愛は惜しみなく与う(11.5)
最初に離れたのはリクじゃない。
最初に離れたのはシアンだった。
シアンとの契約により、リトラは丈夫な体と手足の自由を手に入れ、大きな病気になることもなく健やかに成長した。ただし、ヒトとしては異常なほどゆっくりとだったが。
そのことをリクは嘆かなかった。
リク自身、精霊となったことで、ほとんど年を取らなくなり、この先少しでも長く彼女といられることを肯定的なものとして捉えたのだろう。リクは目に見えて笑顔が増えていた。
しかし、シアンがもの好きな精霊という存在だけであったなら、そこから先は幸せの物語のみが語られただろう。
そうでないのは、シアンが人為的に精霊としてあるべき姿を越えてしまったからだ。そこに重なるヒトとヒトの争い――戦争に精霊達は住処を終われ、あるはずのなかった憎しみがヒトにも精霊にも生まれ、精霊達はより力のある精霊に縋るようになった。
ヒトを追い出したい精霊とヒトと対話する道を模索する精霊。
後者を選んだのがシアンであり、精霊達に縋られる存在となったのも彼だった。そうなれば、必然的に巻き込まれるのはリクとリトラだ。精霊のリクとヒトのリトラ。シアンは降りるに降りられない立場となった。
「ど………して…………」
木々を分け、折れた小枝に頬を傷つけながら息を切らして現れたリクは目の前の光景にただ立ち尽くしていた。
しかし、直ぐに雪に埋もれる様にして縮こまる少女と青年の姿を見付けて駆け寄った。
「っ、怪我はない!?」
リクは抱き合う二人を引き離すと、それぞれに怪我がないかじっくりと観察する。
「…………おししょ……お家が……お家が…………どうしよ――」
「今はどうでもいいよ!リトラもシアン君も怪我はない!?」
怒鳴るように遮られ、リトラは口をぽかんと開けると、両目尻に涙を蓄えた。あまりの出来事に言葉が出て来ず、リクの必死の形相に恐怖を感じたリトラはとうとう涙をぽろぽろと溢し始める。
見兼ねたシアンが涙を拭うリトラの頭を撫でると「彼女も僕も怪我はありません」と答える。
一先ず安心したリクは改めて泣きじゃくるリトラを見ると、両腕で抱きかかえて、彼女の額に自分の額を擦り合わせた。
「俺が悪かった。怖がらせたね」
「お家が……っ、おししょとシアンのお家が…………」
「うん…………お家も大切だけど、俺にとっては二人の無事の方が大事だから。痛いところはない?」
リトラはこくこくと頷くとリクの首に抱き着いて縮こまる。
そんな彼女の背中を撫でながら、リクは「ごめんね」と繰り返した。
「シアン君、何があったの?」
「…………………………」
「シアン君」
泣き疲れて眠るリトラを抱っこして歩くリクがシアンに問い掛ける。しかし、シアンは重い口を開こうとしない。そこで彼は語気を強めてシアンの名前を呼んだ。
「ただの山賊です」
「ただの山賊は家に火を放ったりしない。この前、麓の村であった火事と同じだ。昼間から堂々と盗みに入って、住人を複数人で襲う。で、最後は家屋に火を放つ。あの時の火事で二人死んでる。家主の妻と息子。ヒト同士の戦争だからと目を瞑っていたけど、もう放っておけない」
リクは小さな丘の上から周囲を見渡すと、湖を見付けて歩き出した。
「あそこに今は使われていないボート小屋があるんだ。俺が昔、秘密基地にしてた名残で中の整理はしてある。次の家が見付かるまであそこに住もう。雪も降ってるのにリトラを屋根のないところで眠らせられない。問題は…………ただの山賊の対処は俺が考える。情報を集めて根城を突き止めないと」
「……………………」
「元気ないね。……家が突然なくなったら当然だよね。俺も辛いけど、俺はシアン君とリトラのいる場所が家だと思ってるから」
「…………山賊のこと放っておいてあげませんか?」
リクの目は見ず、地を見下ろしながらシアンが提案した。前を行くリクが歩みを止める。
「ただの山賊じゃなければ、どんな山賊?自分の家を燃やされても黙っていたい山賊って何?」
「…………っ……」
「女性と赤子が死んでるんだ。シアン君はそんな奴がウロウロしているところでリトラを育てられると思うわけ?」
