表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
106/123

娼婦、妓女、花魁、芸者。

 吉原遊郭を舞台にした大河ドラマ「べらぼう」が現在放映されている。

 私はいつの頃かテーマやキャストとは無関係に大河ドラマ自体を観なくなってしまったので、こちらも未見であり、従って評価は出来ない。

 だが、今までの自分の作品を振り返ってもヨーロッパや中国の娼婦や妓女といった女性たちは描いても*1、吉原の花魁や芸者、あるいは祇園の舞妓・芸妓といった日本の花柳界の女性たちを描くことは意図的に避けてきた。

 一つには、吉原の花魁も祇園の舞妓・芸妓も制度や慣習が複雑であり、門外漢の自分などよりもっと詳しい人が他の作者にも読者にも沢山いると思われる以上はうかつに手を出すべきではないと感じたためである(むろん、ヨーロッパや中国の花柳界についてならデタラメで良いわけではないが)。

 今一つは、花魁や舞妓・芸妓の装いが率直に言ってあまり美しく感じられないためである。

 映画やドラマで花魁や太夫を演じるのはいわゆる美人女優で売る人が定番だが、そうした人たちがやってすら白塗りの珍妙な化粧を施した、はっきり言ってピエロじみた装いに見える。

 これは舞妓・芸妓も同様である。

 一九九八年に侯孝賢ホウ・シャオシェン監督により制作された映画「フラワーズ・オブ・シャンハイ」(原題:海上花)は韓邦慶の「海上花列伝」を映像化したものであり、日本なら明治時代の上海の花街を舞台にしている。

 この映画に登場する羽田美智子や劉嘉玲カリーナ・ラウ李嘉欣ミシェル・リーらが扮した中国の妓女たちはきらびやかな装いではあるが、日本の花魁や舞妓・芸妓のような不自然な白塗りの化粧ではない。

 私が「翡翠のかん」(自分の悪い癖で停滞中ですが)や短編の「別れて、待って、その次は。」で上海の娼妓や蘇州芸者をヒロインにしたのは「海上花列伝」と映画の「フラワーズ・オブ・シャンハイ」に感銘を受けたことが大きい。

 だが、何より決定的だったのは同じ日本人だからこそ覚える言葉への違和感である。

 祇園の女性たちの京言葉は東北出身の私にはどこか品の良さに紛らした陰湿な冷笑や嘲弄を感じる(東北という土地が近畿でも首都圏でも『田舎』という蔑視の対象なのは当事者として肌で感じることだ)。

 花魁の「ありんす」言葉に至っては読んでいてどうにも気持ち悪く、自分の書くキャラクターに積極的に語らせたいと思えないためである。

 それでも、祇園の女性たちの京言葉は京都という文化と歴史ある地域への誇りに根差したものではある。

 これに対して、一人称を「あちき」「わちき」、語尾は「ありんす」「ござんす」等を用いるこの「ありんす」言葉は日本各地から人身売買で集められた女性たちの出自を隠し、純粋に男性に媚びる存在に仕立て上げるための人造言語である。

 例えば中国の娼妓たちの世界でも蘇州語が優美な女性を演出する方言として他地域の女性たちにも用いられたという歴史はあるが(ここでの蘇州語はそれこそ京言葉に近い位置付けだろう。なお日本の『京美人』に近い意味合いで中国では『蘇州美人』と言う)、「ありんす」言葉はそもそもの女性たちの出身を抹消するという点でもっと寒々しい印象を受ける。

 少女時代に樋口一葉の「にごりえ」を読んだ。

 ヒロインのおりきは吉原の酌婦で花魁より明らかに下級の職の女性だが、

「私は其頃から氣が狂つたのでござんす」

等、ありんす言葉で語る。

 本来は花魁という才色兼備、遊郭最高級の女性を演出するための人造言語だったありんす言葉。それがここではむしろ底辺で苦しむ酌婦の人生の悲惨さを増幅させる効果を果たしている。

 また、一葉のもう一つの代表作である「たけくらべ」は全盛の花魁を姉に持つ美少女・美登利みどりをヒロインにしている。

 ちなみに姉は物語には直接登場せず「大巻おおまき」という源氏名のみで本名も明らかにはされない。

 これは廓に入ると同時に「美登利」のようなそれまでの名を抹消される哀しい現実の反映であろう。

 この姉については正太郎が片想いする美登利の容姿を褒めるのに「大巻さんより綺麗」と引き合いに出すことからして相当な美人であると察せられる(そもそも美貌でなければ花魁になれないという大前提があるが)。

 また、美登利が回想するように嫖客ひょうきゃくの議員から求婚されたが「心根の良い人でないから」と断った誇り高さを感じさせる記述もある。

 これらは当時はもちろん今も吉原遊廓を美化する人たちの信奉する「美しく誇り高い花魁」というステレオタイプに合致している。

 だが、物語は初潮を迎え、近い未来には姉と同じ遊女にされる美登利の絶望を描いている。

 全盛の花魁といったところで所詮は体を売る身の上には変わりはなく決して憧れるような境遇ではないことが「大巻」を身近で見ていた妹の美登利の嘆きを描くことで読者にも明らかになる。

 「大巻」本人を最後まで登場させないのは意図的なものだろう。

 ヒロイン美登利の近い将来である姉の姿は飽くまでブラックボックスなのである。

 そもそも劇中の美登利は数え年で十四歳、満年齢にすれば十二、三歳の子供であり、その姉の「大巻」にしても恐らくはまだ十代、今ならばせいぜい高校生くらいの少女であろう。

