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ALICE  作者: みれにあむ
第一章 In a Movie Theater
3/9

第一章 In a Movie Theater(3)

 ようやく副題の映画館に向かって歩き始めました。

 はっはっはっ・・・キーワードが完璧ネタバレしてますね。


 世界観的には、このあたりまで一気に読めた方がいいかと、連続投稿してしまいました。

 日にちを空けて点数入れてもらった方が、みてもらえる人は増えたのかも知れませんが・・・

(3)

 あの時のクロレも、キラキラと輝いていた。今はこの街流に亜理朱と当て字を嵌めている、アリスの大切な思い出だ。

(そういえば、家で着ていた服は全部、父さん達が私のためだけに作ってくれたものだったっけ……)

 本当はみんな父さん母さんと言ってもいい、六人の家族と暮らした時間。今はもう遠い空の下。一体あれはどこにあったというのだろう。

 一体何があったのか、この街に来る前後一年程の記憶が定かでない。今は街の生活の方が遙かに長くなってしまって、まるであの頃の記憶は全て夢だったのではないかなんて考えてしまう時もある。

 でも夢じゃない。帰りたいあの頃も、探し出したい家族も、みんなで暮らしたあの家も、嘘でないことは街の人間とは違うこの躰が教えてくれる。

(キラキラ光る小枝……キラキラ光るクロレ……キラキラ光るアリスの想い出)

 こんなにも切なくて、苦しい程に街の外へと恋い焦がれるようになったのは、ここ最近のことになる。この街に拾われて十二年、ここはアリスの居場所じゃないのに、帰らなきゃいけない場所があるのに、なのに本当に街の外へ出ることは考えることもしないでいたのに。

(多分、考えなかった方がおかしかったんだ……)

 本当に、一体何があったのだろうかと思う。

 父さん達との生活は細かなことも憶えているのに、どうしてアリスがこの街にいるのか、そこだけが思い出せない。(うろ)覚えに憶えているのは、今暮らしている施設に来た初めの頃に、街の外で倒れていたとかそういう言葉を聞いた記憶があるばかり。それにしてももうその頃のことを憶えている人なんていないから、実際何があったのかはわからない。

 昨日と変わらない今日。今日と変わらない明日。そう思いつつ過ごしてきたツケが今になって現れてきているのだろうか。年々歳々花相似たりと言ったところで、歳々年々人は変わっていくのだ。ずっと昔クラマ父さんに教えて貰った古詩の通りに、今懐かしいあの家に帰ったとしても、そこにみんなが待っているとは限らない。

 だってアリスがこの街に来てから、十二年も過ぎているのだから。

(十二年…………十二年もなんて…………)

 過去の思い出からぼんやり現在へと視線を戻すと、前を跳ねる何かが目に映る。

 ぴょこぴょこ動いている薄い金髪。その三つ編み。初めて出来た学校の友達。

 ぴょこぴょこぴょこぴょこ揺れる三つ編みに、思わずアリスはそっと手を伸ばした。

「ねぇ、亜理朱――亜理朱ったら! …………ああっもう何すんのよ!」

「えっ?」

 急速に物思いから覚めながら、ついで教室を見渡そうとしたアリスは、しかし目の前で飛び跳ねていた三つ編みの持ち主の、灰色をした眼差しに引き留められた。

 ずっと耳元で呼び掛けていたのだろうか。二つの金の三つ編みも今はその動きを止めて、今は心配気にアリス……いや亜理朱の顔を覗き込んでいる。

 そっと亜理朱は掴んでいた三つ編みを離すと、

茉莉花(まりか)…………おはよう」

 寝惚け眼でおはようを言った。


 白日夢から覚めて、いの一番に彼女と(まみ)えるなんて運がいい。過去の余韻にうっとりと夢見心地に浸りながら、ぼんやりそんなことを思っていた。

「うん、おはよう! 亜理朱……じゃなくて!」

 腰に手を当てて仁王立ちになる少女。一つ大きく溜め息を吐く。

 色素の薄い金色の髪をした、亜理朱よりもまだ掌二枚分は背の低い小柄な少女だ。睨み付ける顔もまだあどけなく、今年中学校に上がったばかりだと言っても通じる可愛らしさがある。