「思いません!…………ですが…………」
意を決してシアンは顔をあげた。リクの真っ直ぐな視線とシアンの視線がぶつかる。
「子供だったんです……汚れた服を着ていて……痩せ細っていました………………」
「俺とリトラみたいに?」
「……………………はい」
「そっか……ごめん…………君を傷付けた」
重ねた手を震わせて小さな背中を丸めるシアンを見たリクは、寄せていた眉間を広げた。そして、リトラを抱き直すと、彼女の頭に自身の顔を隠して歩みを進める。
それきりリクは喋らなくなった。
リクの賊に対する怒りは収まったのか――シアンは遠ざかる彼の背中に悪い方向へと傾く天秤を見ている気がして、声をかけるか迷ったが、結局、言葉が見付からずに静かに追い掛けた。
「リクさん…………遅いですね」
リクの帰りが遅いと不安になる。
確かに、リクはヒトで言うところの成人年齢を過ぎていたが、それでもシアンはリクが大怪我をして戻ったあの夜の出来事が頭から離れないでいた。
リクが何か事件に巻き込まれていないか、怖くて堪らなかった。
シアンは自らを落ち着かせるために、毛布に包まって眠るリトラの頭を優しく撫でる。
「直ぐ…………きっと、直ぐに帰ってきます…………」
その時、ドンと言う質量のある物音と共に簡素なドアが揺れ動いた。シアンは咄嗟にリトラを引きずると、物陰に隠れて様子を伺う。
リクなのか否か。
リクなら声を掛けてくれるはず。
「あの、助けて……助けてくださいっ……!」
か細い声がドアの向こうから聞こえてきた。少女の声だ。
「お医者様がここにいるって……お願いです!弟を助けて!」
月明かりも乏しい夜中に、山中を抜けた先の湖の傍に佇む小屋にやって来た訪問者。
その状況と声だけで、見ず知らずの彼女を迎え入れる理由は十分だった。
リトラを物陰に隠したまま、シアンがドアを開けると、そこには少女と少年。
少女が少年に肩を貸すようにして立っていた。
二人の背中から吹いた冷風がシアンの頬をツンと切る。シアンは二人を部屋の中へと促すと、扉を閉めた。
「お医者様は…………」
シアンを目の前にしながら、キョロキョロと部屋の奥を覗く少女。
「そちらの子ですか?僕に診せてください」
「…………お医者様?」
灯した小さな明かりの傍まで近寄らせると、シアンも少女もやっとお互いの顔がよく見えるようになった。乱した細い髪の下でクリクリとした真ん丸の瞳が蓄えた涙で揺れ、鼻頭の擦り傷から僅かに血が滲んでいた。
「僕はシアン。ここへ医者を訪ねてきたということは、あなたはループス村の子ですね」
シアンはヒト社会での生活費を稼ぐ為に、簡単な医療行為をその村で行っていた。長い生の中で得てきた知識を使っていたに過ぎなかったが、村人はいつしかシアンに医者という肩書を与えていた。
ループス村の少女は言い当てたシアンを警戒したのか、口を閉じてしまう。シアンとしては詳しく伝えていないこの小屋まで辿り着いた少女達の方に驚いたが。それほどに必死だったのだろう。
シアンは少女の反応は気にせずに少年を観察する。
「足ですね?立っていては辛いでしょう?この椅子に座ってください」
足の長さの合っていない椅子だが、ないよりはマシである。少年は大人しく椅子に座った。
「消毒と止血をします。ズボンを捲っても?」
こくこくと少年が頷いた。少年の髪質は少女と似ていて、少女のように肩まで髪を伸ばせば、小柄な体型も含めて双子のようにそっくりだった。彼女の言う通り、家族で間違いはないだろう。
シアンがズボンの裾に触れると、少年はぎゅっと眉間にシワを寄せて少女と繋ぐ手に力を込めた。
「傷口はこれで大丈夫です。ですが……少し熱が出ていますね。今夜はここで休んでください」
シアンの処置で幾らか痛みが和らいだのと、発熱で押し寄せてきた疲労の波に、少年はカーペットに横になるや否や目を閉じて眠りに落ちた。少女も少年の足に巻かれた包帯を見下ろすと、移動はできないと判断して床に座り込む。
「……彼の傷は獣の牙で咬まれたようでしたね。夜の森に入るなんて……この程度の傷で済んだだけ幸運でした」
「…………森の中でじゃないよ……村の守り神様が怒ったの……」
