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悪癖シリーズ

悪癖-the thirst of blood-

作者: 沢木 えりか

背徳的要素含なのでR15です

 肉を断つ感触は、一度味わってしまったらそうそうに忘れられるものではない。僕はいつも、飢えている。自分の手が、いつも乾いたように肉を求めてやまない。それは市販の生肉に留まらず野菜、魚に至るまで。僕は毎日料理を口実に食材を切り刻むことで飢えを凌ぐ。

 ポケットにはサバイバルナイフ。持ち手の黒い革が僕の手に良く馴染むのがとても気に入っている。これを触っている間は、飢えがほんの少しだけ和らぐ気がする。これは、僕の主がプレゼントしてくれたものだ。僕は、大学に通いながらとある屋敷で住み込みで働く執事だ。

 僕の主は、宝石ブランドの令嬢成瀬悠鳴(なるせはるな)、陶器のように透き通った肌に血色の唇がとても映える儚げな少女である。僕の記憶の一番古いものは彼女と初めて出会った日のことであるから、かれこれ10年以上の付き合いとなる。

常磐(ときわ)、学校へ行くわ」

「はい、かしこましました。お嬢様」

 運転免許は20歳になったその半年後に取った。悠鳴を自宅より離れた高校へ送り届けるためだ。最も初心者マークが取れるのに一年かかるので、悠鳴が高校へ入学する一年前の話ではあるが。

「今日の朝食も美味しかった。だけど、常磐。貴方いい加減に包丁くらい買ったら? いつまであのナイフで調理し続けるつもりなの?」

 バックミラー越しに映る悠鳴は、車窓から外を眺め気だるげだ。きっと今日も体調が優れないのだろう。お嬢様という存在にはありがちであるが、悠鳴は体が弱い。

「それは譲れない相談です。お嬢様が下さったナイフです、機会がある限り使用したい」

「ええ、そう言うと思っていたわ」

 そのセリフにはおおよその感情というものは込もっていなかった。何万回と繰り返された、機械的なやりとりであるからだ。

「今日は常磐が迎えに来るのだったわね」

「ええ、今日は休講ですので。くれぐれも、お気を付けて」

 僕は悠鳴の好意で学校に通わせてもらっているので、講義がある日は成瀬家の別の執事が迎えに来る。だが、悠鳴はそれをあまり好まない。彼女にとってあまり面識の無い人間と同じ時間を共有することは苦でしかないからだ。

「ええ、今日は執事を呼ばなくて済むようにしなくては」

 悠鳴は人間の集団が苦手だ。人混みの中で長時間過ごすと、時には気を失ってしまうことだってある。だけど、彼女が通う高校は私立の有名校。500人以上の生徒が在籍し、その入れ替わりも多い。そのため悠鳴が途中早退してしまうことは多い。それでも、成績は常に上位で、彼女が努力家であることを物語っていた。

 遠ざかってゆく彼女の背を見送りながら、先程からずっと触れていたナイフから手を離す。この上ない飢えは、少しだけ和らいだ。だけど逆に、それが何とも言えない虚無感を生み出してしまう。この瞬間はいつも苦手だ。ともすれば、寂しさからうっかり自分の指をナイフに食い込ませたくなってしまう。それを振り払うようにハンドルを握り締め、Uターンした。

 屋敷に帰ると直ぐに昼食の準備を開始した。成瀬家の執事の中でも歳若年である僕が屋敷全体の食事を担当している。悠鳴のものから、旦那様のものにはじまりメイドや執事の分まで、全て手がける。もちろん、一人では不可能であるから、当番制で他のメイドや執事も手伝ってくれるが。

 料理をしている時が最も心が安らぐ。正確に言うならば、料理をする前の下ごしらえの時間が。肉の筋と身を切り離して行く作業。魚の骨と身をゆっくりと剥がす時間。野菜の芯と刃を丁寧に分けてゆく作業。そのどれもが僕の手先をエクスタシーで震わせる。形あるものをゆっくりと崩していく、そんなゲシュタルト崩壊の時間。それがたまらなく好きなのだ。

