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私とアリス、そしてルイス・キャロル。

(一)献詩ならぬ献掌編

   『アリスに似てアリスより』

「ミス・リデルだ。二番目のお嬢さん」

「あの人が“アリス”ですか」

 父親と叔父の言葉に少女は思わず背筋を伸ばして前を見やる。

 あれが、アリス・リデル?

 七歳のクシーは小さな口を半ば開いて遠方を歩く相手を見詰めた。

 縮れた焦げ茶色の髪を纏め上げ、吊り気味の険しい眼差しを行く手に向けて昼下がりの通りを歩いていく女。

 まだ若さは十分残っているが、もう「少女」と呼ぶには成長し過ぎている。

 冬の弱い陽が照らし出す肌は滑らかだが浅黒く、「むしろ男ならいいのに」と思わせた。

 決して不器量ではないが、さりとて評判の物語のヒロインに相応しいほど美しいとも魅力的とも思えなかった。

「色々と評判のある方ですね」

 まだ若い叔父はどこか含んだ風な笑いを浮かべて見守る。

 大人たちの囁き合う噂ではあのミス・リデルは王子とも親密な間柄だそうだ。

 だが、もっと綺麗で華やかな人は普通にいるだろうと言うのが彼女を目にした率直な印象だ。

「あそこのお嬢さんたちは器量良しだから」

 父親はどこか憐れむような調子で語った。

 美人揃いのリデル姉妹にあっては、年の近い姉のロリーナや妹のイーディスと比べてもこの次女がそれほど目を引く容姿にはクシーにも思えない。

 イーディスさんの方が似ていてもっと綺麗だ。あんなツンケンした雰囲気ではないし。

 こちらの思いをよそに相手は焦げ茶色の纏め髪の後ろ頭を見せて遠ざかっていく。

――あなたたちなど私の視野には入っていません。

 細身の外套を着た背中はそう語っているようであった。

 気難しい、気位が高い、下と見た相手には目もくれないというのが十九歳のアリス・リデルを巡る評判だ。

 嫌な人。アリスじゃなくて威張った女王様みたい。

 七歳の少女は去っていく相手の後ろ姿に密かに拳を握り締めた。

 ドジソンさんは何が良くてあの人を主人公にお話を書いたんだろう。

 絵本で見たアリスは金髪(白黒の版画だから白抜きの髪だったけれど)でもっと可憐な風貌だった。

 あの絵はまた別な人がモデルなのだとはクシーにも漠然と察せられる。

 私ならもっと美しい、魅力あるモデルになれる。

 七歳のクシーは人目を引く自分の容姿を知っていた。

――何と可愛い子だろう。

――綺麗なお嬢さんですね。

 初めて自分を目にした大人たちは皆、そのように評する。

 それが空世辞でない証拠に他の女の子よりも大抵親切にしてもらえるのだ。

 ドジソンさんだってよく写真を撮ってくれるし。

 父親に手を引かれながら少女は背筋を伸ばす。

 次にあの人に逢う時には、もっと美しい姿になっていなくてはならない。


 *****

「とっても綺麗だよ。支那しなのプリンセスだ」

 シルクの中国服を纏ったところで自分が中国娘に見えるわけはないけれど、この人の言葉を聞くと本当にプリンセスになった気がする。

「じゃ、この箱の上に乗って、もう少し積み上げた方に寄りかかって」

 私には分からない言葉の書かれた荷箱。

 先尖った小さな靴で登って寄りかかると、拐われて外国行きの船に乗せられた支那のお姫様になった気がした。

 私はどこに行くのだろう?

 広い支那のどこか? 日本? それとも、アメリカ? 

 自分にとっては全てが不思議の国だ。

「手に持った扇子はもう少し広げて」

 重たい扇子を開くと、白い紙地に濃いピンク色の薔薇に似てもう少し横に広い花が描かれていた。

牡丹ピアニーだよ」

 こちらの疑問を見透かしたように相手は告げる。

「支那の宮殿には牡丹の花園がある」


 ここまでが以前に書きかけた短編の一部だ。

 文中の「アリス・リデル」は良く知られているようにルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」及び「鏡の国のアリス」のモデルになった少女であり、「クシー」とは「アレクサンドラ・キッチン」、ルイス・キャロルこと本名チャール・ドジソンが趣味で手掛けた写真のモデルになった一人である。

 ルイス・キャロルが知人の少女たちに当てた書簡を纏めた「少女への手紙」の表紙はバイオリンを構えたモノクロの美少女の写真だが、この少女が正にクシーだ。


(二)私の「アリス」鑑賞遍歴

 私は子供の頃から「アリス」シリーズというかルイス・キャロルの作品が好きだった。

 一般にはアリスというと原書のテニエルによる挿絵の波打つ髪の少女か、ディズニーアニメの水色のエプロンドレスに黒いリボン付きヘアバンドの女の子のイメージだ。

 だが、私が最初に読んだのは平田昭吾による永岡書店刊のアニメ絵本でピンクのフリフリしたワンピースに赤いリボン付きヘアバンドでやや日本人的な丸顔の愛らしいアリスであった。