村の守り神――ヒトは自らの手には負えない自然災害等を神の怒りや悪魔の仕業と称して、贄を捧げたり、祓うことによって治めようとする。目に見えない何かや触れない何か、コントロールできない何かに名称や形を与えようとするのだ。
シアンはそれを馬鹿らしいとは思わないし、共通の敵や信仰対象を作ることで、うまくいっているコミュニティの例を過去に多数見ている。
それにループス村にあっては、実際に村を守る人外がいるのだから、守り神の存在を強く否定はできない。否定するとすれば、「神」ではなく「精霊」と言うところだろう。
ループスの名の通り、狼の姿の精霊が村には確かに存在しており、正確には人々が自然災害の脅威に対して神を祀ったことで、通りすがりの精霊がそこに居着いたのである。ループスは時折、人々の前に姿を現しては、村で育てる作物を狙う他の獣からそれらを守っていた。
先に信仰があって、そこに神――のようなヒトならざるものが現れた。そんなループス村のようなパターンは割りとあるものだ。
話は戻るが、シアンは守り神ことループスの存在を認識していた。だからこそ、社会に溶け込むための場としてループス村を選んだ。ヒトと暮らす精霊は寛容な者が多い。集団で生きるヒトの近くにいる影響もあるのだろうが、守護対象に害をなさなければ、他の精霊も受け入れてくれるのだ。
ループスもシアンが村で医療行為を行いたいと伝えると、快く迎え入れてくれた。
だからこそ、守り神が怒るなど、シアンは信じ難い気持ちでいっぱいだった。
前回、ループスを見掛けたのは三日ほど前だ。農場で羊を追い掛けて遊んでいた。ループスは意図的に自身の姿を隠していた為、いつもより騒がしい羊達に農家の人が首を傾げていたのを覚えている。
それもありきたりな風景だった。
だというのに……一体何が。
「きっと、罰なんだ。お母さんとお父さんの言う事聞かずに、私がいい子にしていなかったから……」
途端に声をあげて泣き出す少女。
親と離れて、怪我を負った家族を支えて、真っ暗な森の中を歩いて、心細かったはずだ。泣いて当たり前だ。
「…………シアン……」
リトラが目尻を擦りながら物陰から顔を出した。
そして、涙の止まらない少女を見付けると、彼女に毛布を掛けて背中を擦る。
「大丈夫だよ。シアンがいるから。だから、大丈夫……」
「ああっ……うぁぁあ……あう……」
リトラの温かさに強張った四肢から力が抜けたようだった。
「リトラさん、お留守番を頼んで申し訳ありません。僕は村の様子を見てきます」
「うん……おねーちゃんだから二人を守る」
「はい。この扉は絶対に開けないこと。外が騒がしくても、僕かリクさんが帰って来た時以外は決して開けてはいけません。……大丈夫、周囲は精霊達が守りますから」
シアンの背中から淡く光る十数センチぐらいの魚が現れると、宙を泳いでリトラの頬に光の粒を撥ねさせる。
「…………朝までには……帰る……よね?…………絶対に帰るよね?」
魚の尾鰭が首筋を撫でて擽ったそうにしながらも、彼女の表情には不安がありありと浮かんでいた。
おねーちゃん、と言えど、リトラにとって世界らしい世界はシアンとリク。彼らのいない世界でリトラが独り立ちするには、彼女にはあまりにも経験が足りなかった。
それでも、少女の話の内容やまだ帰ってこないリクのことを思えば、ただ待ち続けることは出来なかった。
「帰ります。だから、待っていてください」
「……待つ…………ずっと……」
リトラは頷くと、森へと溶けてゆくシアンの背中を見送ってから扉を閉めた。
リトラは待った。
重く落ちてくる瞼を何度も擦り、欠伸を噛み殺し、ずっと待った。
そして、窓の向こうが白んできた頃、扉を叩く音がした。
背後で安らかな寝息をたてていた少女が飛び起きて、少年を庇うように被さる。
リトラはそんな少女を守るように立ち上がった。
敵か味方か。彼らは息を殺して相手の反応を待つ。
「リトラ!リトラ!いるか!?」
「師匠……!」
リトラが安心するには、その声だけで十分だった。彼女は飛び付くようにして扉を開け放つ。
少年と少女のこと、シアンのこと、伝えたいことだらけで、話す順序に迷っている間にリクがドアノブを掴むリトラを乱暴に抱き寄せた。
