第19話
ルーカンとの戦闘が最終局面を迎えていく。その中でドピニエ中将とマキス准将は、現状の戦意をこれ以上続けることに限界を感じ始めていた。一方のブラッドレイ中将は、思いのほか大きくなってしまった損害に戦慄を覚えていたのだった。
ルーカン艦隊側は、敵艦隊の動きを常に把握するように動いている。そのため、地球連合の艦隊が2つに分かれて、一方が此方に急行していることを知った時には驚いた。ドピニエ中将は敵艦隊が既にアレスタント艦隊を見捨てる方向で作戦を練っていたのではないかと考えていたのだが、それはどうやら違っていたらしかった。
「艦隊兵力を二分化して、艦隊としての機動力を上げてきたというのか?」
「だとしても、こちらの艦隊を追撃するにしても遠すぎます」
敵艦隊の狙いは分からないでもないのだが、それを行うにはあまりにも距離が離れすぎている。もっと近づいて攻撃するのであればまだしも、流石に距離が開きすぎている。ここまで距離が開いてしまっていると、艦隊を接近させて砲撃戦を行うには2時間程度はかかってしまう事だろう。そしてその2時間の間にアレスタント艦隊に壊滅的な打撃を与えて敵艦隊と正面からぶつかるようにする。そうすれば、その場その場での戦力差は一時的にではあるがなくなってしまうのだ。これはかなり理想的な展開と言えるものである一方、敵指揮官が無能ではないだけにその意図を読み切れていなかった。
ブラッドレイ中将ならば、無意味な用兵はしない。堅実で隙がない用兵を仕掛けてくるのだ。そう言った意味では、マキス准将の戦術と言うのはブラッドレイ中将の考え方とは完全に相反するものであったかもしれない。しかし正攻法で戦っても勝ち目がない相手と戦う以上は、しっかりと戦術を考えたうえで戦えなければ意味がなかった。
「敵艦隊の速度とわが艦隊の速度はほぼ同等なので、現時点では追いつかれることはないでしょうが……」
「アレスタント艦隊も、いつまでも逃げ切れるとは思っていないだろうがな」
アレスタント艦隊を追撃して、その息の根を止める。それが現状のルーカン艦隊の目下の作戦であり、それ以上のことを現状で求めることは不可能であった。それに、アレスタント艦隊の方は、まるでこちらとの交戦を可能な限り拒否しているようにさえ見える。このまま逃げ回られてしまうと、こちらは追いつくことができずにくだらない追いかけっこを延々と続ける羽目になってしまうだろう。そうなったときはたして自分たちは、背後の地球連合の艦隊に対してどこまで対応ができるのか。
マキスは、この戦いでこちらが用意している奇策に関してすべて使い込んでしまっていることを確認した。最後の小惑星群を敵艦隊の艦列に叩き込む事には成功したが、それがどこまでの効果を見せてくれるのかは未知数だ。ぜひとも徹艦隊に致命傷を与えてほしいなどと思ってしまうが、それが難しい状況であることを彼自身が良く知っている。
それだけに、この後正面から堂々となぐり合う事になってしまえば、自分たちの艦隊は一方的に蹂躙される運命であることを理解している。無論その覚悟で艦隊を布陣している以上は、その犠牲に関して言えば甘受せざるを得ないだろう。
「アレスタント艦隊をどこまで減らせるのかが、この戦いの鍵になる……」
マキスはそう考えて、追撃速度をさらに早めるようにドピニエ中将に進言する。そしてドピニエ中将はそれを受け入れて敵艦隊への追撃を更に厳しいものにした。それを知ったバートン少将は、敵艦隊の方角を見て思わずつぶやいた。
「この鬼ごっこも埒が明かん。どこかで何とかしないとな……」