 大人になってから考えると、平田昭吾はテニエルやディズニーなどの先行作品の作り上げたステレオタイプをなぞるのではなく自分独自かつ日本人の小さな子に親しみやすいアリスを描こうとしたのだと分かるし、そうしたオリジナリティは高く評価したい。

 ピンクのフリフリワンピースに赤いリボンというのは別な意味でベタというかステレオタイプではあるけれど「可愛い女の子」という小さな子にも分かりやすい記号的な表現を敢えて選んだのだろう。

 平田昭吾に限らず昭和や平成初頭の日本のアニメ絵本だとアリスの服はピンクや赤が多い。「女の子の色」という当時(というか今も)の日本人の感覚だろう。

 一九五一年制作のディズニーアニメのアリスが水色の服を着ているのも当時のアメリカで女の子の色は青だった価値観の反映である。

 前年に制作された「シンデレラ」のヒロインも一九四〇年制作の「ピノキオ」の女神も水色のドレスであり、更に言えば、全員とも金髪碧眼にされている。これも「金髪碧眼の女性が一番美しい」という通念の反映だろう。 

 前掲の平田昭吾や他の日本のアニメ絵本でもアリスは概して金髪にされている(ただし、瞳に関しては平田昭吾はアジア的な黒目にしており、風貌全体の印象としては日本人の女児に近しいアリスにされてはいたが)。

 ちなみに原作ではアリスの服や髪や目の色を含む容姿について具体的な記述はなくテニエルの挿絵も白黒である。

 また、筆者による冒頭の小説に描写したように実際のアリス・リデルは焦げ茶の縮れ毛に黒い瞳で金髪碧眼ではない。

 むろん、アニメ絵本を読んでいた頃は未就学児でそんな知識は無かった。

 当時は絵本のアリスの姉がまだ若く美しい母親に見えたり、アリスが飲んで体の小さくなるジュースの絵を観て「おいしそうだなあ」と思ったり、女王のために白い薔薇に赤いペンキを必死で塗っているトランプの兵士を見て「白い薔薇だって綺麗なのに」と理不尽を覚えたりした程度の感想である。

 また、この時の「不思議の国のアリス」は飽くまで「おやゆびひめ」や「ねむりひめ」等と同じ好きなアニメ絵本シリーズの一作という位置付けであり、その中では必ずしも特別な扱いではなかった。

 なお、私は気に入ったお話は複数の出版社のアニメ絵本を買い集めて

「この絵本のお姫様はドレスが素敵」

「王子様がかっこいいのはこっちの本」

「一番新しく買った本だとお城が立派だなあ。床が鏡みたい」

といった調子で違いを楽しんでいた。

 母親(『イメージが固定するから』と私がアニメ絵本を欲しがることを必ずしも快く思っていなかった)からは

「どうして同じお話の本を買うの?」

と良く聞かれたが、私にとってはタイトルが同じでも絵柄が異なれば別の作品であった。

 監督も出演者も別のドラマのようなものだ。アニメでも絵柄も声優も異なれば別の作品として扱われるだろう。

 そうした時期にあって、アニメ絵本の「不思議の国のアリス」については前述した平田昭吾の一冊しか思い出せないし、何冊も買った「おやゆびひめ」「ねむりひめ」ほど未就学児の私にとって訴求力の高い物語ではなかった。

 恐らくはアリスという「お姫様でもなければ最後に王子様と結婚するわけでもない、自分より少し年上くらいの外国の女の子」のヒロインが幼い頭には不可解だったのだと思う。

 物語としても冒険譚で決して子供の目にもバッドエンド(アリスや大切な人が死ぬ、悲惨な境遇に陥る等)ではないが、桃太郎のように鬼を倒して宝物を得て故郷に凱旋する訳でもないのでどういう話として位置付けるべきなのか、小学校入学前の子供には今一つ理解できなかった面もあるように思う。

 小学校に上がってからNHKで恐らくはイギリス制作の実写ドラマにした「不思議の国のアリス」が吹き替えで放映されているのを観てまた興味を覚えた。

 その頃にはこの物語が大人も楽しんで見るファンタジーだとうっすら理解できるようになっていたのである。

 小学校中学年に入ると講談社の青い鳥文庫で過去の名作に触れるようになり、それはそれで好きだったが、

「子供向けの書き直しではなくちゃんと大人向けの方を読みたい」

と思うようになった。

 そして、小四のクリスマス、講談社文庫の高杉一郎訳の「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」をプレゼントとして買ってもらった。

