灰樹(5)
泣かないで、洸祈。
「泣かないよ…………」
「崇弥?」
由宇麻は首を傾げる。
洸祈は窓に凭れていた体を起こすとフロントガラスの奥を紅い瞳で見つめた。
「司野…降ろして」
膝に掛けていたコートを羽織ってドアの取っ手に手を掛ける。
「なんでや?」
チラチラと視線を揺らして由宇麻はハンドルを切り、やがて停まる車。
「ここからは帰れるから」
「ちょっ、崇弥!」
由宇麻の手は空を斬って白い息を吐いた洸祈は夜風の中へと足を進めた。
「……雪」
やっぱり。
粉雪が視界に柔らかく舞う。
洸祈は掴めないそれに手を伸ばして抱いた。
そして呼ぶ。
「司野…」
自らのコートを洸祈に掛けるお人好しに…。
「なんや?」
ズボンのポケットに両手を突っ込んだ由宇麻は空を見上げて返した。
「何かさ…もう…」
呑み込む言葉。
「自分を殺すことは赦さへん」
分かったか?崇弥。
由宇麻は温まっている手のひらで無意識に握られた洸祈の拳を包む。
それを見つめた洸祈は白くなった甲に滴が落ちたのに気付いて自分が涙を流していることが分かる。
酷く脆くなった
誰かの手を求めるようになった
要らないと振り払ってきた
それを
求めるようになった
見たくないと無視してきた
それを
求めるようになった
弱く弱く…
脆く脆く…
今にもこの身を
投げ出したくなるくらい
罪を犯して
目を叛けた
そんな俺に
求める資格はないと
握り締めたこの手のひらで
あとどれだけの人を
苦しめればいい?
苦しめれば俺は解放される?
あとどれだけの罪を
重ねればいい?
重ねれば俺は解放される?
あの時の
アナタとの
約束を…
果たせば…
『君を解放しよう。私が全てを終わらせてあげる』
氷羽の為に…―
「司野…」
洸祈は手のひらに積もっては消える雪を見て由宇麻を呼ぶ。
「なんや?話なら車で話さへんか?」
「寒いならコートいいのに…」
「寒くあらへん。崇弥が心配なんや」
童顔が見詰め返してくる。
なんで…
「司野…」
「なんやって返さなあかん?」
ちょっぴり呆れた声。
「返さなくていい。ただ…俺は答えに困ってるんだ」
「答え?」
全ての。
何を考えたいのか…。
「司野…」
「なんや?」
返すんだ。
「死にたくない?」
「死にたくない」
そっか。
と…
…―馬鹿やな―…
「司野?」
背伸びをした由宇麻は洸祈にフードを被せた。身を捩る彼を由宇麻はそのまま抱き締める。
「俺にはテレパシーなんてもんはあらへん。だから餓鬼じゃなくなった崇弥が何考えてるか分からへん」
だけどな
「なぁ、崇弥…俺はこの手を放す気はあらへんからな。絶対にや…絶対に放さへん。俺な、崇弥の傍が心地いんや。だから俺は放さへん。たとえ崇弥が振り払ってもこの腕を体を使ってでも放さへん」
「俺は陽季に二之宮、多くの人を傷付けたんだよ?傷付けるんだよ?」
放したくなるだろ?
「だから?俺は案外丈夫なんやで?そうじゃなきゃ崇弥の横に立てへん。陽季君も蓮君も崇弥に傷付けられても丈夫だから横に、傍におるんやないか」
二人に積もる雪。
由宇麻は笑う。
「寒くて震えてるくせに」
「ぎゅってしてもええんやで」
その瞳が綺麗で…
「父親を抱き締めるやつがいるかよ」
つい意地悪をしたくなる。頬を膨らました由宇麻は洸祈に額をぶつけた。
「お熱あるな。洸祈君、お父さんがおぶってやろう」
そして、彼は脇に手を入れ、
………―
俯いた。
「おぶれないだろ」
足をぷるぷると震わせながらも洸祈を引き摺るようにおぶろうとする。洸祈は由宇麻から離れると彼を後ろから抱え上げた。
「崇弥ぐらい身長あれば楽々に運べるんやからな」
「司野ぐらいの身長でも楽々に運べるんだからな」
くすっ
二人から溢れる笑み。
「司野さ、雪好きなんだろ?」
「大好きや」
小さな口で夜の空気を吸い込むと、由宇麻は洸祈の胸に顔を埋めた。
「なんで?」
「聞きたいか?」
「そりゃあ聞きたい」
司野のことならなんでも。
「俺の重さだけ背負わせるなんて不公平だろ?」
背負わせてくれよ。
由宇麻の瞳が揺れた。
いいで。
と…
「雪はな…」
…くしゅん…
あっ………………………………。
「司野…」
「?」
「くしゃみ可愛いな」
マジで可愛いな。
「司野…」
「?」
「早く帰ろっか。そんで風呂入ろううぜ。俺が洗ってやるよ」
ちゃっかり爆弾発言。
由宇麻は洸祈から慌てて降りると後退った。
「一人で入れるわ!」
「まぁまぁ、帰ろ?」
「せや!帰ろ」
由宇麻のパーカーの帽子が揺れる。洸祈はそれに手を伸ばしてやめた。
そして、落ちたその手に息を吐く。
「司野…」
「なんや?」
「はすの花…いつ咲くんだ?」
「蓮?分からんな」
「そう…」
要らないと振り払ってきた
見たくないと無視してきた
それが…
振り払われる時が近い。
「調べたろか?」
「いや…いい」
『僕が散るその時』
「蓮が散るその時」
『笑ってくれよ?』
「泣いていいか?」
じっと洸祈を見詰めた由宇麻の瞳が見開かれる。
まさかやろ?
掠れた声で囁いた。