そして、長い息を吐く。
リトラは布越しに伝わるリクの早い心拍に、彼女の迷いごと言葉を失ってしまった。
「良かった…………本当に…………」
「ぅ………………私は……おねーちゃんだから…………」
「成長したな。俺の自慢の弟子だよ」
自慢の弟子――リクが褒めてくれたことが嬉しくて、リトラの目尻から流れかけた不安の涙はすぅと乾く。ドキドキと早鐘を打っていた鼓動も静かになる。
リクもリトラの変化に気付いた様で、いからせていた肩をそっと落とした。そうして、二人とも落ち着きを取り戻すと、コップに水を入れてリトラに渡したリクが「昨夜、何があったのか、俺に説明してくれるか?」と訊ねる。
リトラは水面を見詰め、喉が渇ききっていたことを自覚して一気に飲み干すと、リクが出掛けてからのことをゆっくりと語り始めた。
双子の姉弟を村の農場まで送ると、麦わら帽子の農夫が直ぐに彼らに気付いて駆け寄ってきた。そして、農夫の喜びと驚きに満ちた大声は村中に響き渡り、一心不乱に走ってきた双子の両親が涙を流しながら双子を抱き締めた。
それらを見届けたリクとリトラは静かにその場をあとにした。
村の外れには小さいながらも祭壇があった。小規模ながらも生産される良質な色付き硝子は村の名産品としても有名で、祭壇は色鮮やかな硝子で飾られていた。
「守り神様」の為の祭壇だった。
しかし、今は硝子は細かく砕け散り、初夏の頃に奉納された黄金色の麦穂は泥濘んだ地面の上でバラバラになって汚れていた。
「……酷い……」
リトラは見ただけで伝わってくる悪意に体を縮めた。
「……………………狼の群れが村を襲ったんだ。俺も森の中に狩りに出てたけど、昨夜は異様な雰囲気だった」
リクはシアンのように外貨を得る為に狩猟で得た獣の肉を村で売っていた。相応の危険は伴うが、夜間に眠りに就いた獣を狙って森に入ることもあった。
昨夜も心配性なシアンの顔を思い出しながら森に入っていた。
しかし、森の中は梟の鳴き声一つしない静けさで、直ぐに違和感を感じた。いくら歩こうとも獲物の気配はなく、狩りをすることもままならない。シアンとリトラのことも気になり、リクは大人しく帰ることにした。
その時だった。
低い遠吠えが天を裂いたのは。
荒い息遣いと浅く早い足音は四足歩行の獣の群れだと直ぐに分かった。おおよその距離と方向から彼らの位置をループス村と判断して向かう。
リク個人としては村人に思い入れは無かったが、村人や村に住み着く精霊に害があれば、シアンが悲しむからだ。なおかつ、今回は「よくあること」では済まないという胸騒ぎがしていた。
そうして、ループス村に着くと、灰色の狼の群れが所構わずに破壊行為をしていた。
狼は群れで行動する生き物ではあるが、数が非常に多く、生存本能に従った狩りをするわけではなく、ただ家屋や人を襲っていた。火や刃物を見ても退かず、牙を剥く。自らがいくら傷付こうとも、止まらない。
これは狼の狩りではなく、襲撃だった。痛みも恐れもない本能を失った狼達の。
生きる為以上の狩りはしない主義のリクだったが、今回は違った。無差別に襲う狼を放置することはできず、リクは村人の保護に回った。
なお、村の男達は勇敢にも農具を手に狼と闘っていた。一人に二匹が襲いかかったが、使い慣れたナタは二匹の喉と首を割いて地面に血を残した。そして、か細い悲鳴をあげた狼は、致命傷を食らって倒れた一匹を残して、民家のドアを突き破ったところで絶命した。その民家の中では母親が赤子を守るように抱きかかえて背中を丸めていた。
やがて、村人達は村で最も堅牢な建物に避難する流れとなり、リクはそんな彼らの護衛をした。
そして、狼の数は最初より明らかに減少し、避難も終わりが見えた頃、リクは手のあいた男達の囁き声に耳を澄ませていた。村から距離があるとは言えども、シアンとリトラが心配で、彼らのもとに早く帰りたかったが、興奮を押し込めながら話す男達が今回の騒動と無関係の話をしているとは思えなかったのだ。
しかし、彼らの話はあまりにも恥ずかしいものだった。
これはループス村の守り神の仕業だ。
守り神が悪魔になった。
