子供が読む本、親が読ませたい本
(一)小学生の娘たちの愛読書は
今春、長女が小六、次女が小三になった。
「ちびまる子ちゃん」のまるちゃんとお姉ちゃんとちょうど同じ学年である。
二人ともこの漫画が好きで母親の私が実家に置いていたコミックスを持ってきてよく読んでいる。
次女に関してはアニメも録画してよく観ている。
率直に言って、娘の写真を撮りたがるたまちゃんのお父さんやご近所の佐々木のじいさんなど私が娘たちの年齢の時に観ていた漫画やアニメには出て来なかったキャラクターがいつの間にかレギュラーになっているのに違和感を覚えなくもない。
だが、放送が長期化すれば必然的にキャラクターの顔ぶれや元からいるキャラクターの性格も変わっていくものなのだろう。
ちなみに百人一首や慣用句などの学習漫画も「ちびまる子ちゃん」であり、算数は「名探偵コナン」、国語辞典と工学入門は「ドラえもん」という風にお馴染みのアニメや漫画のキャラクターたちは娯楽ばかりでなく子供たちの勉強のナビゲーターにもなっている。
これらの学習漫画は親の私が観ても面白く、改めて学び直すことも多い。
率直に言って、「名探偵コナン」はジェンダー観*1に違和感を覚えることが非常に多く、母親としてはあまり子供たちには見せたくない。
だが、夫も長女もこのシリーズが好きで
「私も蘭ちゃんみたいに空手やりたい」
と長女が空手を習い始めた契機になった作品なので観ることに反対はしていない。
これは、私自身が子供の頃に母から
「この番組は観ちゃダメ」
と幾つかの番組を視聴禁止にされて閉塞感を覚えた経験から来る。
むろん、母が視聴禁止した「北斗の拳」は当時の子供の目にも暴力的な描写が多かった。
また、TVを消して絶対に見せないようにしていた「オレたちひょうきん族」のコント動画を大人になってからYouTubeで観ると、煮立ったおでんを顔にくっつけて熱がる様子を笑いのネタにするなど「イジメ」というより明らかな暴行、虐待のオンパレードなので母の気持ちは大人として理解できないでもない。
なお、団塊世代の母は同世代の著名タレントの中でもフライデー事件を引き起こしたビートたけしを
「目下の人にも悪いことをやらせて捕まった人」
「頭はいいと思うが昔から嫌い」
と嫌っており、彼と門下のたけし軍団が出演する「風雲たけし城」なども観せてもらえなかった記憶がある。
話を子供の本に戻すと、長女は小学館から出た「名探偵コナン」の原作漫画のコミックスはもちろん小学館ジュニア文庫から出たノベライズも買い集めて読んでいる。
少し前にアニメの「鬼滅の刃」も好きで観ていたが、こちらもやはり集英社みらい文庫のノベライズ(といっても少し読んでみると漫画のページも挿絵代わりに挿まれている、ノベライズとコミックの折衷じみた構成)を買っていた。
同じ集英社から刊行された「キメツ学園! 全集中ドリル 炎の呼吸編」という、国算理社英(私の頃と違って今は英語も小学生の主要な教科の一つである)別に火に関するトピックを解説する学習漫画も持っている(どの出版社も自社でヒットした漫画やそのキャラクターはとにかく諸方面に活用したビジネス展開をするようだ)。
録画して観ていた「竜とそばかすの姫」「すずめの戸締まり」も角川つばさ文庫から出たノベライズをいつの間にか書棚に揃えていた。
率直に言って、この子は古い名作や純粋な小説そのものにはあまり興味を示さないが、好きなストーリーを活字に直したものを読むのは苦にならないようだ。
母親の私が映画に感銘を受けると原作小説やノベライズを必ず入手して読むのでそこは似たのかもしれない。
一方、次女はというと、やはり角川つばさ文庫から出た「星のカービィ」の小説シリーズを何冊も集めてよく読んでいる。
時たま
「◯◯ってどういう意味?」
と母親に尋ねるが、これは大抵「星のカービィ」の小説を読んでいて文中に出て来た言葉が解らない場合である。
私にとって「星のカービィ」とは今の次女と変わらない年の頃にTVでよく観たゲームのコマーシャルに出て来たキャラクターであって、ゲーム自体は今に至るまでプレイしたこともなく(ちなみに三学年上の兄は子供の頃からゲーム好きだったが『ストリートファイター』や『餓狼伝説』など対戦型の格闘ゲームがメインで『星のカービィ』については話題にすらしたことが無かった)、率直に言ってキャラクターの詳細な設定やゲームの世界観なども分からない。
それでも、次女曰く
「パパと遊んだニンテンドースイッチでゲームして好きになった」
「本屋にもカービィの小説が沢山あるから」
とのことで暇さえあれば「星のカービィ」シリーズの本を読んでいる。
私もアニメの「ムーミン」はあまり観なかったが、小学校中高学年の頃に講談社文庫の「ムーミン」シリーズには一時期熱中してよく読んだ。
その頃の自分にとってのムーミンが今のこの子にとってのカービィなのかもしれない。
(二)「フランダースの犬」はもうマイナー?
