吉田浸透
いつの間にか、ミヤとトウジはハルトの家に来る約束になっていた。
ある意味デンジャラスな自分の部屋にミヤをに入れるのはマズいと思ったハルトは阻止しようとするが、上手くいかずに結局自宅まで一緒に行く事に……
「ただいま」
少し重たい、表面に花の装飾があるドアを引き開けると、いつものように奥から足音が近づいて来た。
「おかえり、ハル君」
俺の母、切絵春香は、聞き心地の良い声で俺を迎えた。ただ、呼び方が相変わらず小さい頃のままで、ちょっと恥ずかしいと思う事がある。息子の俺が言うのも何だが、黒髪が綺麗で目鼻立ちの整ったなかなかの和風美人であり、噂ではモデルをやっていた事もあったらしい。うちの親父は、こんなキレイな奥さんと、良く出来た息子を家族に持てて本当にラッキーだと思う。
「母さん、吉田は来てるか?」
「ええ、武彦君なら居間に上がってもらってるわ」
「ん? そ、そっか」
妙だな。
母さんは、いつも吉田の事は「吉田君」と呼ぶのだ。名前で呼んだ事なんて見た事が無い。やはり、俺の周りの何かがおかしくなってようだぞ。果たして、あいつらをここに入れた時、母さんは一体どういう反応をするだろうか?
「どうしたの、ハル君?」
「あのさあ、今日はもう2人友達を呼んだんだ。今、外で待ってもらってる」
「あら、そうなの。じゃあ、遠慮せずに入ってもらいなさいよ」
俺は、もう一度扉を開ける。これが「入っていいの合図だった」
家の門のあたりに立っていたミヤと魚人は、すぐにそれに気付くと駆け足で近付き、俺の体の押し退けるようにして玄関に中に入って来た。まるで、慣れたものと言う感じだった。
「おばさん! こんにちは!」そう言うミヤの横で魚人は可愛らしくお辞儀をする。
「あら、なんだ、ミヤちゃんとトウジ君じゃないの。今日も、元気そうね!」
ほえ?
母さんがこいつらの事を知っている……さっき分裂したばっかりのこいつらを。 出会う機会なんて一度もなかったはずなのに、ずっと前から知り合いのような感じで。
「ハル君、別に隠す事でもないじゃない。いつも遊びに来てるんだから」
「まさか、そんなことが……」
「おばさん!」ミヤは、そんな状況をまだ呑みこめていない俺の前に割って入って来た。
「実は、ハルトは、記憶喪失になっちゃったみたいなんです!」
「あら、そうなの?」
「はい。だから、私達の事忘れちゃったみたいで……」
「そう……とにかく、上がってちょうだいな。今日はおばさん、久しぶりにクッキーを焼いたのよ! ミヤちゃんが大好きなバタークッキーもあるから、みんなで食べながらお話しましょう」
「ラッキー! 久しぶりにおばさんのクッキーが食べられるなんて、来て良かったなぁ」
ミヤは、両手を手を合わせて、待ってましたとでも言うように喜んだ。
正直、その気持ちは良く分かる。昔、モデルの他に料理教室の先生をやっていたと言う母さんの作るお菓子はどれもすこぶるおいしいのだ。俺の家に遊びに来たやつで、このお菓子を残して帰った奴は1人として見た事が無い。そして、その中でも、クッキーは絶品中の絶品なのだ。
2人のやり取りに、今だ答えを出せないまま、俺は靴を脱ぎ、居間に足を運んだ。
母さんの言った通り、そこには大型テレビを見ながらドッシリ胡坐をかいてクッキーを食べる、ちょっと小さくなった吉田の姿があった。
「よっ! やっと来たな!」
「おいおい、自分ちみたいに言うなよ。吉田」
「そっちこそ、おいおいだよ。俺の事を名字で呼んだら、どの吉田か分かんないだろ?」
「お前……」
なるほど、こいつも俺が「武彦」と呼んでいた事になっているわけか。
と、言う事は、ひょっとすると俺を除いたこの世界の全てが、こいつらに合わせて大きく変化したってことだろうか?
今までの日常は、あの瞬間までだった。
吉田を切ったあの瞬間まで。
もう、元には戻らないかもしれない。
俺は「魔法」と言うものを甘く、軽く考えていた。そう痛感しながら、敷かれた座布団の上に腰を下ろす。目の前の机上にある焼きたてのクッキーの甘い匂いは、そんな俺の胸の内を察してくれるわけではないが、食欲と言う人間の本能的な欲求を目覚めさせ、そこに気持ちを持って行くには、十分なものであった。
俺は早速、ひし形に模られたクッキーを一枚手に取り、口に入れて頬張ると、サクサクした食感と滲み出る旨みが、俺の心の何かを潤した。
さてさて、これからどうしたものか。