だが、何とかしたくてもできない状況にある。ルーカン艦隊の背後に存在している地球連合の主力艦隊が追い付けば、戦況はいくらでも変貌するのであろうが、現状でそれを求めるのは不可能という物だったし、第一地球連合の艦隊に関しては、彼は味方だとは思っていない。このまま追撃を続けて、そしてアレスタント艦隊とルーカン艦隊が混戦状態になってしまった時には好機ととらえてまとめて吹き飛ばして来るのではないかとさえ思っている。偏見に近いそれは、だが必ずしも間違った回答とは言えなかったのである。
そう言った次第で、アレスタント艦隊は地球連合が追い付いて、そして気艦隊を理想的な挟撃戦を展開してくれることを期待するのは不可能であった。故にアレスタント艦隊はひたすら逃げる。そしてそれをルーカン艦隊が追いかけて、更に地球連合艦隊が追跡するという奇妙な光景が誕生している次第だった。このような滑稽な光景が生まれることを、だれも想像していなかったに違いない。やや遠方から両軍の戦闘状況を確認することができたブラッドレイ中将でさえも、このような醜態じみた光景は想定外であった。
「いい加減この状況を何とかしないと笑いものの種にされてしまうぞ」
他人が滑稽な姿を見せるのは一向に構わないのだが、ブラッドレイ中将自身も、自分が置かれている状況に対して納得しているわけではない。何より小惑星群による攻撃は、思いのほか艦隊にダメージを与えていたのである。その損害のことを思うと、ここでの戦いにはこれ以上の損害を許容するわけにはいかなかった。
まだまだ地球連合は戦うべき敵が数多く存在している。その敵を倒すためには戦力が必要だが、このルーカン星系で大規模な損害を何度も許してしまっているのだ。何とかこれ以上の損害を出さないようにして、次につなげなければ話にもならない。
そう考えると、自分たちにも思いのほか制約が多いものだとブラッドレイ中将は気が付いた。そうしていくと、現状が甚だまずいことに気が付くのである。このまま追いかけっこを続けてしまうと、こちらの兵も非常に消耗してしまう。兵士は無尽蔵の体力を持っているわけではなく、有限である以上、どこかで休息を用いなければならない。だが、今の状況ではそれを行うこと自体が困難であった。
「……追撃を中止すべきか、それとも続行すべきか」
この時ブラッドレイ中将が恐れていたのは、実のところルーカン艦隊の反撃に対してではない。まだ戦力を保持している別星系の艦隊が、このタイミングで自分たちの背後を攻撃してくることだ。現在地球連合の艦隊は全体的に統制が取れているとは言えない。時間が経過すれば、その混乱も収まってくれるだろうが、その気配が見られないときに航法を襲撃されてしまったら一気にパニックに陥るだろう。
艦隊がパニックに陥り、そして崩壊する様と言うのは、敵側がそうなってくれた時は非常に愉快な光景であるが、自分の艦隊がそうなってしまってはたまったものではない。ブラッドレイは事態を、或いは誰よりも重く見た。しかしここで艦隊を後退させたところで得られる物は何もない。結局彼はそのまま艦隊を追撃態勢に持ち込むほかなかったのである。
一方のルーカン艦隊も、事態の険悪さを感じ取りながら、それでもアレスタント艦隊の追撃を止めず、そしてアレスタント艦隊も追われる事態に甘んじ続けて半日が経過しようとしているのを感じる。流石にここまで続けてくると、両軍兵士に疲れの色が見え始めてくるものだった。
マキス准将は、疲労感がたまり始めていることを感じ取ってはいたが、自分自身の神経が高ぶっているために、精神的な疲れを感じていなかった。だが肉体的な疲れと言う物はどうしても感じずにはいられない。こればかりはある意味では仕方がないところもあるのだろうが、それが続けば、自分自身の判断力も鈍ってしまう。勝ち目が最初からない戦いになっているとはいえ、それでも勝利のために全力を尽くすことは必要であった。