 これはピンクの背表紙にテニエルの挿絵に彩色を施した表表紙の可憐な装丁であった。

 しかし、中身は平易な日本語ではあるものの冒頭の献詩を含む完訳で詳細な注釈が付いていた。

 率直に言って、小学校中学年で英語もまだ習っていなかった私には英語の掛け言葉や論理学の注釈など読んでもまともに理解出来ていた訳ではない。

 「鏡の国のアリス」については舞台となるチェスのルールも未だに良くは知らない。

 ただ、そうした不可解さも含めて、というより詳細な注釈を読んでもなお残る不可解さがこの作品に関しては正に魅力であった。

 そこにはテニエルの挿絵の醸し出す、写実的でありながらどこか不気味な非現実感の漂う挿絵の影響が大きい。

 原版の「不思議の国のアリス」及び「鏡の国のアリス」の挿絵を手がけたジョン・テニエルは元は雑誌「パンチ」の諷刺絵を手掛けて有名になった画家である。

 「不思議の国のアリス」刊行当時は作家としては無名の素人も同然のルイス・キャロル(本業はオックスフォードの数学講師チャールズ・ドジソン)よりテニエルの方が一般には知名度は段違いに上であり、年齢も一回り上であった。

 作品と挿絵の不可分な関係では「サロメ」の作者オスカー・ワイルドと挿絵を手がけたオーブリー・ビアズリーの関係に似ている。

 だが、キャロルとテニエルに関しては年齢も知名度も上回る画家の方にイニシアチブがあったようで「鏡の国のアリス」の「かつらをかぶった雀蜂」のように「面白くないし、絵にどうやって表せば良いのか分からない」というテニエルの進言で削られたエピソードもある*2

 なお、ルイス・キャロルにはテニエルのようなプロの技量には達さないものの絵心があり、当初は本人が描いていた挿絵も残されている。

 作者本人にも物語のイメージを視覚化する力量のある作品の挿絵を担当するのは画家としても労苦が多かっただろうとは素人の私にも察せられる。

 「アリス」シリーズの挿絵では他にアーサー・ラッカムが有名であり、日本でも人気の高いマリー・ローランサンが描いたものもあるが、私の中ではやはりアリスの絵と言えばテニエルである。

 ラッカムの絵は詩的だが「アリス」の物語に込められた毒がやや足りない。

 ローランサンは好きな画家だが、やはりロマンティック過ぎるというか、異世界の住人のグロテスクさを表現するには甘い印象を受ける。

 ちなみに私が初読時からテニエルの挿絵で一番印象に残っていたキャラクターは「不思議の国のアリス」の帽子屋であった。

 一見すると、英国紳士(と呼ぶには職人・商人の彼は恐らく下の階級だろうが)風だがどこか間の抜けた顔つきであり、それでいて「言葉は通じるのに話は通じない」不気味さも漂う。

 正に不思議の国の住人である。

 「鏡の国のアリス」ではこの帽子屋は直接には物語に登場しないが、「今は獄に繋がれている」と説明されており、その挿絵も載っている。

 ディズニーによる二〇一〇年と二〇一六年のティム・バートン監督による実写映画ではジョニー・デップがこの帽子屋に扮していた。

 このシリーズは一九九〇年に制作されファンタジー映画の金字塔になった「シザー・ハンズ」の監督・主演俳優コンビによる作品である。

 宣伝でも実質はアリスよりもジョニー・デップの帽子屋が目玉の扱いになったこともそうだが、そもそも著名俳優のジョニー・デップが「アリス」シリーズのキャラクターの中でも帽子屋を演じることになったのは、テニエルの帽子屋が一般に与えてきたインパクトが大きいだろう。

 ただし、素顔のジョニー・デップとテニエルの挿絵は必ずしも似ておらず、劇中の帽子屋の扮装として似せてもいない。 

 映画のジョニー・デップは赤く染め上げた髪で顔には白塗りを施した、明らかに奇妙奇天烈なピエロの装いである。

 テニエルの挿絵の帽子屋は飽くまで当時のイギリス人男性としては常識的な装いであり、いわば「平熱で狂っている」キャラクターである。

 ディズニーの実写映画は子供たちが録画して観ているのを脇から少し観た程度だ。

 しかしその範疇ですらヘレナ・ボナム・カーター演じる赤の女王は明らかにエリザベス一世を戯画化した形象であり、現代アメリカ人の視点から旧宗主国であるイギリスの社会や人々への揶揄、冷笑を感じる描写が目について好感が持てなかった。

