馬《ウマ》、驢馬《ロバ》、騾馬《ラバ》、駃騠《ケッテイ》――種の系譜
(一)献詩ならぬ献掌編
蝶蛾
「こっちに来たら、『ドイツ人とのハーフだね』とよく言われるけど、」
耀は苦笑いする。
「カルフにいた頃は、『日本人』て呼ばれてた。」
彫り深い眼窩の奥で漆黒の大きな目が瞬いた。青や緑の目の中に混ざったら、確かにこの目は東洋人そのものかもしれない。
「ひどい奴だと、『黄色いラバ』とかさ。」
「ラバ?」
口に出してから、馬とロバの間に生まれた動物だと葉子は思い当たる。
「雄のロバと雌の馬のアイノコさ。」
アイノコ、とぎこちなく発音すると、耀は唇の片端だけで笑った。
「要は馬でもロバでもないんだ。」
この人のお父さんが日本人で、お母さんがドイツ人。
葉子は頭の中で復唱する。
日本人がロバで、ドイツ人が馬。
「でも、馬とロバってそもそもどう違うの?」
葉子は暗がりを手探る様に言葉を継ぐ。
「私は見ても区別がつかないわ。」
耀の黒い目が瞬きを止める。
「馬とロバとラバが三頭ここにいても、大抵の日本人はどれがどれやらさっぱり分からないと思う。」
「ケッテイを入れて四頭いたら、ますます分からないだろうね。」
耀は笑った。
「ケッテイって?」
笑い声の明るさに乗じて葉子は問い返す。
「ラバの逆。雄の馬と雌のロバから生まれるんだ。」
耀は葉子の額の辺りで撫でる様に手を揺らした。
「ラバを一回り小さくしたみたいな動物だよ。」
「初めて知ったわ。」
葉子は笑った。自分がケッテイになった気がした。
「馬とロバとラバとケッテイから見たって、ドイツ人や日本人の区別なんか付かないでしょうね。」
まして混血か純血かなど、と葉子は心の中で続ける。
「みんな一緒くたに『ヒト』だろうな。」
蝶と蛾を交配させたらどう分類されるのだろう?
耀の笑顔を見詰めながら、葉子はふと考える。
雄の蝶と雌の蛾から生まれた生き物。
雌の蝶と雄の蛾から生まれた生き物。
「ところで、ラバとケッテイで子供が生まれたら、それはどう呼ばれるのかな?」
「それはありえないよ。」
耀は笑うのを止めて答えた。
「ラバやケッテイの雄には、生殖能力がないんだ。」
ここまでが学生時代に書きかけた小説の断片だ(ヒロインの口調が少しわざとらしい女言葉だったり鍵カッコ内の句点や疑問符の全角など横書きの表記として不正確な箇所が多かったり『ハーフ』『アイノコ』等の差別的な表現もあったりと今見直すと問題は多い。だが、敢えて当時の表記そのままで載せた)。
(二)想い出の中のラバ
これは前稿でも書いたが、小学校低学年の頃(一九九〇年前後)、家族旅行で仙台の八木山動物公園に行った。
そこで「ウマとロバの間に生まれたラバです」という趣旨が紹介文に書かれた、黒い毛並みの、一見すると馬にしか見えない動物を観た。
当時の私にはそもそもウマとロバの区別もよくつかなかったが(率直に言って今も曖昧である)、「ウマ」「ロバ」に加えて「ラバ」という第三の種があることを初めて知ったのである。
他の動物のような檻の中ではなく木の柵で観覧者から仕切られたいわゆる「ミニ牧場」的なスペースを大人しく行ったり来たりしていた記憶がある。
そんなところもウマやロバと変わらなく見えた。
ちなみに公式サイトを見る限り、今の八木山動物公園にはロバはいるが、ラバはいない*1
恐らく昭和の後期から平成初頭は動物園でも異なる種を交配させて新たな種を生み出して展示するのが流行りだったのだろう。
私は観たことがないが、阪神パークの「レオポン(leopon)」は有名である*2
ちなみにこちらは雄のヒョウ(leopard)と雌のライオン(lion)を交配させた種である。
こうした雑種は前半を父親側の種名にして後半に母親側の種名を付け足す命名になるのが通例のようだ。
(三)コンテンツに観る「雑種」「混血児」のイメージ
私が八木山動物公園に行ったのとほぼ同時期に「獣神ライガー」というアニメが放映された*3
「ライガー(liger)」とは雄のライオン(lion)と雌のトラ(tiger)を交配させた種の名である*4
ちなみに逆は「タイゴン(tigon)」または「ティグロン(tiglon)」というそうだ*5
「タイゴン」「ティグロン」では怪獣の名前じみた響きになるし、恐らくは「百獣の王ライオンの父と猛虎の母の間に生まれた最強の戦士」という命名で「ライガー」になったのだろう。