だが、このままたたかい続けてもじり貧になってしまう事だけは事実だった。第一、兵員が披露したまま戦い続けたところで、まともな戦いなどできるはずもない。あまりにもくだらない消耗戦に突入し、無駄に兵を死なせるような戦いになってしまったらそれこそ笑い話にもならないだろう。できればそう言った事態は御免蒙りたいところなのだが。
「……しかし、この展開をブラッドレイ中将はどのように収集を付けるつもりかな?」
ドピニエ中将は、この展開がもはや収拾がつかない呆れるべき状況になっていることを承知している。では、ここで何としても勝利を得たいであろう地球連合側が、いったいどのようにしてこの呆れかえった事態にけりをつけてくるのかぜひとも気にすべきところだと感じていたのである。無論その事態に対して、ドピニエ中将はどのような結果になろうが覚悟は決めている。どのように結果が転んでいこうとも、ルーカン艦隊の敗北は決定しているのだ。
一方で、マキス准将自身は敵側の動きがあまりにも鈍いために、或いは引き分け程度には持ち込めるのではないかと考え始めている。通常であれば数の暴力に押しつぶされてしまい、そして蹂躙されるだけのことであるが、これは敵側の戦力が統制されており、機能していればの話であって、現在の敵部隊の動きを見る限り、どうも統制が取れているようには見えなかったのである。
どうやら隕石による攻撃は、敵艦隊の指揮系統を乱す程度のことには成功したらしい。それは有難いことだと内心で思い、同時に勝ち目が見えてきたかもしれない闘いのために、新しい戦術を構築しなければならなかった。
「ドピニエ中将。いったんアレスタント艦隊の追撃を中止してみてはどうでしょうか?」
マキス准将からの提案は、予想外と言うよりはなぜそのようなことを言うのかわからないと言った類の物であった。此方が前方のアレスタント艦隊を執拗に追撃し続けているのは、あくまでもこの敵艦隊をつぶさないと挟撃されてしまう展開を生むからだ。そうでなければ、さっさと地球連合の艦隊に対して艦隊を反転させて、砲撃を叩き込んでいるところであろう。そうすることで敵艦隊のけん制を行う事ができるからだ。
しかしマキスは、このアレスタント艦隊の逃げっぷりを見て、自分たちが地球連合の艦隊に向けて攻撃するために反転しても、攻撃を加えてこないのではないかと感じ取ったのである。ドピニエ中将がその理由を彼に訊ねると、ある意味で非論理的な回答をマキスはした。
「勘のようなものです」
「勘か……なるほど。悪くないな」
このような馬鹿馬鹿しい闘いだ。勘を頼ってみるのも悪くないかもしれないとドピニエ中将は思い、そして艦隊に反転を命じた。あまりにも突然の命令変更に関艦艇は驚きつつもその命令に従っていく。そしてアレスタント艦隊の方では、突然反転したルーカン艦隊の動きに驚き、事態を知ったバートン少将は思わず舌打ちした。
「信頼してますってか? どうしたもんかね」
敵艦隊は、どうやらこちらがルーカン艦隊に対して反転攻撃を加えてこないと判断して、ちきゅ連合の艦隊に対抗するために反転したものだと理解した。だがその判断を下すにはあまりにも不確定要素が多いのだ。そもそも、それを機に、挟撃の好機と判断してこちらが反転してしまったらルーカン艦隊は前後から襲われて瞬く間に解体されてしまう事になるだろう。そう言った判断ができるはずなのに、その手の判断を行うことができなかった。正確には行うつもりがなかったと言えるかもしれない。
ルーカン艦隊が、最初からそのつもりで艦隊を反転させてくれたのであれば、こちらとしてはそれに有難さを感じてあえて何もしないという選択肢を取るのが利口だった。反転して挟撃体制に入るには、アレスタント艦隊は少々激しく動きすぎた。息切れした艦隊の呼吸を整えさせるには少しばかり時間をおいて、艦隊を再編成しなければならないのだ。その間に関しては、地球連合の艦隊に任せるしかない。