先日、次女と近所のショッピングセンターに買い物に行った。
催事場ではバーゲンブックやDVD、CDのセールがあり、その手の商品に目の無い私は買い物の後に立ち寄った。
次女はアニメのDVD売り場を観ていたが、その内、童話やおとぎ話のアニメを収録したDVDに興味を示した。
しかし、ラインナップを目にして
「『フランダースの犬』って何? 有名な話なの?」
と私に訊ねた。
こちらは
「お母さんが子供の頃はアニメもあって有名なお話だったよ。イギリスのウィーダという女性の作家が書いたの」
「ネロという絵の上手な男の子と飼い犬のパトラッシュが主人公の悲しいお話」
と返事はしたが、
「今の子にとっては『フランダースの犬』はマイナーなのか」
ととても驚いた。
そういう自分にしても一九七五年に放映されたアニメ「カルピスこども劇場『フランダースの犬』」は有名(過ぎてパロディにもちょくちょく使われる)なネロとパトラッシュの昇天シーンは知っているものの、本編を全編通して観たことはない。
というより、一九八二年生まれの私にとってすら「過去に人気だった有名なアニメ」の認識であった。
そもそもアニメシリーズの大元である「カルピスこども劇場」自体、自分の子供時代には「ハウス食品世界名作劇場」と名前が変わっていた*2
ただ、「フランダースの犬」のお話については未就学児の頃に好んで集めたアニメ絵本シリーズの一冊として読んだ記憶があり(悲しいお話だったのでその一冊しか買わなかった)、「絵の才能のある貧しい少年が愛犬と共に不遇な生涯を遂げる」という大筋はもちろん、少年が尊崇するルーベンスという画家の名前もそれで覚えたのだった。
「フランダースの犬」及び作者のウィーダことマリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメーについて改めて興味を覚えたのは大人になり、しかも母親になってからだ。
十年ほど前(つまり長女がまだ二歳にもならない赤ちゃん、次女は生まれてもいない頃)、ネットで
「『フランダースの犬』は日本ではアニメ化されて人気だが、舞台となったベルギーでは無名」
「作者のウィーダはそもそもイギリス人女性でベルギーには旅行で短期で滞在しただけ」
「ベルギーの人たちは『自分たちは気の毒な子供を死に追い込む心無い人間ではない』とこの作品に不快感すら示す」
という情報を偶然目にした。
そこから俄然興味が湧き、「フランダースの犬」の完訳、「帰ってきたむく犬」などのウィーダ作品の他の邦訳を読むばかりでなく、「フランダースの犬」の国際的な受容について纏めた「誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬」(岩波書店刊)を入手するに至った。
最後のルポルタージュについてはエブリスタの掌編コンテストで入選して貰った三〇〇〇円分のAmazonギフト券を使って買ったのを今も覚えている(自分の作品で初めて得たお金で買った物はずっと忘れないものです。私の場合は今のところそれが最初で最後の経験なので)。
完訳を読むと、作中のネロは十五歳、アロア*3十二歳で作品が発表された一八七二年*4、十九世紀当時の年齢感覚としては既に大人に近い少年少女と分かる(アロアの父が貧しいネロを嫌って娘から遠ざけようとするのは、一つには既に大人に近付いた年齢の二人に男女間の過ちが起きるのを危惧してのことでもある)。
これは日本で言えば明治初頭の話だ。
一八八七年生まれの作家、山本有三は成績優秀で中学への進学を希望したにも関わらず、父親の命で十二歳で丁稚奉公に出された*5
代表作「路傍の石」の主人公・吾一もそうした境遇で時には葬式の客に混ざって菓子を貰う詐欺まがいの稼業にも加担しながらも生き抜いていく。
国は異なるとはいえ、ネロはそうした時代の少年である。
元から貧しい家庭に生まれ育ったはずの少年なのに絵のコンテストに一度失敗しただけで後はひたすら死に向かっていく展開は、少年らしい純粋さ、あるいは芸術家としての高潔さの表現ではあるにしてもナイーヴに過ぎるように大人になった自分の目には映る。
ウィーダ本人が職業作家として若い頃から成功して社交界に出入りする華やかな暮らしを送り、晩年も困窮したとはいえメイドを使う*6、いわば社会の上層部の女性だったことがこうした形象に繋がったのだろうか。
「フランダースの犬」以外に邦訳された数編を読んでも、ウィーダは画才のある少年というイメージを明らかに好んでいる。
