短編集「指輪」を読んで――魅惑の森瑤子作品
久し振りに本を一冊完読した。森瑤子の短編集「指輪」(ハルキ文庫)である。
飽き性なので短編やエッセイの一部を中心に読んだ程度だが、私は小学校高学年くらいで親が買ってうちの書棚にあったショートショート集を読んで以来、この人の作品が好きだ。
都会的な洗練と虚無感、そしてペーソスを描くのが巧い。
特に学生時代に中古で買って読んだ「淺水湾の月」は一九八〇年代前半の香港を舞台に中国人と白人とのダブルの美女――イギリス領だった香港という都市そのものの象徴である――をヒロインにした傑作で何度も繰り返し読んだ。
一九九三年、五十三歳で亡くなったこの人は一般には「バブル期の人気作家」といった扱いだろうし(実際、バブル崩壊して間もなく本人も亡くなった)、文学的に画期的な表現をした評価ではないだろう。
「風と共に去りぬ」など欧米の小説や映画の模倣といった批判はあるだろうとファンの私ですら感じる。
篠田節子の「第4の神話」(一九九九年初版発行)のように後進の女性作家からは「死後数年で忘れ去られる、空虚な作品を粗製乱造した流行作家」という冷笑的な描かれ方もされている。
付記すると、私は篠田節子も好きで「第4の神話」も確か学生時代(少なくとも二十代の頃)に読んだ記憶があるが、劇中の女性作家「夏木柚香」はエッセイの文体からしても明らかに森瑤子を意識していると感じた。
ただ、個人的には売れっ子作家として持て囃されていたはずの夏木柚香がホーダー的に高価な口紅を買い込んで無造作に棚に仕舞い込んでいるといった、生前の根深い虚無感を浮かび上がらせる描写が印象に残った。
また、夏木柚香がバブル期に異業種の人たちとコラボレーションをしたものの不協和音に終わった舞台のエピソードもあの時代の仇花めいた文化の空気をよく伝えている。
更に言えば、本来のヒロインである無名の女性ライターがこの夏木柚香の足取りを追う内に中期の佳作を新たに見出す展開からは、篠田節子本人が森瑤子の作家性というか同性の先達を否定し切れていない印象を受けた。
ちなみに森瑤子は一九四〇年生まれ、一九七八年に三十八歳の時に「情事」で作家デビュー、先述したようにバブル期に人気作家として活躍し、一九九三年に五十三歳で死去した*1
一方、篠田節子は一九五五年生まれで森瑤子の一回り以上も下であり、バブル絶頂期の一九九〇年に三十五歳の時に「絹の変容」で作家デビューした*2
ただし、代表作の一つでドラマ化もされた「女たちのジハード」が直木賞を受賞したのは一九九七年であり、作家としてはバブル崩壊後の平成不況に入ってから注目され活躍した人と言える。
それぞれの作家になるまでの経歴に着目すると、森瑤子は戦前の中国・張家口に生まれ、敗戦直前に帰国した後も実家は率先して留学生の受け入れ先となるなど幼少期からグローバルな環境で育った。
また、子供の頃からヴァイオリンを習って東京藝術大学に進むアーティスティックな家庭でもあった。
演奏家の道には進まなかったが、代わりに広告代理店に就職し、コピーライターとして活躍した。
私生活ではイギリス人の夫と結婚し、三人のダブルの娘を儲けた。
作家になる以前でも一見して華やかな経歴である。
「淺水湾の月」のような傑作を産み出したのも幼少期を中国で過ごし、また、グローバルな環境で育った賜物だろう。
一方、篠田節子は高度成長期が始まった時期の八王子の商業地区に生まれ、東京学芸大学の教育学部を出た後は市役所に勤務した。
この時に福祉に携わった経験がケースワーカーたちを主人公にした連作集「死神」(一九九六年)などの作品にも反映されているようだ。
私生活では同じ公務員の夫と結婚し、妊娠したものの流産し、子供はいないとのことだ(率直に言って筆者としてもこうしたプライバシーを書くのは抵抗を覚えなくはないが、Wikipediaにも参照URL*3付きで明記されている)。
こちらも確かに立派な経歴だが、いかにも華やかな富裕層的な森瑤子と比べると良く言えば地道で堅実、悪く言えば地味な印象を受ける。
同時に森瑤子が持て囃されたバブル期には篠田節子夫妻のような公務員は不人気な職業だったことも想起される。
「第4の神話」は篠田節子の中では森瑤子というバブルに花開いた先達の女性作家への反発はもちろんバブルという時代そのものへの批判を込めての作品なのだろうか。
さて、冒頭に挙げた短編集「指輪」について述べると、良かったのは「ケアレス・ウィークエンド」。小道具の黄色い薔薇の花束の使い方が上手い。家で待つ身重の妻と行きずりの中年女性が表裏一体の存在だと分かる描き方も良い。