悪魔を見付けて倒さなければ。
リクがヒトだったとしても恥ずかしくて聞いていられない言葉だった。
狼の精霊――ループスはきっかけもなく悪魔になったりしない。この村と関わりを持って数ヶ月のリクでさえ、ループスの村への深い愛情は伝わってくる。もしもループスが悪魔の所業をしたのなら、それはヒトの悪意のせいだ。
こうやって都合の悪いことを都合の良い他者に押し付けるヒトの悪意のせいだ。
……ヒトなんて…………。
直ぐにリクはその場を離れた。そして、聞き耳を立てるんじゃなかったと後悔した。
水を含んだ地面のように靴底にへばり付くこの黒い感情はシアンの清い心を汚してしまう。
早くシアンとリトラの待つ家に帰りたい。
ただただその一心で、半ば走るように歩き出すと、森に入る一歩手前のところで、女性の悲鳴が聞こえた。男手は村の中心に集まってしまっていて、尚且つ、目減りした狼が外れに残っているとは誰も思わなかったのだろう。
リクの中の正義感はとうに失せてしまっていたが、頭の隅でシアンの顔がチラついて、どうやっても振り払えないそれに拳を振り下ろすと、リクは踵を返して悲鳴のした方へと駆けた。
リクが建物の角を曲がった時、三体の狼が森へと走っていった。思わず、武器を構えたリクだったが、炎に飛び込まんばかりに凶暴だったはずの狼はリクの直ぐ側を通り過ぎていく。
否、狼達は逃走していた。
何かの拍子に本能を取り戻したのか?
『彼は傷付けないで!』
聞き馴染んだ――待ち望んだ声にリクが振り返ると、牙を剥き出しにした狼がリクの腕に噛み付く直前だった。危機的状況に一気に脳に血が送り込まれ、リクはふらついた足で尻餅をつく。しかし、白銀の体毛を持つ狼――ループスは唸り声をピタリと止めると、リクから離れ、息を切らして立つシアンの隣へと戻った。シアンに目立った怪我はない。けれども、シアンが頭を撫でるループスの前脚は片方が赤黒く汚れており、歩き方にも違和感があった。
『シアン君…………彼は…………』
『リクさん、ループスは今回のことと無関係です。それだけは信じてください』
頼まれなくても信じている。
『だけど、皆がループスを犯人だと思ってる』
『ええ……多くの人が傷付きました。何者かを犯人にしないと、怒りの行き場がないのでしょう』
『………………………………人間は勝手だよ』
『……リクさん、リトラさんに留守番を頼みました。でも、僕はループスを安全な場所まで連れて行かなければいけません。だから、リトラさんのところへ――』
『いたぞっ!!殺せ!!』
憎しみの篭った大声が響き、シアンが小さな体で白銀の狼を包み込む。そんな彼らの直ぐ側を矢が閃光のように飛んで行った。
あと少しでも位置がズレでいたら……。
『やめろ!!!!』
考えるよりも早く飛び起きると、リクは村人の持つ弓を掴んで投げ捨てた。
『村の守り神様だろ!?傷付けるな!』
『あれはもう守り神じゃない!!村の有り様を見れば誰だって分かるさ!』
リクを突き飛ばし、弓を掴み直してループスとシアンに歩み寄る男達。多くの矢じりが彼らに向く。
レイシーを殺したのはヒト。
ループスを殺すのはヒト。
シアンを傷付けるのはヒト。
矢が放たれ、リクは届くはずのない手を伸ばした。
その時、山間から顔を出す朝陽よりも眩しい青い光がこの場の全員の視界を埋め尽くし、誰もが目を押さえて背中を丸めた。
暫くして光が弱まり、目を開けると、シアン達のいた場所には仄かに輝く魚が横たわっていた。電池の切れる寸前のロボットみたいに尾がピクピクと不規則に動く。
思わず、身構えた男達だったが、脅威のないものと判断すると、魚をこれ見よがしに高く蹴り上げてどかした。民家の壁にぶつかって魚は動かなくなる。
『あいつらを追うんだ!!俺達の村は俺達の手で守るんだ!』
『おお……っ!』
男達の中でこの問題の解決方法が確定し、解決方法があるという安心感と村の存続への使命感に燃える彼らは、リクの存在をすっかり忘れて四方へと散って行った。
ただ一人取り残されたリクは動かない魚を両手に掬う。
魚の体は柔らかく、リクの冷えた指先には熱いぐらいの温かさもあった。
