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憧れの「フランス」――ルノワールとローランサン

「アメリカかぶれ」に対して、「おフランス」という言い回しがある。


これは、故意に「お」を付けて慇懃無礼な形で呼ぶことで、フランスやフランス的なあり方を「気取り澄ましたものだ」と揶揄する気分を表している。


ハリウッド映画など華やかだが単純で大味な印象も強いアメリカ文化に対して、フランス映画や小説には高尚で芸術的・学術的な価値がより高いという感覚が日本人には根強くあり、「おフランス」という揶揄はその裏返しである。


実際、「バービー」や「ジェニー」など大量生産され一般に普及しているアメリカ生まれの人形に対して、「フランス人形」というともう少し高値でアンティークの店先等に飾られている印象がある。


「フランス人形のような顔立ち」というと、単純に彫深く端正なばかりでなく、洗練された気品や華やかさも兼ね備えた容貌が連想される。


「ベルサイユのばら」が少女漫画の一大古典となりえたのは、むろん、純粋に作品として優れていたからだ。


加えて、生きたフランス人形のような華麗な姿のキャラクターたちが登場する物語の舞台が日本人の潜在的な憧れを掻き立てたからではないだろうか。


傾国の王妃と男装の麗人の二人の美女がヒロインだが、王妃はもちろん、本来は男装のはずのオスカルも金髪の巻き毛を長く伸ばしたフランス人形的な風貌に描かれている。


一昔前に外国人が抱く日本のステレオタイプを象徴して「フジヤマ、ゲイシャ」という言葉があったが、日本人がフランスに抱くイメージもきらびやかなドレスを纏ったフランス人形から大きく変化はしていないのかもしれない。


それはそれとして、先日、渋谷の文化村へ「夢見るフランス絵画 印象派からエコール・ド・パリへ」を観に行った。


公式サイトのトップと入場券ではモネの「睡蓮」の絵が使われ、ビラ広告ではルノワールの「宝石を着けたガブリエル」が一面に載っていた。


明らかに「印象派」の作品にウエイトを置いた宣伝である。


実際に展示を観ると、淡く柔らかな色彩で美しい女性を描いたルノワールとマリー・ローランサン、そして、荒涼とした風景に陰鬱な心象を反映させたヴラマンクの作品が目を惹いた。


ヴラマンクについては今回の展示で見て初めて名前を知ったが、ルノワールとローランサンに関しては、日本でも高名かつ人気の高い画家だと私も認識している。


ルノワールは喫茶店の名前(こちらは『ルノアール』とやや古い表記だが)にも使われており、日本人にとって馴染みの深いフランス人名の一つではないだろうか。


また、ローランサンは黒柳徹子がファンだと公言している。


長寿番組「徹子の部屋」のセットにもその絵が飾られていることに加えて、クリーム色とエメラルドグリーンを基調にしたこの番組のセットの雰囲気そのものがローランサンの色彩を思わせる造りになっている。


この辺りからも、やはり、日本人が慣れ親しんできた画家の一人と言えよう。


ルノワールと同じ印象派の代表格でも、マネとモネはまず名前の響きが紛らわしい。


こう書く私にしても、「笛を吹く男の子の絵がマネで、沼に睡蓮が咲いた絵がモネだったかな?」といつも若干迷いを覚えてしまう。


むろん、マネにも「草上の朝食」や「オランピア」のように女性を描いた有名な作品はある。


しかし、「草上の朝食」はモーニングを着込んだ男性たちに混じって、白く滑らかな裸身の女性が当たり前のように座っているというシチュエーションはショッキングではあるものの、官能性や煽情的な雰囲気はあまり感じられない。


この絵を目にするたびに、私には澄まし顔でこちらに視線を向けている女性が、大理石のように滑らかで白い「肌」という衣装を纏っているようにいつも思える。


画面の奥で水浴びをしている白い肌着姿の女性にしても、手前の人々から目線も合わさず黙殺されているかに見える構図の方が気になってしまい、装いほどエロティックな感触はどうも受けない。


「オランピア」はまだ少女と言って良い風貌の女性が裸体でベッドに横たわる姿から、一見して娼婦的な人物を描いていると察せられる。


実際、ウィキペディアを確かめても、「オランピア」は当時の娼婦の通称であり、また、画中の隅に半ば背景に溶け込ませるようにして描かれた黒猫は女性器の暗喩だという。


だが、こちらに視線を向ける彼女の表情はどこか固く、うら若いこの女性の置かれた境遇の寒々しさを浮かび上がらせはしても、煽情的な印象は何故か受けない。


この様に、マネの描く裸婦には、画面に描かれている状況と画中の人物の表情から受ける印象の「ずれ」が付き纏っているように思う。


というより、マネの画中の女性たちは、「裸婦」という形象に一般に期待される官能性やエロティシズムをどこか拒否しているように見え、また、そうした印象こそが正に画家の狙いであるように感じられる。


一方、ルノワールの描く女性たちは、微かにピンクの勝った、暖かな色合いの肌を持たされることが多く、表情もほのかに微笑を含んだパターンが殆どである。


率直に言って、ファッションモデル的な痩身を美とする現代的な感覚からすると、ルノワールの描いた女性たちのふくよかな肢体は明らかに肥満気味でやや垢抜けない印象も否定できない。