 だが、そんなことを露ほども知らない仲間は、僕が人を想いながら料理を作っていて、そのために慈愛の表情を浮かべ料理をすると認識しているらしい。都合の良いことに、自分が解体した素材への愛のため味付けまでも丁寧にすることに拘わる結果美味しい料理が出来上がる。僕はこの仕事が天職だと思っている。もしも僕がコックの半人前だったなら、サバイバルナイフで下ごしらえなど許されないからだ。だが、成瀬家の執事・メイドの全てが僕の調理方法は独自の拘わりであると信じて疑わないのだ。

 悠鳴の通う、私立マリアンヌ学園から連絡が入ったのは昼食を終え自室でナイフを触りながら、小説を読んでいた時だった。僕の休日のケースとしてはレアである。正確な表現をするならば、平日に僕が大学に行っていない方がレアなのだけれど。ナイフと戯れながらの優雅な一時は自室のドアのノック音で遮られてしまった。

「常磐、私だ」

「なんでしょう」

 執事長はゆっくりと、ドアを開けた。この人の仕草は、いつ見ても美しい。きっと、彼を形成する細胞の一つ一つが美しいのだろう。一度ナイフで事細かに分解して美しいであろう内蔵の造形を眺めてみたいくらいだ。僕は直ぐにドアのそばまで行った。執事長は、わざわざ僕の部屋に入ったりはしないからだ。少し開けられたドアから、執事長が顔だけをこちらに覗かせる。

「お嬢様がお倒れになった。今日は早退だ。早急に送迎を」

「かしこまりました」

 悠鳴が倒れた。それは約三ヶ月ぶりのことだった。さらに、僕がそれに遭遇するのは三年ぶりだ。ああ、久しぶりに来た。僕はナイフに触れる。じわり、と熱を持っているように感じた。

 私立マリアンヌ学園の外壁は高く、門は登校時間を過ぎると閉鎖されてしまうため滅多なことでは中に入ることはできない。だけど、例外はある。例えば、今日みたいに悠鳴お嬢様を早めにお迎えにあがる時など。

 門の外についている来客用のインターフォンを押し、悠鳴の執事を名乗ると暫くして門が開く。おそらく、インターフォンのカメラで確認をとっているのだろう。厳重な警備だ。セコムしてます、というやつ。門を通ると教師が迎えに来てくれていた。ジャージ姿の若い男性教師で、僕の知らない人物だ。僕はてっきり織姫の担任が来ると思っていたので、少し驚く。教師は自らを的場(まとば)と名乗った。

「お手数ですが、少し所持品を調べさせていただきます」

「構いませんよ」

 僕はたった一つの所持品、先程から手の中で戯れていた黒革張りのサバイバルナイフを取り出す。それを的場の手にそっと置いた。

「護身用、それから護衛用のナイフなのですが。できれば片時も手放したくはありません」

「はあ……、随分手入れをされていますね。申し訳ありませんが、こちらの門を出る際に必ず返しますので」

「そういうことなら、大丈夫でしょう」

 これは学校の警備上の規則なのだろう。仕方ない、諦める他ないようだ。僕がほんの少しだけ掌の渇きに耐えればいいことだ。広いとは言え、保健室から悠鳴を連れて来るだけの間だ。そのくらいなら、僕にも耐えられる。そう思っていた。だけど、予想よりも建物の奥まった場所に、保健室はあったようで的場に案内されなかったら完全に迷っていたに違いない。

「助かりました。私一人ではとてもたどり着けませんでした。来客があるといつもこうなのですか?」

 保健室に入ると、ベッドで眠っているらしい悠鳴は不本意そうな顔でこちらを見ている。きっと、僕を前にして執事を呼ばないようにすると言って登校したので決まり悪いのだろう。的場は、少し困ったように頭を掻いた。

「いえ、普段は案内する係がいます。ですが、実は今日成瀬さん、僕の目の前でお腹を抑えて苦しんでしまって。すぐに保健室に運んだのですが心配だったので直ぐに迎えに来てもらえるように僕――」

「――お嬢様は貴方を見て気絶したと」

 つい、言葉を遮るように発語してしまう。これでは的場を責めているように聞こえてしまうのかもしれない。手の渇きが気になり始めていた。手汗を拭うようにズボンのポケットに擦り付ける。そこに、今ナイフはない。声が震えぬよう、慎重に舌を動かす。悟られてはダメだ。

