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啼く鳥の謳う物語2  作者: フタトキ
あなたと共に歩む
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愛は惜しみなく与う(12)

せめて、僕が君をあの場所へ連れて行くよ。

キラキラと七色に輝く宝石のおうちへ。

君の瞳に虹を映すために。




「カーテ、冷えてしまうよ?……それは?」

霧雨を避けるようにフードを被った男はロングコートを翻すと、隣を歩いていたはずの友を探して後ろを振り返った。案の定、好奇心にめっぽう弱い彼女は小さな建造物を前にしゃがみこんでいた。

新緑に似た瞳と切り揃えられた肩までの黒髪の彼女。

視界を遮るフードを下ろして、じっとそれを見詰めていた。

「何か感じる?」

「…………悲しい気持ち」

「………………」

「…………一度壊されたけど、誰かが泣きながら直したみたい。悲しくて優しい気持ち」

色付きのガラスの壁をカーテの白い指先が雨露を広げながら撫でる。そして、見えない何かを読むように指の先を目で追う。そんな彼女を見守る青年はフードを下ろすと、徐ろに首に巻いていた黒色のマフラーを外した。青年の長髪が襟から滑り落ち、栗色に光って風に揺れる。

「カーテの風邪はあとを引くから。温かくして」

「ありがとう、ユウリ。でも、ユウリの方が寒がりなんだから、これは君がしてて」

青年――ユウリがマフラーを巻こうとする手を止めると、彼女は彼の首にマフラーを巻き直した。爪先立ちでユウリの濡れた前髪を避けるカーテ。ユウリの下った眉と黒目が覗く。

「心配を掛けたね。そんな泣きそうな顔をしないでよ」

「俺は…………」

「まだ時間はあるよ。それに"見当違い"ってわけじゃない。多分、あの子の精霊だよ」

ガラス細工で作られた箱型のそれは一面が両開きの扉となっており、戸の向こうには木彫りの置物が。精巧とは言い難いが、特徴は捉えられており、四本の脚と耳と尾のある獣を象っていた。犬よりも精悍な顔付きは狼である。

カーテが指を向けたのは、そんな狼の置物の周囲を泳ぐ魚だった。輪郭のぼやけた青く光る魚が、光の粒を撥ねさせながら鰭を揺らして浮遊する。

「珍しい。留まってるなんて」

「…………これは壊れた跡がないから、後から作られたんだね。直した人がこれも作ったのかな。作った人の想いの強さにあの子の精霊が影響を受けたんだと思う」

気ままに泳いでいた魚だったが、カーテが手のひらを近付けると、警戒するように置物の影に隠れた。

「カーテの探す精霊は近くにいる?」

「分からない。村の人に聞いてみよう。この祠のこと」

「ああ」

フードを被ったカーテの眼の前には少し骨張った細く長い指の手のひら。見上げた視線の先はユウリの静かで優しい笑み。「転ぶと危ないよ。俺の手を取って」と言っている顔だ。

「ありがとう、ユウリ」

学内では恐ろしく整った美しい顔と無表情から『氷の貴公子』などと呼ばれているようだが、カーテはユウリの笑ったり、怒ったり、悲しんだりと春の嵐のように移り変わりの激しい表情ばかり見ている為、その渾名が彼のどこを見て言われているのか分からない。

カーテが指先を彼の手のひらに乗せると、彼はわざわざ指を絡めて握り直した。

「カーテは勝手に何処かへ行くんだから。次は迷子になっても探さないよ」

「ユウリは私のお母さんみたいだね」

「俺はこんな大きい子を儲けた覚えはないね」

「そうだね。君は私の友人。唯一無二の大切な友。隣りにいてくれるだけで私はとても幸せ。この先もずっと隣にいて」

「っ!?」

素早く振り返ったユウリは口を開けて固まっていた。

壊れたロボットのような顔は、カーテの見るまた新しいユウリの表情だった。

「ユウリ?もしかして、私、また変なこと言った?」

カーテにとって、全て嘘偽りのない言葉だったが、周囲はそれを良く『変』と言った。しかし、『変』とは他者から見た評価であり、何がどう変なのかを自らが知ることは困難だった。それでも、彼らの『変』には負の意味が含まれることは分かったため、カーテは『変』なことを言っていないかを相手の反応から探っていた。

