自由な空
『日常に魔法が溶け込んでいる世界』というだけの設定で、魔法自体はあまり出てきません。
僕は、大空、というものを見たことがない。
見ることができるのは、鉄の棒で四つに分けられた、小さな隙間の大きさだけだったから。
分けられていない空を見たことがあったような気がするけれど、いったいどれほど前だったか、思い出せない。
いつもは差し込まない光が顔を照らし、眩しさに目を細める。それを遮るように、手を伸ばす。
ジャラ、と鳴る鎖が、邪魔だった。
○○○
僕はいわゆる、異端と呼ばれるものだった。この国において、あってはならない魔法を持つ者。自分の意志で得たものではなかったけれど、どうしようもなかった。
両親は僕を嫌悪し、厭悪し、憎悪したらしい。産まれてすぐにこの牢に幽閉されたから、本当のところは解らない。それ以前に両親の顔も、わからないのだけれど。
「どうして、僕、なのかな」
冷たい剥きだしの床に横たわって、唯一の光源を見上げた。
そこは一応『窓』と呼ばれていたが、名ばかりのそこには、この空間と外を遮るものはなかった。あるといえばあるけれど、脱走を防止するための鉄の棒では、何一つ遮れない。唯一、僕の身体を除いて。
実質何もないそこからは、風に乗って細かい雪が吹き込んでくる。けれどそれは、僕の身体に触れる前に溶けていった。
「……ゆき」
この国を造る、全て。
僕が決して、触れることのできないもの。
ただ無意味に通り過ぎていく時間が嫌で、足掻くように手を伸ばす。その腕から上る白い湯気に、顔を歪めた。
「そと、出たいな……」
叶わない望みに、伸ばした腕が力を失った。
○○○
それは、ただの偶然だった。
本日担当の看守が大の酒好きの男で、昼間から浴びるように酒を飲み、崩れ落ちるように寝てしまったこと。四肢を戒める鎖の右手首の枷が、年単位で整備されていなかったからか、運よく壊れたこと。看守が倒れた際に机の上の物を撒き散らし、ちょうど右手の届く位置に鎖と扉の鍵束が落ちたこと。
これを逃したら、一生外に出られない。
その衝動が、僕を突き動かした。
「はっ、はっ、……!」
数年ぶりに走っているからか、がくがくと足が震え、崩れそうになる。荒い息が零れ、今まで感じたことがないくらい、熱い。
それでも、走り続けた。
最後は追いつかれてしまうとしても、できる限り、遠くへ。
今日は国で大々的に祝われる『雪祈祭』だった。参加したことはなかったけれど、国を支える雪に感謝する祭りだと、看守が独り言のように教えてくれたことがある。
今年の雪に感謝を、来年の雪に祈りを
この国で生きる人々は、雪の大切さを知っている。だから、人が多いのは仕方のないこと。看守が酒を飲んで泥酔したのも『雪祈祭』だったから。
でも、それとこれとは話が別だった。
「走りにくい……!」
どこもかしこも人でいっぱいで、誰にもぶつからずに通ることは不可能。選択肢なんてないじゃないか、と横道に駆け込んだ。
大通りから離れたそこには、あまり人の姿は見受けられなかった。
近くに誰もいない塀を選んで寄りかかり、荒い息を整える。胸元に手を押し当て、大きく深呼吸をした。
肺に行き渡る、新鮮な空気。喉の奥の水分を全部持っていかれるような感覚。
「初めて、……」
いつもの淀んだ空気では味わえない、清々しさ。
いつのまにか流れ出した涙を拭いもせず、地面に座り込んだ。
「――どうかした?」
「っ!」
突然聞こえた声に、身を強張らせた。
周囲への意識が散漫になっていたから、気付かなかった。
気遣う声は予想以上に近くて、考えろ、と混乱しそうな頭を回転させた。
どうすれば、此処から逃げられる?
