誕生日、生日《ションリー》、birthday。
二〇二五年四月十二日の今日、私は四十三歳になった。
日本の制度上は閏年の二月二十九日生まれの人などに考慮して誕生日の前日に年を取るそうだが、一般には誕生日当日に一つ年齢が増す慣習であり、自分も基本的に後者である。
四十三歳という年齢は一般には中年に該当する。
女性を早くから年寄り扱いして卑下を強いる日本ではこのくらいの年配は「オバサン」どころか「ババア」とすら嗤われることも少なくない。
そういう自分にしたところで小六と小三になったばかりの娘たちの年頃には「おばさん」と思っていた年配だ。
ちなみに私は母親が三十三の年に生まれた(正確には母は一九四九年十二月の生まれなので一九八二年四月に私が生まれた時点では満年齢で三十二歳)。
今の自分は小学四、五年生の頃の実母と同年配であり、二人の娘もその頃の自分と大差ない年頃だ。
十歳の頃の自分が母に本心の全てを話せた訳ではないし、逆に母を理解できてもいなかった(子供が大人を理解するのは無理だ)。
それは今の私と子供たちについても言えることだろう。
あるいは十歳の私の目に映った母より娘たちの見ている今の私の方がもっと理不尽な大人かもしれないのである。
もう三十年以上も前になってしまった十歳の頃を思い出すと、転校先の小学校で虐められたりして今の鬱的な気質が形成し始めてきた時期だったように思う(これはあちこちに繰り返し書いたことだが、小学校中高学年で通った学校は他と比べてもどうにも空気の良くない所でもっと酷いいじめに遭っている人も当たり前に目にしたので自分だけが被害者とは思っていない)。
当時は「どこか遠くの、海の見える街に住みたい」と漠然と思っていた。
私の家は信夫山と雪うさぎで有名な吾妻山がすぐ近くに見える場所にある。
当時の自分は春に桜が咲く信夫山は好きだったが、少し遠くに聳える「吾妻小富士」こと吾妻山は大きな壁じみた閉塞感を覚えて好きでなかった。
通称の「小富士」も「日本一の富士山には遠く及ばない模倣」「所詮は田舎の二流の山」という蔑称に思えた。
住んでいる福島市自体も東京は言うに及ばず、北の「杜の都」仙台と比べても格下というか都市とすら言えない位置付けらしいのは子供の私にも察せられることであった。
「結局、ここは田舎なのだ」
「抜きんでた物は何もない」
そう思うと余計に憂鬱になった。
山に囲まれた地域に住む私は海への憧れも強く、それが「海の見える都会」への憧憬に繋がった。
四十三歳の今は横浜に住んでいるから、この点で当時の夢は叶ったことになる(私たち一家が住んでいるのは横浜市内でも一般的な住宅地であり、観光客が挙っていくみなとみらいや桜木町の辺りではないが)。
東京にも半時間足らずで行ける港町であり(なお福島から仙台までは東北本線で一時間かかる。電車自体も一時間に一、二本がデフォルトである。新幹線なら二十分で着くが、料金は電車の約二・五倍取られる)、中華街も山手西洋館も赤レンガ倉庫も港の見える丘公園も人形の家もある。
英語も中国語もお粗末だが、外国気分を楽しみたい私にはうってつけである。
少し時間のある時に中華街をぶらついたり赤レンガ倉庫脇の海をぼんやり眺めたりするだけで小さな旅行をした気分になれる。
中編の「ちゅうかなまち」「青梅竹馬」「桃花節」は横浜に住んでいたからこそ書けた作品である。
むろん、何らかの賞を取ったり書籍化したりした訳でもない、世間一般では取るに足らないものだが、私にとっては自分の生きた爪痕のようなものだ。
また、娘二人は生まれも育ちも横浜のいわゆる「浜っ子」なので、少なくとも子供時代の私のような田舎者意識に苦しむことはない。
ただ、母親はというと、横浜に住んで十七年目になる今も福島訛りが抜けず、動画などで自分の話す音声を聞くのは苦痛である(そもそも声自体も女性にしては低くて好きでない)。
横浜市民ではあっても結局、生え抜きの「浜っ子」ではないのだと自分でも思う。
むろん、大学進学で上京して今、ここに住んでいることに後悔はない。
もし、ずっと福島にいたら
「やっぱり都会に出たかった」
と後悔する四十三歳を迎えていただろう。
もしかすると、四十三歳の誕生日を迎えることすら出来なかったかもしれないのだ。
自分は希死念慮を抱えながら生き続けている人間だが、仮に自死などしなくても、少しの選択の違いが生死を分け得ることをこの年になると強く感じるようになった。
私はまだ生きたい。まだ書きたい。