「貴方とお嬢様との関わりは? 担当している教科はありますか」

 だけど、今度は冷たく言い放ってしまった。的場は僕の態度が急変した原因を、自分の目の前で悠鳴が倒れたことと関係していると思っているらしく、表情が青ざめている。心なしか、声も小さい。

「い、いえ。僕、普通科コースの教師で。今日はたまたま、こちらの棟に」

 なるほど、それで。そう思ったところで、痺れを切らした悠鳴がベッドから起き上がってきた。その視線は真っ直ぐに廊下を捉えている。

「常磐、いつまで居座るつもりです。先生も迷惑でしょう」

「わかりました。お嬢様、帰りますよ」

 主らしく言い放つと、僕の横を通り過ぎ早々と保健室を出てゆく。僕もすぐさま後を追った。すれ違う際、見とがめるような視線で手元を睨まれた。僕の手は、限界で震え始めていた。

 まだ本調子でない悠鳴が再び倒れぬよう、一定の距離から見守りつつ後方を歩く。僕が追いついたことを足音で判断したのだろう。目線はそのままに、悠鳴が話し始める。

「常磐。ナイフを持っていないわね」

「的場先生に預かっていただいております」

 僕は更に後を歩く的場の方へ振り返った。

「返していただけますか? 身を守るのに重要なものなのです」

「ああ、構いません」

 的場は、地震のポケットに入れていたナイフを取り出す。悠鳴がフラフラと壁に寄りかかった。

「成瀬さん!」

 駆け寄ろうとする的場を制し悠鳴の肩を支えてやる。同時に、的場には聞こえぬよう子声で話しかけた。

「歩けますか」

「常磐、あの男から、ナイフを……」

 悠鳴を支え、抱える。所謂お姫様抱っこと言うやつだ。この場合はお嬢様抱っことでも行ったほうがふさわしいのだろう。

「的場先生、見送りはここまでで結構です。僕のナイフを」

「どうぞ」

 革張りの部分が、手のひらに吸い付くような感触がした。的場は、自分の見ている光景が非日常的すぎて固まっている。それはそうかもしれない、普段は普通科コース所属の教師だ。子息や令嬢たちの集まる特Aコースでは日常となっていることも、新鮮に感じるだろう。そんな的場は放っておき、僕は悠鳴を抱えながら門へと歩き出す。

「ちょっと、歩くのが早い! それに、もう下ろしていい!」

「嫌だ、面倒くさい」

 早く。早く早く門の外へ。僕の頭にはそれしかなかった。手が疼く。手が渇く。手が、手が肉を求めてやまないんだ。

「常磐? ああ、貴方まさか、この短時間でそうなの? ああ!」

 乱暴気味に、だけど転んで傷つかぬように悠鳴を下ろす。革張りのナイフ。その刃先の真っ直ぐを、捲ったシャツの袖の中、自らの肌色に押し付けた。そう思った。

「っ痛、い」

「お嬢、さま……?」

 自分のそれよりも幾分も白いそれが、赤く筋を引いている。次第にそれが染み渡り、まるで悠鳴の唇のように見える。それもそうだ、悠鳴本人の手がそこにはあった。

「ああ! 何て、ことを」

 赤い血。悠鳴の陶磁器のような肌に染み込んで。赤い筋、白い肌に滲んで。紅い――。


 木漏れ日が美しい庭だった。疲れ果てた体ではろくに動けない。自分が何者であるかもわからなかった。ただ、追っ手から逃れてきただけだ。捕まっては殴られるうちに一部の記憶を失ってしまったらしい。身も心も疲れ果て、何もかも捨てたい気分だった。自分が何を持っているかもわからなかったが。気持ちの良さそうな芝生の上に寝そべると、そこが己の最期に最もふさわしいように思えた。左手にはサバイバルナイフ。幾度も人を突き刺し、血錆が取れない。だけどそれを手放すことは、恐怖でしかなかった。

「貴方、だあれ?」

 初めに目に入ったのは、血の色をした唇だった。すぐに、上品なブラウスを着た少女であるとわかった。真っ白な服に、真っ白な日傘をさしている様はさながら、天使のようで僕はその時初めて死なたくない、そう思った。

 ヅブリ。そんな感触だったと思う。気がつくと目の前の天使は腹部を抑えて倒れていた。真っ白なブラウスに、血が滲んでいた。僕の右手には血の付いたナイフが握り締められていた。