 そこにはディズニーというアメリカ合衆国の「正義」のプロパガンダ制作・流布を請け負ってきたガリバー企業の傲慢さが現れているように思えた。

 例えば、宮沢賢治の作品が中国や韓国で映画化され、明治天皇を戯画化したキャラクターなどが出て来たら、日本人は心楽しく観ることが出来るだろうか。

 ルイス・キャロルもジョン・テニエルもアリス・リデルも十九世紀のイギリスに生まれ育ったイギリス人だったのであり、彼らを育んだ社会や文化への敬意が感じられないものは個人的には受け付けない。


(三)ルイス・キャロルを巡る少女たち

 話を筆者の少女時代に戻すと、小学校の中高学年で「アリス」シリーズを読んで作者のルイス・キャロルに興味を覚え、中学生の頃に古書で前掲の「少女への手紙」を見つけて買った(学校に持っていった覚えはないが、裏表紙には筆者の名前はもちろん『二の三』と当時のクラスまでペンで書かれている)。

 前述したようにこれはルイス・キャロルが知人の少女たちに宛てた書簡集だが、一通一通におとぎ話の萌芽というかそれ自体が完成した小さな物語めいた面白さがある。

 加えて、キャロルが撮影した少女たちの写真も名前のキャプション付きで掲載されている。

 クシー・キッチンもその一人である訳だが、私は表紙に使われたヴァイオリンを構えた写真を目にした瞬間、

「アリスがいる」

と感じた。

 少女の写真の載ったページをパラパラ捲っていても

「この子は綺麗だな」

と目に留まる名は「クシー・キッチン」であった。

 だからこそ、マクドナルド姉妹(キャロルと交流のあった作家ジョージ・マクドナルドの娘たち)ら並み居る少女モデルたちを抑えて表紙の写真にも使われたのだろう。

 改めて「少女への手紙」を見返すと、他にも「美少女」「愛らしい」の形容に相応しい被写体は少なくないが、クシーほどのインパクトがない。

 キャロルと交流があった少女の中には舞台でアリスを演じたアイザ・ボウマンという本職の子役もおり、こちらも可憐な少女ではあったが、写真のモデルとしてはクシー・キッチンの方がやはり一枚で絵になるように感じた。

 なお、「少女への手紙」にはアリス・リデルへの手紙は無いが、写真は載っていた。

 そちらを見た際には

「あまり可愛くないな」

「クシー・キッチンや他の写真のモデルになった少女たちと比べてもむしろ劣った部類では」

と軽い失望すら覚えた。

 「少女への手紙」以外でもアリス・リデルの写真を載せた書籍は多いが、幼少期の横顔を収めた写真は確かに可憐なものの、正面から映した顔だと不機嫌で険しげな表情が目立つ。

 すぐ上の姉のロリーナ、妹のイーディスと三人(『アリス』シリーズは元はこの三姉妹にキャロルが聞かせたおとぎ話が原型である)で映った写真を観ても、特に姉妹の中で際立った美少女とは思えない。

 成長後は十七、八歳で既に三十過ぎのように老けて見える上に、やはり目も険しく陰鬱な雰囲気だ。

 レオポルド王子との恋愛を噂されながらも結局は実らず、当時としてはかなり晩婚だったことからして幸福な青春期ではなかったのだろう。

 「気位が高く他人を寄せ付けなかった」という趣旨の記事を読まなくても、写真の表情に既にそうした気難しさや暗鬱が浮き出ている。

 決して不器量ではないが、写真によっては男のように見える。

「どうして本物のアリス・リデルより後から知り合ったクシーの方が物語に出て来るアリスらしいんだろう」

 中学生の自分にはキャロルとアリス・リデル、そしてクシー・キッチンの関係が藍から作った青が元の藍より純粋に青い故事のように一種皮肉な現象に思えた。

 あるいはキャロルが「アリス」シリーズを世に出したことでそうした少女を引き寄せたのだろうか。

 付記すると、ルイス・キャロルにはいわゆるロリータ・コンプレックス、小児性愛者ではないかという見方が昔からあるし、私の買った「少女への手紙」の訳者による後書きにもそうした言及はあった。

 そういう私も一時期はキャロルに対してそうした疑惑を持っていた。

 だが、近年の研究では詩集「三つの日の入り」の挿絵を担当した画家エミリー・ガートルード・トムソンなど彼と知り合った時点でも成人だった女性とも親しく交流を持っていた事実が明らかにされているようだ*3

 アリス・リデルやアイザ・ボウマンら交流のあった少女たちの回顧でも性虐待の告発などはない。

 そこからすると、キャロルは小児性愛者ではなかったというのが個人的な感慨である。

 付記すると、親交のある主だった少女たちの中でクシー・キッチンはキャロルに関する回顧録を出すことはなかった*4

 そこにもある種の奥ゆかしさというか、マリリン・モンローの死後に前夫のディマジオが彼女の思い出をメディアに尋ねられて

「愛の思い出は売れない」

と答えた逸話を彷彿させる。


(四)各国の「アリス」の面影――シュヴァンクマイエルとディズニーアニメから

 これは前にも別な稿に書いたが、大学に入ってから渋谷のシアター・イメージフォーラムでチェコのアニメーションの巨匠シュヴァンクマイエルの「不思議の国のアリス」を観た。

