愛は惜しみなく与う(11)
白いシーツの掛かった台に横たわる人は白い肌襦袢を着ていた。
「この人は…………」
耳を隠すぐらいの髪が台の上に広がり、細く柔らかそうな前髪はおでこを晒しながら真ん中で分かれていた。
白い肌と艷やかな黒髪の青年。目を閉じているせいでまつげが長いのがとても良く分かった。
微動だにしない体に「死んでしまっているのでは」、「死に化粧をした遺体なのでは」と言う思いが過るが、彼の傍を泳ぐ精霊達がそうではないとシアンに伝えてきた。
しかし、彼には何か重要なものが欠けている。何とは言えないが、それが彼がここで静かに眠る理由なのは感じた。
『これは器。中身がないんだ』
全身黒色の女――背の高いアリアスは更にヒールで背を高くし、台の上に横たわる青年に視線を合わせるようにしゃがんで頬を撫でた。――愛おしそうに。
「中身…………」
中身がないから、彼を見ているとどこか空虚に見えるのだろう。
『でも大丈夫。中身は近くにある』
「え?」
『中身』が臓器のことではないことは百も承知だ。
器はあって中身はない。
中身とは『魂』だ。
『意識』でもいい。
この青年を彼女の言う彼として決定付けるもの。
何でもなかったシアンがリクやリトラの言うシアンとして存在するのは、思考し、感情を得たからだ。良いものも悪いものも含めて多くの感情を得たからだ。今の彼にはそれがない。
アリアスは再び立ち上がり、青年から伸びる管の先の機械に触れた。すると、忙しなく瞬いていた光は消えて、機械から僅かに漏れていた雑音が消える。
それから彼女は丁寧に管を青年の体から離していった。殆んどは貼り付けるタイプのものだったが、先が針の形状をしていて腕に刺さっているものが一本だけあった。それも彼女はゆっくりと抜き去る。
僅かな血痕がシーツに跳ね、シアンの動揺を表すかのように漂う精霊達が忙しなく動いた。
アリアスは片腕を青年の背中に差し入れ、僅かに体を持ち上げると、台からシーツを外して青年の体に巻き付ける。そして、両腕で青年の背中と膝裏を支えて持ち上げた。
シアンの目の前でシーツが棚引き、青年の横顔が高くなる。
『ありがとう、シアン。君の願いは必ず叶える。だから、この子の中身を取り戻すまで待っていて欲しい。ここからは危険だ。君のことは月葉が外まで連れていく』
先頭を切って歩く彼女の視線の先には同じく黒ずくめの女。赤褐色の目と赤髪が目立っていた。
「連れて行きたいところだけど…………彼の保護者が来たようよ」
少しだけ肩を竦める仕草をした彼女の目は愉快そうに細められていた。
『早いね。まぁ、あっちにはリトラがいるから。彼女が訊けば、精霊達が教えてくれる。一本道だし、シアンの移動は無理だ。月葉には次の仕事を頼みたい』
「ええ、いいわよ」
月葉と呼ばれた女はアリアスに近寄り、彼女の口元に耳を近付ける。次の仕事の内容――多分、後ろにいたシアンにも断片ぐらいは聞けていただろうが、月葉の言った「保護者」の言葉に彼の頭の中はいっぱいいっぱいになっていた。
月葉はさっさと来た道を戻って行く。
薄暗い廊下の向こうは闇に溶け、彼女の背中が黒色の絵の具に飲み込まれたように消え去ると、代わりと言わんばかりに「保護者」が現れた。
小さな体が淀みない足取りで進んで来る。
鬱々とした雰囲気の漂うそこで光る紫色の瞳からは、抑えきれない殺気を溢れさせていた。精霊達が言いしれない不穏さを感じ取ってか、ほうぼうに散って行く。
「あ…………」
言葉が出ない。
『やぁ、雪癒』
「アリアス…………シアンは返すけぇ」
『返す?それではまるで所有物みたいな言い方だ。どこに行くか決めるのはシアン次第。シアン、どうする?』
「黙れ!シアンは我と行く!!」
『私の願いは果された。でも、きみの願いはまだだ。もしもきみがあちらへ行けば、過保護な雪癒はきっと私をきみに近づかせないだろう。きみは雪癒の許可なしではもう外へ出られなくなる。あそこはまるで――――小さな箱みたいだ』
違う。
そうじゃない。