きっと、ユウリは『変』だと思った。初めての――いつもとは違う表情の理由はカーテの『変』な言葉が原因だと推理したのだ。

「……………………変じゃないよ」

優しさを含んだ苦笑をしたユウリはカーテの手を両手で包むと、腰を落とし、視線を合わせて「カーテは何も変なこと言ってない」と念押した。

「ただ、俺の存在がカーテを幸せにしていたなら、それに気付かない俺はなんて愚かだったんだ、って思っただけ」

「愚か?………………なら、私はもっと君に伝えるべきだったね。ユウリ、だいす――」

カーテの口をばっと手で塞いだユウリ。

「変じゃないけど、それ以上は俺の心臓がもたないからダメ」

眉を寄せて、唇を尖らせた彼はそっぽを向く。そして、隠すようにフードを被ると、さっさと歩き出した。カーテは言えなかった「大好き」の言葉を無理やり飲み込むと、固く繋いだままの手を見下ろす。

変じゃないし、ちゃんと伝わっている――カーテは湧いてくる温かくて明るい気持ちを噛み締めると、繋ぐ手のひらを強く握ってから追い掛けた。





「ありがとうございます…………あなたがいてくれたから、ここまで彼を運んでこれました。本当に……ありがとう」

小さな耳をピクピクと左右に揺らし、円らな黒い瞳をした鹿はシアンから伸ばされた手のひらを頭の上に受け止めた後、森の中へと帰っていった。


灰色の毛玉――否、狼の精霊のループスを胸に抱きながら、シアンは力を振り絞って祠を振り返る。

「…………随分と遠回りをしてしまいましたが、やっと…………見てください、ループス」

体力の限界が来ていたシアンは地面に座り込むと、歪ながらも色取り取りのガラスで飾られた祠を見上げた。

数時間前まで分厚い雲が空を覆い、霧雨が降り注いでいたが、彼らの到着を待っていたかのように、雲の切れ間から夕陽が彼らを照らしていた。

「あなたの……この村の人達への想いは……ちゃんと伝わっていましたよ。ほら…………とても綺麗です……」

ループスの泥で汚れた体を、自らの衣類のまだ汚れの少ない部分で拭きながら、シアンはぐったりしたままの彼に話し掛ける。応える声はないが、ほんの僅かに尾が揺れた。

「あなたの……あなただけの家…………あなたの帰りを待つ家です」

ループスにはシアンの声が聞こえている。

ループスからの愛の種はちゃんとこの地で芽吹いて育っていた――それがループスにも伝わっただけでシアンは満足だった。

精霊はヒトと、ヒトは精霊と生きていける。今はまだ手探り状態だから、小さな間違いで大きな誤解も生まれるけれど、拙いながらも精霊とヒトは互いに手を取り合えるのだ。

嬉しいこと――のはずなのに、シアンは目尻が熱くなるのを感じて、ループスの体毛に顔を隠した。

「僕は…………酷い精霊です…………あなたがこんなにも傷付いたと言うのに……あなたにヒトを憎まないでほしいと思っています………………僕は………………とても酷い…………精霊だ………………」

ふわりとシアンの手の甲を撫でたのはループスの尾だった。ゆっくりと尾っぽがそこを往復する。

「ループス…………」

涙を拭ってループスの顔を見下ろすと、閉じていた彼の瞼が開いて、七色に輝く祠を映した。

笑ったり、泣いたりというヒトのような感情表現はないが、ループスは代わりに大きく尾を振る。

一回、二回……残された体力を振り絞るように一呼吸を置いては尾を振っていた。

シアンは唇の端を震わせながらも、満面の笑みを見せると、オレンジの陽の光を浴びて淡く輝くループスの背中を撫でた。

指先で丁寧に毛を梳きながら撫でるシアン。

乾いた泥が落ち、灰色の毛は本来の白銀へと色を変えて行く。

「ループス…………ヒトも精霊も共に歩める、そう思っても良いですか?」

白銀の毛は光の粒となってシアンの指の隙間から溢れて行く。

シアンは心の奥底で意味のないことと悟りながらも、掴めない光の粒を掻き抱いた。

あと少しだけ。もう少しだけ。

しかし、シアンの想いとは裏腹に、風に吹かれた綿毛のように、旅立つことを許された彼の体は空へと登って行くのだ。

ならば、シアンが彼に誓いたいことは一つだけだ。

「…………っ、僕は…………あなたの守りたかった世界を守る……絶対にです…………!」


ざらりとした湿った舌がシアンの頬を舐め、ループスの体は光となって溶け去った。



ループス村を狼の群れが襲った。

それも、動物の本能を無視した異常行動により、村人達は狼の牙で傷付き、狼達もまた、無謀な行為の末に血を流して死んだ。

村人達は狼達を精霊――ループスの化身と考え、守り神様と慕っていた彼を『敵』に位置付けた。

勿論、真実は違う。

村を愛するループスは狼達を止めようと自らも傷を負いながら戦った。

しかし、これはなるべくしてなった物語だ。

何気ない毎日に小さな幸福を感じながら生きてきた村人達は、ある時突然に家族を傷付けられたのだ。

『敵』を作らずして、この物語はどう終われると言うのだろうか?