このあたりの論法を使用すると、下手をすればブラッドレイ中将などは激昂してこちらも敵戦力として認識してくる可能性もあるのだが、この時ブラッドレイ中将側は、アレスタント艦隊がサボタージュを始めただけでなく、ルーカン艦隊が反転したことにも気が付いていなかったのである。地球連合の別働艦隊がようやくルーカン艦隊を補足した時、すでにルーカン艦隊は砲撃体制を整えていた。
「砲撃開始!」
ドピニエ中将が全艦艇に命じる。一斉砲撃の苛烈さは、追撃に夢中で艦列が整えられていなかった地球連合の艦隊にとってまさに痛打になった。まさかルーカン艦隊が反転していたなどと、彼らは微塵も思っていなかったのである、その油断と驕りが、この結果を生んでしまった言えるだろう。一方的にな砲撃を浴びた地球連合の艦隊は、これまで得ていた勝利の美酒を、一瞬で毒酒に変えられてしまったのだ。
この事態をブラッドレイ中将は、FTL通信によって確認することができた。そして確認するなり、敵艦隊に対して警戒の薄い味方艦隊の無能ぶりを罵りたい気分にさせられる。敵艦隊が油断できない相手であることを再三伝えていたはずなのにこの体たらくである。やはり艦隊司令部を編成するには、優れた人材をそろえなければ話にならないようだ。
「……ルーカン艦隊の敵指揮官と参謀をこちらに招き入れたいものだ」
優秀な人材と言うのは多いほどよいものだ。この際こちらの艦隊を潰滅に追い込んだ人物であろうが、そのようなことは全く関係がなかった。此方にとって仕える人材なのかどうなのかが問題なのであって、それ以外のことに関しては考える必要もない。少しでもこちらの戦力を増やすことができれば何の問題もないのだ。
そう考えて、ブラッドレイ中将はその考えを実行に移そうとも考え、だが思いのほか、それには敵艦隊の戦力を充分に減らさなければならなかった。
「止むを得んか。敵艦隊の戦力を削るだけ削らせてもらうとしよう」
相手がヒステリックになる程度にダメージを与えてやればよい。そう考えたブラッドレイ中将は、投入可能な火力を全力でルーカン艦隊に差し向ける。ルーカン艦隊は艦列を整えて迎撃したが、自分たちが攻撃するよりもはるかに強力な火力が跳ね返ってくる。各所で巡航艦や駆逐艦が被弾し、そして瞬く間に爆散する。あまりにも火力が違いすぎるために、マキス准将は敵側の大げさすぎる火力に呆れた。
「どちらかと言えば、圧倒的な火力を見せつけて、こちらに勝ち目がないと思わせたいらしいな」
「事実ありませんが、このまま敵側の作戦に乗せられるのは何とも癪ですな」
戦いにおいては、可能な限り主導権を握りたいと思ってしまうのは軍人ならば当然の感想と言う物であろう。だが、数的劣勢を弾き返すだけの戦力をそろえることができない状態では、どうやってもこの事態をしのぐことができそうにない。それだけではなく、艦体の疲労も濃いために、このまま戦闘を続けた場合、あと2時間ほどで艦隊戦力は瓦解することになる。その前になんとか勝負を終わらせてしまいたいのだが、それをさせてくれるような環境にはなかった。
次第に戦闘が一方的なものになりつつあることを、マキスは自覚せざるを得ない。兵員の疲労度も高く、そのためにこのまま押し負けてしまうのではないかと思われたのだ。そして艦隊損耗率が4割を超え始める。艦隊戦力の4割の損耗は事実上の潰滅であり、それは予定されていたこととはいえ、マキスにとって用兵家としての敗北と同義であった。
「……中将。艦隊は機能しなくなりました」
「潮時だな」
流石に勝ち目がないことが分かっていたこととはいえ、次々と入り込んでくる味方の悲鳴は精神的に辛いものがある。こんなものを聞きたくて彼らは軍人を志したわけではないのだ。だが、今は自分たちが少しでも反撃のための手段を用いなければならない立場であったがゆえに、大量の犠牲者を生み出すほかなかった。
