七夕の夜には
休日にこそならないが、七夕が嫌いという日本人はそこまで多くないと思う。
七夕の笹飾りとクリスマスツリーは似ている。
だが、クリスマスツリーの場合、樅の黒緑の葉に赤いビロードのリボンや蝋 (でなければプラスチック)の固い飾りを下げ、鉢植えの足元にはリボンで封をしたプレゼントの箱を置く、といった、いかにもかっちり用意される印象がある。
一方、七夕の笹飾りだと、淡い黄緑色の笹の葉に願い事を書き付けた色短冊や紙細工で思い思いに飾りつけした後は風に揺れるに任せる、といった、どこか自然の流れに委ねる風情を残していると思う。
実際、小学生時代に歌わされた七夕の歌は、「笹の葉さらさら/軒端に揺れる」という歌い出しだった。
クリスマスは明確に物としてのプレゼントの受け渡しを伴うが、七夕はそれぞれの願い事を記すだけでその成就までは行事の中に組み込んでいない。
物を売る側にとって、クリスマスはプレゼントに選択すべき商品の宣伝ばかりでなく、クリスマスツリーそのものも関連商品として売り出す商業的チャンスであるが、七夕はいかにも儲からない行事である。
売り出すとすれば、せいぜい笹飾りのための笹と短冊や細工に用いる色紙くらいだろうが、これらが七夕特有の商品として売り出されているのはあまり見たことがない。
クリスマスツリーは小さなプラスチック製でも季節限定のインテリア商品とし定着しているが、笹飾りに関してレプリカ商品は有り得ないようだ。
昔、さくらももこの「ちびまる子ちゃん」で主人公のまる子が七夕の笹を欲しがって探しあぐねた結果、親友のたまちゃんのお宅から竹を譲り受け、「欲しいものが中途半端に手に入った」という独白が出てくる。
読んだ当時は「そういえば、笹と竹ってどう違うんだろう?」と思ったが、辞書を引くと笹は「小型の竹」と説明されていた。
ウィキペディアの「笹」の項目を読んでも、笹と竹に日常的に明確に判別できるレベルの差異はないようである。
ただ、「笹」であれば、せいぜい大人の背丈ほどの大きさであえかな細長い葉が風にさらさら囁くように揺れる、言ってみれば女性的なイメージが浮かぶ。
一方、「竹」というと、人の倍ほど背が高く、風が吹けば頭の葉がさざ波のようにざわめき、節がカラカラと音高く響く、男性的なイメージだ。
恐らく、「ちびまる子ちゃん」でも、本当は短冊数枚下げられる程度の小ぶりで節の細い種を想定していたにも関わらず、小学生の女の子が持ち運びするには大振りで節の太い種を思いがけず貰ったので「中途半端に手に入った」という言い方をしていると推察される。
話をクリスマスと七夕に戻す。
クリスマスはイエス・キリストの誕生日とされているが、元はゲルマン人にキリスト教に組み込む過程で、彼らが土俗信仰として冬至を「太陽の復活」として祝っていたのを「キリストの誕生日」として結び付けたのだという。
樅の木に飾りつけをする習慣は、本来はそのゲルマン人の土俗的な信仰が発祥で、キリストの誕生日とは本来関係がないそうだ。
七夕も本来は織り姫と彦星こと牽牛の夫婦が年に一度巡り合う晩であり、庶民が笹の葉に願い事の色短冊を吊るす行為とは一見、結び付かないように思える。
あるいは、熱愛し合っているにも関わらず年に一度しか顔を合わせることの出来ない神話中の夫婦が逢うことが叶うその夜に、いつの間にか人々は願望の成就を期すようになったのだろうか。
七夕は、ちょうど梅雨の季節で、二人が出会うはずの天の川を必ずしも目にできるとは限らない時期にわざわざ設定されている。
もっとも、本来の七夕は今の暦に直せば八月上旬で梅雨は明けた時期とのことで、有名な仙台の七夕祭りは旧暦に沿って八月七日に開催される。
私は大学浪人していた頃、福島の実家から仙台の予備校に通っていた。いわばクリスマスもお正月もない身の上で、この七夕祭りの季節の仙台も目にしたわけだが、その年は梅雨明けが遅かったのか、じっとしているだけでも汗が滲むほど蒸すにも関わらず、見上げる空はどんよりと灰白色に曇っていた。
「杜の都」らしく、黄緑色や浅葱色を基調にした薬玉の飾り付けがアーケードに吊り下げられてかすかに揺れているのを眺めながら、「あの薬玉がマジックみたいに今にパッと割れて、白い鳩でも飛び出さないかな」としつこく想像していたことを覚えている。
割られずにただ飾りとして下げられただけの薬玉が、何だか不発弾か設定をし忘れた時限爆弾のように不気味で虚しいものに思えた。
仙台の七夕祭りを訪れて、まるでプレゼント箱の包装のように色紙で作った花飾りに覆われた薬玉を目にして、「あの中には何が入ってるんだろう」と漠然と感じる人は少なくない気がする。
それはさておき、その時は短冊に合格祈願を記す代わりに、キャラメル大のローズクォーツや紫水晶の欠片、そして透明なガラスの地に朱色の縞の入ったペーパーウェイト並に大きなおはじきを買った記憶がある。
十九歳の私は、素直に短冊に願い事を書き付けるほど無邪気ではなかったが、親から貰った乏しい小遣いでそんなセンチメンタルな玩具を買う程度にはまだ幼かったのだ。
話は変わって、ディズニーアニメ「ピノキオ」のテーマソングで、「星に願いを」という曲がある。
木で出来た人形のピノキオが最後は本物の人間の男の子に変わる。その夢に溢れた結末を盛り上げるメロディだ。
今はどうか分からないが、舞浜駅から東京ディズニーランドのエントランスまでの道や園内にはこの曲が良くかけられていたことを記憶している。
単なる一作品の主題歌を超えて、「夢の国」ディズニーの世界を代弁する位置付けの曲なのだろう。
子供の頃はゆったりと優しいメロディが好きだったが、世間では大人に分類される年配になって、生身の幼い少年になったピノキオを抱きしめる生みの親のゼペット爺さんの姿を観ながら、改めてこの曲を聴くと、どこか切ない気持ちになる。
生みの親とはいえ、愛しげにピノキオを抱くゼペット爺さんの表情は、視覚的には子を持つ父というより、明らかに孫を迎えた祖父である。
本物の人間の男の子にして欲しいという願いは、むろん、幼いピノキオ自身の希望でもあろうが、何より老い先長くはないであろうこの老人の悲願でもあったはずだ。これは、むしろ大人になった視聴者の目にこそよく分かる。
夜空の星に願いを託す発想は、洋の東西を問わず広く根付いている。
星の輝きが希望そのものに映ることはもちろんだが、はるか彼方に見える小さな瞬きが生の儚さとそれ故のきらめきも同時に思い起こさせるからではないだろうか。
私が七夕の夜に色短冊に未来への夢を書いて笹に吊るしていた頃より、しなくなってからの方が久しい。
しかし、将来への希望を迷いなく言葉にして星に託せた頃の率直さをもう一度取り戻したい。
近頃になって、切にそう思う。