愛は惜しみなく与う(13)
「ユウリ、まだ起きてるの?」
部屋を仕切るカーテンの隙間からしょぼついた目を瞬かせる彼女が顔を覗かせた。
彼女のベッド脇のランプの光が落ちてから随分と経つから、俺のせいで起こしてしまったようだった。静かにしていたつもりだが、椅子を引く音や机のランプが彼女の眠りを妨げたのだろう。
「うん。騒がしかった?」
明かりの傍に荷物を積み上げて光量を抑える。
明日から廊下で作業できないか宿の主人に聞いてみよう。長居してそこそこ仲良くなった気がするし。
「ううん。ただ……いつも夜遅いから君のことが心配なだけ」
カーテは直ぐに頭を左右に振った。
しかし、言わないだけで、カーテは俺の夜更かしに気付いていた。学院時代と変わらない生活をしていたが、相部屋はしたことがなかった。同居人への配慮が足りなかったか。
「心配してくれてありがとう。やってみたいことがいっぱい出てきて、寝るのを忘れてしまうんだ」
「無理しないで」
無理はしていない。一度だって、辛いや苦しいと思ったことはない。
なんだか、今夜のカーテはいつも以上に心配性だ。
「そこは心配ご無用だよ。無理をして、君の目の前でこの俺が情けない姿を晒すわけにはいかないから」
いつだって俺はカッコイイ男でいたいんだ。
「それは私もだよ、ユウリ。おやすみ」
「ああ、おやすみ、カーテ」
眉尻を下げたカーテは眠たげ――否、寂しそうに見えたのは俺の勘違いだったのだろうか。
小さく手を振ると、彼女はカーテンの向こうに戻り、毛布を引き上げる音がして直ぐに静かになった。
セイレーンから生まれ、人工的に姿形を得た精霊――シアンを探してループス村を離れてから三ヶ月は経っていた。
ループス村でシアンの残した手紙を見付けてから、当て所もない旅は目的地の定まった旅となり、歩みを進めるスピードは一気に早まった、しかし、目的地に着いたかと思えば、シアンの同居人達は既に家を変えており、また新しい目的地が現れ、家を変えていて……を繰り返し、いたちごっこのようになかなか追いつくことが出来なかった。
そして、約一週間前から、俺達はここオルニットに滞在していた。
近隣エリアで最も栄える交易都市である。モノとヒトで溢れるここで、同居人達の家探しに苦労しているところである。
この街でどうにか聞けた名前は「リク」だけ。それも、随分と昔のことである。
定期的に街にやってきては日雇いの肉体労働をして賃金を貰い、食材を購入して森に入って行った。雇い主によると、礼儀正しく、仕事の手も抜かず、好青年だったと言う。ただ、早朝に来て、日没直前に帰る彼が森のどこから来ているのかは知らず、居場所も曖昧なことしか言わなかったらしい。徴兵される若者が増えてきた街で、妹がいると言う彼が警戒するのは無理ないと思ったらしく、深く追求はしなかったようだ。そして、ある時から彼はぱったりと来なくなってしまった。
ただ、昔と比べて確実に物騒になってきた世の中で、家の場所も知らない青年一人の不在を疑問に思う者は誰一人としていなかった。叶うことならば、獣や野盗に襲われたのではなく、他所に引っ越したのだろう、そう思うぐらいだった。
そのため、「家探し」はほぼ情報がない状態から始まり、森の捜索は日中しか行えず、はや一週間経つわけである。ここで時間を食えば食うほど、シアンとの距離が開いてしまうのだが、カーテ曰く、シアンと離れている感じはしないとのこと。ただ、学院以上に雑多で広いこの街のどこにいるかまでは分からないということだった。
シアンの目的が家族探しであるならば、俺達も「家探し」を続けるのが妥当だろう。まぁ、俺達のように人探しをしている者がいないか訊ねなかったわけでは無いが、今のところ、そちらの情報は皆無である。