 尤も本人は発育の悪さを気にしているから――そしてそれは体の弱さにも通じるから――それはあまり話題に出来ることでもなかったけれど。

「もうチャイム鳴っちゃったよ」

 そう言って返答を待つ親友の茉莉花。

 それまでもクラスメートはいたけれど、友達だと思えたことはなかった。

 ドラマではない言葉。臨機応変な反応。反射的に台詞を返したりもしているけれど、誤魔化されないでちゃんと突っ込みを入れている。

 亜理朱がそこにいたことも大きかったのではあるだろう。けれど実際に目の前で動いている自由な友人とその振る舞いは、亜理朱にとって泣きたくなるくらいの反応の違いがあった。

「あ、授業終わったんだ」

 茉莉花が立ち歩いていることで、やっとそのことに気が付く。

 茉莉花は暫くどうしてくれようかと悩んででもいるように、眉間に皺を寄せて亜理朱を睨んでいたが、口を開くと、

「四時間目のねっ!」

 どうしようもないとばかりに糾弾の声を投げ捨てた。

 ぼんやりと茉莉花の顔を眺めながら、その言葉の意味を考える。

 四時間目……先生に当てられたのは、三時間目の国語の授業だ。

「…………ああっ!」

 はたと手を打つ。

 没頭すると周りがわからなくなるのは、今も昔も変わらないらしい。

「遅い~~。…………もう、どうしちゃったのよ、亜理朱」

 まるで夢の続きかのように、気遣う眼差しが亜理朱を見ている。

「心配いらないって。――ん~~……寝てたから?」

「嘘。目を開けてたし。顔の前で手も振ったんだよ」

「……窓の外を見ていたわけじゃないもの」

 そう、見ていたのは遠い昔の幻だ。

 亜理朱は軽く教室を見回して、自嘲気味に首を振った。

「……ノスタルジアに浸っていたのよ」

 街の住人は自覚無く街ぐるみのノスタルジアに巻き込まれていて、亜理朱は一人自分自身の過去をノスタルジックに夢見ていた。

 じゃあ、今目の前にいる茉莉花は一体何だろう?

 昔を懐かしむわけでもなく、極自然にそこにいる。

「うわ、似合わない」

 そう言って逃げる茉莉花が、キャラキャラと跳ねるように笑った。

 茉莉花と出会ったのは、中学校の入学式でのことだ。あの時体育館の入口前で、集まった子供達は、入場を待って並んでいた。

 寝坊したのか迷ったのか、遅れてやってきた少女――それが茉莉花だった。余程慌てて走って来たのか、胸がせわしく上下していた。

 どこへ行けばいいのかと無表情ながらも顔を強張らせて、子供達の中を右往左往していた茉莉花。――亜理朱が声を掛けたのだ。

『茉莉花ちゃん?』

 朝、懐かしい教室に集合したとき、まだ来ていない子がいると聞いて、何とはなしに張り出されていた名簿の写真を眺めていた亜理朱。写真の髪の色はくすんで見えていたけれど、実際に見た髪の金色が少し目を見張る透明さで、それも思わず声を掛けた一因かも知れない。

 弾かれたように振り向いた茉莉花。まだ表情を表すのも未熟なのか、強張った顔のままで、でも、目だけはしっかりと亜理朱の瞳を見つめていた。

『おいで。茉莉花ちゃんは三組だから、ここ、この列だよ。――みんな、茉莉花ちゃんが来たから入れてあげてね!』

 だから声を掛けたのは、本当にただの気まぐれ。もしかしたら、その頃の亜理朱はナイン――学校の外での数少ない亜理朱の友達――と出会ったばかりで、少しばかり陽気になっていたのかもしれない。

 駆け寄ってきた茉莉花は、亜理朱を見上げて、何か言いたくて、でも何を言えばいいのか分からなくて……。そんな様子で悶えていたから、亜理朱は優しく茉莉花の頭を撫でて、

『背の高さ順だから、茉莉花ちゃんは前から四人目ぐらいかな?』

そう言って、小さな背中を押したのだ。

 茉莉花は後ろ髪引かれる様子で何度も亜理朱に振り返りながらも、言われた前から四番目の場所に、何とか潜り込むことが出来た。

 それ以来の友人だ。

 もうあれから三年近くになる。入学式の時には列の一番後ろだった亜理朱も、今ではもう前から数えた方がずっと早い。茉莉花よりはまだ少し背は高いけれど、きっとすぐに抜かされてしまうのだろう。

