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ギリシャの輝き

今回のワールドカップで、日本の第二戦目の相手国はギリシャだったそうだ。


開催国のブラジルなら、世界に冠たる強豪国だとスポーツ音痴な私でも知っている。


しかし、ギリシャについては、日本の対戦国というシチュエーションでもなければ、メディアで話題にされるのをほとんど見たことがないから、個々の選手の資質はさておき、国としては恐らく強豪のカテゴリに入っていないのだろう(もっとも、世界の中の日本チームの位置付けにしてもそれは同じだろうが)。


というより、リアルタイムのギリシャが日本のマスコミに取り上げられたのは、数年前の経済危機以来ではなかろうか。


その時も「ギリシャに端を発した、ヨーロッパ全体に波及する経済危機」といった報道の仕方であって、肝心のギリシャについては当時の首相の「パパンドレウ」という日本人の耳にはいかにも奇異な響きを持つ名前くらいしか印象に残らない程度の触れ方であった(余談だが、フランスのサルコジ元大統領やイタリアのベルルスコーニ元首相のように、本人の人となりのイメージもあるが、まず名前の珍妙な響きによって日本人に強く記憶されるケースは少なくないと思われる)。


大方の日本人にとって、「ギリシャ」という名詞から連想されるのは、歴史の教科書の口絵に載ったパルテノン神殿の象牙色の柱、本来黒目があるべき箇所まで真っ白なのでどこか不気味な彫刻、観光案内的な記事によく載る藍色のエーゲ海、そして地名が関された神話や戯曲といったところだろうか。


いずれも、リアルタイムで機能している一国家としてではなく、「古代」に結び付いたイメージである。


もっと、突っ込んだ言い方をすれば、そのイメージ自体も「古代ギリシャ・ローマ文化」と両者を包括したものであり、双方の違いはあまり明確には意識されていない。


そういう私も、「古代ギリシャ人」または「古代ローマ人」と聞いても、正式名称は分からないが布をゆったりと体に巻きつけた服装の男女が漠然と浮かぶだけだ。


もしかすると、日本の着物と朝鮮半島のチマ・チョゴリくらい、分かる人には一見してそれと分かる違いがあるのかもしれないが、「これがギリシャ人の服装で、これローマ人の衣装だ」と見分けるべきポイントを私は知らない。


神話にしても「アフロディテがギリシャで、ヴィーナスがローマだったかな?」程度の認識であり、率直に言って、オリンポスの十二神を本来のギリシャ神話での名で正確に全員挙げられる日本人はそこまで多くないのではないかとも思う。


彫刻にしても神話中の神々や人物を題材にした石膏作りのものは、率直に言って、影響を受けた後代の作品も含めて、字義通りの「ギリシャ彫刻」と他の区別が今一つ分からない。


彫深く端正な顔立ちを指してしばしば「ギリシャ彫刻のような」と形容するが、実際の彫刻に関しても、ある程度時代を経たものであれば、真正のギリシャ彫刻であろうが、近隣の地域からの類似品であろうが、同じ「ギリシャ彫刻(的な作品)」の括りで大半の日本人は認識しているのではなかろうか。


ブルボンやハプスブルクといったヨーロッパの王朝の歴代継承者を描いた肖像画を目にしても、元の顔形も服飾も似通っていて、詳しくその歴史を学んだことのない後世の人間には「古い王様の絵みたいだな」と曖昧に察せられるだけで、正確な順番はもちろん、どれが開祖、創始者なのかすら、しばしば見分けられない現象に似ている。


むろん、これはよく指摘されるように、ギリシャ神話や美術がヨーロッパ文明の原型であり、ギリシャ彫刻が後代の芸術作品のいわば父祖である事実を裏書きしてもいる。


オリンピックは国際的なスポーツの祭典としてはワールドカップをむしろ凌駕する位置付けにあるが、これも古代ギリシャが発祥である。


「古代ギリシャ・ローマ」と並び称されてはいるものの、版図を変えつつ脈々と続いたローマ帝国の歴史、現在でも機能し続けるカトリックの総本山としての地位、そして国家としては近代に入って成立したイタリアの首都としての洗練された風貌等、「ローマ」には現代にも通用する華やかなイメージが付随している。


うら若い日のオードリー・ヘップバーンがティアラを着け、美女というより美少女と呼ぶに相応しいあどけなさで微笑む映画「ローマの休日」は、多くの日本人にとって、主演するオードリーの妖精的な魅力を伝えるばかりでなく、舞台となる現代都市ローマへの憧れを誘う効果も十分に果たしていると思う。


むろん、現代ギリシャを舞台にした映画でも、名優アンソニー・クィンが主演した「その男、ゾルバ」のように日本でも知名度の高い作品はある。


しかし、この作品は本来ギリシャの作家ニコン・カザンザキスの小説が原作であり、また、イギリス・ギリシャ・アメリカによる合作映画の原題も「Zorba the Greek」で直訳すれば「ギリシャ人ゾルバ」といったタイトルであるにも関わらず、邦題では「ギリシャ」という固有名詞は不自然に消失してしまっている。


架空の国の妖精のようなお姫様がお忍びで遊ぶ現代のおとぎ話の舞台に「ローマ」は似つかわしくても、土にまみれて力強く生きる炭鉱労働者のイメージと「ギリシャ」という地名は折り合わないと日本の配給者たちから判断されたのだろうか。


