見過ごしていたコロンビア
ワールドカップの日本の第三戦目の相手国はコロンビアだそうだ。
現時点で振り分けられたグループの中では首位で既に決勝トーナメントへの進出が決まっているとのことで、報道を見ても、南米のこの国は世界でも強豪という扱いであり、それはサッカーに疎い私にも「この地域の国だから、そうなんだろうな」と素直に受け止められた。
だが、そう解釈する一方で、自分の中で「コロンビア」という国に対してのイメージを改めて振り返った時に、「南米諸国の一つ」という認識以外にはほとんど特別な付加知識がないことにも気付いた。
「南米の国だからサッカーが強いのだろう」と漠然と察せられるだけで、ブラジルのようにその中でも頭一つ抜けた最強の国家というイメージはない。
また、マラドーナやメッシを輩出したアルゼンチン、ベッカムを生んだイングランド、あるいはジダンを擁したフランスのように「この競技にこの人あり」と一般にも知れ渡ったアイコン的選手と結び付いた記憶も私の中にはない。
日本人にとって「コロンビア」と言えば、レコードや映画の配給会社の名としての方が馴染みは深いが、これらはいずれもアメリカ合衆国に本籍を置く企業であって、なぜ敢えて同名にしたのかは不明だが、日本人の中で国としてのコロンビアの印象を希薄にすることはあっても、決して強めることはない存在と言えるだろう。
これは、アメリカ合衆国を「アメリカ」と呼び習わして、本来は同じ北アメリカ大陸に属するカナダやメキシコばかりでなく、コロンビアを含む南アメリカ大陸の諸国家を無意識に切り捨てる現象にもどこか似ているというか、アメリカ合衆国が他の国家の存在感を侵食する、形を変えた小さな余波に思える。
それはそれとして、ウィキペディアで国家としての「コロンビア」の概略を覗いても、個性に乏しい印象は変わらなかった。
コーヒーが主要な産物とあるものの、これはブラジルやグアテマラなど他の中南米諸国にも明らかに当てはまる。
エメラルドも特産物の一つだという情報は目を引いた。
だが、エメラルドという、中間色の緑で長方形を基調にしたカッティングがデフォルトの宝石自体が、「ダイヤ、ルビー、サファイア、エメラルド……」という風に、個人の好みは別として宝石としてのステイタスは三番手以下の位置付けにある感触だ。
加えて、同じ緑色の宝石としては中国の翡翠のように「コロンビアのエメラルド」というほど地名や地域と密接に結び付いた認識は日本で定着していないように思う。
政情が不安定なため治安が悪く、マフィアの活動が活発で麻薬やコカインが盛んに生産されている、という国家や体制としては不名誉な記述も見受けられるが、これにしても中南米ではコロンビアに限った話ではないだろう。
つい最近も、同じ南米のエクアドルで、日本人の新婚夫婦が襲われ、邦人男性が殺害された事件が起きたばかりだし、これは「ブラジル追想」でも触れたが、ブラジル映画の「ピショット」や「シティ・オブ・ゴッド」は幼い子供が麻薬に手を出し犯罪に手を染める暗い現実を描くばかりでなく、出演した少年たちが出演後に実際に窃盗を働いて射殺されたり逮捕されたりする悲劇も引き起こした。
前述したマラドーナ(『アルゼンチンの』、と敢えて冠するべきか迷うほど、この名前には国境を超えた知名度がある)についても、マフィア組織の人間と長らく交友関係を持っていたという記事を読んだことがある。
日本のプロスポーツでも暴力団との黒い繋がりがしばしばゴシップとして取り上げられることはあるし、どこの国でも大金の絡む興行の世界では多かれ少なかれ裏社会との関わりは免れないという話なのかもしれない。
しかし、プロサッカーが興行及びハングリースポーツとして不動の地位を占める南米諸国においては、本来は成功者、セレブリティである選手本人も、状況が一つ違えば暗黒街の住人に転じかねない危うい立場にいる証左に思える。
話をコロンビアに戻すと、旧宗主国だったスペインの文化的影響が色濃く残っており、闘牛なども盛んだという。
スペイン語が公用語である点に関しては、むしろポルトガル語を公用にしているブラジルが南米では例外的なのであって、必ずしもコロンビアの独自性ではない。
だが、これもウィキペディア内にあった南米の中では言語の上でもスペインのアンダルシア方言を最も正しく残しているとの記述や、闘牛の本場もアンダルシア地方であることから考えると、コロンビアはアンダルシアの直系というか、むしろ、闘牛やフラメンコといった、日本人がイメージする「スペイン」の忠実な継承者にも思えてくる。
ビゼーの歌劇「カルメン」は日本人の中にある「スペイン」のステレオタイプを形作っている作品だが、これは正にスペインのアンダルシア地方が舞台であり、闘牛やフラメンコも元はこの地方の芸能である。
ちなみに、メリメの原作小説の中では、自分に対しすっかり冷たくなったカルメンに向かって、ドン・ホセが「一緒にアメリカに行ってやり直さないか」と持ちかけるくだりがある。