「窓の外を眺めながら、センチメンタルに物思いに耽るなんて、配役間違えてるとしか思えないわ」

 ケタケタと笑う茉莉花。たった三年で逞しくなったものだ。

「配役……ね」

「ええ。ま、亜理朱なら、どんな役でも軽くこなしちゃうんだろうけど」

 言って茉莉花は、後ろから話し掛けてきていたクラスメートに、

「あなたにも御機嫌よう。春になったらまた会いましょう」

 さようならでも言われていたのか、動物が主人公の人形アニメな台詞でお別れを告げた。

「で、亜理朱、この後時間あるよね? ……って、何ぼけっとしてんのよ」

 まさしく亜理朱は呆気に取られて茉莉花を見詰めたところだった。

 そんな間にも、それぞれのさよならの台詞を言って過ぎていくクラスメート達に、

「さようなら、愛しい人よ。またアナスタシアの夜が明ける時に」

「ええ、ごきげんよう私の宏美ちゃん。月が昇る度にきっとあなたを思い出すでしょう」

 なんて芝居がかった台詞のすぐ後に、

「うん、バイバイ、またね」

 どれもドラマからの引用の筈なのに、至極自然に対応する台詞を操って、茉莉花もまたさよならの挨拶を交わしていた。

「どっちが役者なんだか……」

 感心すればいいのか困惑すればいいのかわからない、そんな微妙な心持ちで亜理朱は溜め息を吐いた。

「それは亜理朱でしょ? 茉莉花はドラマの台詞を使ってるだけだもん」

「私も……そうよ」

「そう?」

 でも確かに茉莉花のそれは身振りや手振りもなく、単に台詞を使って挨拶したというだけのことで、演技をしているとは言えない。

 演技ではないということは、台詞は台詞でも芝居の台詞ではないのかも知れない。ただ台詞の言葉を借りただけの、普通の挨拶。

「みんなも……そうなのかな?」

 自分自身のことを名前で呼ぶ茉莉花を少し懐かしく感じながら、亜理朱は呟いた。

 そうだとしたら、亜理朱一人空回りしていたみたいだ。わざわざドラマの台詞だけでは無く、身振り手振りも交えていた。

 でも茉莉花は、

「さあ?」

 と首を傾げるばかりで、そうだとも違うとも言わなかった。

「茉莉花には亜理朱がいたもん。――ね、ほら、早く帰る用意してよ」

 気が付くと、亜理朱の他はみんな机の上を片付けて、三十人くらいの部屋なのに、いつの間にかもう残っているのは十人に満たないでいる。

 時々思い出したように談笑する子供達が、先を競うように教室の外へと零れていく。

 低い冬の昼の日差しが、取り残されたような黒板を照らし出していた。残り少ない茶や金髪や銀髪の子供達が蠢いているのに、しんと静まり返っている。明るい茉莉花の声だけが響いているように感じられた。

 そんな教室。

「…………うん、ごめん。終業日だった」

 ようやく思い出した。終業日を忘れるなんてどうかしている。今日は昼までしか授業はないんだ。

「うん。亜理朱、早くっ!」

 途端に花のように笑顔が綻ぶ。

 明日から、いや、茉莉花にとってはもう今から冬休みらしいけれど、中学三年間最後の冬休み。

 でも本当は、亜理朱にとっては三回目。それは誰にも言えない秘密だけれど。

 亜理朱はじっと茉莉花を見つめて、

「うん、行こうか」

 どこへ、とも訊かずに肯いた。


 亜理朱は机の中を覗き込む。僅かばかりの教科書、ノート、そして先っぽだけ残って小さくなってしまった鉛筆。

 教室の後ろのロッカーに入れてある折り畳んだ画用紙。美術の時間に描いた想像の中の白い雲、そして澄まして座る茉莉花の笑顔。本物には負けるけど、なかなかのものだとにやり笑う。