 この姉が故郷の紀州(言うまでもなく八代将軍吉宗を輩出した江戸時代の御三家の藩の一つだが、明治維新と共に地位は転落した)から一家で出て来て花魁になったのは、幼い妹を含む家族を養うために他ならない。

 人権や社会福祉の概念の無い明治の時代にあって美登利姉妹に遊女になる以外の現実的な選択肢は無かったのである。

 美登利の姉が「心根の良い人でないから」と議員の求婚を断ったのは、むろん「お金で愛情の無い相手には靡かない」という吉原トップの花魁の矜持ではあるのだろう。

 だが、「心根の良くない人はいつか自分や家族を邪険にする」という幼くして世間の酷薄さを知った絶望の現れにも思える。

 これが自らも江戸から明治に代わった吉原の近辺に住み、貧困の中で借金を申し込んだ相手から妾になるように告げられる等の屈辱に苦しんだ女性作家の描いた世界である。

 前掲の「海上花列伝」と一葉の「にごりえ」「たけくらべ」はほぼ同時期(一八九〇年代半ば)に書かれている。

 男性文人の韓邦慶の描いた「海上花列伝」が嫖客男性側から観た花街の裏側であるとすると(むろんこちらの作品でも遊女本人の苦しみは描かれているが)、樋口一葉が描いたのは遊里で生きるしかない女性の悲しみであった。

 このほど五千円札の顔は夭折した女性作家樋口一葉から日本初の女子留学生で生涯独身を通して学校教育に身を捧げた津田梅子に代わった。

 むろん、後者の功績が前者に劣るわけではない。

 津田梅子が樋口一葉より努力や苦労をしていなかったとも思わない。

 しかし、どちらが自分が社会的な不遇にあっても同じ弱者に寄り添う目線を持ってきた人だろうかと考えた時、残念ながら津田梅子は同時代の日本人女性の中ではスタート地点から圧倒的な強者であったと結論付けざるを得ない。

 お札の女性の面影が刷新されるのと並行していわゆる夜職の女性に対して

「ブランド品欲しさやホストに貢ぐために男に媚びて金を稼ぐ仕事をしている馬鹿な女」

といった矮小化や自己責任を押し付ける風潮が前より強まっているように思う。

 だが、日本の国際的な地位は低下しており、物価は上がっても賃金は上がらない。

 間違いなくこの国は貧しくなっているのであり、立ちん坊をする若い女性が増えているのもそうした衰微の現れである。

 そこから目を逸らして個人に自己責任を押し付ける態度こそ貧困から来る精神的な余裕の無さの裏返しと言うべきだろう。

 話は変わって、故・志村けんの持ち芸の一つに「芸者コント」があった。

 彼と俳優の柄本明が売れない年増の芸者に扮して互いに精一杯見栄を張るものの窮状が明らかになるやり取りをする内容だ。

「今の若い子は駄目ねえ。着物着てたってホステスやコンパニオンとおんなじよ」

と芸者姿の志村けんが高笑いする台詞を子供時代に見て今も覚えている。

 これは「フジヤマ、ゲイシャ」と外国人のイメージする日本文化のステレオタイプではあるが、コントが成立した昭和後期から平成初期には既に古い伝統的な接客業になっていた芸者の女性たちの選民意識(誇りと表裏一体のものではあるが)を揶揄した描写である。

 コント自体も女性同士の見栄や争いを茶化したミソジニー芸と言える。

 だが、この年増芸者と似たような発言は職場で古株になった人たちはもちろん、ある業種で高尚な伝統や文化として地位を与えられた職の人たちに良く見られるものではないだろうか。

 現代的なコントを芸にする志村けんから見た、着物で高座に上がる古典落語の噺家といった人たちへの皮肉も、このプライドは高くても実際には売れず内情の苦しい年増芸者のキャラクターには込められている気がする。

 だが、彼が芸者という職業の女性たちを良く観察して理解した上で演じているのは、森口博子(私が観たコントの出演時は恐らく二十代)などゲストの若い女性タレントと比べても芸者姿の着物の着付けや仕草に違和感が無いことからも明らかである。

 むろん、志村けんにせよ柄本明にせよ中年男性が化粧して女装していると一見して判る、そうした笑いを誘う大元の違和感が大前提だが、若く綺麗な本物の女性タレントが芸者姿をしている演技よりも彼らの方がお茶引きでうらぶれている感じも含めて芸者らしいのである。

 毀誉褒貶はあっても彼のコントが一世を風靡したのはそうしたユーモアに包まれた対象への徹底した観察眼に裏打ちされたリアリティが大きいのではないだろうか。

 比べるのもおこがましいが、自分の作品もそうした現実への目を常に忘れないものでありたいと思う。


*1 中編の「エプタメロン断章」のポーレットのように当初の構想には無かったのに結果的に王妃、マーゴに次ぐ第三のヒロインになり、おかげで物語の結末まで変わったキャラクターもいる。当初は男主人公ジャンは王妃の死を知った後に自殺する予定だった。なお、「ポーレット」は映画「禁じられた遊び」のヒロインにちなんだ愛称であり、彼女の本来の名は「ポーリーヌ」である。


【参考URL】

青空文庫、樋口一葉「にごりえ」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/387_15293.html,(2025−4−15参照)

青空文庫、樋口一葉「たけくらべ」

https://www.aozora.gr.jp/cards/000064/files/389_15297.html,(2025−4−16参照)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