「全艦艇に機関を停止するように命じろ。わが艦隊は降伏する」
これだけ殺されれば充分だった。味方の大半が戦意を喪失してしまった現状で、これ以上死体の山を積み重ねる理由もない。マキスはドピニエ中将の首が盾に動いたことを確認して、敵艦隊に通信を開いて宣言したのである。
それは事実上、ルーカンの滅亡を意味するものであった。
ルーカンの滅亡に関して言えば、殆どの人間の予想通りと言えた。あえて予想とこなっていたことがあるとすれば、それは想像以上に甚大な被害を艦隊が被ってしまい、そのため次の敵を滅ぼしに向かうのがすぐにはできなかったことであろう。地球連合のグレゴルー事務総長は、艦隊司令官ブラッドレイ中将から受けた最終的な被害算出の数値を見て、超光速通信を行ってきた艦隊司令官に対して苦言を呈した。
「なぜこれほどの大損害を被ったのかね? 実に敵艦隊の3倍以上の損害を出しているではないか」
『否定は致しません。それだけ敵艦隊の指揮官と司令部が有能であったという事です』
ブラッドレイ中将は一切自分に有利な情報などは捏造せず、ありのままの情報を事務総長に提示したのである。そこには各艦隊の詳細な損害と戦死者の数が明記されており、それらの大損害から立ち直らぬ限りは、別の恒星系への攻撃は到底不可能であることが記されていた。
確かにこれだけの損害を受ければ当然、艦体の再編成などが求められるために連続的な侵攻作戦など不可能であろう。その程度のことはグレゴルー事務総長も理解している。だが、こちらの作戦は電撃的な攻撃によって、自分たちに歯向う敵対勢力には一切の反撃を許さないという物だったはずであり、時間をかけてよいなどと言った覚えはなかった。かえって時間をかければ自分たちが不利になってしまうし、沿線感情も蔓延してしまう。そうなってしまっては意味がないのだが、今回の損害は、その作戦の大幅な修正が要求される形になるのだ。
艦隊戦力の立て直しを求めるとしても、おそらくこの規模の損害に関して言えば、間違いなく数年かかってしまうレベルの損害であった。だが、これ以上時間をかけてしまうと、たとえばトリスタンの艦隊戦力が回復されてしまっては、こちらの計画が完全に潰されてしまう事になる。それだけではなく、他の恒星系の軍隊が回復してしまうだけでも計画が崩れるのだ。
計画を大幅に修正しなければならないのだが、その修正を行うのはあまりにも難しい。グレゴルー事務総長は現状、展開可能な戦力はどの程度になっているのかを訊ねる。すると、思いのほか情けない数字が返答として返ってくる始末であった。
『現状、地球連合の艦隊としては、800隻が動員可能な艦艇数です。来年になれば、何とか1200隻の稼働状態に持ち込むことはできるかとは思いますが』
「来年までに1200隻の艦艇を維持させるとして、ではその間はどうなるのか?」
『率直に申し上げまして、他恒星系に対する武力干渉はまず不可能でしょう。それに、現地の治安維持や叛乱の抑止のために艦隊戦力を振り分ける必要から、大規模な艦隊導入は不可能です』
現場の人間としての率直な意見は、現場のことを知らない人間にとっては非常に腹立たしい状況を与えてしまう事になる。今回のブラッドレイ中将の発現はまさにそれに該当するものであったのだが、それに対して反論することができないのは、グレゴルー事務総長としても、現有戦力のみでこちらの計画を遂行することが不可能であることは明白であったからだ。
だが、スケジュールを大幅に後ろに回してしまう事になれば、その分だけ敵対勢力である他の恒星系に力を与えてしまう事になる。それだけは何としても避けたいところなのだが、今回はそういうことを言っている暇も与えられない。今はとにかく戦力を整え直して、そのうえで新しい未来図を構築しなければならないのである。それを作り出す責務が、グレゴルー事務総長には存在しているのだ。
