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盆提灯の季節に

今更説明するまでもないかもしれないが、八月十五日は終戦記念日だ。


私は戦後生まれで、「戦争」というと白黒の資料映像でなければ、アニメの「火垂るの墓」といったメディアを通したイメージしかない。


それでもこの日、この時期が来ると何となく物悲しい気分になる。


子供の頃、夏休みが終わりに近付いたこの時期は、父方・母方両方の祖父母の家に行き、盆用の水色の回転灯こと盆提灯がゆっくり回るのを眺めるのが好きだった記憶がある。


定期購読していた月刊誌の連載漫画などでは、「主人公が夏休み最後の日こと八月三十一日にやり残した宿題に四苦八苦する」展開が風物詩になっていたが、私の実家があった福島県では、夏休みは八月二十五日までであり、八月中に二学期が始まるカリキュラムになっていた(今でも、主人公が八月三十一日に大量の課題にあたふたする漫画やアニメの回を見ると、『三十一日まで休みなんだからいいじゃないか』と思ってしまう)。


だから、母方の祖母宅の仏壇前で灯りの点った盆提灯を眺める頃というと、ちょうど「夏休みもあと十日ちょっとだな」というもの寂しさに囚われる時期だった。


盆地の福島県内陸部の気候として、八月半ばといえば、「『残暑』じゃなくてこれこそが『本暑』じゃないか」と思うほど、夕方になっても気温も湿度も高い。


体に感じる季節としてはうだるように蒸し暑いのに、生活の上では「秋」に組み込まれてしまう。


小学生時代までは誰のものか漠然としか知らない墓参りを終えた後に、蚊に刺された跡だらけになった手足を掻き毟りながら、

「どうして夏の終わりに皆でこんなに退屈なことをするんだろう」

「というより、どうしてお墓参りみたいな暗い気分になることをわざわざして、夏休みの終わりを余計につまらなくするんだろう」

と溜め息を吐いていた記憶がある。


この時期になると、家で食べる桃も熟しすぎて果肉が茶色っぽくなり、いかにも甘ったるい味になってしまうのも気だるさを増幅させた。


夏休みの始まる七月と聞くと正午の本当の青い空と白い雲のイメージが浮かぶのに、夏休みの終わる八月というと、気温は高いまま水色に薄まってしまった昼の空や早まってきた夕暮れのオレンジ色を連想してしまう。


どこか寂寥が滲んでくる季節なのだ。


話はずれるが、今までの人生の記憶が一気に蘇る定型的な言い回しとして、「走馬灯のように駆け巡る」という表現がある。


私の中ではどうしても盆提灯が明るい水色の背景に緩やかに花模様を浮かび上がらせるイメージしか湧かないので、現代を舞台にした作品でこの表現を見るとどうにも違和感がある。


走馬灯というインテリア自体が、今のご時世では、全く身近でないので、「これは本当に作者の実感に基づいた表現なのか」と疑問を覚える。


のみならず、登場人物がそれまでの人生を振り返る重要な局面にそんな日常に根ざさない形容を使われると、その人物の歩んできた道のりそのものがステレオタイプな絵空事に思えてしまう。


こうした時代の日常に見合わなくなってしまったレトリックは他にもあるかもしれない。


話はまた変わって、冒頭に「火垂るの墓」という作品名を挙げた。


私の育った福島はむろん東京を基準にすれば「田舎」ではあったが、それでも子供時代に蛍が当たり前に見られる環境ではもはやなくなっていた。


子供の頃から、このアニメの中で幼い主人公兄妹が蛍と戯れる光景自体が、私の中で既にある種の喪失感を引き起こすものであったし、同じ感慨を抱く人は多いのではないかとも思う。


ストーリー全般に関しては、子供の視聴者であれば次第に兄妹を冷遇していく親戚の伯母に反感を持ち、少し成長した視聴者であれば世話になっている家で手伝いもしない清太少年の態度に疑問や苛立ちを覚える。


これが、一般的な受け止め方かもしれない。


実際、原作小説が野坂昭如の自伝的な要素の濃い作品であることを考えると、「実際には生き延びて大人になった清太からの自己批判」といった視点もアニメには前提として織り込まれていると考えられる。


ただ、清太よりも親戚の伯母に近い年配になってからこの作品を見直してみると、幼い兄妹二人で暮らしても直に窮する事態は目に見えているのに、これで厄介払いが出来たとばかりに引き止めもしないこの伯母の態度には、やはり酷薄なものを覚えてしまう。


一方で、自分もこの人の立場だったらこういう態度に出てしまうのだろうかとも思わせてしまうリアルさもあるので、その意味でまた暗澹とさせられる。


アニメの「火垂るの墓」は亡霊になった兄妹が現代の神戸の街を見下ろす、原作にはない場面で終わっている。


本来敗残者として淘汰されたはずの主人公たちが今を生きる視聴者の私たちを冷徹に見詰め返しているとも思わせる。


また、死後数十年経っても、この兄妹は、先立った両親に再会できず、二人で現世をさまよい続けているとも取れる結末だ。


盆は死者が一時的に現世に戻る時期とされているが、ちょうどその時期に日本が敗戦を受け入れて結果的に戦没者を偲ぶ記念日としたのは果たして単なる偶然なのだろうか。


戦争を生き抜いた祖父母たちが鬼籍に入って十数年が経ち、震災後の始末で祖母宅にあった盆提灯もどうなったのか分からなくなった今、この時期の晴れた空がいっそうやるせない色彩を帯びて映ってきます。

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