「ギリシャ」という地名は、日本人の中では古代文明の影に置き去りにされているように思える。


しかし、ギリシャと現代のメディアを揺るがしたアイコン的な美女が無縁なわけではない。


現代オペラの伝説的なプリマドンナとして今も名を残すマリア・カラスは、ウィキペディアによれば、正確にはギリシャ人ではなく、一九二三年ニューヨークに生まれたギリシャ系アメリカ人である。


だが、書類上の国籍はどうであれ、英語風に「メアリー」ではなく、ラテン語読みで「マリア」と名乗り、しかも、映画のような現代に入って成立したジャンルではなく、オペラというイタリア発祥の古典芸能に属すジャンルで活躍した彼女のイメージは、「カルメン」や「椿姫」など演じた役柄と相まって、ヨーロッパ的な情念の色彩に染め上げられている。


これもウィキペディアによれば、一九二九年にベルギーのブリュッセルに生まれ、国籍上はイギリス人だったオードリー・ヘップバーンが、パブリックイメージとしては「古き良き時代を象徴するハリウッドスター」の一人であるのと対照的である。


日本人の語感からすると、「カラス」という姓は黒い鳥の鴉も連想させるが、マリア・カラスの艶やかな黒い髪と吊り気味の黒い目は、エキゾチックでありながら、「鴉の濡れ羽色の髪」といった日本的な美の概念に馴染む要素も兼ね備えているように思う。


実際、古風で奥ゆかしい日本人女性であるが故に悲劇的な最期を迎える「蝶々夫人」は、彼女の当たり役の一つでもあった。


むろん、役を離れた彼女本人にゴシップがないわけではなく、これもギリシャ出身である富豪のオナシスと長らく愛人関係にあったのは有名な話である。


ただし、これも「オペラ座の怪人」などでもしばしば示唆されるような、プリマドンナと富裕なパトロン男性の関係を彷彿させるものだ。


オナシスが結果的に再婚相手として選んだのがこれもまた有名人であるケネディ大統領未亡人のジャクリーヌで、マリア・カラスは飽くまで愛人に留められた。


この顛末からしても、この二人の関係は、セレブスターの自由恋愛とか新しい男女の形というよりは、一夫一婦制が確立して建前では「不倫は好ましくない行為である」というモラルが確立する以前の古い男女関係を連想させる。


その意味で、これも当たり役だった「椿姫」のような、生きていくために身を売らざる得ない、哀しい境遇の美女のイメージを裏切らない人でもあった。


ギリシャ彫刻のような美人というより、むしろ彫刻の美女に艶やかな彩色を施して血肉を通わせ、歌を歌わせたような、ギリシャ神話のピグマリオン伝説を連想させるマリア・カラスだが、実際に、ギリシャ神話を演じた映像作品がある(余談だが、オードリー・ヘップバーンの代表作『マイ・フェア・レディ』は、バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』を原作にしているが、これは、コクニー丸出しの花売り娘を理想的なレディに仕立てるストーリーを神話の伝説になぞらえたタイトルである)。


一九六九年に制作された、イタリアの鬼才パゾリーニ監督による映画「王女メディア」だ。


出演当時、彼女は実質的にオペラ歌手を引退した状態であり、四十歳を越していた彼女の美貌にも疲れというか、陰りが見える。


ギリシャ悲劇には、愛憎に身を滅ぼしていく女性たちが数多く登場するが、メディアはその中でも苛烈さにおいて突出した存在だ。


コルキスの王女として育ちながら、恋した勇者イアソンのために実弟を手にかけ、共に出奔する。


二人の子を成すものの、やがてイアソンは彼女と子供たちを捨て、他国の王女と結婚して王位を得ようとする。


絶望したメディアは幼いわが子二人を刺し殺し、自らも居城に火を放って死ぬ。


不安に駆られて戻ってきたイアソンが目にしたのは、燃え盛る炎の中から憎悪を込めて自分を見詰めるメディアの姿であった。


粗筋だけを書くと、いかに猟奇的でエゴそのものの女性の自業自得、自滅の人生に思えるが、映画の中では、幼い子供たちの体を洗い清めた後、寝かしつけて、無邪気に眠っている息子二人を慈しむメディアの表情も丹念に映している。


そこから二人の子供の殺害と彼女自身の死の場面に転じるわけだが、慈母と鬼母は紙一重というか、鬼子母神を思わせる、愛と憎悪の混在が、マリアの演じるメディアの姿には漂っている。


彼女は、まるでギリシャ人としてのアイデンティティをフィルムに残すかのようにこの実写映画に出演し、歌うことなく演じることに徹した。


出演から八年後の一九七七年、マリア・カラスはパリで亡くなった。享年五十三。遺灰は生前の本人の希望によりギリシャ沖のエーゲ海に散骨されたという。


ギリシャにルーツを持ち、ギリシャ人としてのアイデンティティを強く持ちながら、ニューヨークに生まれ、パリで死ぬ。

世界を席巻した歌姫に相応しいとはいえ、皮肉な流転の生涯である。


同時に、アメリカが世界の政治経済を動かす一方で舞台芸術に代わる映画制作の中心となり、また、ヨーロッパで芸術の都といえばパリを指す時代に、ギリシャ人として生きる難しさも浮かび上がってくる。


最近、古代ローマの建築技師が現代日本にタイムスリップする漫画「テルマエ・ロマエ」がヒットし、映画も話題を読んだ。

風呂を愛する古代ローマ人の心性が日本人のそれと親和するのがこの作品が生まれ、また、広く支持された理由の一つでもあろう。


東京が二〇二〇年のオリンピック開催地に決定し準備を進めている今、ギリシャについても、リアルタイムの情勢を含めて日本でもっと見直されても良い輝きを秘めていると改めて思う。

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