男は泣けない
兵庫県の男性県議が公金で賄う政務活動費の不正使用疑惑を問われ、記者会見の席で号泣したニュースが話題になっている。
メディアの反応を見ると、発端となった公金の不正使用疑惑より、むしろ、四十七歳にもなるこの男性県議が人前で声を上げて涙を流した態度を異様なものとして強調的に取り上げていることが窺い知れる。
日本語には「男泣き」という言葉がある。
辞書的な意味合いでは「男性が激情に堪えかねて泣くこと」だそうだが、この男性県議の行動については「号泣」と形容されるのがデフォルトで、「男泣き」と報道で使われている記事は今のところ見たことがない。
本来の定義からすれば、男性が激情に耐えかねて泣き出した行為には変わりないはずであるから、この県議の行動も「男泣き」と表現されて間違いではないはずだ。
しかし、敢えて「号泣」という性別を離れた語句を当てはめているところに、彼の言動に対する違和感や冷笑的な目線が込められているように思う。
小さな男の子が転んで怪我をしたとか欲しいものが買ってもらえなかったとかいう理由で泣いていると、「男の子は泣くものじゃありません」と周囲がたしなめる場面は、「男女平等」が建前になっていた私の子供時代でも普通に見かけたし、今でもどこかそこかでこの種の台詞は発せられているように思う。
「泣く」という感情表現への社会的なタブー意識は、女性よりも男性の方が圧倒的に強い。
「涙は女の武器」という言葉には、人前で泣くことを容易に許されず、また、それ故に泣くことで味方が出てくる可能性の低い男性から女性への皮肉が明らかに込められている。
実際、先日、物議を醸した東京都議会のセクハラヤジ事件の報道においても(国政も地方政治も近頃は不祥事続きですね)、ヤジを受けた女性都議がその後、自席で涙を拭っているらしい後姿が何度も流されたが、彼女のこの行動がメディアで揶揄的に取り上げられることはなかった。
この女性都議についても過去の経歴から批判する報道は後から出てきているが、人前で泣いた行為そのものを非難する目立った動きは今のところない。
だが、独身女性に向かって「早く結婚した方がいいんじゃないのか」などという発言は、一昔前にテレビや雑誌でよく組まれたセクハラ発言事例集の第一句目というか、あまりにも古典的かつ直球過ぎて、私などは怒りを覚えるよりまず笑ってしまう。
更に言えば、公表している経歴を見る限り、芸能界やメディア業界に長らく籍を置いて多くの人に接した経験があるはずの三十七歳の女性が、今更この程度の発言に傷付いて、カメラのある場所ですぐそれと分かるような素振りで泣くというのも随分妙な話に思える。
ヤジについての議論はさておいて、この女性都議の言動には、何が何でもメディアで話題になるレベルに問題を大きくしたがっているような作為的なものが感じられるし、そのパフォーマンスとして人前で泣いてみせるというやり方にも幼稚さを覚えてしまった。
仮に本心からの涙だとしても、不惑も近い年配の女性が職場で勤務中に泣くというのは、恥ずかしいことに思える。
彼女の涙がメディアからの哄笑を受けなかったのは、ひとえに女性であることに起因しているとしか思えないし、彼女本人もそこに甘えているというか、もっとはっきり言えば、女性に与えられる特権的な保護を利用している。
これが、もし三十七歳の男性都議が「早く結婚した方がいいんじゃないのか」というヤジに対して自席に戻ってから泣いたという映像だったら、それこそ、冒頭の四十七歳男性県議のような嘲笑的な扱いをされたはずだ。
こうした経緯に鑑みると、先に挙げた「男泣き」は、「本来泣くことを許されない男性が涙を流す」という異常性・意外性を前提にして生まれた言葉と言えよう。
実際、「男泣き」という言葉が用いられるのは、親しい相手を亡くした男性が哀悼の感情から泣くといった、他者への強い愛惜から生じる激情を示す場面に限定されている。
裏を返せば、そうした特例的な局面でもなければ、男性が泣くことはやはり認められないのだ。
「涙は女の武器」という言葉が「泣いて保護を求める立場しか与えられていない」あるいは「涙を流せば周囲が許容してくれる程度の責任しか負わされていない」従来の女性の地位を裏書きしているように、「男は泣くものじゃない」という台詞もまた「涙で責任回避するような卑怯さは持つべきでない」という古風な男性の矜持を示している。
一九九九年に製作され、日本でも話題を呼んだハリウッド映画に「ボーイズ・ドント・クライ(Boys Don't Cry)」という作品がある。
日本語に訳せば、「男は泣かない」といったタイトルである。
この映画は、体は女性だが心は男性という性同一性障害を持つ青年(『青年』も本来は男女双方に使えるらしいのですが、男性のイメージが強いですよね)が、故郷を離れ、別の街で「男性」として生活していたものの、周囲に身体的には女性であることが露見し、それまで「同性」として友人付き合いしていたはずの男たちからレイプされ殺害された実際の事件を基にしているという。
本編は未見だが、主演のヒラリー・スワンクが髪を短く刈り上げ、ジャケットにズボンを着込んだ、一見すると「華奢な美青年」といった雰囲気で映ったスチール写真は何となく覚えている。
肉体的には女性として生まれついても、「男性」として女性と恋愛し、「男性」として生きていこうとしながら、周囲の本物の「男」たちから肉体的にも精神的にも否定され、抹殺された「彼」。
物言わぬ骸にされた「彼」の運命を知った上で、改めてこのタイトルを見直すと、踏みにじられた「彼」の誇りや無念さが浮かび上がってくる。
率直に言って、女性には認められて男性には固く禁じられる感情表現があるのは不公平かつ理不尽に思えるし、男性だって、辛い時には思い切り泣くことがどこかで許す空気があっても良いと思う。
しかし、男女問わず、本来の責任からの「逃げ」や「誤魔化し」の手段として涙を使う人間は美しくない。
これだけは、時代が移っても変わることはないはずだ。