ヨコハマ・トリコロール
私は今、横浜に住んでいる。
といっても、観光案内に出てくる、藍色の海にベイブリッジやランドマークタワー、観覧車、そして白い船の帆の形をしたインターコンチネンタルホテルが並んで立っているようなきらびやかなところではなく、ごく平均的な住宅地だ。
住み始めてもう六、七年にもなるし、住民票もこちらにあるわけだから、名実共に「横浜市民」ではある。
ただ、私が今でも「横浜」という地名を聞いて即座に思い浮かべるのは、前述した観光案内的な光景であり、また、「横浜の波止場から船に乗って/異人さんにつれられて行っちゃった」という古い童謡のゆったりしたメロディだ。
普段、目にしている住宅街のマンションやアパート、買い物に行くスーパーといった風景は、どこかこの言葉の枠の外にある。
一方、「福島」と聞いて、あるいは活字で目にして、真っ先に頭に浮かぶのは、実家の周辺の道路や部屋の窓から見えた吾妻小富士や信夫山、そして、行き来に必ず使う福島駅だ。
今、住んでいるところに不満があるわけでも、横浜という街に嫌悪を抱いているわけでもないが、いわゆる「浜っ子」ではないし、望んでもなれないのだと思う。
しかし、世間一般で「田舎」とされ、しかも山に囲まれた盆地で育った私にとって、海や都会への無条件の憧憬は今でも根強く残っており、だからこそ、横浜という港町は魅力を持ち続けている。
フランスの国旗は赤、青、白の「トリコロール」から成るが、私の中の横浜のイメージもトリコロールに彩られている。
まず、「赤」は前掲の童謡「赤い靴」からのイメージだ。
かつて、多くの日本人が海外を目指して旅立って行った横浜港。
「赤い靴」は外国人に連れられて横浜の波止場を後にし、恐らくは二度と日本の土を踏むことのなかった、そもそも、「異人さんのお国」で成人まで生きられなかったかもしれない幼い少女の儚さや可憐さの象徴であると同時に、それ自体が洗練された舶来品の雰囲気を漂わせる小道具だ。
アンデルセンの描いた「赤い靴」は貧窮した境遇に育った少女の華やかな上流社会への憧れや上昇志向を煽るアイテムだが、野口雨情の描出した「赤い靴」は富裕な外国人が貰い受けた貧しい日本人少女に施した、日本に対する西欧の優越を表象する服飾品である。
赤い靴で飾り立てられた少女からは、しかし、本当の意味で上流層の人間として認められたわけではなく、彼女を貰い受けた外国人の意思一つでより悲惨な境遇に落とされかねない寄る辺なさが仄見える。
ビゴーが一九〇二年の日英同盟を風刺した絵では、中年肥りした紳士と長身の青年、そしてまだ顔つきも体形も幼い少年という形で、イギリス、アメリカ、そして日本が擬人化されていた。
この絵を描いたビゴー自身はフランス人だが、西欧人の彼が日本を単純に国家として発展途上だという以上に、相対的な民度が幼く、より老獪な列強国に操られる新興国と見ていたことが良く分かる。
眉をいきり立て細腰の刀に手を掛けた少年の姿は、しかし、それ自体は醜悪さを意図したものではなく、むしろ可憐に見えるが、だからこそ、傍らで煽る中年紳士と長身青年の冷笑が際立ってくる。
三者の共通敵であるコサック兵ことロシアも画中では髭を生やした巨体の壮年男性として描かれており、少年に擬人化された日本の幼さや貧弱な印象を増幅させている(付記すると、朝鮮半島に至っては風刺画中では火中の栗として描かれており、もはや生き物ですらない。ビゴーにとって、この地域は総体的な民意を持つ統一国家とは認識されていなかったのだろうか)。
童謡の「赤い靴」に登場する、外国人に手を引かれて船出を強いられる非力な幼い少女も、日本人の野口雨情の目を通した、祖国そのものの象徴だったのだろうか。
漠然と「異人さんのお国」とされているだけで、少女の本当の行き先は歌詞の中で明らかになっていないところにも、喪失と混沌が入り混じった感触を受ける。
追憶の中に浮かび上がる赤い靴の色彩が鮮やかであればあるほど、糸の切れた凧のように行方の知れない少女の運命がやるせなくなる。
横浜と「赤」のイメージに話を戻すと、観光スポットの一つに、海に面した「赤レンガ倉庫」がある。
これは戦前に立てられた保税倉庫を改装したものだそうだが、レンガは日本の近代化に伴って西欧から導入された建築材であり、西洋の進んだ技術そのものの象徴とも言える。
おとぎ話の「三匹の子豚」を読んで、「レンガの家ならば、丈夫で安全だ」という信仰めいた確信や憧れを抱いた日本人は多いのではないだろうか。
「赤い靴」は飽くまで装飾的な舶来品だが、「赤レンガ」は実用的な導入技術である。
この二つの「赤」はいずれも欧米からもたらされた文化や技術を象徴している。
横浜には「赤い靴」や「赤レンガ」をイメージしたお土産のお菓子もあるが、いずれもチョコレートなど洋菓子の体裁を取っており、ここにも舶来品的な雰囲気が意識されているように思う。
なお、横浜には全国でも有数の中華街があるが、こちらも門の朱塗りの柱や街中に吊られた提燈など、やはり外来の鮮やかな「赤(紅・朱)」が街全体のイメージに華を添えている。
次に「青」だ。
「街の明かりがとてもきれいね/ヨコハマ」という歌い出しで有名ないしだあゆみのヒット曲は、その名も「ブルーライト・ヨコハマ」といい、横浜という街に文字通り「青」の色彩を重ね合わせている。
「横浜」という字面からも明らかなようにこの街は港町であり、まず街に面した海の「青」が想起される。
