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SubEpisode―過去の一部―

俺達が出会ったのはある夏の日の長い夕暮れ時だった。



小川を跨ぐ橋に腰掛けていたあいつに危ないと声を掛けようとした時、彼は俺の前に現れた。

2メートル近くの高さのある橋から飛び下りた彼は、着ていた袴の裾を靡かせて着地した。そして、小川の水をピシャリと跳ねらせながら優雅に歩いて俺の前に立った。


「君は…誰?」

俺は不思議な感じを纏う彼に訊いた。彼は「きみにはぼく達が違う者だと分かるんだ」と俺に笑顔を向け、

「きみの名前、洸祈(こうき)でしょ?」

質問に質問で返された。

「どうして知っているの?」

「知ってるさ。きみを愛する人は皆、きみを洸祈って呼んでる」

「あ…い?愛って何?」

聞き返すと、彼は俺の唇に問答無用で自らの唇を触れさせた。その時の俺はそれが愛情表現の一種だと知らなくて、首を傾げていた。

「きみって本当に鈍いね。幼稚園…だっけ?そこで女の子にキスされてたろう?それが愛さ」

思い出せば、同じことをされた。訳も分からなかったが。

確か、好きなの。とか言ってキスをして走っていった女の子を、茫然と見送っていたら、ふと、物陰から千里(せんり)が寂しそうな顔を覗かせていた。

『千里?』

『洸ばっか……キライ』

そして、あいつはスタスタと何処かへ消えた。

「分かった?」

「…………うん」

なんとなくだけど。

「ねぇ、それで君は誰?」

重要なことを忘れていた。



「ぼく?ぼくは氷羽(ひわ)だよ」



「ひわ?」

「そう、ぼくは氷羽。氷の羽って書いて氷羽」

氷羽は頷くと俺の手を握って歩き出す。


どこへ行くのだろう。

俺達3人は今夜、夏祭りに行く予定だった。しかし、(あおい)が熱を出したので、一人で待ち合わせ場所のこの橋に来たのだ。

氷羽の向かう方向は夏祭りのやっている川原とは真逆。

森へ向かっている。

橋を渡り、俺は氷羽に手を握られたまま、細い半人工的な草の踏まれた道を登る。

「ねぇ氷羽、どこへ行くの?お祭りはあっちだよ」

「いいから。花火、すっごい楽しみにしてたんでしょ?」

確かにそうだけど。

ならば何故、川原から離れるのか。氷羽が森に向かう理由が分からない。

付き合ってられないと思って引き返そうと思ったが、氷羽に手を強く握られて振り払えない。しょうがないので、彼の言葉を信じてついていくことにした。

それに、千里を一人置いてはいけない。

「洸くんってさ、ずっと見てきた(・・・・・・・)けど、いつも何考えてるのか分かんない。洸くんはいつも何考えてるの?」

そんなこと…―

「初めて訊かれた」

「まぁね。でも、きみだけに言わすのは不公平だね。そーだなぁ」

彼は勝手に話を進めて、勝手に考えて、勝手に話し始める。

「千里はきみが好きでも嫌いでもなんでもない。なんてどう?」

「好きにしなよ」

俺はなんだか苛ついてぶっきらぼうに返す。

「そっか、分かってるんだ。千里にとってきみは“人”。ただの構ってくれる人でしかない」

そうだよ。

分かってる。

千里と俺の間には常に葵がいる。葵がいて俺達は“親友”なのだ。千里と俺だけでは噛み合わない。

「はーい、ぼくのことは言った。これで公平だ。ねぇ、きみは何を考えてるの?ずっと、気になってたんだ。教えてよ」

言わせてもらいたいが、それは氷羽のことじゃなくて千里のことだ。

「だけど、千里はぼくでもあるんだから(・・・・・・・・・・)