 これはまだチェコスロヴァキア時代の一九八八年(いわゆる『ビロード離婚』と呼ばれるチェコスロヴァキア解体は五年後の一九九三年である)、筆者がちょうど平田昭吾のアニメ絵本を読んでいた頃に制作された実写アニメーションだ。

 アリスを演じたのは、クリスティーナ・コホウトヴァーという淡いピンクのワンピース(日本のアニメ絵本と同じだがこの頃のチェコスロヴァキアでも『女の子の色はピンク』という感覚だったのだろうか)の良く似合う、真っ直ぐな金髪にあおい瞳の印象的な少女子役であった。

 途中で体が小さくなるシーンだとビスク・ドール(元はアリスの部屋に置いてある同じ衣裳の人形)に替えられるが、人間体でも人形のように愛らしい。声も可憐である。

 こちらはアリス・リデルよりもテニエルの描いた少女に近い印象であった。

 映画全体としては子役のコホウトヴァー以外の人間は登場せず、作中の他のキャラクターの台詞も彼女によるナレーションで表現される*5

 時計ウサギ(白ウサギ)は目にガラス玉(このガラス玉の黒目の部分が薮睨みで齧歯類特有の鋭い前歯と相まってグロテスクな狂気を感じさせる)を嵌め込んだ剥製で懐中時計を腹から取り出すたびにおがくずが一緒に出て来る。途中でスープ皿(鍋?)に入れてスプーンで食べる餌もおがくずである。また、体が破けておがくずが出て来ると舐めるという挙動を繰り返す。

 例の茶会の場面でも三月ウサギ(時計ウサギと比べても顔が長く、また黄土色の毛並みのため馬か犬のようにも見える)は目が取れるゼンマイ仕掛けのぬいぐるみで恐らくはもう古くてあちこちが壊れているのか車椅子に乗っており、帽子屋は塗料の剥げかけた木造りの操り人形で紅茶を飲めば体から零れていく*6

 その帽子屋が三月ウサギの取れた目を繕い背中のゼンマイを回して動かすという、聖書の「盲人が盲人を導く」逸話を連想させる奇怪な光景が繰り広げられるのだ*7

 帽子屋と三月ウサギが紅茶のポットから取り出した懐中時計の歯車部分にバターを塗って食べる。この行動を執拗なまでに繰り返し映す茶会のシーンには正に異世界においてのみ成立する永久機関の観がある。

 なお、この二人(正確には二個の玩具だが)は最終的には女王の命を受けた時計ウサギに首を切り落とされ、首の無い胴体がそれぞれの首を拾って頭に付け直し、首を交換した状態で元通りトランプに興じるという原作にはない展開を迎える(ただし、その後の裁判の場面では両者とも元の姿に戻っている)。

 作品全体としてはキャロルの世界観をシュヴァンクマイエルのシュールレアリズム風に翻訳した印象だ。

 実写アニメーションというジャンルのせいもあるが、不思議の国の住人たちはいずれも剥製や標本の骨、木造りの操り人形といった現実にも存在するものである。

 芋虫は靴下にガラスの目玉と入れ歯を嵌め込んだ物であり(見比べると、ディズニーアニメ版の色鮮やかな体に多数の足に行儀良く靴を履き、最後は脱皮してこれもまた色鮮やかな蝶になる芋虫とのギャップに驚く)、トランプに至ってはペラペラした紙のそれがそのまま出て来る。

 暴虐な女王も紙に絵で描いた人形ならば、その城も紙に描いた書き割りそのものとして出て来る(そもそも書き割りそのものを出す演出が劇中に繰り返し挿まれる)。

 そこに現実と非現実がメビウスの輪のように繋がっている不気味さが感じられる。

 ディズニーのアニメのように色鮮やか、ユーモラスで愛嬌のあるキャラクターたちが

「よく来たね。君を歓迎するよ」

と迎え入れてくれる雰囲気(ディズニーはアニメが既にテーマパークである。ヴィランにすら愛嬌がある)ではない。

 剥製や骨の標本のような人間によって既に一度殺された生き物やオモチャたちが意思も定かでないゾンビのようにうごめいている世界なのだ。

 むろん、これはウォルト・ディズニーとヤン・シュヴァンクマイエルの作家性の違いが大きいだろうが、アメリカ人とチェコ人の国民性の違いも影響しているように思う。

 帽子屋と三月ウサギが「何でもない日、万歳」とピカピカに磨き上げられた色とりどりのポットたちと賑やかに歌い踊るディズニーの茶会(というよりパブの酒盛りの雰囲気であり、三月ウサギは文字通り『パーティ・アニマル』である)。