雪癒はシアンを安心させるために、同居人達を守るためにあそこに結界を施した。自身の魔力を使って24時間365日絶やさずに。
シアンが雪癒の許可なしに出掛けなかったのは、雪癒がシアンの自由を奪っていたとかではない。単純にシアンが外を恐れていただけだ。シアンが逐一お願いをしなくても、雪癒はシアンの外出を止めたりしなかっただろう。シアンの自由を奪っていたのはシアン自身。小さな箱にしていたのはシアンの心だ。
なのに、『願い』を持ち出されて咄嗟に否定できなかったシアンは歪んでいく雪癒の表情に固まってしまった。
「あ……雪癒さん…………」
違う、と言わなければ。けれども、それを言ってしまえば、言い淀んでしまった事実を隠すための下手な嘘にしか聞こえなくなる。そうして悩む間にも時間は過ぎて気まずさは増していく。
どうしてこんなにも面倒臭い性格なのか。
感情を手にして、胸を叩くそれらをもっともっとと貪欲に求めて、挙句の果てにそれらに溺れて沈んで動けなくなって、雪癒には「疲れる」と言われる始末。
自分はどうすればいいのか、シアンにはもう分からない。
「雪癒、落ち着け。あの女は言葉で惑わす、だからまともに聞くな――そう言ったのはお前だろう?」
シアンの視界から雪癒の姿を隠すように神影が前に出た。
同時に雪癒の視界からもシアンの姿が隠れる。
「神影…………我は……」
「シアンは分かってるさ。誰でもないお前が俺達を守ってくれていたんだって。……シアン、家に帰ろう。冒険みたいな外出も楽しかったが、俺はあそこが好きなんだ。もので溢れて狭いところも、埃っぽいところも。なぁ、お前は?」
「…………僕も好きです……」
雪癒が許可して神影が用意してくれた個室も、自由に使わせてもらっている屋上の小さな庭も、あそこの全部が大好きだ。
神影はシアンの言葉に深く頷く。
彼は理解してくれた――それだけでシアンは安心した。
シアンにとって神影は雪癒とシアンを繋ぐ架け橋のような存在だからだ。シアンは雪癒に怒りと痛みを混ぜた表情をさせたかったわけではないと伝わったのならそれだけで満足だ。
あとはシアン自身の問題。
「だけど…………僕には……勿体ない…………」
「リトラのことか?」
「!」
核心を突かれたことにシアンはびくりと肩を震わせた。
「お前はリクを追い掛けるリトラを追ってやって来た。お前達の関係が複雑なのは分かるよ」
一時は学校に籍を置いていた三人だ。先輩と後輩。学友。しかし、そんなのは絡み合って解けなくなった関係性の一つに過ぎない。
リクとシアンはもっとずっと前から傍にいたし、そもそもリクとシアンを引き合わせたのはアリアスだ。
そして、リトラはリクとシアンが見付けた小さな陽だまり。
「…………………………二人とも僕のせいで人生を狂わされたんです……」
シアンは精霊だ。
ヒトが呼吸するみたいに日がな一日、水面から顔を出して好きに歌っては舞い踊るセイレーンが生み出した無数の波紋の一つ。姿形のない、ふと気付けば現れて消える泡のような精霊。悪く言えば、いくらでも採取できるがゆえにヒトが実験するにはもってこいの精霊。
そんな精霊を消えない泡へと――姿形を持ち、感情を持ち、会話のできる精霊に変えた。
それがシアンという精霊だった。
正しくは個体識別番号『C48』の精霊。
『C48』から『シアン』へと変わったのは、アリアスに小さな箱の中から助け出された時からだ。
ただの番号でしなかった彼をアリアスが名付けた。
『C48』と呼ぶのが面倒くさかったからという理由だけではあったが、「君の瞳は夜明けを待つ澄み切った空の色。シアンだ」と、大差ない他と区別するための呼び名ではなく、シアンだけを見て付けられた名前を貰った時、シアンは石のように硬く無機質になっていたココロが水を得た魚のように泳ぎだすのを感じた。
だから、欲張りすぎた。
アリアスはそこに石ころがあったから蹴っただけみたいなノリで研究所を破壊して、シアンを外へと連れ出した。砂浜で縁の滑らかなガラス片を拾い、太陽に翳してから海へと放り投げるみたいなノリでシアンを適当な場所に置いていくつもりだった。