氷羽はそう言い訳をした。

「じゃあ訊くけど、いつの俺が考えていることを訊きたいの?」

「いつもだって。敢えて言うなら、きみが起きている時」

いつも同じことを考えているわけ―

「あるでしょ?」

彼はそう言い切る。

「何で訊きたいの?」

しかし、あるでしょ?と言われても思い付かず、俺は“ある”と断言する彼に逆に理由を訊きたくなっていた。

「何でかって?それはきみを知りたいからでしょ?どうでもいい人間にこんなこと訊かないよ。それに、本当の友達になるにはここんとこは大切かなって」

氷羽は森の奥の神社までの石段に足を乗せて言う。そして、カランと下駄を暗くなってきた空に響かせると、踵を揃えて、腕を引いたままの俺を見下ろした。

「ね?洸くん」

大きくて綺麗な翡翠だ。

「友達?」

俺が氷羽を見上げて再び訊くと、彼は大きな溜め息を吐いた。

「友達だよっ!あーもう!」

そして、怒りだす氷羽。

訳が分からない。

氷羽は頬を膨らますと、髪と振り袖を靡かせて俺を前へと引っ張った。

「氷羽っ!早いよ!」

階段を1段飛ばしで進む氷羽のせいで転びそうになる。

「花火が始まるんだから早く!」

カランッ…―



大輪の花火が見えた。

「わぁ!凄い!」

「特等席。ちゃんと見れたでしょ?」

「うん!」

俺の大好きな花火だ。

寂れた神社の屋根の上は確かに特等席だった。少し罰当たりな気がするが。

「大丈夫、ここの神様にはもう人に影響を与えるほどの力はないから。信仰を失った神なんて…」

…―ごみ以下さ―…

「氷羽?」

「っと、洸くん、ぼくは本気できみと本当の友達になりたいんだけど」

氷羽は友達になるということを諦めてなかったらしい。

「だから教えてよ」

「うーん。友達になるのはいいけど、俺には俺がいつも考えてることなんて思い付かないよ」

「じゃあ、きみの望みを聞きたいな」

「望み……何でもいいの?」

「うん」

「えっと……」

望みって…。

俺の望み?


「じゃあ…―」


その時の餓鬼の俺の望みは、



「誰かを愛してみたい」



だった。


誰かに何か良いことをしてもらったらありがとうと感謝する。そして、今度はそれを他の人にしてあげなさい。


そう、父さんに教わっていた。


だから、俺のことを洸祈と呼んで愛してくれる人達にありがとうと感謝して、



誰かを愛してあげたいと思った。


氷羽は花火の光を頬に受けながら笑みを見せ、

また俺の唇に自らの薄ピンクの唇をくっ付けてきた。

「ぼくはきみの友達として望みを叶えられるよう頑張るね」

「え?じゃあ、俺も!」

何かしてくれるなら返さなきゃ。

「じゃあ、きみはぼくの友達としてぼくを愛して」

それは俺の望みだ。

「違うよ。ぼくの望み」

再びくっ付けられる唇。

ただくっ付けて何がしたいんだろうと俺は考えていた。

そしたら、氷羽が重ねた唇から舌が伸びて、俺の唇の隙間から歯列をなぞる。

「?」

「口開けて。本物のキスはこうなんだよ」

俺が愛するのにも、氷羽が愛されるのにも、本物のキスが必要なら…。

俺がそっと開けると、氷羽の舌が口内に滑り込んできた。

ふわふわな柔らかい舌は俺の舌をつつき、つつき返すと、舌を舐めるように絡ませてくる。

「ひ…わっ…」

「ぼくを愛して…洸くん…」

そして、俺達は随分とこうしていた。



「洸くん、ぼくらは友達だよね?」

氷羽はいつ見ても綺麗な髪を俺の体と千里の体に散らして抱き付き、花火を背に体を重ねて訊いた。

「うん。氷羽は俺の友達だよね?」

「勿論。ぼくらは友達だよ」

そして、俺達は友達になった。





その後も、氷羽が言う“人間同士の愛し方”を…言い換えるなら、性交を氷羽とした。

沢山キスをして沢山氷羽を愛したつもりだった。

しかし、この体を繋げたのが氷羽の体ではないということが、俺達の関係を、愛し愛され、それでも友達という関係にしていた。



氷羽はよく俺にヒトについて語った。

それらを今もまだ一言一句違わずに記憶しているのは、氷羽がヒトを語るときだけは冷静だったからかもしれない。

彼は、

ヒトは馬鹿だと蔑み、

ヒトは脆いと嘆いた。


「ヒトはヒトを傷付ける。分かるかい?ヒトは同じ種で傷付け、殺し合う。生きる為に齷齪(あくせく)働く蟻以下だ」

あいつの手に生まれる小さなナイフ。

「これをヒトは何の為に使うと思う?」

「俺は父さんに危ないから触るなって言われてる。でも、何かを切ったりするものでしょ?」

「そう。本来は生きる為に作られたものだ。だけど、ヒトの思いが…」

チクリと胸に痛みが走った。

見れば、氷羽の手が俺の胸にナイフを突き立てている。

「氷羽?」

「これを殺す為の道具に変える」

氷羽がナイフを抜いたと思ったら、俺の体には傷一つ付いてなかった。

「憎しみが、悲しみが、ヒトにヒトを傷付けさせる。たとえ、そこに形として見える利益がなくとも。他の生き物は違う。何らかの利益の為に動く。ヒトの言う道徳から見れば、ヒトが最も愚かだ」