 シュヴァンクマイエルの煤けた廃屋での静かに狂っているお茶会の場面を見比べると良く分かる。

 アリスにしてもディズニーアニメに出て来るのは黒いリボン付きのヘアバンドにパラシュートじみたエプロンドレスを着た(実際、洞穴に落ちる場面でスカートがパラシュートの役割を果たす描写も出て来る)、歴史を学ばせるべく本を読み聞かせる姉(若い母親にも見える)をよそに花輪を編み、飼い猫のダイナと戯れる快活な少女である。

 背景も花の咲き乱れる野原や森、洒落た洋館といったメルヘンとして小綺麗に殺菌消毒されたテーマパーク的なものだ。

 これに対してチェコスロヴァキア(当時。繰り返しになるが、二つの民族が夫婦のように一つの国に同居する体制としてはもう末期であった)版のクリスティーナ・コホウトヴァーは冒頭から無言で本を読む姉の脇で退屈しているというよりどこかネグレクト被虐待児じみた寂しげな表情だ。その寂寥の気配は最後まで変わることはない。

 少女が足を向ける先も荒野や煤けた廃屋など現実的な危険や禍々しさを感じさせる光景である。

 ディズニー版がおてんばな少女の愉快な冒険ならば、シュヴァンクマイエル版は孤独な幼女の見た悪夢に限りなく近い世界である。

 奇妙な世界に少女が迷い込む「アリス」の物語は輸出される先々で様相を大きく変えるのだ。


(五)キャロルの世界に魅せられた読み手及び書き手として

 私は結局、一浪を経て入った大学の学部では現代中国政治、大学院では現代中国文学とルイス・キャロルや「アリス」とは全くかけ離れた分野を専攻した。

 しかし、現役の大学受験生だった頃は理系で数学科を目指していた(数学はまあまあだったが、化学や物理など他の理系科目が壊滅的に苦手だったので挫折した。今でも日常的な機械の扱い等は苦手なので本質的に理系向きではないのだろう)。

 これも数学者でありながら傑出した作家でもあったルイス・キャロルへの憧れだったかもしれないと今となっては思う。

 なお、学生時代に出会って結婚した夫は数学科であった。そこにも奇妙な巡り合わせというか縁を感じる。

 その後も定期的に「アリス」というかルイス・キャロル熱が再発して、晩年に書いたもう一つのファンタジー長編である「シルヴィーとブルーノ」や叙事詩の「スナーク狩り」、数学や論理学とファンタジー世界を絡めた「もつれっ話」や「不思議の国の論理学」等、「アリス」以外の一般には知名度の高いとは言えないものも含めて著作も買い集めた。

 なお、ちくま文庫の「原典対照ルイス・キャロル詩集」は「アリス」シリーズ及び「シルヴィーとブルーノ」の抄訳のみならず沢崎順之介訳の「スナーク狩り」も全編収録されているお得な一冊である。

 私は新書館の「スナーク狩り」(訳者は高橋康也なのでちくま文庫の収録とは異なる)の単行本を新品で買った後に中古でこちらを購入して気付いた。

 ただし、ヘンリー・ホリデイによる挿絵が物語の展開に沿った形で配置されているのは新書館の単行本である。

 「アリス」シリーズのテニエルほど一般には有名ではないが、こちらもナンセンス詩の世界を魅惑的に表現している。

 ルイス・キャロルの作品に関しては評論にも興味深い考察が多いので、「ユリイカ」などで特集が組まれているとそちらにも目を通したくなる。

 また、僭越ながら自分の創作にも「アリス」のオマージュを込めることもある。

 「Nous」(現在は停滞中だが)では孤独な少女マリーが読むのは「アリス」シリーズであり、美しい姉への劣等感に苦しむ日々で出会うのはテニエルの帽子屋に似た男である。

 この作中の「帽子屋に似た男」ピエール・ヴァディムは映画監督でプレイボーイとしても有名だったロジェ・ヴァディムをモデルにしている。

 監督としてのロジェ・ヴァディムの主だった作品に「アリス」やルイス・キャロル作品を基にしたものは無いが、まず写真でその風貌を目にした瞬間、

「テニエルの帽子屋をハンサムにしたみたいだな」

と思った。

 良く知られているようにこの人はブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーヴ、ジェーン・フォンダといった名だたる美人女優たちと公私共にパートナーになり、しかも全員とも髪を金に染めさせて「ブロンドの美人スター」に仕立て上げた。

 むろん、これは「金髪の方が人目を引いて芸能人としては人気が出やすいから」という事情もあるだろうが、「不思議の国のアリス」の本来は白い薔薇も赤く塗らせる権力者の執着めいたものの見える行動である。