しかし、美しく長閑な湖の傍で繋いでいた手を放された時、シアンはその手をもう一度掴んでいた。言葉にはしなかったが、アリアスはじっとシアンを見下ろすと踵を返した。
シアンの手を繋ぎ直して。
それからシアンは湯水のように湧いて出てくる好奇心のままに生きた。その一つが、『ヒト』だ。自分がヒトの似姿であったことも含め、シアンは人里に降りてはヒトの生活を盗み見たり、道を尋ねる程度の浅くだが交流もした。
そんな時にアリアスがリクを連れて来た。
アリアスの言う『戦争孤児』という言葉にシアンは首を傾げた。まだ知らない言葉だった。
シアンは自由気ままで不在がちなアリアスに代わって慣れない手を動かしつつ、それはもう熱心にリクの世話をした。実験を抜きにしてヒトと間近に関わったのはそれが初めてだった。
幼子だったリクは瞬く間に青年へと成長し、シアンの周りを泳ぎ出した小さな精霊達を「家族が増えたみたい」と笑って迎えた。これが家族なんだ、とシアンは知った。
ある時、リクが大怪我をした。アリアスからのお下がりのコートは土に汚れて擦り切れ、片方の肩部分から袖までが黒く濡れていた。頭からは血を滴らせ、片足は引き摺って今にもバランスを崩して倒れてしまいそうだった。
その腕にはまだ空の青さも知らない少女。
お世辞にも綺麗とは言えないカーテンに巻かれたその子をボロボロのリクは何よりも大事そうに抱えていた。そして、リクのギラついた目が合うや否やシアンに願った。この子を助けて欲しい、と。
自ら進んで何かを願ったり、欲しがったりすることのなかったリクがこの時初めて必死に訴えてきた。
だから、シアンはリクの願いを叶えた。
そして、シアンは自身の願いを叶えた。
少女を助け、リクを助けた。
この選択にどれだけ苦しめられることになるのか、その時のシアンには分からなかった。ただ、リクとリクの大切な子を守りたい気持ちでいっぱいだった。
「なら、私を助けたのは間違い?」
「リトラさ…………っ、怪我を!?」
肩を押さえながら現れたリトラは神影の隣に立った。
彼女の衣類は薄汚れ、よく見れば至る所が擦り切れている。そして、頬の切り傷からは血が流れていた。
「ううん。構わないで。それよりも、私の問いに答えて」
駆け寄ろうとしたシアンをリトラが止めた。些か乱暴に頬を拭い、彼女の周囲を泳ぐ魚達は慌ててシアンの元へと帰ってくる。
「師匠は私を見付けて、シアンは私を助けてくれた。そして、二人とも私を傍に置いてくれた。それらは間違い?」
「そんなことはないです!僕も…………二人と……一緒にいたかった…………」
ずっといつまでも一緒に。
「だけど、僕のその願いがリクさんを精霊にした。…………リトラさんもこのままでは………………」
「私が精霊になるのは嫌?」
「そうなれば、あなたを苦しめる。リクさんが今も苦しんでいるように…………僕はあなたが苦しむ姿まで見たくない…………」
「シアンは師匠のこと…………そっか………………………………私が師匠を追い掛ける理由が分かる?」
いくらか考え込んだリトラは何かを察し、シアンにだけ分かる程度に表情を柔らかくすると優しく問いかける。
「リクさんが……好きだから……?」
リトラに問いかけられて答えないわけにはいかないシアンはうようよと目線を泳がせると、諦めたように小さな声で答えた。できることなら答えたくない――そう取れるシアンの反応にリトラは少しきょとんとした顔をすると、すかさず神影が横から彼女に耳打ちをする。
気遣い屋の神影がシアンの淡い恋心に気付いていないはずはないと思ったシアンは、神影がリトラに何を言ったのか気になったが、鼓動を強くして耐える。
そして、リトラは小さく頷くと、シアンに近付いた。
シアンの背後に立つアリアスが感情の映らない黒目でしっかりとリトラを見下ろしたが、それ以上の行動を起こすことはなかった。