 全部鞄の中に突っ込んだ。

 茉莉花はずっと亜理朱の後に付いてきて、金の三つ編みを揺らしていた。

 一つ一つ亜理朱の帰り支度を確かめて、満足気にうなずいていた。

 亜理朱の準備が整ったのを見て取って、当然の権利を主張するかの如く、空いた亜理朱の左手と手を繋ぐ。

 そして満足気に亜理朱を見遣るその笑顔は、最近覚えだした冷ややかな口調とは裏腹に、亜理朱といるのが嬉しくてたまらないそんな感情を溢れさせていた。

(……妹って、こういう感じなのかな)

 亜理朱も優しく見詰め返す。

「行こっ」

 茉莉花が輝く笑顔で亜理朱を誘う。

「うん」

 亜理朱も明るく頷いた。

 でもふと振り返ると、何かがぽっかり抜けてしまったような寒々しい姿を晒す教室がある。ついさっきまで子供達が溢れていたはずなのに、まるで人の立ち入りを拒むかのようなその姿に胸が騒めいた。

 勿論そんなのはただの感傷だ。明日になれば明日が来る。新学期になればまた子供達で溢れるようになるのだろう。

 でも今孤独な教室を眺めていると、そんな日が酷く遠くに思えるのだ。

 そんな風に近頃なんだか感傷的で、つい物思いに耽ってしまう。亜理朱は茉莉花に引きずられながら、軽く溜め息を吐いた。

 感傷的になってしまう理由はわかっている。茉莉花がいるから――

 今年は茉莉花がいるから、卒業式が来るのが怖い。

 亜理朱の体は、茉莉花達街の住人とは違って、機械で出来た人工臓器の塊だ。心は経験を積んでも体は成長していかない。ずっと昔父さん達と暮らしていた三歳のアリスも、今と同じ姿だった。

 身長百四十センチちょっと。中学生なら受け入れて貰えるけれど、多分生活局から高校の入学通知は送られてこない。

 でも、そんなことは今更だ。卒業式は別れの季節って昔から言われている。仕方がない。今まではそう思って受け止めてきたし、本当のところ大して気にも留めてこなかった。

(でも、今年は茉莉花がいる……)

 あるいは生活局に談判に行けば、飛び級をしてきた天才少女とか、何とでも役割を割り振って、どうにかなるのかも知れない。

 しかし、こんな虚像で成り立っているような街のお役所なのだ。そんな得体の知れない生活局に出向くことは、どうにも気が進まなかった。

 それに、高校に行けたとしても、その次は?

 それならいっそ、学校自体をやめてしまって、アルバイトで生活している少女ということにしてしまえばいいのかも知れない。

 でも、その時生活局は、この街は、与えた役割を果たそうとしない亜理朱のことを、そのまま放っておいてくれるのだろうか。

 とてもそんな風には思えなかった。

 どちらを取ることも出来なくて、結局亜理朱は茉莉花に打ち明けることも出来ずに今に至っている。

(だから余計に憂鬱なんだ)

 でも、休みが開ければ、すぐその時が来てしまう。

 それは変えられない事実なのだ。


 でも、どこか重たい気持ちを余所に、

「楽だなぁ」

 茉莉花と一緒に、もう子供達の姿もまばらになったリノリウムの廊下を歩きながら、亜理朱は気楽にそう呟いた。

 さっきからも何人かがさよならの挨拶をしてきたが、茉莉花が返事をしてくれるから亜理朱が喋らなくてもいい感じだ。

 少しむっとした様子で茉莉花が振り向くと、

「亜理朱も挨拶しなさいよ。みんな待っているんだから」

 険を交えて告げてくる。

「台詞は嫌い」

「またそんなこと言って」

「台詞以外の言葉には、返事もしてくれない街の人も嫌い」

「また……そんなこと言って……」

「そんな住人ばかりのこの街も、本当は嫌いだった」

「…………」

「でも、茉莉花は好きよ」

「……もう! そんなこと言って!」

 今度は照れ隠しにそう叫んで、ぷいっと横を向いてしまう茉莉花。

(そして、そんな街から出ることも出来ない自分自身も嫌いだった)