「私はそんなところに行かないわ」と彼女は突っぱね、ホセから刺し殺されるラストに繋がっていく。
ここでの「アメリカ」とは恐らくは合衆国の「アメリカ」を指していると思われるが、ウィキペディアの記述を読んだ後では、生き延びたホセとカルメンがそのままコロンビアに移り住んでその子孫が脈々と現地で続いている想像がどうしても浮かんでしまうようになった。
実際、先進国・観光地として洗練されたスペイン本土やアメリカ合衆国より、発展途上のコロンビアの方が、メリメが描いた人々の野生的な情熱や原始的な混沌を含んだ社会といったものが今も根強く生きているように思える。
三国とも直接には行ったことはないが、台湾を訪れた時に、リアルタイムの日本人や日本の都市には失われてしまった、良い意味での日本的な情緒をそこはかとなく感じた経験に鑑みてそう思う。
藍から生まれた青が元の色よりいっそう青いように、支配された地域には本国では先に失われた本国らしさがしばしば残る。
しかし、「コロンビア」のウィキペディアで、一番、衝撃を受けたのは、現地の文学を説明した項目を読んだ時だ。
ガルシア・マルケスがコロンビアの出身であることを私はそこで改めて知った。
この現代の大作家について私が知っていることというと、「予告された殺人の記録」「百年の孤独」といった一見して記憶に焼きつく秀逸な作品名、そして、映画化された「予告された殺人の記録」の断片的なイメージだ。
小学生の頃、テレビで放映されていたこの映画について私が記憶しているのは以下の場面だ。
まず、冒頭で、白い服を纏った浅黒い肌に黒い髪、濃く太い眉に大きな黒い瞳の、いかにもラテン的な風貌の美青年が泥田のような平原に立って眩しげに空を見上げており、その空を鳥の大群が一斉に飛んでいく。
次に、薄暗い家の中にやはり黒髪のラテン的な風貌の若い娘が入ってきて、泣きながら、「あの子は処女じゃないから、夫に離婚されたわ」とどうやら姉妹か親しい友人について語っているらしき場面。
覚えている場面の限りでは、「色は黒いけれど、ヨーロッパっぽい人たちの話だな」という印象で記憶していた。
その後、この映画が「ガルシア・マルケス」といういかにもラテンというか、スペイン的な名前の作家の原作小説に基づいていること、この小説及び映画全体の筋書きが「田舎町を訪れた異邦人の男性が現地の娘を見初めて結婚を申し込むものの、結婚式当日にこの娘が処女でないと知り、離婚する。娘の兄弟たちはこの屈辱に怒り、処女を奪った相手と思われる青年を殺害する」といったものであることも知った。
本屋で見かけた新潮文庫による原作小説の本の表紙は、カーニバルの仮面の中に帽子を被ったラテン的な白人男性がこちらに顔を向けているものだった。
描かれた仮面の中には何となく南米の土着的な宗教を連想させるものもあったが、主人公である男性の風貌と小説の作者名から、「多分、作者がスペイン人だから、表紙にもスペインの名画か何かを使ったんだろうな」と併せて判断した。
当の小説を立ったままパラ読みして、「アンヘラ」「サンティアゴ」といった人名から、「スペインの田舎町の話だ」と信じて疑わなかった。
後日、映画関連の記事で、冒頭場面の美青年がフランスの美男俳優アラン・ドロンの息子アンソニーで、私の記憶にはないがイギリス人俳優のルパート・エヴェレットがこの作品に出演していたことも知った。
この時にはもう、「きっと、スペインの話だから、同じヨーロッパでラテン系のフランス人を現地人青年役に起用したんだろう」と、「作者はスペイン人で、舞台もスペイン」という認識を確固たる前提にしていた。
しかし、ウィキペディアの示すところでは、ガルシア・マルケスはコロンビア人であり、改めて検索し直したところ、小説も映画もコロンビアを舞台にしていたと判明した(ちなみに、新潮文庫の表紙絵は、オランダの画家アンソールの『仮面の中の自画像』で、強いて言えば、これだけがヨーロッパ製である)。
虚を突かれた気がした。
私が「スペイン」またはより広域な「ヨーロッパ」に属すと当然のように信じていたものが、実は「コロンビア」から生まれていた。
コロンビアという国が個性に乏しかったのではない。
異彩を放っても、自分が勝手にその光源を見誤って、結局は見過ごしていただけなのだ、と。
むろん、ガルシア・マルケスのようなノーベル文学賞受賞者であるばかりでなく、日本でもメジャーな出版社の文庫に入るレベルに認知度の高い作家について、そんな誤解をしていたのは単純に私の迂闊さから来る。
それでも、コロンビアという国が「サッカーとコーヒーとラテン的な陽気さを誇る南米大陸」を形成する一国家だという以上の個性を意識して日本のメディアで取り上げられる機会はあまりないように思う。
私がこうして見詰め直したのも正にサッカーがきっかけになっているわけだが、仮にも「ワールドカップ」こと「世界杯」と名が付いているのならば、対戦チームを構成する選手一人一人の強みを分析するように、対戦チームの背後にある国そのものの特性についても、もっと新たな切り口で見られて良いはずだ。