雨、ひょう、アラレ、雪。
「ゲリラ豪雨」、「爆弾低気圧」といった、気象現象をテロリズムに見立てた呼び名が一般的になったのは、いつからだろうか。
少なくとも、九・一一以前にこうした言い方はほとんど見なかった気がするし、定型句的な表現になったのは震災以降に思える。
確かに、気象現象は時と場所と人を選ばず襲い掛かるものだから、その点では自然によるテロリズムと言えるかもしれない。
ただ、「豪雨」だけでも充分凄まじさを伝えているのに、その上に「ゲリラ」と付けると、例えて言うなら「激痛が痛い」といった、重複表現的な過剰さも覚えてしまう。
「爆弾低気圧」にしても、爆発した後の残骸が散らばっている悲惨な光景が浮かんでしまい、「防ぎようのない惨禍」が印象として付き纏うので、もう少し他に呼び方はないのかと、他に替わる候補が見当たらないまま、歯がゆくなる。
それはさておき、夏至を過ぎたばかりなのに、東京の三鷹では「ひょう」が降ったという。
説明するまでもないかもしれないが、「ひょう」とは空から氷が降る現象である。
「ひょう」という語感からすると、あたかも空から「豹」こと猫をもっと大きく敏捷にした猛獣が振ってくるかのような不穏な響きがあり、実際、空から降ってきた氷の粒にはトウモロコシの茎をへし折るくらいの殺傷力がある。
漢字にすると、「雨」に「包」と書いて「雹」であり、何やら優しげな字面になるのが皮肉だ。
三鷹には学生時代に住んでいたが、「三鷹の森ジブリ美術館」が観光スポットの一つになっている点からも明らかなように、東京都の中にありながら、地方出身者が思い描く「東京」の喧騒に溢れたイメージとは対極的な、緑の多い、正に「閑静」という形容がぴったり来る街だ。
もっとも、私の中ではジブリ美術館は一度きり行った曖昧な記憶しかなくて(その土地に住んでいると案外行かないものです)、「三鷹」と聞いて浮かぶのは、三鷹駅から当時住んでいた学生寮までの道に並んでいた桜の木やあるいは近所のお宅の庭に植えられていた大きな椿の木に咲いた紅色の花だったりする。
それでも、思い出の中の優しい木々に氷のつぶてが打ちつけるところを想像すると、いかにも「災厄」と呼ぶに相応しい事態に思えてくる。
それはそれとして、「雹」を空から氷が降る現象と書いたが、空から氷が降る現象には、他にも「雪」「霰」等、それぞれ独立した変種が存在する。
原型は等しく水滴の「雨」なのに、凍った形状によって「雪」、「雹」、「霰」と分類されるのは不思議だと思わなくもない。
それこそ、同じ「ネコ科」の中で、原型となる小型の「猫」以外に、ライオンこと「獅子」、「虎」といった大型の種、そして、チーター、ピューマ、パンサー等、細かい差異はともかく漢字にすれば一律に「豹」に分類されるであろう中型の種が、それぞれの存在を主張するかのように咆え合っている図が連想されてしまう。
ともかく、ウィキペディアによれば、「雪」とは「氷の結晶」とのことで、いわば厚みのない欠片の状態を指している。
また、「霰」と「雹」は粒状の氷で、五ミリ未満が「霰」、それ以上は「雹」と定義されているらしい。
実際、ニュースの映像の中の「ひょう」は、小石くらいの大きさといい、角ばった形といい、製氷パックで作った氷の一個にそっくりだった。
「雪」「霰」「雹」の三つの内、「雪」は紛れもなく「冬」という季節と分かちがたく結び付いている。
「雪が降れば本格的に冬」という感覚は、日本人の中に、実際には雪のほとんど降らない地域に住む人を含めて、深く根付いていると思う。
ニュースでも「ひょう」「あられ」と他の二つはひらがなで表記されるのが通例であるのに対し、「雪」は漢字での表示が一般的であり、同様の扱いである「雨」と並んで、気象現象として日本のメディアの中では確固たる位置を占めている。
ちなみに、「雨」と「雪」の中間は「霙」だが、メディアの一般的な表記としては、「あられ」「ひょう」と同じく、ひらがなの「みぞれ」であり、そもそもの現象が流動的なものであることを裏書きするように、報道で堅い字面が与えられることはない。
蛇足だが、感覚としても、雨に雪の入り混ざったびちゃびちゃした状態からすれば、ひらがなの「みぞれ」の方が似つかわしいとは思う。
「雨」に「英」と書いて「霙」と記すと、左右対称のクールな字面からして、むしろ綺麗な正六角形や角錐型の透き通った結晶を想像してしまう。