表題作の「指輪」は女性側から仮初めの婚約を打ち切らせる展開が良い。
「一等待合室」は登場人物たちも外国人で明らかに洋画を意識した雰囲気である。
だが、男女の洒落た恋愛の駆け引きのようでいて、実際にはそれぞれが夫婦、家庭生活に疲弊し虚無感を抱えている心境が浮き彫りになる。
ヒロインは結局、彼女の言葉通りならば家庭に戻っていくが、飽くまで相手の男性の目を通してその後ろ姿を描く結末に彼にとっては窺い知れない異国に彼女が旅立つイメージが重なる演出も上手い。
個人的にダメだったのは「蒸発」。
癌になった妻を残し仕事も辞めて失踪する男性では擁護も肯定もできない。
実際、妻が癌になった時に離婚する夫の割合は逆の六倍だそうだが*4、重病のパートナーを捨てるという仕打ちは人としてまず許されるものではない。
それを「男だから」同情すべき弱さのように描くのは忌むべき男尊女卑である。
「女たち」は結婚してまだ小学生の息子のいるヒロインが気の置けない女友達との飲み会でどうやら独身子無しの親友が自分の夫と不倫しているらしいと分かる話である。
そもそものテーマに「女の敵は女」というミソジニーが感じられる上に尺の割に登場人物が多過ぎて関係が把握しづらかった。
まだ小学生(中学受験を控えていると説明されている)の息子を夜、家に一人で置いて飲み会に出かけるというヒロインの行動にも同年輩の子供を持つ母親として疑問を覚えた。
独身子無しの親友が自分の夫と不倫した上に妊娠・中絶までしていたと察したヒロインが彼女の家を後にする場面で話は終わっているが、この後を想像すると、もう夫を受け入れられないだろうとも思う。
不倫というか恋愛は当事者双方の責任としても、妊娠・中絶に関しては女性側に現実として傷が残ってしまう。
不倫して妻を裏切った上に愛人の女性にも傷を残す仕打ちをした男性は両方の女性を踏み躙ったのであり、少なくとも私が妻の立場ならばそんな夫には絶望する。
また、私が仮に親友の夫と不倫して妊娠・中絶するような辛い恋愛をする立場だったら、表面を取り繕って何も知らない彼女と定期的に飲み会など出来ないだろうとも思う。
少なくとも、彼女への友情や敬意が一片でも残っていれば出来ない。敵意を燃やしていて陥れたい相手にする行動だろう。
この独身子無しの親友は元からヒロイン(『素材からして美しい』と評されていることからして女友達の中でも容姿に恵まれている)に同性として劣等感や嫉妬心を抱いていた、いわば「フレネミー」の印象があるが、それにしても学生の恋愛ならまだしももう中年にさしかかった女性たちの物語としてはやり過ぎの感がある。
「不倫の理由」は今度は小学生の子供二人のいる既婚のヒロインが恋愛というより刺激を求める気持ちから昔の同僚男性と関係を持つ話だ。
劇中の女友達の語る「幸せで満たされているからこそ不倫する」という遊戯的な情事だ。
だが、「女友達もやってるから私もやりたい」という幼稚な虚栄心をどうしても感じる上に「妻も妾もいてこそ一人前の男」といった、むしろ封建時代の男性の幼稚な模倣に思えた。
むろん、作者の方にもそうした自覚はあったのか、ヒロインは夫とのそれと大差ない同僚男性の性行為に失望と虚しさを覚える。
「夫もまんざら捨てたものではないのだわ」という独白と共に帰りのタクシーの席で目を閉じる幕切れだが、もし夫が他の女性と不倫していたらヒロインは平静でいられるだろうか。
境遇の似通った「女たち」のヒロインが夫の不倫の気配を感じ取って密かに苦しむ展開であったことに鑑みても、「不倫の理由」のヒロインは軽薄過ぎる。
「別れた妻」はタイトルの通り、離婚した前妻との関りを男性側の目線で描いたものだ。
物語は実質はこの元夫婦の互いへの憎しみを潜めた会話で構成されている。
劇中には直接姿を現さないが、二人の間にはまだ小学生の息子がおり、離婚と同時に前妻に引き取られたこの子は彼女が語る所では「登校拒否」(今では『不登校』だが昭和から平成初期にかけてはこちらの表現が一般的だった)のようだ。
二人のやり取りから男主人公が婚姻中に不倫に走り元妻とは三年にもわたるセックスレスの末に離婚して愛人と再婚していること、だが、元妻の方でも実は離婚前から妻子持ちの男性と関係を持っており、こちらの男性は本来の妻とは離婚できずにいる現状が読者にも明らかにされる。
元妻が自分との婚姻中から別の男性と関係を持っていたことを今さらながらに知った男主人公は衆人環視のレストランの席で彼女を続けざまに殴打する。
その行動から彼の嫉妬を読み取った元妻は
「ずっとあなたに母子して見捨てられたような気持で暮らしていたのよ。でも、あなたに打たれて救われたような気がしたわ」