朗報はカーテの発作の頻度が減り、発作時の痛みもマシになっているということだろう。これもシアンに近付いた影響と、比較的に街の雰囲気が良いからと思われる。ここに滞在する人々は他の村と比べればまだ生活に余裕がある。若者の姿は見かけないが、女子供は多くいるし、笑顔がないわけではない。心の隅で先の見えない不安を抱えながらも、まだ笑えるのだ。夢を求めて交易都市へと赴く者も多い。
そんなこんなで、俺の心にもいくらかの余裕が生まれなかったと言えば嘘になる。
しかし、そろそろ別のアプローチをしても良い頃合いかもしれない。
身動きが取れなくなる前に。余裕のある時に。
「カーテ、寝ちゃった?」
……………………何も聞こえない。
眠っているなら、相談はまた明日にしよう。
「リトラ、そこに座ってちょうだい」
「はい。これ並べたら」
「いいのよ。それは後で」
「……はい」
ふくよかな体に逞しい手足の彼女――ロゼッタは頭の頭巾とエプロンを外すと、リトラを手招きした。リトラは出来立てのパンが乗ったトレーを見下ろすと、合図なく工房から現れたロゼッタの夫がそれを受け取る。そして、彼はリトラの代わりにパンを棚に並べ始めた。
「私……何か……」
「?ああ……いつもありがとうねぇ。あんたは私が育てた憎いぐらい愛おしいガキ達の中で一番の別嬪さんで、賢くって、非の打ち所がない、私達には勿体ないくらいの良い子だよ」
リトラの帽子を外し、ロゼッタは彼女の乱れた髪を直すように指先で撫でる。
「だからね、あんたが夜中に出掛けるのが、堪らなく怖くなるんだ。大事な大事な愛娘たがら。……あんたは生きるために仕事が欲しくてここへ来た。だから、仕事以外で関わるのはお節介なんだと思う。だけど…………あんたが答えたくないなら答えなくて良い。ただ、危なくないなら、私達はそれでいいんだ」
「…………ごめんなさい……」
「謝る必要はないよ。ただ、心配なだけなんだ…………心配性でごめんね」
テーブルを挟んで座るリトラとロゼッタの間に存在するのはレース編みのクロスとデージーの一輪挿しだけ。
俯くリトラを静かに待つロゼッタ。暫くそうしていたが、小さく不規則に揺れた彼女の肩を見下ろすと「今夜も無事に帰ってきておくれ」と囁いてロゼッタは立ち上がった。
「あ…………あのっ…………私…………ただ……前の家に………………」
「前の家?」
ロゼッタが振り返ると、リトラが顔を上げていた。自分の腕を強く掴んで眉を寄せる。
「…………ずっと……待つって………………約束したから…………帰ってきたら分かるように……………………だから…………だから……」
肩を縮こませて、息を大きく吸って、唇を噛んで――その顔は、リトラがパン屋で住み込みで働きだしてから初めて見せるものだった。
ロゼッタは、見えない傷に自覚のないまま苦しむリトラの肩を抱き寄せる。「…………家が……ないと…………帰れないから…………」と途切れ途切れに言葉を紡ぐリトラはどうして息が切れてしまうのか分からないようだった。
「私達は変わってしまった………………だから、もう目印は…………あの家しかないから……………………」
意味のない戦争に三人の息子達はもれなく兵士として連れて行かれ、それでも、彼らの帰る家を守る為に住み込みの手伝いを募集した。そんな時、働かせて欲しいと頭を下げてきたのは一人の少女だった。保護者のいない素性不明の彼女を警戒しなかったわけではなかったが、リトラは凍えるような早朝から鼻頭を赤くして愚痴の一つも吐かずに動く働き者だった。愛想笑いはしないが、勤勉で誠実、感謝は笑顔の代わりにきちんと言葉で伝えてくる。夫婦は直ぐに彼女が好きになり、常連客や近所の人達も彼女をこの街の仲間として受け入れた。彼女は過去を頑なに話そうとはしなかったが、戦争孤児が珍しくない今、心に負った傷がいつか癒えて、リトラから話してくれるのを気長に待てば良いと夫婦は考えていた。
「……危ないことはしてません…………掃除したり……壊れたところ補修したり……してて…………」
ロゼッタは小麦の匂いの染み付いた手のひらでリトラの頭を抱える。もう話さなくていいよと言うように柔らかな胸に押し付けた。