 ヴァディムの作品はルイス・キャロル的でなくても彼本人にはキャロルの描く不思議の国の住人に相応しい空気が感じられるのだ。

 また、彼の自伝を読むと、青年期に出会って最初の妻となったブリジット・バルドーに対して

「自分が少年期に書いていた小説のヒロインそのままだったから」という理由で「ソフィー」とその作中ヒロインの名で呼び、バルドー側も彼に対しては「ソフィー」と名乗り続けたエピソードもある。

 むろん、男女の風紀に厳しい十九世紀のイギリスで生涯独身を通したキャロルと戦後のフランス映画界でプレイボーイで鳴らしたヴァディムとでは実人生では大きく異なる。

 関わった女性たちにしてもキャロルと交流があったのは中上流層の少女や画家であったが、ヴァディムの場合は女優という華やかではあってもいわゆる浮草稼業で毀誉褒貶に塗れる立場の人たちである*8

 だが、創作者としてキャロルにとっての「アリス」がヴァディムにとっての「ソフィー」だったのではないかと感じた。

 ヴァディムとバルドーに関しては十二分に成功した人たちであるし、率直に言って筆者としても

「私もBBやドヌーヴみたいな魅力ある美人で芸術家のミューズになる人生だったら」

「逆に自分の書いた小説のキャラクターそのものみたいな人が現れて二人で世に出る人生だったら」

と憧れや羨望を覚えないでもない。

 しかし、ヴァディムによって世に出る前のバルドーが本来のブルネットで映っている写真などを観ると

「この方がステレオタイプでないクールな美で良いのでは」

と思ってしまう。

 また、既に著名監督となったヴァディムの隣にまだ年若いジェーン・フォンダがブロンドに染め上げた髪をきっちりセットしドレスアップして固い面持ちで座っている写真を見ると、

「この二人は上下のある関係だったのだ」

と嫌でも感じられて痛々しくなる。

 初婚のバルドーと一緒に映っている頃はまだ初々しい青年だったのにジェーンと並んで写真に収まった中年のヴァディムは好色というより奸悪な女衒ぜげんじみて見える。

 少年期に創造した「ソフィー」の面影を求めて出会った女性たちを美しく魅惑的な形象として世に出したと言えば聞こえは良いが、相手を自分の理想の型に嵌めて搾取・消費する残酷さも彼の行動からは感じられるのだ。

 ヴァディムとパートナーだった女優たちほど現実的なトラブルはなくても、ルイス・キャロルとアリス・リデルを始めとする親交のあった少女たちの関係にもそうした搾取・消費の面はあっただろう。

 キャロルやヴァディムには遠く及ばなくても自分の書く作品ではそうした「ミューズ」にされた生身の女性の痛みにも敏感でありたいと思う。

 

*1 Wikipedia「アレクサンドラ・キッチン」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%B3,(2025−4−1参照)

*2 Wikipedia「鏡の国のアリス」

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%8F%A1%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9,(2025−4−5参照)

*3 楠本君恵著「出会いの国の『アリス』――ルイス・キャロル論・作品論」(未知谷、二〇〇七年)p58、エドワード・ウェイクリング著「ルイス・キャロルの実像」(小鳥遊書房、二〇二〇年)p154-160

*4 *1に同じ

*5 この稿を書くためにYouTubeに上がっていた英語字幕付きの原語のチェコ語版を見直した。冒頭のシーンでは姉も出て来るが、恐らくは意図的な演出で彼女の顔は映らず台詞もない。ただ、自分の読んでいる本を弄る幼い妹の手を無言でピシャリと叩く描写からこの年の離れた姉が母親的な立場だと分かるのみである。また、原作では目覚めたアリスが姉にそれまで見ていた夢を語るが、この映画ではアリスが廃屋じみた自室で独り目を覚まし、傍らには姉妹の姿を模した人形が並んで置かれているものの、生身の姉は謎のように姿を消している。幼い妹を無視して本を読んでいた姉も去ってアリスが孤児になってしまったかのようにも見える結末である。なお、原作及びディズニーアニメにはアリスの飼い猫のダイナやチェシャ猫(これは劇中で繰り返し登場してアリスに示唆を与える重要なキャラクターである)が登場するが、シュヴァンクマイエル版には猫(のような少女に寄り添う愛玩動物)のキャラクターは一切出て来ない。また、ディズニーアニメ版の「不思議の国のアリス」には双子のトゥイードル・ダムとトゥイードル・ディー(及び彼らの語る逸話のセイウチ、大工、牡蠣たち)、馬蠅ホースフライ、バター付きパンバタフライのような本来は続編の「鏡の国のアリス」のキャラクターも出て来る。こちらもシュヴァンクマイエル版には登場しない。