リクが魚の体に刺さった矢を慎重に抜くと、そこから光の粒が溢れてきた。精霊の命が湧き水のように溢れ、大地へと沁みてゆく。
『……シアン君を守ってくれてありがとう…………』
尾の先から光の粒へと変わり、魚の体は直ぐに消えてなくなった。それから直ぐにリクは刃で突き刺したような痛みを感じて目を閉じた。
これは突き飛ばされた痛みでもない。
これは心無い言葉を聞いた痛みでもない。
これは精霊の痛みだ。
シアンを守るために矢を受けた精霊の痛み。
『ヒトなんて…………ヒトなんて…………』
ああ…………ヒトなんて要らない。
その日、リクとリトラはシアンを探し続けたが、見付けることは出来なかった。幾時掛かろうと、二人は彼の捜索を辞めるつもりはなかったが、リトラの体力が限界になり、リクは湖のそばの家で彼の帰りを待つことにした。
それから1年と半年経ってもシアンは帰らなかった。
もともと所有者が亡くなって使われずに放置されていたボート小屋を家として使っていたが、経年劣化には耐えられず、シアン宛の書き置きをしてリクたちは家を変えた。そして、ループス村とは別の村の端に居を構え、リクの狩猟でどうにか生計を立てていた。
ただし、シアンのことを諦めたわけではない。神様からの贈り物、妖精の目撃情報、悪魔の仕業、それらしい噂を聞き付けては、リクとリトラはシアンを探して調査に向かった。結局、有用な情報を得ることは無かったが、彼と契約で繋がるリトラがシアンの生存を確かに感じ取れていたこともあり、絶望することはなかった。
いつか会える。
いつか帰って来る。
シアンが約束を違えることはないと、二人は信じていた。
それから三年。
二人は2度、家を変えた。
ループス村での出来事を発端に、各地で異常事態が増えていた。加えて、都市部の急速な発展により貧富の差は広がり、治安は悪化。内紛が起き、疲弊した国々は急かされるように未開発の資源を求めて地方の村々を巻き込んで戦争を起こす始末。森が焼き払われ、大地は汚され、精霊達はヒト社会に関わらざるを得なくなっていた。
それらから逃れるために二人は家を変えた。
争いはシアンが望まない――しかしながら、青年と少女の行動だけでは世界は何一つ変わらない。だから、ヒトからも精霊からも離れる選択をした。
誰の敵にもなれないなら、誰の味方にもなれない。
「リトラ、前にも言ったろ!お前は左が甘い!」
「……すみません…………」
「すみませんじゃなくて、集中しろって言ってるんだ!」
「…………はい……」
「…………………………もういい。暗くなる前に水汲んでこい。夕食の用意をする」
「……はい…………師匠…………」
戦争の影響か、狩猟の為の銃に込める弾が手に入らない。そもそも野生動物の数が明らかに減っていた。かと言って、ヒトで成長期のリトラに野菜を与えるだけにもいかず、リクは遠くの村まで出ては、肉体労働を掛け持ちしながら市場から肉を買っていた。
万が一の為の資金を蓄える余裕はなく、精神的余裕もなくしつつあった。そして、明らかに足りていないのに、リトラの将来の為と言い訳しながら、少ない時間で学問と武道叩き込む。挙げ句の果てに、見えてこない成果に自分勝手に苛立ち、リトラに対して冷たく当たった。しかし、リトラはそんな理不尽な態度のリクに怒ることはなく、期待に応えたい一心で物事に励んでいた。ただ、リクはふとした時にリトラの笑みを忘れた表情を見ては、余裕のない自身の状態を自覚して罪悪感に苛まれていた。
シアンがいればきっとこうはならなかった。
全部、ヒトのせいだ。
「師匠!駄目だよ!!シアンはこんなこと望まない!」
「ヒトなんていらない!ヒトなんていらないんだ!!」
両足、両腕、刺突剣で負った四肢の傷で、男の衣類は真っ赤に染まり、力のでない体を地面に横たえていた。そんな男をリクは見下ろし、血濡れた刺突剣を男の胸に突き付ける。
このまま体重を加えれば、切っ先は助骨の隙間を縫って男の心臓を串刺しにするだろう。
金目の物を探してリクとリトラの家に忍び入った罰はもう十分に受けている。
これ以上はただの報復だ。
リトラは虚しいだけの暴力に心臓を締め付けられる思いをしながら、リクの腰にしがみつく。