僕のことがばれてしまったら、逃げられない
連れ戻されたくない
ばくばくと鼓動し始めた心臓の音が、煩い。
「俺の声、聞こえてる?」
困惑した声が降ってきて、ゆるゆると顔を上げる。
僕が反応したからか、訝しげだった男の表情が僅かに和らいだ。
「声、聞こえてないのかと思った」
この国では珍しい、漆黒の髪と双眸を持つ男は「両親と逸れたの?」と問いかけてきたから、左右に首を振った。
「親、いないから」
「……そっか。俺、カレンっていうんだ。君は?」
男、カレンの問いに小さく、スノウ、と答えると、彼は良い名前だね、と笑った。
「雪で覆われたこの国に、ぴったりな名前だ」
「……そう」
「お腹、空いてる? あげるよ」
カレンは曖昧な返事を返した僕に、手に持っていた物を差し出した。
それは、『雪餅』だった。神域である祠の傍から集めた雪を精製し、作った氷を砕いて甘く味付けした餅に混ぜて作られる菓子。雪祈祭の前後数日間だけ販売が許される、特別なもの。
化物である僕が、触れてはいけないもの
食べたかったけれど、いらない、と首を振る。
カレンは遠慮しなくていいよ、と差し出した手を軽く振った。
「俺はさっき食べたから」
「……遠慮じゃない」
「でも、食べたいって思ったよね?」
そういう顔してた、と言われ、「してない!」と否定した。
「そんなのっ……食べたいって思ったことなんて、一度もない!」
「……それは、一度も食べたことがない、と解釈してもいいのかな?」
紡がれた静かな声に、対応を間違えたことを悟った。
カレンは僕を見据え、口を開いた。
「数日前にこの国に来て、『雪餅』の成り立ちを聞いたよ。神域の雪を使って作られるこれを食べることによって、魔を祓う。だから、この国には毎年一つ『雪餅』を食べる風習がある、って」
「……」
「さっきの言い方では『食べたくないけど、食べさせられた』とも考えられる。けど、両親がいないという言葉を信じれば『食べたことがない』というほうが、しっくりくるんだ。だから、訊きたい。君は、どうして『雪餅』を一度も食べたことがないの?」
「……」
「それとも、食べられない?」
「……知らない、から」
問い詰める様に言われて、僕はカレンを強く見返した。
「僕がなんなのか、知らないから。だからそうやって、押しつける。何も知らないくせに……!」
「聞いたら、教えてくれるの?」
「それは……」
「そんな気、ないよね。なら、仕方ないよ」
カレンは諦めたように笑う。そして、ゆっくりと手が伸ばされた。
「俺はね、君にこれをあげたかっただけなんだ。だから嫌なら別に――」
カレンの声が、遠くに聞こえた。
少しずつ近づいてくるカレンの手だけが、やけに鮮明だった。
僕に触れたら、殺してしまう
「――触らないで!」
脳裏に浮かんだ言葉に脅え、振り切るように叫んだ。
突然のそれに身を強張らせたカレンの脇を通り、路地から飛び出した瞬間。
「――いたぞ!」
「っ、いや、……!」
兵士の声が響き、それに振り向いた直後、棒のようなもので殴打される。勢いよく吹っ飛ばされた僕は、近くの壁に強く頭を打ち付けた。
それが、引き金だった。
僕を中心として周りを舐める様に広がる、炎。それはこの国で最も大切とされている雪を、片っ端から溶かしていった。
「っ、この化物が!」
恐怖に歪んだ兵士達の言葉を無視し、僕は虚ろな瞳で炎を見つめた。
熱さを知らしめる赤ではなく、冷たさを感じてしまいそうなほどの青。
僕に危害を加えるもの、触れる生物全てを、燃やし尽くす。
雪を意味する『スノウ』という名の、『炎の異端』
視界の隅に、目を見開いたカレンが見えた。
彼もまた、僕を否定する。
もう、いいや。
全てを拒絶するように、瞳を閉じた。
○○○
僕が脱走してから、何日が過ぎたのだろう。
今まで定期的に与えられていた食事が極端に減らされ、生きているだけで精一杯だったから、よくわからない。
これが、逃げ出したことに対する罰なんだと思う。体罰は行った人間が死んでしまうし、餓死させるのは国で信仰している、人との繋がりを象徴する神を裏切ることになるから。
でも、死ぬ一歩手前のこれを、生きていると呼んでいいの。
ここまでしながら神を裏切っていないと言い切れる彼らが、いっそ清々しい。
誰でもいいから、殺してくれないかな。
そんなことを、ぼんやりと思った時だった。
金属が触れ合う音がして、重い扉が開かれる。そして、近くに鍵が投げられた。
「出ろ」
「……?」
「さっさと出ろって言ってんだよ」
苛々とした様子で吐き捨てた看守に視線をやる。
何が起きているのかよくわからないけど、出ればいいのかな。
回らない頭でどうにか導き出し、ろくに栄養を取っていない身体に叱咤して鍵を外す。
隙を窺うように逃げたあの日とは違い、見張られながら外に出ると、看守は国の外を指さし、行け、と言った。
「王からの命令だ。『この国から出ることを許す。ただし、決して戻ってくるな』」
「……まあ、そうですよね」
戻ってこられたら困るだろう。戻ってくる気も、ないけれど。
曖昧に答え、看守が指を向けた先に歩き出した。