話はズレるが、「獣神ライガー」はジャンルとしては少年向けの格闘物に当たるアニメだった。
しかし、主人公の少年と親しくしていたいじめられっ子の少年が怪物に姿を変えられ最終的には主人公に倒されて死ぬといった救いのないエピソードや陰惨な描写が多く、当時は小学校高学年だった兄も
「やたらと残酷な場面ばかりで好きじゃない」
と嫌厭してうちでは見なくなった。
少し後の「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズのように陰惨さがある種の売りというか持ち味になる作品もあるが、「獣神ライガー」に関しては成功したとは言い難かったようだ。
この作品自体もそうだが、「ライガー」がライオンとトラの間に生まれた雑種の名であることも一般にはあまり知られていないように思う。
話をラバに戻すと、小学校高学年になってから「風と共に去りぬ」を読んだ。
そこでスカーレットが乳母のマミーから
「あなたさまは騾馬ですだ」
「立派な飾りを着けて気取りかえろうと所詮は騾馬ですだ」
と母親のエレンと比べて高潔でない、はっきり言えば卑しい人格を表現するのに「(純血の馬に対する交配した雑種の)騾馬」が引き合いに出されているくだりを目にした。
ここでラバそのものの歴史に目を向けると、レオポンのようないわゆる観賞用ではなく、古くから「ウマよりも育てやすく粗食でよく働く」実用的な家畜としてウマとロバを交配させて生産してきた種である*6
前出のレオポンに関してはそもそもヒョウとライオンを交尾させる段階でも難しく、また生まれたレオポンも体力の面で親の種より格段に弱いため阪神パークでレオポンの交雑(私もこの稿を書く段で初めて知りましたが、人工的に異種を交配させて雑種を作ることをそういうそうです)・飼育が行われた一九六〇年前後〜八〇年代でも倫理的な批判はあったようだ*7
実際に写真に残るレオポンの姿を見ると、赤ちゃんの頃は愛らしいが、成獣になると雄のレオポンは貧弱な鬣しかなく雌のレオポンも「でっぷり太った顔デカのヒョウ」または「体に豹紋のある雌ライオン」という感じで、いずれも一見して不自然な風貌である。
死後も剥製として展示され続ける顛末を含めて「見世物のために人工的に作り出された命」というグロテスクさを覚えずにはいられない(むろん、動物園自体が本来は野生の動物を見世物にしている施設であるし、自分も客としてそこを幾度となく訪れているわけだが)。
ラバに関しては元から畜産の世界で当たり前に交雑されてきた種だったので私が訪れた一九九〇年前後の八木山動物公園にも居たのだろう。
なお、英語ではウマの“horse”、ロバの“donkey”に対してラバは“mule”といい、レオポンのような親の種の合成ではなく明らかに独立した種として扱われている観がある。
スカーレットを「騾馬」と非難するマミーの中には「労役用の雑種家畜である騾馬は純血の馬より下等で卑しい」という感覚が根付いていたのであろう。
ちなみに「風と共に去りぬ」にはマミーが当時の社会では同じ黒人奴隷であるはずのディルシーに対して
「この黒人とインディアンの混血児め」
と罵倒する場面もある。
これも「純粋な黒人である自分よりも先住民の血の入った人間は下等である」という意識の現れであろう。
実際、同じ奴隷制時代の南部が舞台の「トム・ソーヤーの冒険」では浮浪者のインディアン・ジョーは純粋な先住民ではなく「先住民の血が半分入った」、省略されているが恐らくは半分は白人のダブルであると説明されている。
彼が白人のコミュニティで排斥され続けるのはもちろん先住民の集落で暮らすこともなく単独の浮浪者として生活しているのも、ダブルの出自が後者のコミュニティでも受け入れられなかった結果と考えられる。
優秀な家内奴隷として白人所有者からは重用されているディルシーと無法の果てに惨死するインディアン・ジョーとは一見すると対照的である。
だが、二者がいずれも富裕な白人作家によって創造されたキャラクターであることを考えると、
「賤しい血の混ざった者は高貴な自分たちの忠実な僕である限りは生存を許すが、盾突く者に生きる場所はない」
というダブルというマイノリティに対するマジョリティの驕りがどうしても浮かび上がるのだ。
(三)第四の種、「駃騠」
私は長らく「ウマとロバを交配させて生まれるのがラバ」と認識していた。