リトラも視界の隅でそれを認識しながら、手を伸ばせば届く距離までシアンに歩みを進める。それから、リトラはシアンの目を見ながら「――そうだね。私は師匠が好きだよ」と言った。
「そう……ですよね……」
シアンの肩の落とし様から期待した返事でないのは明らかである。しかし、リトラは言葉を続ける。
「私は師匠が好きで、シアンが好き。二人とも大好きなんだ。だからだよ、追い掛けるのは。………………きっと、師匠とシアンはちゃんと話した方がいいと私は思うんだ」
「へ?」
「奥底にある気持ちを言葉にして、声に出して、目を見て、会話をするんだ。シアンが何を思っているのか、師匠が何を思っているのか。伝わっていないと思う。私も言葉にするのは下手だけど、言わないよりはマシだと思う」
「僕の気持ち……は…………」
リクがリトラを連れて来た時、彼は深い傷を負っていた。出血が酷く、青ざめていた。否、土気色に変色した顔は泥に塗れた己の衣類と見分けのつかない程だった。
ドアを放った彼は頭からの血で視界を真っ赤にさせ、ほとんど見えない目でシアンを探した。そして、驚いたシアンの声に肩をビクつかせると、腕の中の少女をシアンに押し付けるように彼の胸に倒れこんだ。
草の匂いと土の匂い。焼けた匂いに、血の匂い。そして、濃い死の匂い。
遠くの赤い空と黒い煙に怯えていたシアンは、夜な夜な出かけたリクがそこへ行っていなければいいと思っていたが、噎せ返るようなその匂いに全てを察した。
『精霊が…………精霊が…………死んだ…………人間が……精霊を…………殺したんだ…………』
リクが言葉を紡ぐ度に血の匂いが、死の匂いが濃くなる。
酷い考えなのは分かっていたが、その匂いが死んでしまった精霊達の残り香であればいいとシアンは思ってしまった。
『あそこの精霊は……皆……死んだ………………』
『もう喋らないで!救急箱!あっ……ああ、ベッド!えっと、毛布取ってきますから!』
しかし、多くの死を見て来たから、胸の奥ではリクはもう助からないと分かっていた。
しかし、分かることと、認めることは異なっていた。
例え、リクが死ぬ運命にあることが分かっていても、それを認めることはシアンには決してできなかった。
リクを失うなんて絶対に認められない。
『……いいんだ、シアン…………それよりも……この子を……』
”この子”という言葉に、シアンはリクの腕の中の存在を認識した。
痩けた頬に血を付けて目を閉じたままぐったりとする幼子。薄汚れた布に巻かれた少女は骨と皮だけの細い手足を覗かせる。
見れば見るほど、明らかに栄養の足りていない身体だった。
『この子は一体…………』
『この子は……レイシーが死ぬ間際まで…………守っていたんだ…………俺が預かった…………だから……っ』
襟首を掴み、体重を使ってシアンの顔を引き寄せると、リクは額を突き合わせた。
今にも喉を掻き切らんばかりに充血した獣の瞳がシアンを睨み付ける。
『この子を……っ、助けてくれ!』
『え…………』
『お願いだ……シアンっ…………俺は死ぬ…………だから……シアンにしか頼めないんだ!』
『そんな……っ、僕一人じゃ…………』
シアンはリクの死を認めない。
例え、リクが自身の死を認めていたとしても。
『お願いだ……約束して…………約束してよ…………約束…………』
リクの手が滑り落ちる。
リクの頭がシアンの胸に乗る。
リクの目が閉じられる。
『この子を……シアンに会えなかった俺に……しないで………………約束…………だから…………約束……したよ…………』
少女を包む布がリクの血で真っ赤に染まっていた。
開いたままの木造のドアはノブが血まみれで、玄関マットには赤黒い血が点々と付いていた。
シアンが座り込むカーペットは長年の砂汚れで灰色がかっていたが、今は深緑色の葉っぱ模様を隠して全てを赤色に変えていた。
そして、基礎体温の高いリクが胸にいるのに、雨でずぶ濡れになったみたいにシアンの体中は冷たい。
『ああ…………寒い………………リク……寒いです………………リク…………』
真冬の水底に沈んだみたいに冷たい。
頭の中が寒さで痺れてくる。
