愛情誤差 ―陽季の場合―
「……熱い…」
凄く熱いよ…―
とある宿。
流浪舞団『月華鈴』が借りている一室のドアを双灯は勢い良く開けた。
「陽坊、明日の打ち合わせやるぞー」
長い髪を軽く首根で一つに束ねた彼は目的の人物を探して周囲を見回す。
「あれ?陽坊?」
いない?
と思ったら、ベッドに小山が1つ。
「ほら、打ち合わせだ」
無遠慮に双灯はシーツを引っ張った。
確かに陽季はいた。
ベッドの上で丸まっていた。
しかし、懐中電灯をくわえた彼はシーツの中で籠った熱で額を湿らせながら、鼻息を荒くして世界地図を眺めていた。
「何してんだ?」
今まで陽季の奇っ怪な行動を見てきた双灯も、奇っ怪を通り越して気持ち悪い姿に流石に後退りした。
「ひぇんひょりれんひぁい」
懐中電灯をくわえているので何を言っているのか分からない。
「ま、何でもいいけどよ、明日の打ち合わせやるぞ」
「やだ」
この二文字だけ妙に発音がいい。
そして、陽季はただ世界地図を一心に眺める。
双灯は相変わらずの我が儘に懐中電灯を奪い取った。
「あ!!」
陽季の漆黒の瞳が双灯を睨目上げる。
「地図は後にしろ。何が楽しいんだか。打ち合わせやるぞ」
「ふん!遠距離恋愛の苦しさは双灯には分かんないだろうね!」
世界地図で遠距離恋愛?
「洸祈君じゃなかったか?それとも浮気か?」
「浮気なんてするか!双灯じゃないんだし!」
「俺じゃねぇ!!!!」
「先輩、陽季君を呼びに行ったんじゃないんですか?浮気なんて…」
「胡鳥!違うって!」
温かな笑みの彼、胡鳥がドアから顔を覗かせていた。
「あーもう!俺は洸祈一筋だから!…はぁ…東京は遠いなぁ…」
こちら北海道。
外に出ればとてつもなく寒い。
「世界地図かよ…せめて日本地図だな」
と、双灯がつっこむが、陽季の視線は大陸のオマケみたいな日本列島の一角、東京にしか向いてなかった。
「洸祈…会いたい……洸祈……会ったらまず愛の抱擁を…キスを…」
その後、あー。や、うー。と、ベッドの上で陽季が身を捩り始める。
つまり、身悶えていた。
正直、気持ち悪い。
何事にも動じない胡鳥も流石に双灯の背中に隠れた。
「陽季君…なんかまずいんじゃないんですか?」
「もともと陽坊は変な奴だったけど、これは本気でまずいな。洸祈君に会えなくて相当病んでるぞ」
しかし、クリスマス公演で双灯が陽季と洸祈の大胆な口付けを見てから、陽季は時折、考え込むような素振りを見せても浮かれていた。端から見てもウザいくらいに。
そんな彼が1週間程前に月1のカウンセラーを受けてから、彼は益々更におかしな行動をするようになった。
「陽坊、今回の公演が終わったら墓参りに東京に帰るし、直ぐに会えるさ」
「…やだ…今会いたい…洸祈…洸祈……もう帰りたい…帰りたいよ…」
枕を胸に抱いた陽季が急にしおらしくなる。
その場の空気が少し淀んだ気がした。
「陽季君?」
胡鳥が首を傾げる。
すると、双灯が一歩前に踏み出した。
「胡鳥、出るぞ。陽坊、お前は月華鈴の舞妓だ。仕事の途中放棄は許されない。東京に帰ることもだ。院長先生に貰った恩、仇で返したら…俺は…」
「先輩。陽季君も分かっていますよ」
宥めに入った胡鳥が双灯の背中を押す。完全に沈黙した陽季をやりきれない顔で見、胡鳥はぐいぐいと強引に双灯を部屋の外に追い出した。
「すまん…胡鳥」
前をすたすたと歩く胡鳥に双灯は拳を作っては広げてを繰り返して謝る。すると、振り返った胡鳥はピタリと静止して背の高い双灯を真っ直ぐ見詰めた。
「いいえ。先輩なら『先に電話しろよ!お前は昭和の女か!』って叫びながら殴り掛かると思ってましたから。我慢したんですね」
あれ?
何か言葉に力が籠ってないか?
そして、口元はいつも通りの微笑を称えているのに目は笑っていない。
「そこまでは…」
「僕の本心です。僕、我慢したでしょう?」
双灯が戸惑い、口もごると、胡鳥が冷めきった笑いをした。
双灯は胡鳥の意外な一面に冷や汗をかくと、反射的に頷いていた。
「あ…ああ……」
「洸祈…会いたいよ…」
世界地図の上に寝転がりながら東京の位置を指先で撫でる陽季はぼやいた。
「ここが北海道…」
人差し指が独特の形をした北海道を差す。
そして、ゆっくりと南へ指先が降りていく。
「青森…岩手…宮城…福島………栃木…」
そこで動きが止まった。
『両親が亡くなった事故のことを今はどう思いますか?』
『…………どうとも』
『どうとも?なんとも思っていないと言うことですか?』
『はい』
『今もその時の夢を見るそうですね』
『はい』
『どんな感じですか?事故を傍観しているのか…』
『俺は昔の俺になって、あの事故を繰り返しています』
『辛いですか?』
『いいえ。………………………ただ……』
『ただ?』
『熱い…凄く熱い…です』
『火ですか?』
『はい』
『怖いですか?』
『いいえ』
『何か言いたいことはありますか?』
『いいえ』
『それでは―』
『………あの…』
『はい。どうしましたか?』
『あの…夢の中で火に焼かれていたのは……両親ではなくて…―』
陽季の指先は小さな“東京”の二文字を隠す。
「洸祈……会いたい」
はぁと微かな吐息が口から漏れ、彼はベッドから起き上がった。
陽季の着る白の着物の長い袖が皺の付いた地図の上を滑る。
「打ち合わせ…行かなきゃ」
陽季は胸元を右手で軽く押さえた。
……カチ…―…カチ…―…カチ…―
耳を澄ませば聞こえる規則正しい秒針の音。
「洸祈………お前を疑ってごめん」