 でも、それも少しずつ変えていけることなのだろう。茉莉花が変わっていったように。

 ずっと何も変わらないと思っていたけれど、よくよく考えれば茉莉花の存在がそれを否定していた。

 急にその茉莉花が歩調を落とすと、くいくいと亜理朱の服の裾を引っ張った。

「ほら、今度は亜理朱の番だからね」

 見ると、もう他には見あたらない子供達の最後の残り、六人の少年少女が一緒になって、亜理朱達を待ち構えていた。

 その切なげな眼差しが亜理朱にも気になって、その前で何となく足を止めた。

 先頭に立つのは国語の時間に亜理朱が声を掛けた少女だった。少女が意を決して口を開く。語り初めは上擦った声で、でも喋り始めると滑らかに、

「アラお久しぶり、奇遇ですわね。こんなところでお一人なんて、なんて寂しいことでしょう。御邪魔でなければわたくしが御一緒してもよろシ…………」

 振りまで付けて唄うように紡がれた言葉が突如凍り付く。

 亜理朱は小さく苦笑した。

「本当にその台詞でいいの? えっと……」

 無表情に息を荒げている少女に、声を掛けようとしても名前を憶えていないことに気が付いた。

「……一緒に行く? 私も行き先は知らないけど?」

「それは駄目っ!」

 覗き見る亜理朱の問いに少女が答えるその前に、慌てて茉莉花が拒絶を示す。

「亜理朱の分しかチケット無いんだからっ!」

 そして無理矢理、

「御免遊ばせ。わたくし、先約がございますの」

 亜理朱の手を引っ張って、また歩き始めた。

 亜理朱は呆然と佇む少女達を眩しそうに見遣ると、少し微笑んで、

「…………みんな、またね。新学期には友達になろうね!」

 最後は明るく声を掛けた。それもドラマにはない台詞だ。

 だけど少女はドラマさながらにくずおれて、しかし小さくうなずいたように見えた。

 暫く無言で二人は歩いた。茉莉花が早足で歩いていて、亜理朱も少し物思いに耽っていた。

 三年生の教室は三階にある。それは経験を積んだ三年生を階段の上に置いて、経験の少ない一年生を階下に置き、階段を転げ落ちるの確立を出来るだけ低くしておく配慮なのかも知れないけれど、兎に角歩いて階段を下りて、一階の靴箱のところまで一言も喋らなかった。

 靴箱に手を掛けるに到って、漸く茉莉花は黙りをやめて亜理朱に振り返る。

「亜理朱、意地悪なんだから」

「ん?」

「普通に挨拶してあげればいいのよ。ちょっとした間違いなのに、みんながわからない言葉で揚げ足取ったりして」

「わからない? 茉莉花はわかるじゃない」

「茉莉花は! ……亜理朱といつも一緒だもん」

 態と少し意地悪にした言葉に、答える言葉は僅かに後ろめたさを含ませて、茉莉花は顔を逸らした。

 でもさっきの子供達も、いつもならドラマの台詞で適当にあしらっていた亜理朱の、普通の言葉で話しかけた問い掛けに、最後はコクンと返事をくれた。

「一緒に帰りたかったのかな?」

 少し気になっていたあの子供達の様子。上履きと下履きを入れ替えながら、亜理朱は呟いた。

「そうよ! わかってるんなら意地悪――」

 息巻く茉莉花に、すかさず亜理朱は口を挟む。

「一緒に帰ってよかったの? チケットって?」

「あっ! ………………もう、何で亜理朱が返事する時に限ってこうなるんだろ」

 茉莉花も靴箱から合成革の靴を取り出しながら、一人嘆息した。

「でも、亜理朱って一年生の時は全校生徒の憧れの的だったのに、最近ちょっとサボり過ぎよ」

 茉莉花がいうのは、亜理朱が最近はお愛想ばかりの付き合いをやめてしまったことをいうのだろう。

 何も感じず考えず、ただドラマの台詞を繰り返していたのが、それほどいいものだとは亜理朱には思えなかった。

 それに、本当はみんな喋れないだけで、普通に話しかけてもわかっているのだとしたら、きっとそれはやり過ぎていただけなのだろうから。

「必要ないじゃない。今は茉莉花がいるもの。で、チケットって?」

 八つ当たる茉莉花にアリスは訊き返す。

 尤もこの街でチケットと言えば決まっているようなものだけれど。

 その言葉に、茉莉花は一瞬目を彷徨わせてから、じっと亜理朱の目を見詰める。まだ手に提げていた靴に足を入れて、トントンと爪先でリズムを取って踵を入れる。そして今度は背中に背負った鞄を下ろしてごそごそと掻き回すと、取り出した二枚のカードを亜理朱に見せて会心の笑みを浮かべた。