「あんたがこんなに望んでるんだ…………あんたの家族は絶対に帰って来る。だから、どんなに時間が経ったって、あんたはここで家族の帰りを待ってていいんだよ」
パンを並べ終えたロゼッタの夫も何も言わずにリトラの頭を撫でる。
温もりと静かな優しさに包まれた彼女は空いた両手を彷徨かせると、ロゼッタのエプロンを引き寄せて目元を押し付けた。
「ありがとう……ございます…………本当に……」
「昔のあんたを私は知らないけどさ、変わってないよ?あんたがここへ来た時から少しも。優しくて賢くて可愛い真っ直ぐな娘っ子のままさ。だから、安心しな」
「…………はい」
リトラが泣くことはなかったが、暫くの間、静かにロゼッタに抱かれていた。
「おねーちゃん、今日はー?」
「これだよ」
握り締めていた小銭を台の上に乗せた少年が両手をリトラに向けた。
くるりと後ろを向いた彼女は店に彼が入る前から用意していた紙袋を手に取ると、少年の手のひらにそれを収めた。
「えっと…………わあ!膨らんでる!」
「うん」
袋を開いて中を見た少年は直方体の大きなパンを見付けて驚きの声を上げる。
「すごいや!!もうこれで、立派なパン屋だよ!」
「ありがとう」
きらきらとした眼差しを向けながら褒められたリトラは少しだけ肩を竦めると、眉尻を落としながら慈しむ表情で少年の頭を撫でた。
「おじさんとおばさんと、君のおかげ。次は別のも作れるようになる」
「俺もかあちゃんも毎日楽しみにしてるんだ、おねーちゃんのパン。少しづつパン焼くの上手くなってるの分かるもん。すっげー頑張ってる!」
成長を褒められたリトラは目を丸めると、ゆっくりと目尻を細め、見た目相応の笑顔を見せた。少年もその表情に気付くと、僅かな驚きの後に笑みを返す。
少年が彼女に会った当初、いつの間にかパン屋のおじちゃんとおばちゃんの家族になっていた彼女のことが、少年は大嫌いだった。
よく一緒に遊んでくれたパン屋の『お兄ちゃん達』が国からの命令で首都へと招集され、パン屋の『おじちゃん』も『おばちゃん』も言葉にはしなかったが、彼らが無理をして笑顔を作っているように見えた。だから、少年は毎朝パンを買いに来ては、少しでも彼らの心の雲が晴れるように言葉を交わした。そこに唐突に現れた少女の存在は、『お兄ちゃん達』の帰る場所を奪っている気がして、少年は許せなかった。
愛想笑いの一つもしない彼女が店の中にいるのは異様で、笑い声の絶えなかった家族から三人分の笑い声が失われているというのに、笑わない彼女のことは益々気に食わなかった。それでも、少年が少女を見張るのも兼ねてパン屋通っていると、少しずつ彼女のことが分かってきた。
笑わないが、感情がないわけではない。飾らない素直な言葉で気持ちを伝えてくる。暇さえあれば、店主がパンを作る姿をじっと見て勉強している。そうして、少年が勇気を出して少女に声を掛けると、彼女はきちんと目を見て言葉を返してくれた。「俺はあんたが嫌いだ」と相手の事情も知らずに投げ付けた暴言の数々を彼女は全部聞いて、少年への謝罪と店主夫婦への感謝を口にした。それから、昔のようなパン屋にするにはどうしたらいいか教えてほしいと少年に頭を下げたのだ。その真摯な眼差しに少年は彼女を一方的に嫌うことをやめて、彼女の手伝いをすることにした。
毎日、少女が作るパンを買い、食べ、アドバイスをする。彼女もそれを真剣に聞き、パンを作った。
「あのさ」
「うん?」
「いっぱい酷いこと言ったことあったじゃん………………ごめん。俺、謝ってなかったから。ごめんなさい」
「…………君が謝らなくていいんだ。『お兄ちゃん達』が帰る家を守りたい気持ちは私にも分かるから」
「おねーちゃんの家はここだよね?」
「………………ここは『お兄ちゃん達』の家。私の家はここじゃない」
彼女は飾らない言葉選びをする。分かっていても、少年の胸はちくりと痛んだ。
