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夜に停電が起きて

 少し疲れて寝室のベッドに横たわってスマートフォンを観ていたところで部屋の電灯がプツリと消えて真っ暗になった。

 停電だ。直感で分かった。もしかして家族の誰かがいつもより電気を使う何かのスイッチを入れてブレーカーが落ちたのだろうか。

 そう思ってスマートフォンの画面の光をライト代わりにしながら部屋を出ると、既に夫が玄関のブレーカーを確かめるところだった。

「いや、ブレーカーは落ちてない」

 子供たちの様子を見にリビングに行くと、キッチンの窓からは向かいのアパートの部屋の灯りが点いているのがはっきり分かった。

 どうやら区域全体の停電ではないようだ。

 そうなると、このマンションだけの停電だろうか。

 玄関のドアを開けると、共用の廊下の電灯は点いている。

 そう思う内に、お向かいの主人やお隣の奥さんもドアを開けて出てきた。

「停電ですか?」

「うちもです」

 どうやら同じフロアのマンションの個室は揃って停電のようだ。

 恐らくはマンションの共用スペースと個室で配電の系統が異なるために共用スペースの電灯は健在なのだろう。

 エレベーター付近の窓から見える他の階の共用廊下も揃って灯りが点いており、また、隣近所の別のマンションやアパートの個室も灯りが点いている。

 今年に入って隣に越してきた奥さんからは

「こういうことはよくあるんですか?」

と聞かれた。

「いや、初めてです」

と十年以上住んでいるこちらは答える。

 取り敢えず停電のままの自宅に戻った。

 台所や洗面所の水道の蛇口は押せば当たり前に水が出て来るのでそちらは問題ないようだ。

 それはそれとして、スマートフォンの画面の灯りでは心もとない。

 懐中電灯の機能があったことを思い出したが、その起動の仕方を忘れてしまったのでネット検索して改めて懐中電灯の機能を作動させる。

 普段は使わなくてもこうした緊急時にはありがたい機能だ。

 だが、バッテリーは四十三パーセントと半分未満になっている。

 これでは明日の朝まで持つか心もとない。

 そこで今度は起ち上げた懐中電灯の灯りを頼りに旅行用のリュックサックから携帯式の充電器を取り出す。

 ところが今度は充電器とスマートフォンを接続するケーブルが見当たらない。

 私が普段使う充電器のケーブルはUSBCtoCタイプだが、この携帯式充電器に必要なのはUSBAtoCタイプである。

 そこで、長女のスマートフォンの充電器のケーブルがAtoCタイプだったことを思い出して、子供たちの寝室に入って調達する。

 そこでやっと接続出来たわけだが、今度は電池の残量が足りないのか、はたまた接触が悪いのか充電が始まったかと思うとすぐに切れるのを繰り返す。

 しばらくこの充電器を使っていないので電池が切れている可能性が高いのでまた懐中電灯機能を頼りに棚から単三電池六本分を取り出して取り替える。

 今度は何とか数秒は充電できるが、使用四十四か月目を迎えたスマートフォンは普段は使わないケーブルとの接触がやはり悪いのか繋いでいてもいつの間にか充電していない状態になる。

「取り敢えず、今日はもう寝よう」

 真っ暗な家の中でそれぞれ懐中電灯やその代わりを手にした家族で話し合う。

 停電ではテレビも観られず風呂にも入れない(浴槽に湯は張っておりシャワーの水は出ることは確認できたが、肝心の浴室の電灯も点かず給湯器も使えない状態では入浴は躊躇われた)のでとにかく寝ることにする。

「トイレが流れない」

 長女から告げられる。

 水道全般は使えるが、トイレの壁面ボタンは電動式で停電になると流す機能が作動しないようだ。

 これも普段は意識しないので全くの落とし穴であった。

 仕方ないのでトイレは流さずに使うことにする。

 真っ暗な部屋で横になってようやく継続的に充電は出来るようになり「充電中」とは表示されているもののバッテリーの数字は一向に上がらないスマートフォンの画面を眺めていると、こちらも真っ暗な洗面所からブンブンと電動髭剃りの音が聞こえてきた。