『敵』のいない争いなど、一体どこにあると言うのだろうか?

ヒトには愛があるからこそ、大切なものを傷付けられれば、怒りが湧くのだ。そして、その愛を僕は否定しない。何故なら、ヒトには愛があるからこそ、種族も成り立ちすらも違う精霊(僕たち)を受け入れてくれたのだから。

けれども、人々の怒りに溢れた魔力は大地に染み込み、大地から魔力を得て存在する精霊には徐々に悪影響が出ていた。深手を負ったループスはその影響を顕著に受け、傷の自然治癒もままならずに衰弱して消滅した。――否、ループスは死んでしまった。

村人を愛して守ったループスはもういない。直された祠は帰るはずのない主をじっと待つのだろう。

それでも、やり直したいという村人の想いが大地の穢れをゆっくりと癒やし、狼の精霊が再びあの地に生まれることを僕は願っていたい。





「……………………嗚呼……」

今にも崩れそうなその姿が時を感じさせた。

ボロ家と称するには生活の名残を感じさせない程に腐ちかけた建造物。

『…………朝までには……帰る……よね?…………絶対に帰るよね?』

『帰ります。だから、待っていてください』

『……待つ…………ずっと……』

眉を寄せて、唇を噛みながら、不安を圧し殺して送り出してくれた彼女の姿を見たのはいつだったか。

錠前が茶色く錆び付いて地面に転がっており、案の定、ドアノブがひしゃげてプラプラと揺れていた。屋根が落ちてくる覚悟で軋む扉をどうにか開けば、いつからそこにあるのか分からない落ち葉が風圧で舞う。

倒れた棚、千切れたカーテン、脚の折れた椅子。

そのどれもが泥で汚れて灰色になっていた。


ここにはもう何も無い。


「僕は…………愚か者だ…………」

シアンが生きてきた時間から見れば、『少しだけ』だが、シアンがリクやリトラと過ごしてきた時間から見れば、『気の遠くなる』時間だ。同じ時間でも意味合いは全く異なる。だからこそ、二人との時間を大切にしてきたつもりだった。

それなのに、よく考えもせずに残酷な約束を交わして、一体どれだけ二人を悲しませたか。

ループスの前でヒトと精霊の共存を語りながら、最も身近なヒトを傷付けた。

愚か者と呼ばずして、なんと呼ぶ?

シアンは慰めてくれる者も叱ってくれる者もいないそこに蹲ると、床に転がっていたマグカップを見付けて胸に抱いた。いくら汚れていても分かる――リトラのマグカップだ。テーブルを囲んで三人でループス村で買ったお茶を飲んだカップ。リクが買ってきたクッキーをリトラはとても美味しそうに食べ、リクもシアンも自らの分のクッキーをリトラにあげてしまうほどに彼女の笑顔は魅力的だった。

「っ…………ぅ…………」

弱音を吐いていい立場ではないが、蒼くて冷たい感情が喉を焼くのだ。痛くて出そうになる声を必死に押し殺して背中を丸めるシアン。もしもここで好きなだけ泣いて喚いたのなら、きっと楽になるのだろう。しかし、楽になってしまったら、今度こそ、二人と離れ離れになってしまう気がして、シアンは歯を食いしばってひたすら堪えていた。

愚か者でずるい…………それでも、残酷な約束を撤回するのだけは考えられなかった。

何故なら、小さく灯ったリトラとの絆の糸を確かに感じられていたから。

彼女は何処かで生きている。

約束を果たせる可能性があるなら、どんなに後ろ指をさされても諦めずに前へ進むだけだ。

その時、視界の隅でキラキラと輝く何かを見た気がして振り返ると、壁と床の隙間から伸びる草花が屋根の隙間から差し込む光の中で白い花弁を輝かせていた。黄色の雄しべに白く細い花弁が何枚も重なり合うこぢんまりとした丸い花が密集している。そこだけが異様に色を持っていて、シアンは思わず手を伸ばした。

すると、カサカサと音を鳴らしながら、花の隙間から黄緑色のトカゲが顔を出した。シアンとトカゲはしばしば見つめ合う。

「……えっと………………君は………………ベリスさん?」

シアンが恐る恐る訊ねると、トカゲは一呼吸の後に長い舌で大きく開けた口を舐めた。精霊であるシアンは直感的に相手が精霊か否かが分かる。だから、このトカゲはデージーの花弁を食べて生きる精霊のベリスに違いないと判断したのだが…………イマイチな反応にシアンは自信を失っていた。