「……良いだろう。それで、この報告書に記載されていることだが、ルーカン艦隊の艦隊司令部はまだ生きているというが本当か?」
『撃沈前に相手側が降伏しました。降伏した相手を攻撃するわけにはいきませんので』
流石にそれをしてしまったら、地球連合の立場は一気に崩壊しかねないものになってしまう。自分たちが正義であるなどと一切言う事は出来ないので、ブラッドレイ中将は少しは敵国側の国民感情に配慮しなければならない。そのあたりは本来政治の役割ではあるが、その役割を軍人が行わなければならないのは何とも滑稽であろう。
つまるところ、このような作業をしている時点で、地球連合が多くの意味でシビリアンコントロールが崩壊しているのではないかとブラッドレイ中将などは思ってしまうのだ。
「その者たちは使えるのか?」
『充分に実力はあるでしょう。地球連合の艦隊の補給線の負担を大分減らすほどには』
かなりひどい皮肉だと、艦隊司令官は思わないでもなかったが、そうでも言わないとやっていられないというのが本音だ。それだけルーカン艦隊の幕僚人は優秀なのは事実であるが、一方で地球連合側の上級将校たちの質の低さは目を覆いたくなるほどだった。どうしてこれだけ無能な連中が集まってしまったのかと嘆きたいのである。恐らく兵力の規模拡充を最優先させてしまったために、人材育成をおろそかにしてしまった結果なのであろう。
人材の育成が行き届いていないという事に関してはブラッドレイ中将自身にも責任がある。彼の戦術は、基本的に全て自分の脳内で立案し、他社に漏れることはほとんどない。それは彼自身が優れた傭兵化であるからこそのものだが、同時にそれは彼には幕僚があまり必要ではなく、結果として人材が育たないという事態を生んでしまう事になったのだ。
そのため、おそらく1年程度は自分の後釜に据えることができるだけの人材を育成し、後進を育てることが当面のブラッドレイ中将の任務になるのではないかと考えている。だが、グレゴルー事務総長はブラッドレイほどの人物の代わりをそう簡単に見つけることはできないだろう。傑出した才能を持つからこそ地球連合の艦隊司令官に任命されているのであって、無能な人間がその座に就くことなどあり得ないのだ。そう言った意味では、グレゴルー事務総長もまた、自分たちのところにはあまりにも人材が少ないのだという事を理解していると言えるかもしれない。
しかし昨今のブラッドレイ中将の態度は目に余るものがあると彼は考えていた。優秀な人材であることには違いないのだが、どうも自分の思想に対して疑問を感じ始めているように感じられるのだ。というよりは、この時点でグレゴルー事務総長の考えを完全に理解し、そして実践できる人材は殆どいないと言っても過言ではない。それほどまでに彼は無茶な事を考えていたのだ。
ひとまず、現時点ではグレゴルー事務総長としては妥協点を見つけざるを得なかった。現状で艦隊司令官と言い争いをしても無意味であるし、何よりもブラッドレイ中将の首を挿げ替えるようなことをしてしまうと、現状では軍部を手に回してしまう可能性も否定できない。この地球連合の艦隊司令官は、非情に部下たちに人気があるのだ。そのような人物を敵に回すには、現状では時期尚早と言わざるを得ない。
ブラッドレイ中将の求めに従い、ひとまず地球連合の艦隊は一部の治安維持、事実上の武力弾圧部隊を残して太陽系に戻ることを命じた。グレゴルー事務総長はその指示を艦隊司令官に出した後、小さく言いを吐き出した。
「このままでは飼い犬が反抗することになるな」