「だけど、この街もここも好き。もしも私がここを離れても、私はここを忘れないし、君のことも忘れない。諦めなければ、私達はまた会える」
「俺も……忘れないよ」
どんなに離れても、それは本当の別れではないから、彼女は惜しまない。飾らないから、真っ直ぐで、だからこそ、嘘は吐かない。
彼女は少年のことを忘れない。ならば、いつかの別れの為ではなく、いつかまた会う時の為に今は細やかな思い出を積み重ねるだけ。
「今度、胡桃のパン作ってよ。俺、おねーちゃんの作る胡桃のパン食べたいな」
「うん。いいよ」
少年は目尻が熱くなるのを無視して、いつもと変わらない精一杯の笑顔を彼女に返した。
裁縫はとても難しい。けれども、不器用な私に呆れることなく、おばさんは手取り足取り教えてくれた。だから、裁縫はとても楽しい。
「リトラ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
その夜、おばさんは出掛けようとする私の前に現れた。明日も早いのに起こしてしまったと罪悪感を感じないわけではないが、冷えないようにとマフラーを巻いてくれる彼女の優しさへの感謝の気持ちが溢れる。
最後におばさんは私を抱きしめると「絶対に怪我すんじゃないよ」と囁いて背中を押した。
幸せ者なのだ、私は。
道を逸れる直前までおばさんは静かに私を見送ってくれた。帰って来れる家がある――だから、私もあの家を残したい。
経年劣化で穴が空いてしまったカーテンをおばさんに教わりながら繕った。自身の古着を裂いて補修用にくれたから、花柄模様が入り、以前よりも華やかになったのだ。小さな穴には刺繍を施してくれ、益々カラフルになった。
シアンが見たら「可愛いですね」と目を輝かせてくれるだろうか。
師匠はどんな反応をするだろうか。
「また…………会える…………よね…………」
残された自分が一番弱気になってはいけない。『諦めなければ、また会える』そう言ったのは、私なのだから。
鬱蒼とした森の中には開けた空間が。暫く使われた形跡のない納屋と共にこの場所を見付けた時、師匠と私は同時に「ここがいい!」と声を上げたのだ。そんな風に目に見える形で通じ合ったのは久し振りで、私達は長々と笑い合ってしまった。
日中は光が柱のように降り注ぎ、夜は月明かりが優しく射し込む。私はこの景色をシアンにも見せたい。
ううん、この景色をシアンと師匠と一緒に見たいんだ。
「…………………………いる……」
何かが近くにいる。
しかし、それがシアンではないことは明白だった。何故なら、シアンなら気配で分かるから。
弱々しい気配だが、小動物ではない。程々の大きさ――人ぐらいの大きさ。
人と言うには少し違和感があるが、敵意がないのは確かだ。寧ろ、苦しんでいる。
用心のため、護身用の小さなナイフが腰に隠してあることを確認してから、違和感の方へと向かった。
森との境目。月明かりから半分だけ隠れた状態で木に寄り掛かる人影があった。
小さく肩で息をしている。激しさは無く、消え掛けのロウソクのような今にも止まってしまいそうな呼吸だ。両手は空で、万が一、悪意ある人間だったとしても警戒を怠らなければ、制圧できると確信した私は人影に触れた。
「……ここは危険だよ」
フード付きのコートは所々擦り切れていて、新旧混在する跡と補修の跡から察するに物を大事に長く使うタイプ。鞄も同じ様な感じだ。粗暴な雰囲気はない。
腕に触れ、声を掛けたことで、微かな反応を示したが、すっかり衰弱しているのか、それ以上の反応はなかった。
「………………私の肩に手を回して」
このままでは死んでしまう。――私が助けても助けなくても、この人が死んでしまう運命にあったとしても、シアンなら絶対に助けようとしただろう。だから、勝手に腕を掴み、自分の肩に回す。自力では動きそうもないため、私は引き摺って小屋の中へと運ぶことにした。
「人…………?」
フードの下は肩までに切り揃えられた黒髪の女性だった。