だが、ある時、偶然、ラバは雄のロバと雌のウマとの間に生まれた種であり、逆に雌のロバと雄のウマとの間に生まれた種は「ケッテイ」と呼ぶことを知った。
このケッテイは同じ雑種であるラバと姿は良く似ているものの体長は平均してラバより小さく、また、ラバと異なり労役には適さないため愛玩用にしか生産されないという記事も複数読んだ。
同じ親から生まれる雑種でも雌雄の組み合わせが異なればそんな違いが生じるのだ。
ちなみに漢字にすれば「駃騠」であり、英語では“hinny”となる*8
英語だとラバの“mule”よりウマの“horse”とロバの“donkey”を合成した感触が強い。
一方、漢字にすると「馬」「驢馬」「騾馬」「駃騠」で字面としては純粋な「馬」の字が付かないため「馬の亜種の中の更に亜種」という印象になる(パソコンで打っていても前三つは変換の候補に当たり前に出て来るが、『駃騠』は出て来ないのでひたすらWikipediaからコピー&ペーストするしかない)。
日本語では「ウマ/馬」が同属の基本形で「ロバ/驢馬」もその亜種の扱いである。
雑種でも労役に適して数多く生産されるであろう「ラバ/騾馬」は同属の純粋さを色濃く残す存在として名前に「馬」の字を与えられる。
だが、愛玩用としてごく少数しか生産されない「ケッテイ/駃騠」となると、同じ雑種の「ラバ/騾馬」と比べても「馬としての純度が低い種」として名前の二字とも馬偏ではあっても「馬」そのものではない字面になる。
「こいつは馬の中でも味噌っ滓だ」
という家畜を使う人間にとっての利便性から他の三種より格下に位置付けられている印象を受ける。
ちなみに中国語だとロバは「驢」と一文字だけで基本形となる「ウマ/馬」とは峻別されている。
これがラバになると「騾子」「驢騾」「馬騾」と表記自体が複数に分かれる上に「ロバの子」「ウマの子」と「親である種の子」という命名になる。
これは労役用の雑種家畜として時にはロバの代わり、またある時はウマの代わりに使われるという現実の反映でもあろう。
そして、ケッテイは中国語でも全く同じ「駃騠」になる。というより、中国語が先で日本にも伝播・定着したのだろう。
ここでも、やはり親である「馬」「驢」とは切り離して完全に別の字を当てた命名である。
ちなみに「駃騠」とは中国では元は古語の「駿馬」を意味する言葉だったようだ。
それが何故雑種の、しかも同じ雑種のラバと比べても体格、体力の面で劣る種の名前に転用されたのかは不明だ。
だが、「駿馬」にせよ「労役に向かない愛玩用の雑種」にせよ現実に存在する個体として希少な点では一緒である。
「駿馬」と言えば競馬が連想されるが、こちらも駿馬同士を交配させてより優秀な駿馬を生み出すことで成立する娯楽である。
(四)メディアを彩る「ハーフ」「ダブル」著名人たち
昔(というほど四十三歳の私にとって遠い過去には感じないけれど)、岡田眞澄という俳優さんがいた。
一九三五年生まれ、母親はデンマーク人のダブル*9で石原裕次郎(こちらは私が五歳の時に亡くなっておりリアルタイムで観た記憶は無い)と同世代で同じ昭和の日活の人気俳優の一人だった。
この人は私が子供の頃にはもう「おじいさんに近いおじさん」(『おじいさん』と言い切るには萎び切っていない艶めいた雰囲気が残っていた)という感じで恰幅の良い容姿から「スターリン」と揶揄されていた。
子供の私の目にも目の大きい彫り深い顔立ちやクリーム色のスーツを着こなす長身の体型に日本人離れしたものが感じられたが(そもそも『スターリン』という揶揄も彼の風貌が白人的であるからに他ならない)、TVを観ていて父が
「この人はハーフなんだよ」
と言ったのを覚えている。
彼の若い頃の映像を見て、目も覚めるような美男子で驚いた。
ちなみに岡田氏のニックネームである「ファンファン」とは若い頃にフランス俳優のジェラール・フィリップに似ていたことから彼の愛称(正確には代表作『花咲ける騎士道』での役名)をそのまま転用したものである。
何となく「駃騠」の語義の変遷を思わせる話だ。
当時の日活ではニックネームばかりでなくイメージとしても「和製ジェラール・フィリップ」として売り出す方向だったのか、青年期はオールバックのヘアスタイルや煙草を手にしたアンニュイな表情などジェラール・フィリップに明らかに似せた写真が多い。