今回の稿を書くに至って改めて読み直したが(私の悪い癖で入手はしていても一つ一つの話をきちんと読めていなかった)、新潮文庫版に併録された「ニュルンベルクのストーブ」の主人公オーガストも画家を夢見る感性豊かな少年である。ネロがルーベンスに心酔しているようにこちらは名工ヒルシュフォーゲル(と彼の手による家宝の美しいストーブ)を尊崇している。
偕成社文庫版の「フランダースの犬」に併録された短編「ウルビーノの子ども」も少年時代のラファエロを主人公にした作品である。
同じく併録された「黒い絵の具」はタイトル通り、画材である絵の具の黒が主人公である。
また、「帰ってきたむく犬」はフィレンツェの貧しい少年ローロの愛犬モッフロウが裕福な病身の少年の家に売られるものの元の飼い主を慕って遠路はるばる帰ってくるというストーリーであり、貧しい少年と忠犬のイメージにも愛着があったと推察される。
ちなみに「ウルビーノの子ども」と「帰ってきたむく犬」はいずれもイタリアが舞台であり、主人公の少年は無事に生き延びるハッピーエンドである。
しかも、「帰ってきたむく犬」の方はウィーダと同じイギリス人の裕福な家族が主人公の少年と愛犬一家を援助する展開になっている。
ウィーダは母国のイギリスを出た後、ヨーロッパ大陸に渡り、イタリアに心酔して移住してそこで客死した。
だからこそ、イタリアを舞台にした作品の少年主人公たちは才能が認められたり愛犬共々救われたりするハッピーエンドなのだろう。
オーストリアのチロル地方にある「私の知るかぎりではヨーロッパ一の美しい土地の一つ」(新潮文庫版)と記述されたハルが舞台の「ニュルンベルクのストーブ」も、主人公の少年は国王の庇護の下に画学生になり輝かしい将来を予感させるハッピーエンドである。
一方、ベルギーに関しては
「フランダースは風光明媚の土地ではなく、ルーベンスの住んでいた町(筆者注:アントワープのこと)の周辺はとりわけ美しくなかった」(新潮文庫版)
「ルーベンスがいなければ、アントワープはどんなところでしょう? きたなく、ほこりっぽく、せわしない商売の街です。川の船着き場で取り引きをする商人のほかには、だれひとり気にとめないかもしれません」(偕成社文庫版)
と率直に言って作中でも酷評している。
恐らくはベルギー人一般に対してもイギリス人の自分より未開、芸術的な理解も低いといった蔑視感情を抱いたのではないだろうか。
それが「フランダースの犬」のパトラッシュの前の飼い主である商人の卑しく酷薄な描写から始まり、集落の有力者にへつらって才能ある純粋な少年を村八分にする、芸術のコンテストでも真の才能を正しく評価できず街の有力者の息子*7を優勝させる地元の人々の描写に繋がっているように思える。
なお、「フランダースの犬」でも著名な画家が実はコンテストの参加作品でもネロの絵を最も高く評価しており、
「あの絵を描いた若者を自分の弟子にしたい」
とネロの死後に現れて告げる展開にはなっている。
これはネロの才能や本来あった可能性を裏付ける描写ではあるが、同時に著名な画家の卓見よりも貧富や親の地位などをコンテストで優先させるアントワープの人々の俗悪さや愚かさの印象を増幅させている。
これは確かに地元の人にとって愉快な作品ではないだろう。
私だって日本に短期間滞在しただけの外国人の作家が
「福島は全く見るべきところのない土地です。とにかくゴミゴミしていてまあ汚いこと」
「才能ある純粋な少年はこうして心無い町の人々から虐げられ薄幸の生涯を閉じました」
といった内容の作品を発表してそれが海外で持て囃されていたら不愉快極まりない。
私が読んだ新潮文庫版でも、またこちらは未読だが岩波少年文庫版の「フランダースの犬」でもまるでマルチエンディングのように「ニュルンベルクのストーブ」が併録されている。
「フランダースの犬」のネロと「ニュルンベルクのストーブ」のオーガストで資質は大差ない。
というより、画才に関しては作品を実際に見た著名画家が「是非とも自分の弟子に」と評価したネロの方が上ですらあるだろう。
にも拘らず、フランダースのネロは殺され、チロルのオーガストは生かされる。
ベルギー、アントウェルペンの人にとってこの作品はイギリス人作者による地域差別の産物でしかないだろう。
大人になると、物語自体の巧緻とは別にそうした作品のもたらす影響や背景に思いを馳せるようになる。
(三)親の書棚から子供の手元へ
次女には帰宅後に私の持っている新潮文庫版と偕成社文庫版の「フランダースの犬」の完訳二冊、そして岩波少年文庫の「ピノッキオの冒険」を渡した。
ちなみに催事場で目にした童話アニメのDVDには「ピノキオ」も収録されていたが、こちらも次女は良く知らないようだった。