「リトラ!放せ!!」
頭皮に痛みが走り、リトラはリクに前髪を掴まれたのだと気付いた。いつもより機嫌の良かったリクに櫛で梳かしてもらった髪を掴まれた。
「っ、嫌だ!」
「リトラ!!」
冷えるからと、同じ毛布に入れてくれたのが遠い昔の出来事のように感じてしまう。ほんの数分前まで優しい師匠だったのに。
何がどうしてこうなってしまったのだろう。
「………………しぁ……ぅ……」
シアンだ。
シアンがいないから。
シアンが帰って来ないから。
シアンが約束を果たしてくれないから。
「…………シアン……シアン……シアン…………シアン……っ、帰ってきてよ…………シアンっ!」
シアン、いつまで待てばいい?
「…………………………っ……俺じゃ駄目なのか?」
髪の毛を放され、痛みが和らぐ。
リトラが目を開けると、リクが両腕を下ろして項垂れていた。刺突剣はまだ手の中にあったが、指先が引っ掛かるだけで、プラプラと揺れる。そして、盗賊の男は多量の出血で絶命してしまったらしく、前髪の隙間から土気色の顔と見開かれた瞳が覗いていた。
リトラはあまり男を見ないよう視線を逸らしながら、リクの内から憎しみが薄れるのを感じ取って離れた。
「師匠…………」
リクはテーブルに血の付いた剣を投げ置き、近くの椅子を引いて座り込む。酷く疲れた様子で、背中が曲がっていた。
「…………リトラ……俺は間違っているか?」
「……………………」
リクがリトラの手を掴む。
座って俯く彼の表情は見えなかった。
「俺の親を殺したのはヒトだ。幼いお前を捨てたのはヒトだ。レイシーを殺したのはヒトだ。ループスを傷付けたのはヒトだ。森を壊したのはヒトだ。俺達の家を……シアンを奪ったのはヒトだ。間違っているか?」
「…………間違ってない」
「なら何故、お前はヒトを憎まない?」
「…………師匠にはヒトが皆同じに見える?」
「同じだ……ヒトなんて……」
ヒトは、ヒトが、ヒトで、ヒトに、ヒトなんて――リクの使う『ヒト』と言う言葉がリトラは嫌いだった。
「私はヒトだよ?師匠」
リクが『ヒト』と言うたびに、リクとの思い出が薄汚れていくようで、聞こえないふりをして動揺を誤魔化していた。リクから見える自分自身も、自分から見える自分自身も騙していた。
そうしないと、シアンを失って解けかけた縁がバラバラになって溶けて消えてしまいそうだったから。
だけど、リクもリトラも傍にいることで、お互いにこんなに苦しい思いをするだけなら、この縁は切れてしまった方がマシなのかもしれない。
「違う!お前は家族だ!」
バッと上げられたリクの顔は困惑と焦りを含んでいた。意地悪な質問であることは承知していたが、リトラを想ってされたその表情に、彼女は内心でホッとしていた。
たわんでいた縁がピンと張られた気がしたからだ。
「ごめんなさい……師匠……」
「…………………………本当は分かっているんだ…………だけど……俺から何かを奪うのはいつだってヒトだったんだ……」
リクの手が熱い。
彼の手を流れる血の音が、触れ合う皮膚を介して骨を振動させ、リトラの耳へと響く。
「世界がどんなに広かろうと、俺の世界はここなんだ。お前とシアン君のいるここなんだ。だから無理だ……ヒトを憎まないなんてできない…………俺の世界を壊すヒトが、シアン君を奪うヒトが憎くて堪らない。この憎しみは間違っているか?」
リクに手を引かれて近寄ると、腰に回された腕で抱き締められた。リクの額がリトラの肩に当たる。
ずっと広い背中を見ていたはずのリクがとても小さくなったように思えた。
「…………その気持ちは間違ってないよ」
ヒトから見て理不尽だとしても構わない。
それだけ、リクにとっては精霊が、家族が、シアンが大切なのだから。
「間違ってない…………でも、シアンはみんなの世界が大切だから。私の世界も、師匠の世界も……この人の世界も」
シアンの目はリトラやリクとは違う。
とても大きくてずっと遠くまで見通す。
誰もが目を背けるところを、シアンは目を逸らしたりはしなかった。
それは『偉大』で『尊敬』すべきことなのだろう。
けれども、それは家族として正しいことだったのか?