「落ち着いた?」

 前髪の生え際を撫でられている。どうやら今度は僕が気を失ってしまったらしい。髪を撫でるその手には包帯が巻かれていた。血は、滲んでいない。

「お嬢様、ここは」

「まだ、学園の玄関よ。少し木陰に入ったの」

 腕時計を見やる。ほんの五分しか経過していないようだった。そんなことよりも。僕は勢い良く立ち上がる。悠鳴は少し残念そうにあ、と言って不思議そうにこちらを見上げてきた。

「お嬢様。その手、私を庇われましたね?」

「だって。大丈夫よ、父には転んだ際に気にでも引っ掛けたと言いましょう」

「そういう問題ではありません」

 だって。悠鳴がその先に何と言おうとしているのかは想像がつく。これ以上僕に傷を増やしたくないと言うのだろう。

 僕の右腕には、無数の傷がある。これは、僕が発作を起こした時に自らの腕を犠牲にすることで他人を傷つけぬようにするためのものだ。発作というのは、一言では説明しにくい。それは常に起きているので発作とは言い難いのかもしれないし、衝動と言ったほうが近いのかもしれない。きっかけは様々で、突発的に起こったりもする。対象は何でも良い。とにかく、手にしたサバイバルナイフで肉を、切りつけたくなってしまうそれの事だ。

「大体にして、最近の貴方は少し白々しいです。まあ、大学に通えと言ったのは私だけど、何も言葉遣いまでそんな風に他人行儀にならなくてもいいと思うの」

 そう言って、血色の唇を尖らせる。

「勤務中ですので」

「何が勤務中よ。去年まではそんな風じゃなかったわ」

 そう言われて、言葉に詰まる。確かに、少し接触を避けていた。それは、最近になって衝動が起こる頻度が高くなったからだ。だが、それを悠鳴に伝える気はない。

「私なりにお嬢様も、お年頃だと感じていて配慮させていただきました」

「嘘。最近悪い癖がまた激しくなったのではなくて?」

 流石に長い付き合いだ、悠鳴には全てお見通しなのだろう。油断していた隙に袖を掴まれ、右腕を露出させられてしまった。血の滲む包帯だらけであまり綺麗なものではない。

「不潔です。離しなさい」

「汚くなんかないわ。ああ、可哀想に。ずっと我慢していたの? だけどこれで暫くは収まるのではなくて?」

 そう言いつつ、自らの包帯に視線を向ける。僕の悪い癖は、悠鳴を犠牲にすることで一時的に抑えることができる。その証拠に、今は全く手の渇きを感じなくなっていた。理由ははっきりしないが、幼き日に悠鳴の腹部を刺したあの日以来、僕はまるで飢えているかのように肉を求めるようになったのだった。

「だけど」

 だけどそれは、悠鳴の身体に傷を増やすことになる。それはあってはならない事だ。悠鳴は、僕の命の恩人なのだから。悠鳴と出会ったあの日、腹部を刺された彼女は両親に嘘をついた。大人の男が突然刺してきたと。それを、僕がナイフで庇ってボコボコにされたのだと。彼女のついた嘘は、僕を執事として成瀬家に仕えさせた。それは、僕に常磐と言う名前だけでなく住む場所も、食べ物も、教養さえも与えた。

「私は構わないのだけど。常磐がそれを嫌がるのならば無理強いはいないわ。帰るわよ。執事長に叱られてしまうわ」

 ポケットのナイフにそっと触れてみる。ナイフはまだ温まっているように感じる。悠鳴の血を吸っても未だ、萎えることのない渇きを主張しているようでゾクリとした。ああ、そうか。まだ彼が残っているからだ――。僕はその時になってはじめて、何故今日に限って衝動が起きてしまったのかを悟った。ここ数ヶ月の飢えは、このためだったのだ。


 あの日。木漏れ日の下で悠鳴の腹部にナイフを突き刺した日。それ以来、後遺症が残ったのは僕だけでない。双方にとって衝撃的な出来事であったから、悠鳴もまた、その影響を受けた。本人は無自覚だ。自覚させたくないし、これからも僕が解決できたらいいと思っている。それが、僕ができる唯一の恩返しであるから。