「じゃ~~ん。今日のために取っておいたんだから」

 黒くてそれなりの厚みがあるそのカードには、店の名前と他には何かの番号が彫り込まれている。

「指定席チケット?」

 亜理朱は同じように靴を履きながら、それを認めて首を傾げた。

「指定席チケット……ねぇ?」

「ちょ、ちょっと亜理朱、先に行かないでよ」

 そういえば、今日は心ここに在らずな亜理朱にも、先生方は随分と寛容だった。子供達も揃って下校するなんて随分浮き足立っていた。

 それが気になってふらふらと歩き始めた亜理朱に、茉莉花は慌ててそう言うと、今度はやっぱり鞄から取り出した薄紫のマフラーを念入りに首の回りに巻きはじめる。

 それがしっかり首を覆って、それでいて首を絞めたりしていないことを確認してから、ようやく晴れてきた空の下、亜理朱が待つ明るい光の下に走り出る。

 空は高い。赫い雲も今は遠い。

 亜理朱が見渡すと、向かって左手、国語の時間に眺めていた丘の脇を抜けるように、学校の正門がある。その向こうにある並木道は、冬の様相を示して、夏の間はあんなにあった青々した葉がみんな落とされていた。

 ふと右手を見やると、端から端まで早足でも三分は掛かる広いグラウンドの中、こんなにいい天気だというのに子供達の姿が一つもない。

 ようやく立ち直ったのか、亜理朱達に声を掛けてきた少年少女、後ろから駆けてきた子供達の群れが、今はチラリと目を交わしただけで、一気に亜理朱達を追い抜いていった。

 校門の番をする女教師まで、子供達への挨拶も上の空でそわそわと落ち着きが無い。

 それをふらふらとその場で回りながら横目に見送り、ようやく亜理朱は傾げた首を元に戻した。

「何かあったっけ?」

 ずっと亜理朱の腕に纏わりつこうとしていた茉莉花が、信じられないと口にする。

「もうっ! 今日は二年振りの新作が封切りになる日なのに!」

 亜理朱は茉莉花を見やり、少し視線を彷徨わせた。

「……あ……そっか…………」

「そうよ!」

「…………そうだっけ?」

「そ・う・よ! もぉ~~、何を言っているのよ、亜理朱ぅ――」

 がくがくと亜理朱を揺さぶる茉莉花に、

「そんなん言っても、施設じゃそんな話聞かないよぉ」

 亜理朱は惚けて嘘を吐いた。

 指定席チケット。それは、映画館が発行している予約券だ。バスも水道も日々の食事もそして予約無しの映画館なんかも、ライフラインは全て無料になっている中で、僅かとは(いえど)も代金を必要とする特別な品物だ。