ナイフを弄ぶ彼は、ヒトを批判しながらも、とても苦しそうな顔をしていた。

「だけど…どれもこれもヒトには感情があるからで…だからこそ、ヒトは絆や平和という言葉を使える。洸くん、ぼくを愛せてる?」

「分かんない。氷羽は?」

「さぁ。ぼくはヒトじゃないし。でも、愛されてるのかな…洸くんといると温かい」

ナイフを光に変えて消した氷羽は俺に抱き付く。

「洸くん…もしさ…ぼくがきみの大切なもの壊したらどうする?」

大切なもの?

家族。

それに…………………千里。

「直すよ」

俺が真面目に答えると、氷羽はくすりと笑って喉を猫のように鳴らした。

「駄目だよ。先に怒らなきゃ。ぼくを怒らなきゃ」

「何で?わざと氷羽は壊すの?」

「違うけど、怒って欲しいな。簡単に受け入れられてたら愛されてるように感じないもん」

「じゃあ、その時は氷羽を怒る。俺は氷羽と友達やめる」

大きかったあいつの瞳は細められ、長い睫が作った影のせいで黒く見えた。

今思えば、あの時の氷羽の表情には何も意味はなかったのだろう。彼らは永遠の命の代償に心を失なっていたのだから。

だけど、俺には氷羽が寂しそうな顔をしたと思った。


「うん……その時はやめよっか…友達」



俺はヒトで、

彼はカミサマ。


俺には心があって、

彼には心がない。


なのに、


彼にはヒトらしさがあって、

俺にはヒトらしさがなかった。






氷羽の夢を見てこんなに穏やかでいられるのは久し振りだ。

氷羽…。

かつて俺が愛した者の名。

呼び掛けて、司野(しの)が隣にいることに気付いて口を閉じる。

彩樹(さいじゅ)…司野を護ってくれよ。俺には絶対は言えないから」

枯れ草色の髪を指に絡めようとすれば、指の間からサラサラと流れ落ちた。

『護るさ。お前に言われなくても。絶対に』

彩樹の声。

俺の手を払い、彼は立ち上がる。

由宇麻(ゆうま)はぼくが護る』

二回言った彼は寝室のある二階への階段に通じるドアを開けた。

「一つ聞いていいか?」

『ぼくが答えられる範囲なら』

彩樹は俺に背を向けたまま答える。問答無用だった前回と違って大人しいのは少し気になるが、まぁ、聞いてくれるなら嬉しい。

こいつなら俺の要望を聞いてくれそうだ。

「お前は俺が嫌いか?」

『大嫌いだ』

予想通り。

司野を護ってくれるのに俺を嫌わない理由も必要もない。

司野が好きなら。

「殺したいぐらい?」

『ああ』

これも予想通り。

彩樹の声音に偽りは感じられない。


「じゃあ、殺してくれ」


『は?』

彩樹が俺を見る。

「俺は氷羽を助ける。罪を償う為に氷羽を俺のどんな犠牲を払っても助ける」

氷羽に与えている苦痛に比べたら…俺は手でも足でもくれてやるよ。

『それで?』

「氷羽を助けたら俺を殺してくれ」

『どうして?』

彩樹は無表情。

興味なさそうだが、いいんだろ?お前は。

「お前は俺を苦しめたいだろうが、俺は司野に迷惑掛けたくない」

すると、彼は司野の細い足首を見せて俺に歩み寄り、指先が俺の首に触れた。

小さな両手が首を包み込み、親指が気道を撫でる。

『お前はこの子に死ぬなんて勝手だと言った。だけど、お前が一番勝手じゃないか?』

俺の言葉に喜びもしない彩樹。


彼は何か変わったのかもしれない。


『この子の手は汚させない。この子が気に入ってるからね。だから、あの方に頼め』

彩樹は俺の耳に口を近づけると、囁いた。

『あの方をお前がもし助けたとしたら、あの方に殺してくださいと頼め。ぼくはあの方の苦しみを消したいだけだ。全てはあの方が決めること』

そして、俺の首から手を離し、開けっ放しのドアを通過して階段を上っていった。



―死にたいの?―

肩に止まったスイが鳴いた。

「今は死にたくないよ。ちょっと行ってくる」

―どこへ?まさか…―

ご名答。

「なんかさ、あいつの誕生日なんだよね。今日って」

―じゃあ彼には秘密にしといてあげる―


サンキュー。

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