「………………俺は……………………」
深く息を吸ったリクは言葉を止め、息を吐いて頭を揺らす。数え切れない多くの言葉を腹の奥底へと無理矢理飲み込んだのがリトラには分かった。
「………………シアン君はそれでいいんだ……」
それで良い――それが正しい――それがリクの答え。
流れ行く時間に心を浅く切られ続けながら、孤独にじっと堪える。これが正しい道、と。
けれども、本当に正しかったのなら、どうしてリトラの肩はじわじわと熱く湿るのか?
どうしてリクは手を震わせながら痛いほど胴を締め付けてくるのか。
張られたはずの縁がどんどん引き伸ばされて細くなる。
今にも千切れそうなぐらいに。
そして、
「リトラ……………………これが最後だ」
パチンッと音がして、縁が切れた。
何の最後なのか。
分からないはずのに、リトラは放された手でリクのコートの裾を握った。汗なのか返り血なのか分からなかったが、濡れて滑る手のひらで、彼女は彼の体を掻き抱いた。
「師匠、私は――」
リトラは必死に切れた縁を手繰り寄せるが、リクの腕はどんどん緩んでいく。
「俺はシアン君を待たない」
リクの腕がリトラの背中から滑り落ちた。そして、リトラの腕を掴む。強くはなかったが、長い指でしっかりと掴まれた。
「俺は精霊の側に付く」
小さく鳴り響いていたアラームが、直ぐ側で鐘をついたみたいに大きな音になってリトラの胸に響く。
リクには冗談を言う余裕も無ければ、指導の為のきつい台詞を言う余裕もない。だから、これはリクの本気だ。
リクの手がリトラの腕を軽々と引き剥がした。そして、往生際悪く伸びてくるリトラの腕を避けて立ち上がる。
「師匠……っ」
踵を返し、机の上の剣を取るリク。
「い……やだ。ししょ…………嫌だ…………」
リトラは死んだ男から溢れた血溜まりに手を突いて立ち上がった。しかし、生あたたかいそれに思わず手のひらを見た彼女は、自身の真っ赤に染まった手に動けなくなる。
そして、意識した途端に鉄のニオイが鼻腔を強く刺激し、リトラは咳き込む。
これは生き物の血。
憎悪を孕んだ酷く臭う血だ。
「お前はそのままでいろ」
どういう意味なのか、と目を開けると、動物の脂でテカる切っ先が首筋を捉えていた。
人を殺すための道具がリクからリトラに向けられる。
もうリトラの師匠はここにいなかった。
「…………私を置いていく………………」
リクを掴まえたくても、剣に阻まれて手は届かない。
ただ、指先から垂れた血がリクの頬に跳ねただけだった。
やがて、諦めて力なく腕を落としたリトラに、リクは苦痛と安心を混ぜたちぐはぐな表情をした。
そして、ゆっくりと剣を懐に収める。
「俺はお前を置いていかない。俺はお前を捨てていく。だから――」
――お前は俺を待つな。
リクの後ろ姿は闇へと消え、扉は静かに閉じた。