嗚呼、寒い。
このままでは寒さで凍えてしまう。
『リク……リク…………寒い……』
もっと近くにいて欲しい。
ソファーに座った時みたいに肩の触れ合う距離にいて欲しい。
『リク…………嫌だ…………ここにいて……僕の隣にいてください……』
シアンはリクの頭を抱えて縮こまる。
リクがどこかへ行ってしまわないようにキツく抱き締める。
それからどれくらい経ったのか、意志を持った何かに頬を撫でられてシアンは飛んでいた意識を戻した。
レイシーとリクを傷付けた人間がここまで来たのかと、慌てて顔を上げる。しかし、目に映ったのは――見た目は女性だった。
『…………あなたは………………何……?』
ヒトではない。精霊でもない。魔獣でもない。
長い赤茶の髪、緋色の瞳。
その造形はヒトと同じで、絵本の中でしか見たことがないお姫様のような純白のドレスを着ていた。
しかし、シアンには彼女――視覚のみの情報から得られた特徴は「女」だった――がこの世の何でもないことが直感的に分かった。そして、カミサマであるアリアスとも違う未知の何かにシアンは恐怖ではなく、どことなく懐かしさを感じていた。こんなに特徴的な彼女に過去に会ったことはないというのに。
――あら……見えるの?気まぐれなあの子が連れていただけのことはあるわね。まぁ。本来であれば、私はあなたの目にも誰の目にも映らない存在だから、あなたは私が何かなんて気にしなくていいわ。寧ろ、私は何者でもない。だから、私はいないものと思ってくれて結構――
いるのに、いない。
良く分からずにシアンは首を傾げた。
何かである彼女はシアンの反応に笑みを溢すと、膝を曲げてしゃがむ。遠かった彼女の顔がシアンと同じ高さになる。その時、どこからともなく、鈴の音が微かに聞こえた。
――私は過ぎ行く風と同じで、ただの通りすがりなのだけど、その子達がそろそろ死にそうだから、起こしてあげようかなって。死はヒトにとって重要なことだから――
死。
彼女の突飛な登場でうまく目を逸らせていたはずの単語が無慈悲にもシアンを襲った。守るすべもない言葉の刃物が深く突き刺さってくる。
『ぅ…………ぁ…………あ……』
――本当に不思議な子…………全てのものは生まれて、いつかは終わるものなのよ?枯れる、朽ちる、消える、滅ぶ、腐る、死ぬ。それが自然。なのに、あなたはたった二つの死に泣いている――
それは否定を含んだセリフと言うよりも、ただ素直に疑問を口にしているようだった。
シアンが悲しむ理由が分からない――彼女に対して怒りは湧かなかった。寧ろ、激情に呑まれてしまいそうだった胸の中の波が凪いでいく。
『……彼らはこの世界の数え切れない生と比べれば、たった二つに過ぎない…………でも、僕の知る生の数に比べれば、大き過ぎる二つの生です。…………いいえ………………僕にとっては何にも代え難い生なのです。だから、失うのは悲しくて、辛くて、自分が無力なのは悔しい』
腕の中の二つの生命。
大切な大切な生命だ。
シアンの大切な家族の大切な少女。
『……嗚呼……約束……………………君との約束…………』
シアンはリクを床に寝かせると、すくりと立ち上がった。
おや、と瞼を広げた彼女を放置して、絨毯を除けて作ったスペースに座り込む。その手には味気ない生成り色の巾着。
中から先の尖った黒曜石を取り出すと、リクの血で濡れた手のひらで握り締めて床板に傷を付け始めた。
――本当にするの?それはあるべき姿じゃない――
『関係ない…………僕は約束したんだ………………僕は彼女を助ける……』
何度も石を取り損なって落としては、歪ながらもどうにか円を描く。そして、研究所にいた時に書物から得た知識を掘り起こしては、線を足していく。
基本的な魔法陣の構造は知っている。ただ、書物のそれはヒトがヒトや魔獣と契約する為の陣だった。ヒトのための書物なのだから当然だが。
しかし、そこにはヒトが精霊と契約する為の陣については書かれていなかった。