 悠鳴の傷は、彼女を物理的に傷つけようとする人間と目を合わせたとき、壮絶な痛みを持って彼女を苦しめる。結果彼女は人混みを嫌うようになった。人混みの中に長時間いるほどそういった人間に遭遇しやすいので、それに比例するように傷が痛む頻度が高いからだ。もっとも、悠鳴自身はストレスによるものであると認識しているようだ。成瀬悠鳴は知る人ぞ知る大財閥の令嬢、いかにも弱く脆そうな彼女を見て、悪巧みを考える人間もいる、結構少数。

 的場と言う教師。彼も例外でなないのだろう。ちょっとした出来心かも知れないし、それが悠鳴に危害を加えるとは限らない。人間、令嬢を見るとふと魔が差してしまう瞬間もあるだろう。だが大方は理性にてちゃんと制御されることが多い。しかし、希に理性が負けてしまう人間もいる。その場合僕はその人間を抹消しなくてはならない。彼女が自分の傷について真実を自覚しないために。こっそりと、自然な形で。ポケットの中のナイフを、よく手入れがされていますね、的場はそう言った。それはナイフを所持している者のセリフだ。ナイフを管理したことがある者でなければ、まず手入れしていることにも気づけない。

 黒革張りのサバイバルナイフ。悠鳴のくれたナイフ。これを貰ったのは、悪い癖が出始めた頃だ。元々持っていたナイフを失った僕に少しでも気が紛れるように、そう言って彼女はそれを与えた。その日から、ずっと持ち歩いている。手放す機会は、少ない。革の貼ってある持ち手の部分は、使い込まれているせいか艶やかだ。


 僕の一日は、この悠鳴から貰ったナイフを刃零れがないかチェックするところから始まる。少しでも違和感があると、即座に磨き左ポケットへ。講義時間までの業務(主に食事の用意)をこなし、講義を受ける。こう見えて僕は医学生だ。講義中も片時もナイフから手を離さないで過ごす。だけど、実習の時は話が別だ。模型や人間のそれに近い他の生物の内蔵を切り離す時にはメスを使用する。

 今日は14時から講義を受けるだけだ。まだ学年の低い僕はスケジュールがそれほど過密でない。今日は病理の講義。メスを使用しない授業は、苦痛だ。だが、悠鳴の好意で通わせてもらっている大学であるから、成績を一定の水準で保つことは必須である。

 長い90分間を終え、眠たい頭を叩き起こす。ナイフに触れると、ほの暖かいように感じた。悠鳴を迎えに行くには少し早い時間だ。今日のように、悠鳴の送迎に間に合う日は、成瀬家のベンツでの登校となるので少し憂鬱になる。僕は大学に友人がいない。というか、作る暇がないのだが。そのため勝手に良い家の子息であると勘違いされている。悪い気はしないし、あながち間違いでもないが。そんなことを考えつつ成瀬家に帰るには時間がなく、悠鳴を迎えに行くには少しだけ早い時間をカフェテリアで潰す。コーヒー片手にスマートフォンをチェックするとメールが1件、悠鳴だ。

 執事の制服でない大学向けの服装、左ポケットにはサバイバルナイフ、右腕には時計。だけど乗ってる車はベンツで両手には純白の手袋。一応、あまりだらしのない格好で悠鳴の前に出るのは良くないから髪も纏める。執事長が見たら何と言われるか想像するのも空恐ろしい中途半端な服装だが、主の呼び付けとあらば仕方ない。交通規則など丸無視だ。

 学園の高い外壁を登る。今は、門が空くのをのうのうと待っている暇はない。何故ならメールには「たすけて」その一言だけが書かれていたのだから。幸いにして今日の服装が若い男性教師の良くしているようなワイシャツにカーディガンというシンプルなものであったから、あまり目立たずに行動できている。校内を走り回ること約15分。僕の手は悠鳴に近づくにつれ段々と渇きが強くなるから、それがより強く感じる方向へ向かって走る。渇きに従って走り続けると、物置となっている古い教室に辿り付いた。正直、朝送迎してから8時間近く悠鳴に会っていないので、僕の手は疼いてしょうがない。だけど、この渇きは嫌いではない。

