても「落ちる」ものではなく、とにかく「相手を巻き込んで落ちなくてはならない」一種の義務に変質しているようだ。


 だからこそ、恋人のいない人間、そもそも片思いを含む恋愛をしようとすらしない人間に対して、「権利を持たない人間」への憐憫というより「義務から逃れる人間」への冷蔑に近い視線が向けられるのである。


 しかし、「恋人」という関係性は、「友人」に比して限定的な一方で、「夫婦」ほど社会的な保障や安定を持たないものだ。


「恋人」から「夫婦」に順当に移行できないケースも多々ある。


 この場合は「失恋」するわけだが、相手に失望して喧嘩別れすれば、当然のことながら精神的に大きなダメージを負う。


 恋人としては別れても友人として安定した関係を持続させる場合もあるが、ここにも喪失感や葛藤といった痛みが少なからず付きまとうはずだ。


 更に言えば、現代社会においては、失恋に際してのトラブルは、個人の内面ばかりでなく社会的な尊厳まで恒久的に大きく損なう方向に発展する危険性も孕んでいる。


 別れた相手の性的なプライベート写真をネット上に流布する「リベンジ・ポルノ」がその代表例だ。


「恋愛が面倒」という回答は、そうした現実の痛手を負う危険性を見越して敬遠する心情がよく現れている。


 そんな自分を危機に晒す行為にわざわざ乗り出すよりも、単純に無害で好きなことをしていたいとの気持ちが「自分の趣味に力を入れたい」との答えに繋がっていると思われる。


 同じ趣味を持つ人同士で恋人になればいいのではないか、と第三者としては思わなくもないし、現実にそうした結び付きのカップルはたくさんいる。


 しかし、調査で「自分の趣味に力を入れたい」と回答した人たちにとって、あるいは趣味とは他人に立ち入って欲しくないテリトリーなのかもしれない。


 交際の不安として「出会いの場がない」という答えは、必ずしも回答者本人に責任を帰す問題ではないが、「自分には魅力がないのではと思う」との見解は、「自分にはそもそも恋愛をする権利はない」という自己否定である。


 こうした回答をした人たちが、第三者の目を通して本当に魅力があるかないかは問題ではない。


 そうした自己否定に陥らざるを得ない環境にいるのが最大の問題だと思う。


「自分には魅力がないのではと思う」と回答した人の中には、他人の目には十分魅力ある人もいるかもしれないし、そもそも、自由恋愛の社会ならば、多様な魅力が認められるべきだろう。


 というより、自由社会ならば、「恋愛をする自由」と同時に「恋愛をしない自由」だって個人の選択として何より重んじられるべきではなかろうか。


 現代日本に蔓延する「とにかく恋愛の過程を経て結婚しなければ負け組」という強迫観念が、反動として「恋愛は面倒」「恋人は欲しくない」「そもそも自分には魅力がない」という他者への拒絶と自己否定のスパイラルを一部に生み出しているように思う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