と涙ながらに告げる。
「あなたは紛れもなく息子の父親だから」と語る元妻からこれからも頻繁に連絡が来るであろうことを予想しつつ再婚した妻の待つ家に帰っていく男主人公の姿を描く幕切れだ。
率直に言って、思春期の息子が情緒不安定で不登校になったのは実の両親がそれぞれ配偶者を軽んじて情事に勤しみ、父親に至っては家庭を捨てて愛人を取る身勝手な行動を取ったことに傷付いたからではないかと感じた。
劇中の元夫婦のどちらも自分の不倫や配偶者への背信行為に対してひたすら開き直るだけで、肝心の我が子からはどのように見られているかという自省が全く感じられない点に一番絶望を覚えた。
「イヤリング」は夫の知人と不倫関係にある既婚女性がヒロインの話だ。妻と知人の不倫を知っていて泳がせている夫の底知れなさの描写は巧いが、さすがに自分もいるホームパーティ中に自宅内で不貞行為されたら普通はもう生理的に無理だろうとは女性の私でも感じる。
ただし、女性の性欲についてミソジニックではなく率直に描いている点はこの世代(先述したように一九四〇年、戦前生まれ)の作家としては新しいと思う。
だが、短編集を通して最も心が痛んだのは夫が妻を虐待・抑圧する旧弊な夫婦の形であった。
短編集「指輪」に収録されている作品の中では
「掃除やパンの焼き方まで粗探しして妻を侮辱する夫」
「クリーニングから戻ってきたシャツのボタンが取れかかっていると妻の顔に叩きつける」
等々、夫から妻への虐待の描写が繰り返し出てくる。
妻の顔に物を叩きつける行為に至ってはモラハラを通り越して明らかなDV、暴行である。
「別れた妻」の男主人公に至っては離婚して既に他人になった元妻をレストランの衆人環視の下で殴打するが、こちらも本来ならばれっきとした暴行であり、店側から警察を呼ばれて逮捕されてもおかしくない犯罪のはずだ。
むろん、作中の描写が全て作者の実体験とは限らないが(そもそも作中ヒロインたちと森瑤子本人は必ずしも重ならない)、芸大を出て広告代理店に勤めてコピーライターになり、イギリス人男性と国際結婚をした、いわば時代の最先端を生きた女性であったはずの森瑤子にとってもそうした男性優位の夫婦というか男女のあり方が身近だった現れだろう。
これは死後に明らかになったことだが、森瑤子は夫からのモラハラ被害者であった。
イギリス人夫はむしろ彼女が作家になってからは経済的に依存する側だったので離婚も現実的な選択としては可能だったはずだが、娘三人がいてその父親を切り捨てることに躊躇いがあったのだろうか。
また、離婚することで自分の結婚が失敗だったと公にも認めることが耐え難かったのだろうか。
出先で会った男性に少なからず惹かれつつ自分を苦しめる夫の待つ家に帰っていく女性も、離婚してもう他人になった元夫の前に繰り返し現れてまだ妻であるかのように振る舞う女性*5も、短編集に登場する女性たちは皆、本当には自由に生き切れなかった作者の痛みを投影された分身であるように私には思える。
*1 Wikipedia「森瑤子」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%91%A4%E5%AD%90、(参照2025−5−24)
*2 Wikipedia「篠田節子」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E7%94%B0%E7%AF%80%E5%AD%90、(参照2025−5−28)
*3 Web版日本経済新聞「弁当は愛情か? 作家 篠田節子」(2020年3月3日 14:00 [会員限定記事])
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56309290T00C20A3SHF000/、(参照2025−6−19)
*4 「女性がん患者の離婚率は男性の6倍。勝俣範之先生に聞く、乳がん治療を続ける心得と患者の家族ができること」(2021年10月25日)
https://cancerwith.com/blog/entry/interview-prof-katsumata-talk-about-breast-cancer-survivors、(参照2025−6−20)
*5 「別れた妻」に登場する男主人公の元妻「加奈子」はヴィヴィアン・リーのファンで「風と共に去りぬ」での片眉を吊り上げる仕草を良く真似るが、八の字眉なので似合わないと風貌の描写がされている。これは明らかに森瑤子本人を思わせる。
【参考文献】
森瑤子「指輪」、ハルキ文庫、電子書籍版、二〇二四年