「ピノキオ」に関してはディズニーのアニメにもあるが、古い作品のせいか長女も次女もまともに本編を観たことはなく馴染みも薄いようだ(これは母親の私にしても同様で、お馴染みのアニメ絵本シリーズの一冊として読んだ記憶の方がやはり鮮明だ。結局のところ、私のおとぎ話や名作童話の知識のバックボーンは平田昭吾のアニメ絵本である。アニメ絵本偉大なり)。
いずれもまだ八歳のこの子にとっては決して読みやすいとは言えないし、「ちょっと読んだけどつまんなかった」と投げ出される可能性もある。
特に「ピノッキオの冒険」に関しては訳者の杉浦明平が一九一三年生まれなので最終的に主人公を人間に変えてくれる女神に「仙女」という訳語を当てており、登場人物の台詞も「しようのないせがれだ」「失敬する」、地の文でも「諸君も想像できるでしょうが」といった大人の私の目にも時代がかった言い回しが目立つ(ただし、『ピノッキオの冒険』も一八八一年に連載が始まった作品なので、日本の明治前半の話としてはこうした訳語の方が妥当なのかもしれない)。
それでも、この子の中に何年か、何十年か後でも古い名作に興味が芽生える種子になってくれれば良いと思う。
四十を過ぎた母親になっても古い名作にはページを捲ればまた新たに得るものがあるのだから。
*1 例えば、ヒロイン毛利蘭の母である妃英理の料理の拙さが劇中で繰り返しギャグにされている。だが、彼女の料理を不味いと罵倒する夫の毛利小五郎はそもそも怪我をして体調的にも辛かったはずの妻に代わって自分が炊事しようとはしない。劇中現在ではこの夫妻は別居しているが、小五郎は高校生の娘に家事一切を丸投げしており、蘭は実質はこのだらしない父親のヤングケアラーである。「一応は炊事をするが拙い」妃英理よりも「そもそも炊事を含めた家事一切を自分でやろうとしない」「未成年の娘と暮らしていながら子供に自分のケアをさせる」毛利小五郎の方が本来は家庭人、親としてよほど不適格である。アニメを観ていると、作り手にそうした意識があまりに希薄でそこに反発を覚える。
*2 Wikipedia「世界名作劇場」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%90%8D%E4%BD%9C%E5%8A%87%E5%A0%B4,(2025-4-29参照)
*3 偕成社文庫版では「アロワ」。なお新潮文庫版の村岡花子訳ではパトラッシュは「パトラシエ」になっている。人名については訳者によって英語読みかオランダ語読みかで異同がある。なお、舞台となる地名は私が読んだ二冊ではいずれも「アントワープ」と英語読みだが、現地のオランダ語読みに準拠すれば本来は「アントウェルペン」である。
*4 Wikipedia「ウィーダ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%80,(2025-4-29参照)
*5 Wikipedia「山本有三」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E6%9C%89%E4%B8%89#cite_note-chiba-3,(2025-4-29参照)
*6 A.V.ディーンデレン・D.ヴォルカールト編著、塩崎香織著「誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬」(岩波書店、二〇一五年)p25
*7 新潮文庫版では「波止場主の息子であるステファン・キースリンガー」、偕成社文庫版では「波止場管理人の息子のステファン・キースリンゲル」だが、当時の港町としては有力者の子弟であろう。なお、この優勝者の名はドイツ風だが、これについては執筆当時に普仏戦争でフランスがドイツに敗北し、それがフランス人を父に持つウィーダの心に影を落とした影響ではないかと「誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬」では指摘されている。
【参考文献】
ウィーダ著、村岡花子訳「フランダースの犬」、新潮社文庫、一九五四年初版、一九八九年改版、一九九四年改版八刷
*「ニュルンベルクのストーブ」併録
ウィーダ著、雨沢泰訳「フランダースの犬【完訳版】」、偕成社文庫、二〇一一年
*「ウルビーノの子ども」「黒い絵の具」併録
ウィーダ著、山主敏子訳「帰ってきたむく犬」、旺文社ジュニア図書館、一九七三年
コッローディ著、杉浦明平訳「ピノッキオの冒険」、岩波少年文庫、二〇一六年新版第八刷
A.V.ディーンデレン・D.ヴォルカールト編著、塩崎香織著「誰がネロとパトラッシュを殺すのか――日本人が知らないフランダースの犬」、岩波書店、二〇一五年