優秀であるだけに、自分が無能だと判断すれば平然と裏切ってくるだろう。それだけの知性と闘争心を備えているのが地球連合のブラッドレイ中将だ。決して自分に不利なことはしない。今回の件に関しても、こちらが何とか妥協できるぎりぎりのラインで交渉を行ってきたと言ってもよかった。
しかし、であるからこそ、ブラッドレイ中将に代わる、なおかつこちらの言いなりになる人材を求めなければならない。しかし、それだけの人材を求めるというのはあまりにも難しい。地球連合の外からそれだけの人材を求めることも不可能であろう。最悪の場合、ブラッドレイとも対峙しなければならないことを考えると、現状で手駒があまりにも少ないことは致命的と言えた。
その時、秘書官が報告を行ってきた。先の戦闘などで発生した損失についての、最終的な報告書が挙げられたのである。その量はグレゴルー事務総長の想像通りの規模であるのだが、同時にこの規模が、当初の計画を大幅に修正させることを要求するものであることにいら立ちを隠せなかった。
これだけの損害を被った場合、単純に兵力の不足に陥ると言った次元の問題ではない。遺族への見舞金や年金、更には戦傷した兵士への慰労金などと言った予算が求められるのだ。これまでは計画を止めない程度の損害で事を運ぶことができたが、今回ばかりはそういうわけにはいかない。
このあたりの問題は、軍隊と言う組織では常に付きまとう問題であり、それを解決に導くのは甚だ困難なことだと言える。どこの世界でも、戦死した兵士たちの遺族に対して手厚く報いることができない軍隊と言うのは内部から瓦解してしまう物だ。兵士たちは安心して出征することもできず、家族は不安を覚えてしまい士気に影響する。軍隊が敗北する事よりも、軍隊を維持するための銃後が崩壊することによって敗北するのが戦争という物であり、その背後の整備をしっかりとこなさなければならないのだ。
グレゴルー事務総長は、今回の書類の束を見てため息を漏らさずにはいられない。今回の想像を絶する大損害の結果、地球連合の予算の3割をその補償に当てなければならなくなってしまっていたのである。その出費は単純に軍に対してだけではなく、地球連合の政治、経済面でも大きなダメージを及ぼすことになるであろう。その事に対して、グレゴルー事務総長は秘書官に訊ねた。
「市民はどのように反応しているのか?」
「先の損害で、やや厭戦ムードが漂い始めているような気配はありますが……」
戦う以上は犠牲が皆無という事はありえない。それだけに、この程度の損害で沿線感情が蔓延してしまう事を考えると地球連合の市民は価値に慣れ過ぎてしまったのではないかと思ってしまう。どのような場合でもそうだが、戦争というのは勝利と敗北の比率を少しばかり考えなければならないことが多々発生するものだ。ただ単に勝つだけならば、ひたすらに物量で押しつぶしてしまえばよいが、実際の戦争を行っていけばそのようなことは事実上不可能だ。
現在の地球連合の戦い方から見れば、物量による強引な戦いは成立していると言えなくもない。ただし、それを行えば行うほどに補給線の維持が困難になる。そして今回のように大規模な損害を被ってしまった場合、あっさりと市民の戦意が折れてしまうのだ。価値に慣れ過ぎてしまうと、負けること自体が信じられず、そのまま敗北に突き進んでしまうのではないかという錯覚に陥る。
その程度の市民しか育てられなかったのかと内心で憤りを覚えるのだが、最高執政官が自分自身であることを考えると面白くないと思ってしまうのはある意味仕方がないことであるかもしれない。どちらにせよ、これらの書類は早急に処理しなければならないものであった。
だが、厭戦気分が蔓延し、反戦集会などを行われてしまう前に手を打つべきかもしれない。グレゴルー事務総長はそのように考えて、そして、歴史上でも最悪と言われる方法に、手を付けるべきではないかと考え始めたのだった。