 そんなことよりも、悠鳴は無事だろうか? 案の定教室のドアは鍵がかかっているようで、開かない。だけど、わかる。中にいる。確信を持ってドアを叩く。

「お嬢様? いらっしゃいますか」

「常磐……? 常磐なの?」

「お怪我はありませんか」

「怪我はないわ」

 一先ず、この中にいる間は悠鳴は無事だろう。そんなことよりも、悠鳴を襲った人物はここに悠鳴を囲ってどうするつもりなのだろうか。想像はつく。身代金目的の誘拐だろう。

「顔はわかりますか」

「それが、わからないの。今日、また胸が痛くなって苦しんでいる時に背後から近づいてこられて……」

「なるほど」

 犯人は必ず一度ここへ戻って来るだろう。身代金目的ならば、金を受け取るまでは悠鳴の安全は保証されていなければならないからだ。とにかく待つことにして、ドアの前に座った。暗い教室の中で、一人で待つのはさぞ心細うであろう悠鳴に話しかけてやる。

「お嬢さまー。おトイレは大丈夫ですかー」

「まだ大丈夫。それよりもよくここがわかったわね。悪い癖、今は収まっているのでしょう」

「まあね。体調は悪くないか」

 こうして悠鳴と話すのは数ヶ月ぶりだ。年の近い僕たちは、仲良くなるのも早かった。

「大丈夫。貴方がそうやって話してくれるの、なんだか久しぶりな気がするわ」

「そうだっけ?」

「そうよ。だって、最近妙によそよそしいんだもの」

「それは、手が」

「私は貴方のためなら傷くらい増えても構わない」

「それは俺が嫌なんだって。だいたい、悠鳴は何でそこまでするの」

「目よ。貴方の目が好きなの。私のこと、お嬢様だからって特別視しない、貴方の目が好き」

「分別がつかないガキだってことさ」

「だけど、それで救われている人間だっているわ」

「それと悪い癖の犠牲になることは無関係だ」

「私は常磐に救われたの。だから、お返しがしたいの」

「じゃあさ……っ」

 その先を言う暇はなかった。犯人のお出ましだったからだ。

「悠鳴、少し静かにしてろ」

 それは、この学校の男子生徒だった。僕の知らない生徒だ。悠鳴の友人はごく少数であるため、その全数を把握している。だけどその男は違う。見たところ、普通科の生徒のように思える。特Aコースの生徒は、良い家の子息であるので独特の雰囲気があるし、腕章をつけているからだ。その男子生徒はスマートフォンを片手に何か話しながら、こちらへ向かって来る。僕を一瞥すると、チッと舌打ちをした。

「あんた、誰」

「通りすがりの特Aの臨時教員です。明日の授業で使う資料がここにあるらしいのですがどうにも鍵がかかってるみたいで」

「俺が持ってます、と言いたいところなんですが」

 男子生徒はスマートフォンを切り、ポケットに入れる。時刻は20時、校舎の中には数人の教師しかいないだろう。

「少し、話しませんか」

「進路相談ですか。いいですね」

 瞬間、左頬に風圧を感じる。反射的に避けた、どうやら間一髪で右ストレートをくらうのを防げたらしい。そのまま男の腕を掴んで背負い投げすると、受身が取れずに気絶してしまった。高校生にしては非力だ。こんな奴が、どうして悠鳴を監禁したりしようと思ったのか。ポケットを探ると、鍵は直ぐに見つかった。何て安易な。本当に、こんな素直な人間が犯罪を犯そうとするのだろうか? 僕は何とも言えない違和感を感じたが、今はそれについて考えている場合ではない。先程から不安であろう悠鳴を早く救出せねば。

 鍵を開けると、疲れてしまったのか悠鳴は中で眠っていた。それを起こさぬように慎重に抱えると、もう暗くなってしまった廊下を歩き出す。起こさぬように、ゆっくり。廊下の窓から見える月が美しい。こんなところを教師にでも見られたらどうなってしまうのだろう。何も考えずに突っ走ってしまったが、不法侵入だ。