栄養不足でも、怪我をしているわけでもない。だが、苦しんで弱っているのは確かだ。
一体、何に苦しんでいるのだろうか。目に見えない病気なのだろうか。しかし、凍えるような寒さの中、背負って街まで連れて行くのは論外だ。街まで行けなければ、医者にも見せられない。
「シアンがいれば分かったのに…………」
原因も。解決方法も。きっと分かっただろう。
シアンは人も精霊も全力で助けるから。
調度品は古いが、掃除だけは怠っていなかった為、軋むソファーに彼女を寝かせて、ツギハギだらけのブランケットを掛ける。それから、暖炉で火を起こし、お湯を沸かした。
部屋の中が明るくなると、生活していた形跡が随分前に途絶えたのが分かって、懐かしい気持ちと寂しさが湧き出てくる。いつもは暗い中で掃除をして帰るため、細かいところまで見えてなかったのだ。
「……ただのお湯だけど…………飲んで?」
冷えた体を温めるなら、暖炉の温もりも必要だが、温かい飲み物で内側から温めた方がより早い。
手に触れると、氷のように冷たい――彼女への違和感が分かった。
「あなたは……」
彼女は大地から魔力を貰っている。自らの内から魔力を生み出すのが人だが、彼女は大地を通して魔力を得ていた。
つまり、
「あなたは人じゃない」
人の目にも見える高位の魔法生物。
私の言葉に薄目を開けた彼女は透けるような緑の色の瞳を覗かせた。ただ、目は開けたものの、ぼーっとした表情のまま動かない。
まぁ、何者かを問うのは彼女が元気になってからで構わない。
ゆっくりと体を起こし、口元にカップを持って行くと、湯気にまつ毛を揺らした彼女が両手をカップに添えた。彼女の手のひらがカップを支える私の手の甲に触れ、その冷たさに心臓が早鐘を打ったが、そこは堪える。それに、触れ合った手を通して私の魔力を吸っているようだった。
私はシアンと魔力で繋がっているから、大地からの魔力に近い性質を持っているのだろう。魔力の喪失で仄かに頭が重くなるが、人は体力を失うと休息し、食べ物を摂取する――彼女も人と同じで、本能的に魔力を吸い上げているだけなのだ。
だから、彼女の気が済むまで好きにさせることにした。私には医学の知識はないが、魔力ならあげられるから。
瞼に雫が落ち、それが一滴二滴と続々と降ってくるのだから、雨が降ってきたのだと思って、思わず目を開けた。すると、眉間を寄せ、声を押し殺して泣きじゃくる女性がそこにいた。
「え……」
状況整理の為に、横になっていたソファーから体を起こそうとすれば、彼女は私の手を握っていた。
何故、彼女は泣くのか。何故、彼女は私の手を握って放さないのか。
分からないことだらけだったが、衰弱していたはずの彼女が泣けるまで回復したことには安堵した。
森の中で一人ぼっちで、何か恐ろしい思いをしたのかもしれない。
「大丈夫?」
空いていた片手で彼女の涙を拭えば、濡れて輝く緑の瞳を見せた。朝露を乗せて光を透かす葉っぱのように美しい瞳だ。
「寒くない?お腹は空いてない?私にできることがあれば言って。力になるから」
「…………ありがとう。それなら、暫くこうさせて」
彼女は私を抱き締めた。魔力が欲しいのかと思ったが、そのような気配はない。本当にただ、私を抱き締める。そして、静かに涙を流し始めた。
「私はシャルロッテ=ナディア・フォン・バレンタイン…………カーテと呼んで」
「……カーテ……」
人の似姿を持ち、人の言葉を話し、自らの意思を持ち、名前を持ち、会話ができる。シアンと同じ高位の魔法生物。
「カーテは…………」
「うん。私は精霊。ゼノという種族の精霊」
ゼノというのは初めて聞いた。種族名があり、個体名がある。シアンと師匠が精霊なのは知っているけれど、私はそれ以上のことは知らない。
……シアンのことも師匠のことも全然知らない。
「………………私はあなたに感謝してる。でも、その前に謝らないといけない」
謝る?私に?