「あの…………ここに小さな女の子と男の子が住んでいませんでしたか?女の子の方はヒトで、男の子の方が精霊なんですけど……リトラさんとリクさんって言うんですが…………あのぉ…………」

花弁を口に食んだトカゲはそのままむしゃむしゃと咀嚼する。そして、喉を膨らませて飲み込んだ。

「………………ご飯の時間を邪魔してごめんなさい…………その……用が済んだら直ぐに出ますので……」

精霊で間違いなさそうだが、意思疎通は難しいようだ。

ほとんどの精霊が生まれて直ぐに消える中、姿形を残して存在するだけでも珍しく、更に意思疎通のできる言語を持つ者やヒトやその他の生き物に認知される存在となると、ほんの一握りだ。

仮にリトラやリクを知っていたとしても、返事はなさそうである。

シアンは少しだけ残念に思ったが、せきを切って溢れてしまいそうだった感情が、ベリスの登場で薄れて、落ち着きを取り戻したことで、僅かながら余裕が生まれた。

シアンはもう一度部屋の中を見渡す。

三人で泣いて、笑って、手を取り合いながら過ごした部屋。

名残惜しいけど、ここはシアンの『家』ではないから。

「僕の家はリクさんとリトラさんのいる場所…………そうですよね、リクさん」

家を探さなければいけない。

そうして、小屋の中から使えそうな物を集めたシアンが鞄の中の荷物を整理していると、足首に何かが触れた。

「あれ?」

デージーを食べるのを止めて、何処かへ行ってしまったと思っていたベリスが何かを咥えて足元にいた。咥えているもの――擦り切れた紙片が触れたようだった。

「あはは、それは花じゃないですよ。喉を詰まらせてしまいます」

シアンが紙片を摘むと、ベリスは直ぐに口を開けて放す。まるで、シアンが受け取るのを待っていたかのように。

何らかのコンタクトを要求していると判断したシアンは首を傾げたまま受け取った紙片を裏返した。千切れた本の1ページだろうか?

「………………………………これは………………」

屋根の隙間から入った雨風で滲んだそれには、確かに文字が書かれていた。ほとんど読めなくなっていたが、右下のRから始まるサインだけは誰のものか分かる。

リクのサインだ。

そして、

「…………ネフロ……ラリー……………………ネフロフィラリー………………」

リトラに会うよりももっと昔にほんの数日だけ滞在した町の名前が読み取れた。

そこで食べた鶏肉のスープが大層気に入ったらしく、リクは町を離れるのを惜しんでいた。いつかまた来ましょう、とリクと約束した思い出が甦る。

結局、読めたのは町の名前とリクのサインだけだったが、シアンには十分過ぎる情報だった。

「ベリスさ………………あれ…………」

ベリスの姿は消えていた。デージーの花の群れの中も覗くが、姿は見えない。

直接、感謝の言葉を伝えたかったが、ベリスの目的はシアンにリクの残したメモを見せることだったのだろう。たとえ、その意図がなかったとしても、ベリスのお陰で見失っていた糸の端を見付けることが出来たのだから、また見失う前に手繰り寄せるべきである。

シアンはペンとインクを鞄から取り出すと、紙片にペン先を滑らせてから一冊の本の上に乗せた。飛ばないようにリトラのマグカップで押さえると、鞄を肩に掛けてドアを開けた。


「ベリスさん、僕は僕の家を探しに行きます。ありがとうございました」


まだ日は沈んでいないから、前へ進もう。






「ここだよ、お医者様のおうち」

「案内してくれてありがとう」

「ううん…………私、お医者様に弟を助けてくれてありがとうって言えなかったから……………………もし、お医者様に会えたら……ごめんなさいとありがとうを伝えて欲しいの」

スカートの裾を握り、縮こまりながら足元を見て言う少女。幼い彼女が気まずさや恥ずかしさを覚えながらも勇気を振り絞って話す様にカーテは目を見張ると、少女の頭に触れて「うん。伝える」と応えた。



カーテは道案内をしてくれた少女を自らのコートに包んで今にも崩れそうな小屋から離れ、それを確認したユウリは軋むドアを開けて中に入る。暫く外から見ていたカーテだったが、ユウリが身を屈めなから出てきたのを見て、胸を撫で下ろした。