ただ、三十六歳で夭折したジェラール・フィリップが「肉体の悪魔」や「赤と黒」、「危険な関係」などいわゆる文芸映画の主人公が多く繊細で品の良いイメージだが、青年期の岡田眞澄は不良青年やアウトローなど社会的な不遇の見える役柄が多かったように思う。
それはそれとして、青年期の裕次郎主演の日活映画を観ると、脇で岡田眞澄が出て来た瞬間、
「いや、こっちの方がどう見ても美男子だろ」
と思ってしまう。
そもそも並ぶと「身長一八二センチ、股下九〇センチ」のスタイルの良さが売りの裕次郎より岡田眞澄の方が更に長身・脚長に加えて小顔である。
美少年で持て囃された頃の津川雅彦と並んでも
「岡田眞澄の方が端正だろ」
と感じる。
決して見かけ倒しの大根ではなく演技的にも裕次郎や津川雅彦より上に思えるのだ。
にも関わらず、日活というか昭和を代表するスターとなったのは「ファンファン」岡田眞澄ではなく「タフ・ガイ」石原裕次郎や「(ダイナ)マイト・ガイ」小林旭(この人は今も存命だが、私が子供の頃には既に『ガラガラ声で喋る肥ったおじさん』という感じで若い頃の写真を見ても全く平凡な容姿にしか思えない。周潤發が『香港の小林旭』と呼ばれている記事を観た時に『ユンファの方が美男子だし良い俳優だろ』と反発すら覚えた記憶がある)であった。
日活時代の岡田眞澄にも一応主演の作品はある。
だが、「狂った果実」や「嵐を呼ぶ男」等の石原裕次郎主演、あるいは「完全な遊戯」や「波止場の無法者」といった小林旭主演で彼が助演で出た作品より一般には知名度も低く、また高く評価されているとも言えないだろう。
俳優としては「助演で息長く活躍した人」ではあるが、裏を返せば「主役にはなり切れなかった人」と言える。
むろん、今の芸能人でも美形だったり演技が巧かったりすれば必ず人気が出て主役になれるわけではないし、時代が求める個性というものもあるだろう。
だが、裕次郎の代表作とされる作品に脇で登場する岡田眞澄を観ると、どうにも割り切れないものを覚えた。
岡田眞澄は二〇〇六年に七〇歳で亡くなったが、生前の彼が
「子供の頃、近所に住んでいた軍人さんに『お前のようなあいのこはろくな兵隊になれん』と言われた。当時の男の子にとってそれは将来の否定でとても辛かった」
という趣旨を語っていたことや著名俳優になった日活時代も破格の待遇だった石原裕次郎と比べて格段に安いギャラだったことを複数の記事で知った。
彼が青少年期を送った時代の日本人は欧米に憧れ、欧米的な容姿を持て囃しはしても、いざ「あいのこ」に対すれば純粋な日本人より劣った存在と蔑み買い叩くという酷薄なダブルスタンダートに貫かれていたようである。
そもそも俳優として売り出す際にも「タフ・ガイ」石原裕次郎、「マイト・ガイ」小林旭のように純粋な日本人俳優には本人の個性に立脚した愛称が付けられたのに、ダブルの彼には「ファンファン」と本来は別人であるフランス俳優の愛称が転用された。
これも「所詮は海外スターの模造品、亜流」という蔑視のほの見える扱いである。
また、死後の報道でこの人にはE・H・エリックというやはりタレントの実兄(二〇〇〇年没)がいたことも知った*10
この人は私が子供の頃にはもう目立った芸能活動はしていなかったようでリアルタイムのメディアで見た記憶はない。
ただ、画像を観る限り、あまり兄弟としては似ていないが岡田眞澄より更に白人的な風貌であり、率直に言って「E.H.エリック」という名前と一緒に目にすると、完全に外国人にしか見えない。
タレントとしても「日本語をペラペラ喋る変な外人」といった売り方だったようだ*11
だが、この人の本名は「岡田泰美」であり、国籍も日本人なら人種としても父親が日本人のダブルであり、言語の上でも日本語ネイティヴである。
弟の岡田眞澄は日本人としての本名をそのまま芸名にして活動しているのに、何故こちらは外国人にしか見えないというか敢えて純粋な欧米人と錯覚させる芸名にしたのだろうか。
むろん、芸能活動をする上で「岡田泰美」「岡田眞澄」だと兄弟で紛らわしいので敢えて被らない芸名にしたとも考えられる。
Wikipediaを見ると、E.H.エリックは岡田眞澄のような俳優業よりは海外ミュージシャンやタレントの来日公演の司会者やインタビュアーといった仕事がメインだったようで、欧米人を相手にするには自分も欧米的な名前にした方がやりやすかったのかもしれない。