それもそのはずで、そもそも精霊はヒトや魔獣と積極的に関わらない。殆どの精霊は生まれて直ぐに消え、自我を持たない。自我を持つ僅かな精霊も、生活のために大地を切り拓くヒトを拒絶まではしないが、生まれ持った忌避感によってヒト社会から離れて生活する。
土地神と敬われる精霊などはヒトと関わりを持っているが、それも極一部だ。ヒトと関わりがありながら、土着信仰とは無縁のシアンなどは特異な例だ。他の精霊からすればモノ好きでしかない。
そのため、ヒトにとって関われる対象が少ない精霊について記述された文献は圧倒的に少なく、研究も殆されていない。
ヒトと精霊が契約する。それも、精霊が契約主となるなど、前代未聞だ。
上手くいくかなんて誰にも分からない。何も起きないどころか、悪い方向に向かう可能性もある。
それでも、約束だから、果たすのだ。
『軽い…………』
空気みたいに軽い少女。同じ背丈の頃のリクとは段違いに軽い彼女にどきりとしながらも、シアンは彼女を陣の真ん中に横たえた。
『…………レイシー………………?』
か細い声で少女が宙に問い掛けた。
『……僕はレイシーじゃないです。彼女は……もう…………』
春風で枝葉が擦り合わさった時に生まれた精霊――レイシーはもうこの世にいない。
人間の子供が好きで、森で迷った子供を良く村へと導いてあげていた。シアンが外出している時はリクの遊び相手にもなっていた。
そんな彼女にはもう会うことはできない。
だと言うのに、母親に縋る赤児の様に傍に座るシアンの服を掴むと、『いなくならないで……』と囁いて眠りについた。
レイシーが、リクが、守ったこの命を失うわけにはいかない。
シアンはありったけの魔力を陣に注いだ。
陣は水を得たスポンジのようにもっともっととシアンの魔力を食っていく。
目の奥がチカチカと光って意識か飛んでしまいそうになるが、シアンは唇を噛んで堪える。魔力を注げば、きっとどうにかなると信じて。
『私、アリアス・ウィルヘルムが証人となろう』
ざわめく森の音と共に扉を開けて現れたのは黒衣に身を包んだ女。血の匂いに紛れて煙臭さが部屋に入ってきた。
アリアスは全てを分かったような態度でシアンを見る。
『きみは彼女に何を求める?』
『……生きて欲しい。笑って……生きて欲しい』
女の子なら可愛い洋服を着て、愛らしいものに微笑んで、森を自由に駆け回って、お腹いっぱいのご飯を食べて欲しい。
毎日、明日は何をするのか考えて、ワクワクしながらぐっすり眠って欲しい。
そんな当たり前の生活をさせたい。
『じゃあ、きみは彼女に何を支払う?』
『僕が渡せるものならなんだって払う』
『いいよ。きみからは力の一部を貰おうか。この子が何不自由なく生活できる為の力を』
『はい』
シアンは力強く頷いた。
『それじゃあ、最後だ。契約の代償を』
『………………』
『シアン?』
返事のないシアンにアリアスが見下ろすと、少女を見詰めて俯く彼の微動だにしない後頭部が見えた。
『僕の記憶は…………見送ってばかりだ……………………嗚呼、違う……そうじゃない…………』
記憶を呼び起こせば、辛い記憶ばかりが蘇る。そんな記憶を代償にして、少女の心に傷を残してしまわないだろうかと考えてしまう。しかし、すぐに、幼子のリクが初めてシアンの名前を呼んで手を握ってくれた時の記憶が何にも負けない一番星みたいに輝いて現れた。
カーテンを透かす朝陽も、草木のざわめきも、夜明け前の静けさも、騒がしく群れる羊達も、村人達の井戸端会議から漏れる笑い声も、収穫された麦が積み上がって出来た金色の小山も、子供達の駆け回る足音も、リクの笑顔も、泣き顔も、強気な顔も、全て幸福な記憶だった。
『僕は僕の記憶を代償にします』
すると、陣から発せられる光が腕のようにシアンと少女を包みこんだ。眩しい光にアリアスの姿は見えなくなる。そして、風もないのに浮き上がる彼女の身体をシアンは慌てて抱き抱えた。それから何秒経ったか、シアンが急激な魔力の消費からくる疲労感に耐えながら目を瞑っていると、瞼を突き抜ける光が消えた。
これで契約は終わったのだろうか?