「どんな様子?」

「大丈夫そう。入ってもいいよ。彼女は俺が見とくから。でも、中の物には無闇に触らないんだよ。絶妙なバランスを保っている気がするから」

「ありがとう」

カーテの探す者がボロボロの小屋の中にいるとは思っていなかったが、生活していた場所を見付けられたのだ。

「滞在」ではなくて「生活」。

ここで起きて、眠り、考え、生きていた。それも、他者と一緒に。

辛抱強く付き合ってくれる心優しいユウリと探し続けて2年は経っていたが、過去一番に有力な手掛かりだった。

逸る気持ちを抑え、カーテは床板を踏み外さないようにそっと入った。

「左奥の辺りは雨で床が腐ってきてる。近付かないで」

「うん」

「あ、そっちは……」「嗚呼……そこら辺は……」と、一歩一歩踏み出す度におどおどと口を出すユウリ。過保護な彼がカーテは鬱陶しいとは思わない。寧ろ、嬉しくて溢れそうになる笑いを抑えながら、爪先に触れたそれを持ち上げた。

「本…………マグカップ……」

箔押しされた題名は泥で汚れて読めなかったが、一冊の本とその上にちょこんと乗ったマグカップが荒れ果てた部屋の中で整然と並んでいて、カーテの目を引いた。飲み口の欠けたそれはピンク色をしていて、『あの子』の同居人だった女の子の物だろうとは容易に想像できた。

ここで少女は飲み物を口にし、『あの子』と語らっていたのだろうか。

ゆっくりとした時間を『あの子』と過ごしていたのだろうか。

「カーテ?大丈夫?」

「…………見付けた」

扉の前で考えに耽りながら立ち尽くすカーテの手をユウリが待ち切れずに引き寄せて小屋から離れた。勢い余ってカーテの体が傾くが、ユウリの広い胸がしっかりと受け止める。そして、彼女の目の前では明るい木の色に似た長髪がゆらゆらと揺れ、葉を磨り潰した時に広がる青臭い匂いに包み込まれた。合間を見付けては薬草作りに勤しむユウリらしい匂いが彼の穏やかな心音と相まってカーテを落ち着かせる。

「紙……何か書いてある?」

カーテを抱えたまま、彼女の手の中のそれを覗き込むユウリ。案内人の少女もお医者様に関係するものかと探るように頭を動かす。

「『今から帰ります』……?約一ヶ月前の日付けが書いてあるね」

近いような遠いような。

ユウリがどんな表情をすればいいのか迷っていると、カーテはいつもよりも早くて強めの口調で応えた。

「でも、ここ見て。ところどころ読めなくなってるけど、ネフロフィラリーって確かに書いてある」

「ああ…………確かに。じゃあ、これが次の目的地ってこと?」

「だと思う。ベリスもそう言ってるし」

「……ベリス?」

首を傾げたユウリの顎の下――カーテの肩に乗っていたトカゲが口を大きく開けた。「うわ」と思わず声をあげたユウリだったが、カーテを放すことはなかった。

「いつの間に…………精霊……だよね?初めて見た」

何も咥えずにパクリと口を閉じたベリスはカーテの肩の上でじっと動かない。ユウリがじろじろと覗き込んでも、宙を見つめたまま微動だにしなかった。

「デージーの群生地があれば、だいたいベリスがいるよ」

「デージー?花の?」

小屋の裏手に回ると、白色のデージーの花々が壁沿いに咲いている。

一部は風化して穴の空いた壁の隙間から潜り込み、小屋の中で成長しているようだった。

「ここだけ咲いてるんだね」

同じ様な環境の中でここだけに群れて咲く花。『群生地』という言葉が最もしっくりとくる様である。

「うん。……まぁ、ベリスがいるところにデージーが咲くとも言えるね。ベリスはデージーの花を食べるんだけど、一部の花をわざと残して、枯れた花から種を採集して、口の横辺りにある袋に種を貯えるの。それで、気候の変化に合わせて、デージーの花を育てるのに最適な土地を探し歩いて、そこに種を蒔くんだよ。デージーの花を育てさせたらベリスの右に出る者はいないと思う」

キラキラと輝く彼女の瞳は春を待ち望みながら咲き誇るデージーよりも眩しく、ユウリは生き生きと語る彼女が知識を貪欲に求める性分だったことを思い出した。精霊であることを公言し、自分自身すらも研究材料として学院に提供しながら、本の虫のように隙間時間を見つけては数多の研究資料をむさぼり読む。加えて、精霊の知識だけに限らず、種類問わずに、知識と名の付くものなら手当たり次第に頭に詰め込んでいくのだ。