 本当に特別なことでもない限り、手に入れようとする人は少ない。

 茉莉花がわざわざ入手してきたというのは、余程のことなのだ。

 そんな何かがある時に、いくら施設の子供達が外出を制限されていると言っても、職員達の間で話題にならないはずがなかった。

「あ、…………う~~、でも、学校でも話に出てたし!」

「聞いてないもの」

 聞かなかったはずがない。ならば何故憶えがないかといえば、単に興味が無かったのである。

 街の住人にとっては、台詞を憶えに行く所。そういうのは亜理朱の趣味じゃない。

「映画かぁ……」

「そうよ。当然行くわよね?」

「でも、一週間もすればテレビでやるんだよね」

 それもあって、これまで特に映画館まで見に行く必要も感じていない。

 しかし、

「行・く・よ・ね?」

 念を押す茉莉花に、亜理朱は苦笑しながら了承した。

 亜理朱が茉莉花に勝てる訳がないのだ。

「う~~ん、仕方がない。茉莉花に誘われちゃったし、行くとするか」

 何故なら茉莉花は亜理朱にとっての特別なのだから。

 だけどやっぱり不満は残る。

「でも、茉莉花はもうそんなの見なくても、普通にお喋り出来るじゃない……」

 少しばかり未練がましい口調になっていたことは否めない。

 他の住人ならいざ知らず、茉莉花はもう自由にお話出来るのに……。そればかりが無念だった。

 茉莉花は分からず屋とでもいうように、

「みんなとはお喋り出来なくなるの! それに、茉莉花は亜理朱と見に行きたいの!」

と、食ってかかる。

 嗚呼、そうか。そういうことなら本当に仕方がない。

「そっか……」

 滲み出るように笑みを零した。

「じゃ、行こっか!」

 うきうきと楽しみになってきた様子で、亜理朱は茉莉花の手を取った。

 浮き立つ笑顔で、明るい口調で。

(嗚呼……また、こんな時にも演技している…………)

 楽しみにしている茉莉花には言えない。

 茉莉花のことは大好きだ。

 でも、やっぱり映画館は嫌いだったんだ。


 背後には硝子張りの校舎の扉。赤い土が敷き詰められたグラウンド。グラウンドには端から鉄棒、タイヤ跳び。グラウンドの向こうに体育館。ぐるっと回って亜理朱達が今向かう先の校門方向には水飲み場。水飲み場の向こうにはあの光が瞬いていた丘がある。そして正面に校門へと続く道。

 もう、見渡す限り、校門の内側には子供達の姿はなく、校門を閉めようと待ち構えている女の先生だけが、気を揉みながら亜理朱達だけを待っていた。

 確か新人の先生だ。要領のいい他の先生は、寧ろ子供達よりも早いくらいに、もう映画館へと向かっているはずだ。二年前は確かそうだったから。

「でも、大丈夫なの?」

とは亜理朱の言葉。

「え? 何が?」

と、きょとんとしている茉莉花に、亜理朱はそっと空を見上げた。

 赤い油膜が、どこか気持ちよさそうに流れていた。

「……わかってなかった私も悪いけど、新作の話が本当なら、多分もうバスには乗れないよ」

 言われた茉莉花は、また惚けたように、

「えっ?」

と、疑問の声を上げる。

「二年前も新作が出たじゃない。あの頃は、茉莉花、休みがちだったから知らないかも知れないけど、みんながみんな映画館に殺到するんだもの、何台バスがあっても足らないよ。ま、私には関係なかったんだけどね」

 面白そうな映画だから見に行くというのではなく、ただ見に行かなければならないから見に行くという人々を、皮肉な気持ちで見送ったことを憶えている。

「え……」

 今度は焦りに顔を強張らせる茉莉花が、亜理朱の服のすそをぎゅっと掴んでいた。

 校門から女の先生が、もう下校時間ですよと促していた。

「取り敢えず、実際に見てみる?」

 茉莉花を促して校門へと向かう。

「先生さよならー」

「はい、さよなら」

 先生に挨拶をして校門を出た途端、先生は慌てて校門の扉を閉めると、鍵を掛けて大通りへと駆けていった。

 大通りへと続く五十メートルほどの並木道。右手の斜面を登っていけば、国語の時間に見ていた丘の天頂(てっぺん)へと辿り着く。

 左手、街路樹の向こうに見えるのは学校の駐車場だけれど、車は一台も停まっていない。今日が新作の日だからではなく、車を持っている人が殆どこの街にいないからだ。

 日中ならまだ自転車が何台か停まっているはずだけれど、今はそれも見あたらない。

 そして真っ直ぐ道の先に見える大通り。そこにはバス停があるはずだけれど、ここからでも蠢く人々が道路まで埋め尽くしているのがわかる。

 黒山の人集(ひとだか)りと言いたいところだけれど、みんな髪の色素が薄いから、薄茶色の人集りとでも言えばいいのだろうか。

 あるいは今は元々待っていた人達に加え、学校の子供達が大量に加わっているから、制服の色だけを見れば黒山の人集りでもいいのかも知れない。

 一歩一歩、歩き進むに従って近づいてくるその群衆の有様に、茉莉花が次第に表情を無くしていくのがわかる。この街の住人は、感情がピークに近づく程、感情が表情に表れなくなっていくから、これがこの街流の泣きそうな表情と言ってもいいだろう。