それでも、「霙」はまだ冬に限定された気象現象であるが、「霰」と「雹」は、それこそゲリラ的というか、季節の枠に縛られない、その意味でイレギュラーな現象である。
事実、今回の「ひょう」はゲリラ豪雨と連動する形で夏に降った。
また、「霰」に関しても、私は福島の実家にいた頃に一度遭遇したことがあるが日付こそ覚えていないものの、明らかに「冬」に分類される季節ではない時期に振り、その意外さゆえに記憶しているという性質の現象だ。
ちなみに、福島の盆地の皮膚感覚で言うと、十一月の後半から三月の半ばまでは「冬」であり、五月半ばから九月いっぱいまでは「夏」である。
一年を通して均質に温暖だとか冷涼だとかいうわけではなく、夏は蒸すように暑く、冬は凍てつくように寒い、ジェットコースターのカーブのような気候だ。
話を「霰」に戻すと、その日、本来は晴れているはずの空から、米粒くらいの大きさの白くて丸い氷の粒がパラパラ一斉に降ってきて、コンクリートの地面に当たるとまるでおもちゃのビービー弾のように鋭く跳ね返った。
瞬く間に一面灰黒色だったコンクリートの路地には、降ってきた粒で白いまだら模様ができた。
すぐに止んで、量としては一面を埋め尽くすに至らなかったせいもあるが、降った後は、雪のように一面に「積もる」のではなく、粒が局所的に「集まる」という状態になったのを覚えている。
雪とは違う氷の粒の降る現象を「ひょう」と呼ぶことは、「『ひょう』に打たれて飼っていた小鳥が死んでしまった」という悲しい作品の載った作文コンクールの入選作品集で読んで漠然と知っていた。
余談だが、私は昔から道徳の教科書や作文コンクールの入選作品集を読むと、「こんな良いことをした結果、こんな嬉しいことがありました!」みたいな成功談より、「心ならずも寂しい結末を迎えました」といった作品の方が強く印象に残るし、そういう傾向を持つ人は世間に少なくないのではないかとも思う。
小鳥とはいえ骨格の入った動物を叩き殺すには、目の前に降ってきた氷の粒はあまりにも小さくて軽い気がしたが、とにかく持っている知識を動員して「ひょうが降ったね」と家族に話すと、「これは、『あられ』だよ」と言われた。
「五ミリ未満の粒」という定義に照らし合わせても、多分、あの時降ったのは「霰」で正しいはずだ。
「あられ」と聞くと、お菓子の「雛あられ」でなければ、ロングヘアに眼鏡を掛けたアニメのキャラクターの女の子しか知らなかった私には、目から鱗だった。
生みの親が「ドクター・スランプ」こと「則巻千兵衛(=海苔巻き煎餅)」さんであることからすると、アニメの「アラレちゃん」も煎餅と同じ米から作る和菓子の「あられ」が直接のネーミングになっていると思われるが(大判の『煎餅』を叩き割って小粒の『あられ』が飛び散るイメージが浮かぶ)、そもそもこの和菓子の名が恐らく気象現象としての「霰」にあやかってのものだろう。
「雨」に「散」と書いて「霰」という字になると知ったのは、気象現象として目にしてから随分経ってからだが、小さな氷の粒が地に叩きつけられて散じるイメージとぴったり合致している。
アニメのキャラクターは「アラレちゃん」と名前はカタカナで書かれるのが通例だが、これは少年の風貌を持つ「鉄腕アトム」やネコ型ロボットの「ドラえもん」といった先行作品のキャラクターたちと同様、彼女があどけない童女(アニメの『アラレちゃん』の風貌や言動は『少女』というよりもっと幼い『童女』『幼女』と形容するに相応しいし、そもそも名前に『ちゃん』を付けた呼び方自体が幼児の愛称という感触を受ける)の姿を借りたロボットであるアイデンティティの表れでもあろうか。
気象現象としての「ハリケーン」が日本で滅多に起こることがなくても、「針」と「剣」を組み合わせたような語感から、「アメリカの西部辺りで時々起こる、凄まじい暴風現象」といったイメージと共に日本語の中に言葉として定着しているように、「霰」も現実の気象現象としてはイレギュラーであっても、和菓子やアニメのキャラクターに転化したイメージで日本人の中に根付いている。
「ゲリラ豪雨」「爆弾低気圧」といった言葉も、黄緑や桃色に淡く色づけされてほのかに甘い「雛あられ」やあるいは愛くるしい「アラレちゃん」のように、気象現象を離れた分野にまで敷衍して根を下ろしていくのだろうか。
天災は避けられないが、日本語としては防ぎたい気がする。