「それぞれ書いた時期が違う。…………あの子も探してるんだ。家族を」

消えかけのネフロフィラリーの文字と『今から帰ります』の文字のインクの具合は明らかに異なる。

行き先の書かれたメモにあとから『あの子』が追加した。

「だとしら、この名前は……」

「私の探す『あの子』の――」

セイレーンから生まれた精霊。

生まれて直ぐに消えるはずだった運命を人為的に変えられ、姿と寿命を得た精霊。

知性があり、言葉を話し、感情を持つ精霊。

カーテが探し求める精霊。

「カーテ……?」

その時、カーテの肩からベリスが慌てて飛び降り、デージーの花の中に身を隠した。遅れて異変を察知したユウリは彼女の顔を覗き込む。

カーテの目は見開かれ、新緑の瞳が俯いて出来た影の中で光っているのが分かった。

「っ……これは…………カーテ!」

「お姉ちゃんどうしたの?」

案内人の少女が心配して近付いてくる気配がして、ユウリは「君は離れてて!」と声を荒げる。

「君は村へ帰るんだ。ヴィクトリアが君を村まで送るから」

ユウリの影から現れたのは灰白色の毛を持つヤギ。色硝子製造の他に農畜産業を行う村出身の少女はヤギも見慣れていたが、瞳とツノが濃いピンク色で出来たヤギを見るのは初めてだった。硝子の様に光透かし、螺旋を描くツノは細かいカットによってキラキラ輝く。まるで宝石だ。

ヤギは少女とユウリとの間に入ると、彼女に道を戻るよう首を動かす。

「ヴィクトリアは俺の契約魔獣だ。君に危害は加えない。君を守ってくれる。だから、村へ帰るんだ」

「誰か……」

膝から崩れ落ちたカーテはユウリの腕の中でぐったりとしている。

ならば、村に戻って助けを呼ぶべきなのか?

「カーテは時間が経てば良くなるから。…………ただ、それまでは耐性のない人間は近付いてはいけない。だから、誰も呼ばなくていい。カーテは俺が守るから、君は村へお帰り」

心做しか、ユウリの表情も固くなり、余裕を失っていた。それでも少女を怖がらせないように平静を装う。

少女も僅かに視野が狭くなってきていることに気付く。瞬きを繰り返すが、一向に良くならない。それに何だか、空気も重く、息苦しい。

ここは『良くない』感じで溢れている。

少女は頷くと、来た道を走って行った。ヤギも蹄を鳴らしながら、少女を追う。


「カーテ、女の子は村へ返したよ。ここには俺とカーテだけ。だから、安心して」

ユウリが抱き締めるカーテの身体は小刻みに震えていた。

原因が寒さではなく、恐怖といった心理的影響からなのは、何度目かとなるこの状況から分かっていた。

カーテは「まだ時間はある」と言ったが、少しずつ、確実にこの発作の頻度は増していた。

「ユウリも……離れて…………」

「嫌だ。唯一無二の大切な友を置いてはいかない。俺は君の隣にいる」

視界が狭まってくる。これも目蓋を閉じたわけではなくて、彼女の近くにいることで起きる視神経への影響によるものなのは分かっている。

ユウリは完全に視界を奪われる前に半ば手探りで鞄の中からいくつかの袋を取り出した。目が見えなくなっても目的のものが探せるように木片を削って作った札が付いており、角の形で中身が判断できるようにしてあるのだ。

必要なのは五角形の札が付いたものだ。

僅かに見える袋の刺繍からも間違いない。

中には飲みやすいように小さな球形にした丸薬だ。ヒトの身体で彼女の力に耐えるには気合だけでは無理なのは過去の失敗で明らかになっている。ヒトの身体を強化しないと彼女は守れない。

ユウリは味は無視して効能だけを求めたそれを覚悟して噛み砕くと、苦みや臭みが味覚や嗅覚を侵す前に飲み込んだ。しかし、理想と現実は異なって当たり前で、口に残った薬草が吐き気となって襲って来る。身体が害をなすものと判断して異物を体外に排せつしようと必死になっている。

自らへの薬として作ったにも関わらず、体は受け付けてくれないとは、なんとも悲しいものである。

ユウリは水筒に残った水を飲み干し、腹を下す覚悟で湖の水を手で掬って飲んだ。吐き気に勝たねば。

「っく…………っ…………」

酷い味だが、酷いという感想で収まるぐらいには苦みも臭いも和らいできた。

視界は相変わらず狭いままだが、完全に見えなくなってはいない。

「ユウリ……ユウリ……」

「俺はここだよ」

地面に蹲るカーテのもとへ駆け戻るユウリ。彼女の肩を抱くと、彼女は微かに首を振った。

「ユウリ…………お願いだよ。今回は離れて…………前より酷く……なりそう…………」

「何回頼まれたって離れないよ。それに、前より酷いなら尚更、俺もいた方がいい」

拒もうとするカーテの腕を取り上げ、一本一本指を絡めさせると、ユウリはにやりと笑って彼女の額に自らの額を擦り付ける。

「ユウリ……私は……君を苦しめたくない」

上目遣いに見上げる彼女の瞳は熱で潤んでいた。そうやって彼女は一人ぼっちで耐えてばかり。隣にいてくれるだけで幸せだとカーテは言ったが、隣で身を削る彼女を見ているだけの存在にユウリはなりたくない。

隣にはいる。

だけど、喜びも悲しみも共有したいというのは、身勝手な願いだろうか?