けれども、魔力がごっそり消えたこと以外は何も変化がない。
失敗か、成功か。
シアンが恐る恐る目を開けると、そこには闇が広がっていた。
『そんな……っ』
何もない黒色。
シアンの大嫌いな闇が広がっていた。
あまりの恐怖に胸元が痛くなるぐらい鼓動が強くなる。
失敗、の二文字が頭を過る。
『嗚呼、泣かないで。確かに、涙は大地に命を与える恵みだけど、今は泣き止んで空を見上げて』
今はもう聴くことのできないレイシーの声に、シアンは縮こまっていた体を伸ばして上を見た。
目の前に広がるのは闇――――満天の星空だった。
星明かりの下で肩までの白銀の髪を揺らしながらレイシーが微笑んでいた。フリルの付いたシャツに簡素なズボン姿は見知った姿だった。
『星はね、いつだって輝いているんだよ。昼間は太陽が眩しくて見えないだけで、本当はずっとそこで輝いている。精霊達も目に見えないだけで、ずっと君の傍にいるんだ。だから、君は一人ぼっちにはならない。どんなに真っ暗闇でも、君の直ぐ傍で星は輝いていて、精霊達が見守っているんだ。だから、怖いときも、悲しいときも、辛いときも目を開いて。そうすれば、光が見えてくる』
視界が高くなり、シアンはレイシーに抱き上げられたのが分かった。
『嗚呼、君の中にも光が見える。綺麗なスカーレットだ』
そして、レイシーの瞳に映る少女の瞳は燃えるような炎の色に輝いていた。
シアンが目を開けると、純白のドレスの女もアリアスも消えていた。夢心地…………血の水槽に顔を入れたようなキツい匂いが現実であることを訴える。
陣の中で意識を失っていたらしく、横たわる少女の手を握ると、力強い拍動を感じた。契約は成功した、でいいのだろう。
心做しか、精霊特有の大地との繋がりに似た繋がりを彼女にも感じる。
先のレイシーは契約の代償で得た少女の記憶に違いなかった。幼子の断片的な記憶だったが、戦時下に負った背中の傷で手足に障がいのある少女は、村の口減らしのために山中に捨てられたようだった。渡された僅かな食料はすぐになくなり、木の皮や落ち葉を口にして、生きる理由も死ぬ理由も考える余裕のないまま、少女は飢えと寒さに耐えていた。あまりにもあっけなくその命が尽きようとした時、レイシーは少女の前に現れた。少女にとって記憶らしい記憶はレイシーに会ったところから始まっていた。
シアンは自らの記憶が少女の負担になるのではと考えもしたが、それは間違いだった。
シアンは痩せ細った少女をベッドに寝かせると、リクの様子を見る。
『嗚呼……リク、あの子は助けました。あとはゆっくり眠って、起きたらお腹いっぱいになるまでご飯を食べて、そしたら、すぐに元気になる。僕は君との約束を守りました。だから…………』
これはシアン自身が選んだことだ。
リクとの約束を守って、少女を助ける――という選択を彼は選んだ。
陣に吸われたせいでもう殆ど魔力がなく、鉛を飲んだみたいに体は重い。視界も怪しくなってきた。頭を木槌で叩くような頭痛もする。
それでも、シアンは残った魔力をリクの体へ流し込んだ。
『だから…………今度は僕のお願いを叶えてください…………』
しかし、リクの体はシアンからの魔力を受け入れてはくれなかった。流れ落ちる水のようにそのまま大地に染み込んでいく。それはきっと、リクの体が終わりを受け入れているからだった。無意味な行為――だとしても、シアンは魔力を送り続ける。