「常盤さんじゃないですか」

「的場先生」

 一瞬ドキリとして聞き覚えのある声に呼ばれて振り帰ると、的場だ。残業でもしていたのだろうか。少し驚いてはいるが、彼なら話が通じるに違いない。

「こんな時間にお疲れ様です。成瀬さん、また気絶したんですか」

「寝ておられるだけですよ。お嬢様は、そう頻繁に気絶される方でないのはご存知でしょう」

「そうですよね。この短期間にそこまで気絶しないですよね。それにしても、執事って大変ですね」

「いいえ、仕事ですので」

 的場に案内され、校門まで来ることができた。正直、この学校は広いので出口を見つけるのも一苦労だ。

「ありがとうございました。危うく迷うところで」

「いえいえ、係の者と逸れてしまったなら仕方ないですよ」

 ポケットに手を入れる。ナイフがほの暖かい。先程から、手が渇いて仕方ない。だけどそれは、的場から遠ざかると和らいでしまった。まるで、悠鳴から遠ざかると和らぐ時のように。

「的場先生って優しい人ね」

 帰りの道、ポツリと呟いたのは悠鳴だった。

「貴方も、今日は珍しく優しかったわ。あの生徒のこと、的場先生に言いつけたりしなかったの?」

「そう言うの、お嬢様が嫌うでしょう」

 本当のことを言うと、的場は彼が悠鳴の誘拐しようとして、失敗したことを既に知っているのではないかと思ったからだ。それでいて、彼に言ってもあの生徒が処分されるとは思えなかったからだ。

「ふうん、珍しい。貴方、私のことが絡むと結構見境無いのにね。まあ、的場先生に言っても彼、秘密にしそうだしね」

「案外、頭の切れる人物のようです」

 的場の近くにいるときの手の渇き、そしてあの言葉、強い衝動が起きたこと。何より、的場から離れると手の渇きが割と収まること。その全てを考えても、悠鳴に対する大きな闇が彼の中にある気がしてならない。だけど、今はそれを解決する時ではない、そんな気がする。もっと、大きなことが起きる前に防ぎたいのは勿論だが。

「へえ。常磐が他人に興味を示すなんてね」

「私自身、的場先生に興味を持ちました。もう少し交流を深めたい」 

 的場の悠鳴に対するそれが負の感情であったとしても、利用する価値はある。多分、あの男子生徒を仕向けたのは的場だ。それは直接的ではないのかもしれない。だけど、彼が何か関わっているという予感がするのだ。証拠も根拠も何もないが。

「貴方と的場先生はとてもよく似ているわ」

「どこが。むしろ正反対ではないですか」

 証拠に悠鳴はあの日、的場の目の前で倒れてしまったではないか。言い訳のようにそう思ってしまうのは、認めたくないからだろうか。

「知らないの? 正反対のものほど、その性質は近いのよ」

 すっかり暗くなってしまった道を、リムジンで走る。こんな時間の帰宅とあっては、夕食が出来上がってしまっているだろう。執事長になんと言われるか、と言うことよりも食材を切る時間を奪われてしまったことのほうが気になる自分が憎い。

 僕の手の渇きは、悠鳴の存在によって生み出され、悠鳴の存在によって緩和される。彼女を切り刻んでしまいたい。だけど、彼女を守りたい。そんな葛藤がいつでも僕の中にある。普段は彼女を守りたい理性が勝っているが、もし理性のたがが外れてしまったら。

「俺はきっと、的場よりも危ない存在だ」

 感情などではない。それは、本能であるからだ。猫が鼠を追うように。蜘蛛が虫を食べるように。そんな風にいつか、悠鳴を傷つけてしまうのが怖い。本当は逃げてしまいたい。だけど、悠鳴に仕える他に生きる理由もない。

 後部座席で悠鳴が何か小さく呟いたように思えたが、それは夜の街の音にかき消されてしまった。ポケットの中のナイフは、熱を失っていた。













初めまして。紗英場渉といいます。

知ってる方、お久しぶりね。

詰め込み防止したら中途半端な仕上がりとなりました。

シリーズ化があり得そうですが、つづくかは不明です。

今回頭のおかしい主人公を書きたくて始めたものの、思いのほかスイスイかけて、自分で引きました。

楽しんでいたけたら幸いです。

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[一言]  狂気的な思考を持つ常磐と、それに惹かれるように淡い感情を抱く悠鳴。不思議な高揚感を覚えました。  小説を書くにあたって、登場人物(主に主人公)が、作者自身の代弁者になってはいけない、とい…
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