「うん。でも、俺もカーテを苦しめたくない。だから、俺にも君の痛みを分けて欲しい。俺は、俺の意思で、そうしたいんだ」

カーテは眉を寄せて、開きかけた口を一瞬迷ってから閉じた。

「…………なら……離れないで。絶対に、いなくならないで」

「分かった」

祈るように目を閉じたカーテ。ゼロ距離まで近付いて僅かに見える彼女の睫毛や唇をもっと見ていたいと欲が生まれたのも束の間、ユウリの頭に悲鳴や怒鳴り声、あらゆる負の感情から生まれた声が響き渡る。煩いを通り越して痛い。声が刃物のように頭を突き刺す。

これは確かに、前より酷い。

耐えたはずなのに勝手に漏れ出てくる呻き声に、カーテの腕がユウリの手を振り払おうとするが、ユウリは彼女の腰を片腕で抱き寄せて繋がった手を胸に抱く。

「この手は放すな!約束しただろ!」

「ぅぅ……」

絶対に、と約束した。だから、離れない。

「ごめんなさい…………ごめんなさい…………」

カーテの手のひら、更には大地を通して、周辺に渦巻く痛みや悲しみ、憎しみ等の感情が伝わってくる。ヒトや獣、生物が抱く醜い感情がまとまって彼女の能力(精神感応)に吸い寄せられるのだ。

勿論、これは彼女が意図的に行っているのではない。

最初は「なんとなく続くな」程度の些細な異変だった。しかし、異変は瞬く間に異常となり、明らかに以前までの日常と何かが変化していると気付いた時には手が付けられなくなっていた。もとも学生の身分で対処方法など持ち合わせているわけでもなかったが、カーテだけは守れていたかもしれないと考えると、ユウリは己の認識不足を恨んだ。

些細な異変は野生の動物が農場を荒らす――その程度。よくある話だ。しかし、冬場ではなく、自然に豊富な餌場のある夏に続いたことに疑問を持つべきだった。

わざわざ危険を冒してヒトの領域に入る理由とは。

そして、異変は肉食獣が各地の村を襲い始めたことで異常となった。

魔法生物であるヒトが傷付けば、負の感情により増幅されて溢れ出た穢れた魔力が大地を蝕んでいく。大地の浄化作用を超えてしまった魔力は他の魔法生物に影響を与える。坂を転がり落ちるように悪い方向へと連鎖が続く。ただそこに存在していただけの力の弱い魔獣や精霊が力を暴走させて周囲を傷つけ始める。そして、今はカーテにまで。

精神感応の力は触れ合う者の思考を読み取る。その力を暴走させれば、大地を通して無差別に周囲の者の思考を読み取る。悪意に満ちたそれが彼女に悪影響を及ぼさないはずなどない。特にゼノと呼ばれる種のカーテは思考を読み取るのはあくまでサブ的能力で、メインは思考を読み取らせる能力だ。端的に言うならば、相手を意のままに操る。日常の中で彼女がこの能力を相手の同意なしに使ったことはないが、自身のコントロールを失い、負の感情を多量に吸収してそれを放出すれば、その先は想像に難くない。最悪のシナリオは凄まじいスピードで現実となっていくのだろう。

それを阻止する為に打てる手は今のところ、耐えるしかない。

脳を焼こうとする膨大な負の思考に耐え、放出しないように内に秘めるしかないのだ。そして、ユウリに出来ることは、突貫で追加された臨時の脳として、カーテに自身の脳を貸してやることぐらいなのだ。

五感に回す程の容量がないのか、ユウリの視界は狭まり、耳も遠くなる。何よりも頭が痛い。小人が拡声器片手に耳の穴の前で叫び、もう片手のハンマーで片手間に頭を叩かれている気分だ。