*6 時計ウサギのおがくずもそうだが、作中のキャラクターは飲食が即排泄に繋がる描写が多い。生の活動の虚しさを象徴したものだろうか。ディズニーアニメ版のアリスにも小鳥の入った鳥籠の体をした鳥が出て来て、中の小鳥たちが逃げると、また追い掛けて飲み込んで腹の鳥籠に収める描写があるが、小鳥たちは鳥籠の中でも元気に囀っており、ごく牧歌的な描写である。また時計うさぎの食べるおがくずの中に釘、アリスがなめるジャムの中には画鋲など食べ物に異物の混入している、また、食べようとしたパンからトゲのように釘が大量に生えてくる、缶詰を開ければ大きなダンゴムシ(?)がウジャウジャ出て来る、鍋から生肉が生き物のように這い出て逃げていく等の描写も挿まれる。カエルがハエを大きな舌(リアルな人の舌に似せたグロテスクな質感で表現されている)で舐め取る描写も執拗に繰り返される。アリスが食して体の大きさの変わる飲み物やタルトクッキーはいずれもインクさながら真っ黒だったり固い木の欠片や石じみて見えたり、視覚的に全くおいしそうでないばかりかむしろ体に毒ではないかと観客に思わせる。シュヴァンクマイエルは飲食に対して幼少期から生理的な嫌悪を抱いているとは複数の記事で読んだが、映画の描写からは食品とされる物自体への根源的な恐怖や不信が感じられる。ディズニーアニメ版に出て来る食べ物(バター付きパン蝶のような食べ物の姿をした生き物を含む)は総じておいしそうであるのと対照的である。

*7 時計ウサギも針と糸が近くにあれば自分の体の破れを繕ってそれ以上体内のおがくずが溢れないように直す。この世界の主だった住人は最初から体に損傷を負っておりそれを自らカバーしながら生きている。ちなみに時計ウサギの従者であるトカゲの剥製はアリスから投げ落とされた衝撃で体が裂け、中のおがくずを大量に零して死んでしまう。その後、時計ウサギに繕われ、漏斗でおがくずを口から戻されて蘇生するが、つまるところこの剥製たちにとっておがくずは人体で言うところの血液であり、大量に失えば死ぬことも有り得る世界なのだ。

*8  なお、二〇一七年にハリウッドの女優たちから始まった“Metoo”こと性被害告発運動は欧米の芸能界における男性優位、女性への搾取構造を浮き彫りにしたが、ヴァディムのパートナーだったバルドーやドヌーヴはいずれも告発した後進の女優たちに否定的であった。ヴァディムの自伝のタイトルにパートナーとして挙げられた三人の内、婚姻中のヴァディムからの性強要に苦しんだ被害を告白したのは最後に結婚したアメリカ人のジェーン・フォンダだけである。


【参考文献】

ルイス・キャロル著、高杉一郎訳「ふしぎの国のアリス」、講談社文庫、一九八三年

ルイス・キャロル著、高杉一郎訳「鏡の国のアリス」、講談社文庫、一九八八年

ルイス・キャロル著、高橋康也・高橋迪訳「少女への手紙」、新書館、一九七八年

ルイス・キャロル著、高橋康也・沢崎順之助訳「原典対照ルイス・キャロル詩集」、ちくま文庫、一九八九年

ルイス・キャロル著、高橋康也訳、河合祥一郎編「スナーク狩り」、新書館、二〇〇七年

ルイス・キャロル著、柳瀬尚紀訳「シルヴィーとブルーノ」、ちくま文庫、一九八七年

ルイス・キャロル著、柳瀬尚紀訳「もつれっ話」、ちくま文庫、一九八九年

ルイス・キャロル著、柳瀬尚紀訳「不思議の国の論理学」、河出文庫、一九九〇年

ドーマウス協会、桑原茂夫「アリスのティーパーティ」、河出文庫、一九八六年

桑原茂夫「チェシャ猫はどこへ行ったか」、河出書房新社、一九九六年

アイザ・ボウマン著、河底尚吾訳「ルイス・キャロルの想い出」、泰流社、一九八三年

M.ハンチャー著、石毛雅章訳「アリスとテニエル」、東京図書、一九九七年

エドワード・ウェイクリング著、楠本君恵・高屋一成・下笠徳次監訳「ルイス・キャロルの実像」、小鳥遊書房、二〇二〇年

楠本君恵著「翻訳の国の『アリス』――ルイス・キャロル翻訳史・翻訳論」、未知谷、二〇〇一年

楠本君恵著「出会いの国の『アリス』――ルイス・キャロル論・作品論」、未知谷、二〇〇七年

高山宏責任編集「ユリイカ3月臨時増刊号 第47巻第3号(通巻657号) 150年目の『不思議の国のアリス』」、青土社、二〇一五年

ロジェ・ヴァディム著、吉田暁子訳「我が妻バルドー、ドヌーヴ、J・フォンダ」、中央公論社、一九八七年

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