38の美少女
切れた吉田は切れた後に分裂した。
驚いた遥人は、事態を収拾できなくなり、逃げ出した……
俺の息が切れて、立ち止まった場所は、そこそこの広さを持つ「丸田町商店街」の中にある狭い通路だった。ここは、以前は活気のある場所だったらしいが、近所に出来た大型スーパーなどの影響で客足が少なくなり、シャッターが閉まったままの店も増えた。この道だって、俺以外人っ子一人通る感じが無い。
俺は荒くなった呼吸を整え、気持ちを落ち着かせると、改めてほっぺたをつねってみた。イテテ! やはり夢ではなかった。吉田が分裂した事はどうやら幻として消える事は無さそうだ。まあ、とりあえず、こんな遠くまで逃げて来たのだから、もう追っては来ないだろう。吉田は諦めの良い奴だからな。しかし、今日は良いとして明日からはどうなるのだろう? 吉田が小さくなってるだけでも学校中が大騒ぎしそうなものだ。その上に、分裂したと言うあり得ない事実が重なる。TV沙汰になってもおかしくはなかろう。
「ハルト!」
ぎくっ!
後ろから、自分の名前を呼ばれて俺は心臓が飛び出そうなほど驚いた。
一体、誰だろう?
聞き覚えのない声だけど聞き覚えのある様な女性の声だ。
「ねえ、ハルトってば!」
俺の事を、名前で呼ぶ人間は今まで生きてきた中で1人もいなかった。家族や親しい奴は、みんな「ハル君」とか「ハルちゃん」とか「キリリン」とか愛称で呼ぶし、そう親しくないクラスメートは大抵「切江君」と名字で呼ぶ。吉田や田中に至っては「折り紙」と言う意味不明のあだ名をつけ、勝手にそれを使っている始末だ。俺をこんなになれなれしく名前で呼ぶ人間は見た事が無い。存在しなかったはずだ。
俺は、声のした方を振り向く。
そこに立っていたのは、おそらく間違いないだろう、さっき分裂した3体の吉田の内の1体だ。
深いエメラルドグリーンの色をしたミドルショートの美しい髪。前髪の三角形のヘアピンは自己を主張しすぎない程度に存在し、絶妙なアクセントになっている。顔は小さめで柔らかな輪郭に、大きくて丸い青みがかった黒目を持つ瞳と、小さくて整った鼻、透き通るような唇が乗っていて、詰まるところを言うと吉田には似ても似つかぬとんでもない美少女だった。あんまりリアルな女性には興味の無い俺だが、コイツは「二次元ユーザー対応型」と言った感じで、俺の心臓を一瞬にして高鳴らせた。そして、そんなドキドキしている俺を知ってか知らずか、この美少女はぐいぐいと近いて来ると、俺の目の前に立ち、ちょっと眉をしかめてこう言った。
「どうして、逃げたりしたのよ? 何かあったの?」
「え、ええと……」俺は返答に困ったが、こうなったらまずは聞いてみなければならん事がある。
「お前は、誰だ?」
「えっ……!?」女の子の表情が一瞬凍りついた。
「ちょ、ちょっと、悪い冗談はやめてよね? また、いつものイタズラでしょ?」
「いや、本当に知らないんだけど……見た事も聞いた事もないぜ」
「ハルトぉ~この吉田観夜の事を忘れるなんて、嘘もほどほどにしてくれないと、私ホントーに怒っちゃうよ?」
「ミヤって言うのか、お前」
「そうだよ! ……って、まさか……」
ミヤと言うその女の子は、俺を悲しそうな目で見つめると、細くてしなやかなその左手を俺の額にそっと当てた。彼女のあたたかい波動の様な何かが俺の体に伝わってくる。何だか無性に気持ちが良い。
「もしかして、本当に、覚えてないの?」
「……いや、俺は……」
「いままでの事、全部忘れちゃったって言うの?」
「ええと……」
良く分からないが、とりあえず向こうはこちらの事を知っているらしい。いや、知っているだけじゃ無くて、今まで俺と一緒に生活して来たかのような言い回しだ。さて、こういう場合どうやって答えたるべきだろうか? ミヤの気持ちを考えれば、冗談でしたと言って記憶があるかのように装ったほうが良いような気もしてくるけど……それはダメだ。何せ、一切の記憶が無いんだからどこかでボロが出てしまうだろう。隠しきれるはずが無い。やはり、素直に記憶が無いのを認めるしかないだろう。
「すまん! 全部忘れたわけじゃないんだけど、お前の事はどうしても思い出せないんだ」
「そう、なんだ……」
「ごめんな……」
ミヤは、俺の額から手を放すと、その手を胸元でグッと握りしめた。視線はは寂しそうに下を向いている。今の発言は、俺が予想した以上に残酷なものだったようだ。何だか申し訳ない。
「じゃあ、ハルトは、あの事も忘れちゃったのかな……」
「あの事?」
「ううん、何でもない……あっ!」
その時、ミヤは何かに気付いた。
俺が彼女の向けた視線の先へ目をやると、そこにはあの正体不明の青みがかった生き物が立っていた。