だが、石原慎太郎・裕次郎が一見して兄弟と分かる本名をそのまま筆名・芸名にして活動していたことと併せて考えると(そもそも裕次郎は当時最年少芥川賞作家として持て囃されていた慎太郎の弟という触れ込みでデビューしたのであり、デビュー作の『太陽の季節』も出世作の『狂った果実』も兄の小説の映像化である)、E.H.エリック・岡田眞澄は名義上は敢えて他人にならざるを得なかった印象を受ける。
今でもジョン・カビラ(本名:川平慈温*12)と川平慈英のように兄弟で一方は外国人名、他方は日本人としての本名をそのまま芸名にして活動するダブルの著名人はいる。
こちらの兄弟の場合は本名があまりにも似通っているので、現実的な混同を避けるためにお兄さんの方は本名と異なる芸名にした可能性が高い。
それでも、例えば弟の津川雅彦に対する兄の長門裕之のような飽くまで日本人として別個の芸名ではなく外国人名にしている点に、兄弟としてのアイデンティティはもちろん日本人としてのそれも封印するかのような痛ましさも第三者としては覚える(この兄弟はメディアに登場するイメージとしては飽くまで快活な人たちではあるが)。
私自身は純粋な日本人(少なくとも辿れる系譜の範囲内においては外国にアイデンティティはない)であるし、動物を交雑した経験もない。
それでも、騾馬や駃騠、あるいはレオポンのような人間のエゴで生み出された雑種の動物たちやダブルであるが故に社会の本質的な部分で疎外されてきた人たちの姿を追っていくと、自分の中にも無意識に根付いているであろう人間やマジョリティの残酷さが浮かび上がってくるように思える。
*1 公式サイト「八木山動物公園フジサキの杜」
https://www.city.sendai.jp/zoo/index.html,(2025−4−18参照)
*2、*7 Wikipedia「レオポン」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%9D%E3%83%B3,(2025−4−19参照)
参照先にもあるように阪神パークで生まれたレオポンは最後の一頭が一九八五年に死んでおり、一九八二年生まれ、しかも東北出身の筆者がリアルタイムで目にする機会はなかった。
*3 Wikipedia「獣神ライガー」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%A3%E7%A5%9E%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC,(2025−4−19参照)
*4 Wikipedia「ライガー」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AC%E3%83%BC,(2025−4−19参照)
*5 Wikipedia「タイゴン」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%B4%E3%83%B3,(2025−4−19参照)
*6 Wikipedia「ラバ」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%90,(2025−4−19参照)
*8 Wikipedia「ケッテイ」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A4,(2025−4−19参照)
*9 Wikipedia「岡田眞澄」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E7%94%B0%E7%9C%9E%E6%BE%84,(2025−4−19参照)
*10、*11 Wikipedia「E・H・エリック」
https://ja.wikipedia.org/wiki/E%E3%83%BBH%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF,(2025−4−19参照)
*12 Wikipedia「ジョン・カビラ」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%93%E3%83%A9,(2025−4−19参照)
【参考文献】
赤木一成著「レオポンの誕生」、講談社ブルーバックス、一九七四年