「私達ゼノは精神感応の力を持つの。だから、私は触れたものの思考を読み取ることができる。あなたに触れた時、私は無意識のうちにあなたの魔力を奪い、思考を読み取ってしまった。…………あなたの奥深くに眠る過去の記憶も」
「………………構わないよ。寧ろ、泣かしてしまってごめんなさい」
多分、私がシアンや師匠に会う前の、私も覚えていない記憶を見て彼女は泣いてしまった。捨て子なのは分かりきっていたから、きっと良い思い出ではないと思う。でも、私とって大切なのはシアンと師匠との思い出なのだから、それより前は、思い出せなくても構わないのだ。
「私はリトラ。ここで家族を待っているんだ。普段は街の方に居て、時々、この家の様子を見に来てる。だから、カーテは元気になるまでここに居ていいよ」
「……………………私は……街から少しでも離れようとしていたんだ。だから、ここにも居られない」
「どうして?」
「精神感応の力は触れたものの思考を読み取ることができるけど、思考を取り込ませる力も持っている。そして、私は取り込ませる力の方が強い。つまり、相手を意のままに操ることができる」
カーテが両手を差し出してきた。
力を使うトリガーとして相手に触れることだと示したうえで向けられた手のひら。迷わなかったと言えば、嘘になるが、私の記憶に涙を見せて抱き締めた彼女を信じない理由はなかった。
しっかりと両手を握ると、温かくて柔らかな感触に包まれた。
「私達精霊には、今の大地の穢れた魔力は飲み込むのも辛い。でも、魔力を得ないと存在を失う。だから、大地から魔力を取り込み、自我を失い、他者を傷付けてしまう。私が私をコントロールできなくなれば……私は誰も傷付けたくない」
私はこの時、己の未熟さを痛感した。
シアンや師匠に敵わないことは知っていたが、彼らと離れてから、自分はどう成長しただろうか?
ずっとこの家に留まり……いつまで私は待つのだろう。ヒトも精霊も苦しんでいるのに、私は傍観するだけ。この手足が一体何のために存在するのか分からなくなる。
私を捨てた師匠もこんな気持ちだったのだろうか?
「本当に親切にしてくれてありがとう、リトラさん。…………大丈夫。彼はあなたとの約束を必ず守るから」
「え…………?」
彼とは?約束とは?
記憶を見た彼女はシアンと私との約束を言っているのかと思った時、どうにもならないほどの眠気が襲ってきた。家の片付けの為に夜更かしを繰り返しているから、ここまで突然に眠たくなることなどないはず。
通常と違うのは彼女に魔力を渡したことぐらいしか思い付かないが、その影響で……?
「……私は守れないけど……………………一緒に居たかったな……ずっと…………一緒に…………」
震える声で囁いた彼女の声が胸の奥底に響いて木霊した。
夜明けの一歩手前。
目を開けると、彼女の姿は消えていた。
ただ、補修したカーテンが元の場所に取り付けられていた。