 夫が髭を剃っているらしい。

「今じゃなくてもいいんじゃないの。もう今日は外にも出ないし、人にも会わないし、明日明るくなってから剃った方が良くない?」

と声を掛けると、

「明日は朝から会社に出るし、明日も停電だったら困るだろ」

とのこと。

 同じように電池式(追記:朝になって確認したら電池式ではなく充電式でした。恐らくは停電前に充電が済んでいたものを夫は使用したと思われます)の電動髭剃りを使うのならばこの夜の暗い中に懐中電灯に頼りながらではなく朝の明るい中ではっきり鏡を見ながらやった方がやりやすいのではないかと思うが、彼の中では今やらなければ安心できないのだろう。

 この停電は恐らく長引きはしないだろうが、明日の朝には解決しているだろうか。せめてトイレだけは流せるようになって欲しい。

 明日は子供たちの小学校の尿検査のため採尿しなければならないことも思い出して憂鬱になる。

 同時に、たかが停電一つで私たち家族はこんなにも右往左往するのだと自分の親としての不甲斐なさが情けなくなる。

 とにかく今日はもう寝よう。

 食器洗いもパソコンのExcelファイルでの家計簿入力も停電の今夜はやらなくて良いのだ。

 そこに一抹の安心も覚える。

 今は五月で寝る際にも冷房も暖房も特に要らない季節なのでそこにも若干の救いを感じた。

 真っ暗な中、スマートフォンの灯りだけを傍らに横たわっていると、昔読んだジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」を思い出す。

 これは子供を死産で亡くしたばかりの若い夫婦の物語だ。停電の夜に互いの秘密を打ち明け合う彼ら。

 最後に妻は夫に離婚の意思を告げ、夫は妻に死産で亡くした子を葬る前に最後に抱いた事実を打ち明ける。

 そして、相手が抱えていた秘密を知った二人はそれぞれ涙を流す。

 これが物語のラストシーンである。

 読んだ当時はまだ学生で結婚どころか付き合った経験すらなかったのでひたすらやり切れなかった。

 だが、今は作中の夫婦はそれまで互いを思いやって共同生活してきたからこそ、というより別れを選択した結末でもなお相手の気持ちを尊重しているからこその涙だと良く分かる。

 プツリと部屋の灯りが点いた。

「正常です」

 インターホンのモニターから電子的な女声が告げる声が響く。

 始まった時と同じように唐突に停電は終わった。

 また停電がくるかもしれないという懸念と共に、スマートフォンをいつもの壁コンセントの充電器に挿し直す。

 今度は「急速充電」の表示になったことに改めて安心する。

 次にトイレに行って溜まっていた排泄物を流し、簡単にだが掃除する。

 そして、テーブルの上に残っていた夕飯の皿を片付ける。

 いつもは「90℃」で保温されているキッチンの給湯ポットの表示が「85℃」に下がっていることに気付く。

 どうやら停電の間にポットの中のお湯が若干醒めて沸かし直しをしているようだ。

 時間にすれば一時間もないくらいの間だっただろうか。だからこそポットのお湯もわずか五度の下げ幅で済んだのだろう。

 食器を洗うべく給湯器のスイッチを入れようとすると、モニターに「停電しました。時刻合わせをしてください」という趣旨が表示されていた。

 腕に着けているスマートウォッチの時刻を観ながら時刻を新たに設定するが、これはここに引っ越して以来初めての経験である。

 停電は人ばかりでなく機械にもそんなバグを残すのだ。

 一時間足らずの停電は自分の生活に無意識のレベルで根付いていた「普通」「当たり前」を小さくだが確実に揺るがして終わった。

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