それでも、カーテが耐えきれなかったそれをユウリに流した上で、だ。

カーテがどれほどの苦痛に晒されているのか、ユウリは想像したくない。

発作のように起きるその症状は徐々に間隔が狭まって来ていて、このままでは彼女が保たない。だからこそ、ユウリとカーテは「あの子」に一縷の望みを賭けて探していたのだ。

セイレーンから生まれし精霊の「あの子」。

湖に住まうセイレーンは歌うのが大好きだ。その歌声で起きた湖面の波紋もまた精霊だ。波紋の精霊は生まれて暫くして消滅するが、その時に湖の汚れを浄化する。だから、セイレーンのいる湖とその周辺は大変清らかな空間となっており、精霊達がよく傷を癒しに来る――と言うのは精霊研究においては広く知れ渡っている事象である。

その浄化の力をヒト世界にも使えないかという研究も勿論あった。しかし、ある時、研究施設は研究資料と共に何者かに破壊されて終わった。生存者なし。実験による事故とされていたが、カーテの力は強い思念であれば、物体からも少しだが読み取れる。読み取った内容がどうだったかは、もう語る必要はあるまい。

施設破壊は事故ではなく、事件。そして、研究は成功していて、研究で生まれた精霊は外へと逃れて行った。その精霊こそがあの子だ。波紋の精霊であり、浄化の力を持つと思われる精霊。

あの子を追う内に、予想は確信へと変わり、二人は以降の時間をあの子の捜索のためだけに費やすことを決めた。

あと少しなのだ。

こんなところでカーテの手を離すなんてできるわけがない。

「そこは『ごめんなさい』じゃなくてさ、『ありがとう』がいいな。……嬉しくないの?カッコイイで評判の俺がこんなに近くにいるのに」

少しずつユウリの視界が晴れてくる。

ピークは過ぎたのだろう。

カーテもそれを感じ取り、肩の強張りを徐々に解く。

詰めていた呼吸も少しずつ正常に戻っていく。その間もユウリは彼女の頭を胸に抱いてゆっくりと撫でていた。

「嬉しいよ…………優しさでいっぱいの君が、私は大好きだから………………ありがとう…………傍にいてくれて。本当に……………………」

不規則に小刻みに揺れ動く彼女の肩。

ユウリが見たカーテの顔は悲しみと恐怖に満ちていた。

「カーテ……」

「私は…………早くあの子に…………会わないと…………そうじゃないと……」

唇を噛んで眉を寄せ、カーテは吐き出したい感情を必死に押さえつけて震える。

「カーテ、今は休んで。そうじゃないと、本当に倒れてしまうよ」

「でも…………私は…………」

刻一刻と近付いてくる限界が見えて来て、ユウリが優しくすればするほど、迫ってくる闇に辛くなる。伝えられない言葉を飲み込んで、カーテの口はパクパクと開閉する。

何度も自問自答したから、理解しているのだ。

ユウリの傍にいたい。

ユウリを傷付けたくない。

そのどちらも叶える為には落ちついていられる程の時間が残されていない。

「…………………………分かった…………だったら……」

拒絶して繭のように縮こまろうとする彼女の脇にユウリは腕を入れて正面から抱き締めた。カーテの顎がユウリの肩に乗る。

「ユウ――」

「カーテ、俺は疲れたから休む。だから、君も好きにしたらいい」

腕に力を込めてカーテを抱き寄せると、ユウリは彼女の首筋に鼻を触れさせて目を閉じた。くすぐったい。

「え…………あ……好きにしたらって………………」

ユウリの腕は固く、カーテが身動ぎしてもびくともしない。どう好きにしろと言うのだ。

「ユウリ……動けないよ…………ねぇ……」

コートを握って引っ張ってみても石のように固まったまま。

「……………………」

直ぐに静かで穏やかな彼の呼吸が彼女の耳に響いた。ユウリが休みやすい様に姿勢を変えようかと思ったが、これでは無理そうである。そして、一度眠ったユウリは非常事態を除き、本人の気が済むまで寝ている。睡眠だけは譲らないといつの日か言っていた。

『どこでも眠れるのが俺の取り柄』が彼の口癖だが、眠るまでが流石に早すぎる。休んでいられないと言ったカーテに気を遣ったのもあるが、それだけ、心身への負担もあったのだろう。

カーテは早々に移動を諦めると、ユウリの横顔を長く観察してからそろそろと両腕を彼の背中に回した。ほのかに温かくて、とても落ち着く匂い。そして、落ち着くと自覚してくる疲労感。

休んでいる時間はないが、動けないのだからどうしようもない。疲れたと言うユウリを力の限りで押し退ける気にはならないし。

カーテは「じゃあ……いいや。私も好きにするよ」と囁くと、表情を隠すように額をユウリの肩に押し付けた。

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