たった一つの湖の波紋が形を持ったのだ。力を持ったのだ。時間を持ったのだ。意志を持ったのだ。名前を持ったのだ。
家族を持ったのだ。
愛情を知ったのだ。
これ以上望むのは欲張りだと言われても構わない。
諦めは知らないから、いくらだって貪欲に望むのだ。
魔力が底を突き、力の入らない腕が枝のようにポキリと折れる。そして、シアンの上体は床に吸い込まれるように落ちた。
頭を打ち付けるが、痛みは感じない。
それ以上の痛みが胸の中で生まれているからだ。
シアンは手を伸ばしてリクの手を握った。
『こんなお別れは……嫌だ……』
いつかは別れが来る。そんなことは分かっている。
だけど、今じゃない。
冬には隙間風に震えるシアンの背中を擦ってくれた温かい手のひらが今は冷たい。
『僕には……君が必要なんだ』
失いたくない。
湧き出てくる涙を床に擦り付けてリクの手を強く握る。
失いたくない。失いたくない。失いたくない。失いたくない。
シアンの周りに青い光の粒が漂い始める。
それらは徐々に形を持って魚の姿に変わった。
そして、魚達はリクの周りを泳ぎ、暫くすると光の粒になって消える。
『お願いだ……リクを連れて行かないで…………』
ぴちゃん。
透き通る尾鰭が光の粒を弾いた。粒は粉々に弾けてリクに降り注ぐ。きらきらと輝く粉はリクの体に降り注いでは染みてゆく。
『リクは僕の大切な家族なんだ…………だから……!』
絨毯の血が青白く光り、まるでそこが水面かのように魚達は光の中へ潜っては飛び跳ねる。
『神様、リクを返して!!!!』
僕は君を失いたくない。
世界は輝きを増し、一際大きな鰭が血の海から現れてリクを包み込んだ。
細い棒――否、細い指が伸びてきてリクの頬に触れる。そして、何度も何度も愛情の籠もった手付きでそっと撫でた。雪のように真っ白な人の腕……絹に似た金色の繊細な髪でサファイアに似た美しく儚い瞳を半分隠した『それ』はリクを見下ろした。
『…………セイレーン……』
シアンの生みの親がそこにいた。
セイレーンは床にうつ伏せになるシアンを振り返ると、彼にニコリと微笑んでからリクの唇を奪った。
思わぬ登場と予想外の行動にシアンが呆気に取られていると、セイレーンは落ちたガラスの花瓶のように光の欠片となって消え去る。
魚達もいつの間にか消えている。
ただ、ランタンの灯りだけがゆらゆらと揺れていた。
幻覚ではないのはシアンには分かった。リクの傍から確かにセイレーンの気配がしていたからだ。そして、リクの体の中へと取り込まれていく魔力の流れも。
『違う……セイレーンの魔力じゃない…………』
取り込まれていくのは大地の魔力だ。
リクの体は精霊と同じ様に大地から魔力を取り込んでいた。
『………………リク…………』
リクはもうヒトじゃない。
それはシアンには些細なことだった。
『リク……リク……お願いだ……リク………………――』
………………シアン……?
『…………………………』
『…………泣かないでよ…………君に泣かれると…………俺は辛いんだ……』
シアンは無言でリクを抱き締める。
もう誰かに取られてしまわないように。
『………………ごめん…………ごめんね…………シアン…………』
小さな我が家の惨状を細めた目で見渡したリクは、震える唇を閉じると、シアンの頭を優しく撫でた。