「やっぱり、ね」

 大通りに出ると、そこはもうどうやってバスが入ってくればいいのかわからないくらいに、何処(どこ)彼処(かしこ)も人の波で揉みくちゃになっていた。

「ま、この様子だと、教室を早く出て走ってきたとしても怪しいところだけど」

 この様子だと、街の住人はテレビで放送されるのを待つまでもなく、殆どの人が『新作』を見にいくことになりそうだ。

「…………ふぅ」

 亜理朱は疲れたように溜め息を吐く。

 きっと新学期が始まれば、学校の中で繰り広げられる会話はほとんど『新作』の中での会話になるだろう。『新作』を知らなければみんなの話がわからないし、会話の中に入っていくことも出来ない。

 そんな会話が『会話』だとも思えないけれど、知らなければ買い物も出来ない、そんな街なのだ。

 気が付けば茉莉花もいつの間にか表情を取り戻して、唸りながら群れ集う人々を睨み付けている。

「バ~~ス~~」

 もうどう見てもバスには乗れそうもない。というより、バスが走っている気配もない。そういえば、バスの運転手は、映画館に行かないのだろうか。

 いや、そんなはずはないだろう。……並んでいる人々は夜までこのまま待つつもりなのだろうか。

 茉莉花もそんなに楽しみにしていたのかと思うと、気のない様子を見せたことが申し訳なくて、亜理朱は少しうなだれた。

 すると茉莉花は念入りにマフラーを首に巻き直して、しっかりと手袋を嵌めた。靴下を膝まで引っ張り上げて、そんな亜理朱に向かって手を差し伸べた。

「亜理朱、おんぶ!」

 突然の言葉に、しばし亜理朱は目をパチクリさせる。

「ええ~~!? そんな無茶な! こっから駅前まで歩いていくつもりなの!?」

 茉莉花は澄まし顔で手を差し伸べている。

 茉莉花はこんな風に、時々平然と無茶を言う。亜理朱を信じているのかも知れないけれど、――でも、やっぱり無茶だ。

「家に戻れば自転車あるから、それで行こうよ」

「あんな恐いの、絶対やだ」

「そんなぁ~~。何で自転車が恐いの。私だって無理をしたら壊れちゃうのにぃ!」

 茉莉花はその言葉に吃驚(びっくり)して手を引っ込めた。

「嘘! 本当に?」

 それは本当だけれど、正直なところどの辺からが亜理朱にとっての無茶になるのか、その辺りは全くわからない。みんながしている健康診断のように、亜理朱も全身の検査が必要だと思うのだけれど、何処に行けば検査して貰えるのかもわからない。既にどれだけの疲労や歪みが蓄積しているのかも。

 それでも一応は茉莉花達より丈夫なのは確かだった。

 多くの映画館がある駅前までは遠い。歩いて行けば一時間は掛かるだろう。街の住人はそれだけ歩けばきっと動けないくらいに疲れてしまう。しかし、一時間走りっぱなしでいても大丈夫な亜理朱なら、茉莉花を背負って一時間歩くのも大丈夫なのかも知れない。

 それならと、亜理朱は渋々ながらにも頷いた。

「…………うぅ~~。まぁ、みんなよりは丈夫かも知れないから、駅前までなら……。けど、茉莉花もちょっとは歩いてよ?」

 茉莉花は明らかにほっとして、また手を差し伸べる。

「亜理朱、頑丈だもんね。でも、壊れるなんて言い方、変」

「……私を直してくれるお医者さんはここにはいないもの。おかしくなったら……壊れちゃうのよ……」

 ここにはクラマもセヴンもイシスもいない。大好きなローグ兄さんもいない。何処にいるのかもわからない。此処に亜理朱を直してくれる人はいないのだ。

 茉莉花は知らない。亜理朱が街の外の生まれだということを。でも茉莉花は何を感じているのか、ただじっと亜理朱の顔を見つめていた。

 私の書く子供は、きゃぴきゃぴしすぎて気持ち悪いとよく言われてしまうのですが、どうだったでしょうか?

 一部改稿しました。2013/01/15

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