しかし、それだけにマネキンのような人工的な冷たさがなく、女体の確かな肉感や体温を感じさせる。


ルノワールの絵は、パステル画はもちろん油彩画も、映像で言えばソフトフォーカスのような、霞の懸かったタッチで描かれたものが目立つ(そもそも、映像効果としてのソフトフォーカスが、ルノワールを始めとする絵画表現からの翻案なのかもしれないが)。


それが女性の体の肉感や温もりを描出しつつも、画面からどぎつさや生々しさを排除している。


肉感的で官能的ではあるが、しかし、画中の女性の表情は柔らかに充足しており、ポルノグラフィ的な男性を挑発する雰囲気や毒の含んだ表情は持たされていない。


ルノワールの描く女性の絵には、れっきとした男性画家に拠る作品であるにも関わらず、女性が描いた美しい女性の絵のような印象を私はいつも受ける。


女性をメインに描いた印象派の画家と言うと、他には舞台上のバレリーナや女優を盛んに描いたドガがいる。


現代的な感覚からすると、ルノワールの豊満な女性像よりドガのバレリーナたちの方が洗練された身体美で描かれていると言えるかもしれない。


だが、ドガの代表作「踊り子」は脚光を浴びて堂々と踊るバレリーナの姿を鮮やかに描く一方で、画面の端にパトロン男性の影を克明に浮かび上がらせている。


舞台上での晴れ姿を描いているにも関わらず、富裕な男性と愛人関係を結ぶことで生計を立てざるを得ない彼女の「裏」の生活が、画面に明確な影を落としている。


当時のバレリーナの社会的地位は決して高いものではなく、いわゆる貧困層の女性たちが少なくなかった。


ドガが描いたのは十九世紀後半の踊り子たちだったが、女流作家コレットが一九二〇年に発表した小説「シェリ」には、「若い頃はダンサーをしていた」という中年の高級娼婦「マダム・プルー」が出てくる。


恐らくこの人物はダンサーとしては挫折を強いられ、身を売る境遇に落ちていったと考えられる。


しかし、小説中ではすっかり中年太りした海千山千の「マダム・プルー」がダンサーをしていたのは逆算すると十九世紀の後半であり、彼女はドガの描いた初々しい踊り子たちとほぼ同年輩である。


そうした前提で見ると、ドガの描く女性たちは陰影を効かした絵全体の描法もあいまって、きらびやかで洗練された姿に描かれていればいるほど、次の瞬間には堕落に転じかねない深い翳りも秘めた存在に見えてくる。


舞台の脚光が照らし出す彼女らの姿は、観客やパトロン男性に賞玩されるためのものであり、いわば他者から消費される「商品」としての美である。


ルノワールの描く女性の表情からは、それが仮に女優といった商品的な立場の人物であっても、観る側に自らの美を享楽的に誇るような余裕が感じられる。


また、そうしたたおやかさに秘められた生命としてのしたたかさが日本人を惹き付けたのではないかとも思う。


そして、紛れもなく女性画家であるローランサンの描く女性像は、写実的な意味での肉感性を持たされていないというか限りなく希薄にされた造形である。


ローランサンの描く女性像の殆どが、陶器か紙のような真っ白な肌をしており(ローランサンの女性画を目にするたびに日本の姉様人形にも似た感触を受ける人は少なくないと思う)、胸も臀部も平らな体つきに神話の女神や妖精のような薄物を纏っている。


淡いピンクやオレンジの花々、あるいはギターといった楽器を手にした姿で描かれることが多いが、これも神話に出てくる妖精の美少女たちを彷彿させる。


ルノワールが描いたのが中年女性的なふくよかさならば、ローランサンの女性像は全般に少女の華奢さ、可憐さを強く印象付けるものだ。


仔細に眺めると、頬の辺りがうっすらとピンク色に染まっていたりするのも少女らしい含羞を連想させ、あどけない印象を増幅させる。


「マダムと言われなければ一人前でない」というフランスの女性観は日本でもよく知られているが、ローランサンの画中に出てくる女性の多くが初々しい「マドモアゼル」の雰囲気である。


むろん、作品の中には「マダム」に相応しい年配に達した女性を現実的な服装で描いたものもある。


だが、それらの加齢を感じさせない滑らかな肌や洗練された装いを与えられた形象は、不思議と伴侶となる男性の影を感じさせない。


王朝時代、ベルサイユ宮殿は夫を持たない女性は出入りが許されなかった。


フランス人形はベルサイユに出入りした貴婦人たちの姿を模しつつ、しかし、一体で独立した美を誇る存在である。


ローランサンの画中の美女たちもまた、フランス人形のように、初めから男性を必要としない世界に生きているように見える。


率直に言って、ルノワールやローランサンはそれぞれ同時代に活躍したマネ、モネ、あるいはピカソのように、絵画表現としてエポックメイキングな存在ではなく、むしろ通俗的な女性美を魅惑的に描出したところに日本人の支持が集まった画家だと思う。


だが、前衛的、先鋭的な作品ばかりでなく、そうした親しみやすい作品も内包する懐深さがフランスが未だに日本人の憧れの地となる所以ではないだろうか。

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