外に出るなという通達がいっているのか、通りには誰一人いない。だから、誰かにぶつかってしまう心配をすることなく、足を進めることができた。
「……どうして、外に出してもらえたのかな」
歩く以外にすることがなく、浮かんだ疑問を口にしてみた。
この国で生まれた人間を国外に出すことも、人との繋がりを蔑ろにしたとみなされる。それは神を裏切ることと同義。だからいままで、ずっと幽閉されていた。
それなのに、どうして。
「……僕が、この国の人間だと思われていないだけかもしれない」
それはそれで、どうでもいい。
投げやりに呟いて、いつの間にか止まっていた足を前に出した。
僕はこの国が、大っ嫌いだから
○○○
「……なんで」
擦れた声が、僕の鼓膜を震わせた。
「スノウを外に出してくれるように頼んだの、俺だから。そんなに驚かないでよ」
言われた通り国の外に出ると、其処にはカレンが立っていた。
カレンは苦笑すると、僕に手を伸ばした。
「っ!? なに、するの……!」
それを間一髪で避け、強くカレンを睨みつけた。
「僕のこと、もう知ってるよね」
「『炎の異端』についてなら、説明できる程度に」
「なら、どうして触ろうとするわけ!? 死んじゃうんだよ!?」
大きな声を出したからか、目の前がくらくらする。それでも足に力をいれて、声を張り上げた。
「僕は誰も殺したくなんてない! でも、そういう体質なんだよ! どうしようもないんだ! だから、僕に触らないで!」
「……体質は、どうにもならないよね」
カレンはしばらく黙っていたが、悲しげに笑うと言葉を紡いだ。
「自分の意志ならどうにかなる。けど、体質はどうしようもない。それくらい、わかってる」
「わかってる……? そんなわけない! わかるわけない!」
「わかるよ」
カレンの言葉を否定するように、強く頭を打ち振るう。
それが、いけなかった。
「何も知らないくせに、わかった風に言わないでよ――!?」
栄養の足りていない足が、左右に動く身体を支えきれず、ぐらり、と傾く。徐々に回転していく視界の中で、カレンが手を伸ばしているのが見えた。
「触ったら――!」
カレンは僕の声を無視して、強く手首を掴んだ。
触れられた部分が、熱い。直後、僕はカレンの腕の中にいた。
カレンを、殺したくない。
強く抱き込んで放さないカレンに、悲鳴のような声を上げた。
「――っ!? 放して――!」
身体の奥で荒れ狂う炎を、抑えることができない。
見たくない、と強く目を瞑った一瞬後、噴き出した炎がカレンを襲った。
「――スノウ」
少しして、先程と同じ調子の声が鼓膜を揺さぶり、ばっ、と勢いよく顔を上げた。
カレンは炎に包まれながらも、いつものように僕を見ていた。
「なんで、燃えてないの……!?」
「……さっき、スノウの体質についてわかるって言ったでしょ。それはね」
俺自身が、そうだから。
カレンは僕の頭を抱えこむと、一層強くなる炎に頓着せず口を開いた。
「俺は『魔法を壊す者』なんだ」
「壊す……」
「この世界で誰もが持っている魔法具。それを、壊してしまう。触れただけでね。そして、俺に向けられる魔法の全てを無効化する。だから、誰にも触れることができない。生まれた時からの体質なんだよ」
俺に、スノウの炎は効かない。
「ほん、とうに?」
「だって今、元気でしょ?」
信じられなくて問うと、カレンは優しげに笑った。
カレンから与えられる人の熱は、今まで感じたことがない感覚だった。先程まで、一生無理だと思っていたもの。
「――ねえ、スノウ。俺は、君に逢いにきたんだ」
突然カレンが言った言葉に、僕は首を傾げた。
「というより、逢う未来だった、かな?」
「……どういうこと?」
逢う未来。
よくわからない、と呟くと、カレンは「俺の一族のことなんだけど」と言った。
「昔、ずっと遠い島国に一族の祖先が住んでいて、占いを生業にしていたらしい。そこで使われていた言葉はそれぞれ意味を持っていて、占いは言葉が大切だから、その島国を離れた今でも、それを受け継いでる」
カレンは僕の手を取ると、掌に自分の指で二つの文字を書いた。
「でね、今でも一族に子どもが産まれたら、その子にとって生涯最も大切になるものを占う。そして、それに因んだ名前を与えるしきたりがあるんだ」
カレンは文字を書いた僕の手を両手で包み、それに額を押し当てた。
「俺の名前は、火恋。意味は、『火に、恋をする』」
「か、れん」
「俺を占った人は、今までに見たことがないほど美しい青い炎がみえた、と言っていた」
だからそれは、スノウのことだよ。
カレンは僕を再び抱きしめると、運命みたいだね、と笑った。
「人に触れられない、俺とスノウ。でも、その二人なら、触れ合える」
「そう、だね……」
僕とカレンの周りを青い炎が踊っていたが、それは誰も、殺さない。
それがただ嬉しくて、零れそうになる涙を堪えるように上を向いた。
幽閉されていた時と同じ空。でも、見える範囲は比べものにならなくて。
癖のように、空に手を伸ばす。
それは、包み込むように掴まれた。
望まれない人はいない、といった内容を目指して書きました。
読んでいただき、ありがとうございました。