横浜銀行は職員の制服や通帳に青というより藍色に近い深みを帯びた色彩を基調にしたデザインを採用しており、またサイコロキャラメルの横浜ご当地版も藍色のパッケージになっているが、これはまさしく海の「青」だ。
若山牧水の「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにもそまずただようふ」は横須賀の長沢海岸を念頭に詠まれた句とのことだが、この地に限らず、一般に青い海とその上に広がる紺碧の空はセットになって思い起こされるものなので、港町である横浜には空の「青」のイメージも付与されるだろうか。
童謡の「赤い靴」や「赤レンガ倉庫」の「赤」も、晴れ渡る空の下、波止場の向こうに広がる海の「青」を背景にしてこそ引き立つ色彩に思える。
もう一つ、横浜を特徴付ける上で重要なのは、かの地を訪れる外国人の青い目の「青」だろう。
横浜が全国に先駆けて外国に開港した街であり、また、外国人居留地として長らく機能していたのは周知の事実だ。
童謡「赤い靴」で描写された、日本人少女を連れて行く「異人さん」の姿は、戦前の横浜ならではの光景であった。
歌詞の中では「今では青い目になっちゃって/異人さんのお国にいるんだろう」と「赤い靴」の「赤」と対比する形で、「青い目」の「青」が描出されている。
むろん、外国で長く暮らしたところで黄色人種の黒い目が白色人種的に青く変わることは有り得ないわけだが、ここでは、祖国を離れた少女が日本人としてのアイデンティティを喪失してしまう哀しみを「外国人になる」即ち「青い目になる」と表現していると思われる。
ここでの「青い目」は、単なる人種的な特徴を超えて、日本人としての感覚や情緒を解さない異邦人の不気味さや冷たさを表象している。
しかし、言葉や常識の通じない不安や寄る辺なさは日本を訪れた「青い目」の異邦人の側でも同じである。
「赤い靴」と同じ野口雨情による「青い目の人形」は、「私は言葉が分からない/迷子になったら何としよう」と人形に仮託して、日本を訪れた異邦人の孤独や不安を描いている。
「アメリカ生まれのセルロイド」と説明されているこの「青い目の人形」が日本のどこに到着して売られたのかは野口雨情の歌詞では定かでないが、あるいは「赤い靴」の少女と入れ替わりに横浜の波止場に降り立った後、どこかの「日本の嬢ちゃん」の手に渡ったのかもしれない。
「横浜人形の家」には、青い目の人形を含めて世界各地から来た人形たちが集まっている。
横浜の観光スポットの一つには外国人墓地もあるが、これは「異人さんのお国」に帰らず日本で息を引き取った「青い目の異人さん」が横浜に少なからずいた何よりの証拠である。
青い海の見える丘に葬られた彼らは、墓の下で一体、何を思うのだろうか。
最後の「白」だが、私が十年以上前に初めてみなとみらいを訪れてから現在に至るまで、この付近のイメージは一貫して限りなく象牙色に近い「白」だ。
ランドマークタワーこそ灰黒色だが、あとはベイブリッジも、大観覧車も、インターコンチネンタルホテルも、横浜美術館も、皆、漂白されたように白い。
海に面した砂浜の白に似ていなくはないが、これらは明らかに人の手で作り出された色彩だ。
赤と青が戦前からの横浜の歴史を表象しているとすると、白は、戦後、特に平成に入ってからの都市開発を象徴するローカルカラーに思える。
戦後、新たに米軍の拠点となった横浜には、「メリーさん」と呼ばれる、街の名物的な女性がいた。
元は米兵将校を相手にする街娼、いわゆる「パンパン」だったとのことだが、日本が豊かになり、彼女自身が老境を迎える時代になっても、舞台化粧のように顔を白塗りにして、白いドレスを纏って、街角に立っていたと言う。
この女性は元は岡山出身で、最晩年は故郷の老人ホームで過ごしたとのことだが、それでも一九九五年の初冬までは白ずくめの扮装で横浜の街で生きていた。
慶應大卒、一流企業勤務のキャリアウーマンが都内で殺害され、この女性が夜には渋谷のラブホテル街で街娼行為を働いていたことが明らかにされた「東電OL事件」が起きたのは、一九九七年の春。
「メリーさん」が再開発の進む横浜の街から姿を消した直後の事件だ。
ちなみに、この時期は女子中高生が小遣い稼ぎに売春する「援助交際」が社会現象として注目された。
貧しい女性が生計を立てるべく身を売らざるを得ない時代ではなく、衣食住には困らない女性が漠とした動機や目先の欲望から売春する時勢に変わりつつあった(ただ、実際に当時女子中高生だった自分からすると、『援助交際』はマスコミでは盛んに煽り立てているが、取り合えず自分を含めて身近でそんな行為を働く人間はいないという類の現象だったように思う。一部だからこそ目立つ現象をあたかも全体像であるかのように錯覚させるのは、マスコミの常套手段だ)。
街娼とはいえ接する人たちからは愛されていた白ずくめの「メリーさん」が横浜を去ったのも、敗戦後の猥雑さが漂白され、街の表面上は清潔になっていく一方で、人心には冷え切ったものが目立ち始めた都会に疲弊したからかもしれない。
横浜の「白」は清潔さの象徴であると同時に、寒々しい空白の「白」でもあり、また、見えない未来を表しているようにも思う。
私が子供の頃、人口の一位は東京で、二位が大阪だった。
今は、一位はそのままで、二位は横浜になったらしい。
「国際化」という言葉にはすっかり手垢が着いた時勢だが、この街はこれから埋没していくのか、それともまた新たな求心力を持ちうるのか。
片隅の住人としても気に懸かるところだ。