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気付けば、いつも十月。

時の流れは一定だが、人には一年の中で、「気が付くとこの季節になっている」という意味で、意識の中心になる時季があると思う。


私の場合は、十月だ。


特別なイベントではなく、普段の日常としての記憶を振り返っても、中高生時代の思い出でまず浮かぶのは、十月の日暮れ時を冷えた風に吹かれながら自転車で帰っていく場面だ。

「寒い」とまではいかないけれど、ひやりとした風を受けて、そこはかとない不安に胸が微かに締め付けられた、その感覚まで蘇ってくる。


ただ、単にその頃から根暗な気質だったと言われればそれまでだが、これといった悩みに起因するわけでもなく、また、特定の誰かを念頭に置いていたわけでもない、あの胸の痛みは何だったのかと今でも思う。


むろん、当時の私にも、自分の容姿、性格、能力への悩みや、何となく片思いしていた相手といった存在はあったけれど、十月の夕暮れの時刻に自転車で帰っていく時に覚えた心細さは、それらと結び付いた形ではなく、飽くまで独立した記憶として蘇ってくる。


私が「思春期」という言葉から最初に思い出すのは、「春」という字面に反して、十月の風を浴びて自転車を走らせた時の胸が微かに痛みを伴って鳴る感覚だ。


もちろん、「思春期」に該当する年齢を過ぎてからも、そうした感覚に襲われる場面は多々あったが、合理的な説明の付かない不安感は、この時期、最も顕著に現れるように思う。


大学生時代だと、お世話になっていた寮のベッドで綿のカバーに入れた毛布にくるまった時のうっすら冷たい肌触りやフローリングの床に足を着いた瞬間のひやっとした感触を思い出す。


これも、長い夏季休暇が終わって、後期が始まった十月頃の記憶だ。


学生時代は、一般に人生の中で最も自由で楽しい時期だと捉えられているし、私個人にとっても大きく外れてはいないけれど、ふとした瞬間に深い孤独に浸食される時期でもあると思う。


夏休みが終わり、肌寒くなってきたけれど、クリスマスや年末の賑々しい準備にはまだ至らない。


どうにも手持ち無沙汰な感慨の漂う十月は、学生時代特有の浮遊感と相まって、孤絶感を増幅させるシーズンではないだろうか。


ハロウィンは私が学生の時にも既に商業的なイベントの枠には組み込まれていた。


だが、よそのお宅にお菓子をねだりに行く、奇抜な変装をして練り歩く等、今の日本人の感覚では抵抗を覚える慣習を除いていくと(欧米でも本当に知らない人の家に子供たちがお菓子をねだりに行くのは最近では危険なので、知り合い同士で事前に打ち合わせして用意したお菓子を子供に渡すのが定例だという記事を読んだことがあるが、仮装して外を歩く慣習は健在のようだ)、せいぜい南瓜を使った料理を食べるくらいしかやることがない上に、「十月三十一日」という日付そのものが、十月のイベントに組み込むには微妙にはみ出した感触がある。


クリスマスが日本人の中で行事として定着したのは、家内に飾り付けをして親しい人同士で贈り物をし合う慣習が感覚として受け入れやすかったことに加えて、従来から家族や親戚の集まりやすい年末年始と時期的に接していた日付も幸いしたと思われるが、ハロウィンはこの点でも恵まれていないように思う。


話を十月に戻すと、社会人になってからも、この月に入ると、通勤着を買い換えたり、勤めていなくても古い衣類や道具の整理をしたりして、「自分の現状を省みて何らかの修正を加える」季節に位置づけられてきた。


いわば、ふと我に返って立ち止まる季節なのだ。


日本人にとって、一年の区切りは二通り存在する。

一月から十二月までの「一年」と、四月から翌年の三月までの「一年」だ。


十月は、前者の区切りの中だと最後の四半分に入る頭の月だが、後者の区切りの中だと、ちょうど折り返し地点に当たる。


一般的な感覚として、一年を四季に分けると、三月から五月までが「春」、六月から八月までが「夏」、九月から十一月までが「秋」、十二月から二月までが「冬」に入るだろうか。


皮膚感覚として、九月にはまだ夏の名残が漂い、十一月には冬の兆しが濃くなる。

十月は、「秋」そのものの感がある。


もう半袖では家の中でも寒いけれど、まだ、コートやセーターを着込むほど外も冷え込んでいない。


むろん、こうした気候は「春」そのものの時期である四月にも当てはまる。


しかし、四月には「これからますます温かくなる」あるいは「どんどん日が長くなる」という華やいだ期待がある。


十月には、「これからますます冷え込んでいくのだ」「日も短くなっていく」という寂寥や不安、危機感が付きまとう。


十月の気候そのものが身体感覚として辛いのではない。

これからの季節への予感が、心を寂しくさせるのだ。


幼稚園から小学生にかけての頃、この時期によくテレビや校内放送で「赤とんぼ」や「ちいさい秋見つけた」といった童謡を聴かされたが、この二曲はいずれも哀感を意図した歌詞とメロディだ。


「赤とんぼ」の歌詞は大人になり故郷を離れた主人公が、郷里で過ごした子供時代への喪失感を歌っている。


「ちいさい秋見つけた」は、校内放送で流されたバージョンでは、成人男性数人による合唱で、童謡であるにも関わらず、大人の男性たちが整然と声を合わせて歌っているのが子供だった私にはどこか不気味に思えた。


「めかくし鬼さん/手のなる方へ」「むかしの/むかしの/風見の鳥の/ぼやけたとさかに はぜの葉ひとつ」といった具体的な情景を描写する箇所は独唱なのだが、大人の男性の声で「めかくし鬼さん」と子供らしい言葉を歌っても、どこか呪いじみた響きに聴こえる上に、歌われている情景そのものにも不気味さを秘めたもの悲しさが漂っている。


間奏で流れるピアノの音色は、抑えた激情を訴えるようなスタッカートの効いた旋律だったことを覚えている。


童謡を素直に歌う年齢を過ぎてからも、この季節に入ると寂寥感を覚えるのは、もしかすると、この繰り返し聴かされたメロディによる、一種の刷り込み現象なのだろうか。


いつか、この季節で立ち止まって前向きに受け止められるようになりたい。

そう思いつつ、今年もまた、十月を迎えた。

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