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啼く鳥の謳う物語2  作者: フタトキ
あなたと共に歩む
393/400

愛は惜しみなく与う(10)

吹雪と共に現れたのは雄々しい立派な角を持つ全身白色のトナカイ。

通路のど真ん中に佇み、角で空を切り裂くようにもたげていた頭を振り上げた。

『お久しぶりです、リク。リトラが寂しがってますよ』

「開口一番にそれ…………………………まぁ、久しぶり。俺の馬鹿弟子に寂しいなんてのはないから気遣わなくていいよ。寧ろ、俺はあいつの中で師匠失格だろうし」

『失礼しました。彼女が私に貴方を説得するよう頼んだのは、彼女が本当に幼い時でしたね。どうやら、久々に貴方に呼んでいただけて、私は嬉しかったようです』

「………………お前にそう言って貰えると俺も嬉しいよ、ジャック」

表情は硬いままで、リクは形だけの笑みを作った。しかし、直ぐにその僅かな笑みも消し去ると「馬鹿弟子の話も聞きたいけど、今は力を貸して欲しい」と頭を下げる。

ジャックと呼ばれたトナカイも頷くようにゆっくりと頭を下げると、踵を返して遠くを見詰めた。

「少し前にはぐれてしまった白髪の女の子を探してるんだ。ノワールって名前の黒色のワンピースを着た子供なんだけど。この氷系魔法に干渉して探してもらえないか?」

『私はてっきり重傷の貴方のサポートをするものと思っていました』

「まぁ、深く入ってはいるけど、太腿だから。中傷程度だよ。俺の体は知っての通り丈夫だし」

そう言ったリクは壁に凭れながら床に座り、左腿を手で押さえていた。彼の腿付近の黒色のズボンは濡れた様に色濃くなり、クリーム色の床には血の擦れた跡が付く。

「ノワールはみっともない俺の姿を見てパニックになってしまったんだ。今頃、お腹を空かせながらどこかに隠れていると思うから協力して欲しい」

リクが空いた手で懐から出したビニール袋には味気ない『角砂糖』の文字。施設侵入前は袋に半分以上あった角砂糖は既に数える程まで減っていた。

「だから、これを俺が持つのは嫌だったんだ…………ノワールは特殊な体だから、これを食べてエネルギーを摂取しないと、魔力調整が上手く出来ずに暴走してしまうんだ。…………あいつに渡したら渡したで後先考えずに全部食べてしまっただろうけど」

『その子供のことが心配なのですね。分かりました。探してみます』

「見付けたら教えて欲しい。俺も探しに行くから」

手のひらに付いた血を壁に移しながらリクはゆっくりと立ち上がった。痛みに僅かに眉を顰めたが、直ぐに落ち着いた表情で歩き出す。

「嗚呼、あそこの人は無視していいから。死なない程度の傷だし、俺に対して手加減したんだ。そう言う不真面目な態度は許せない」

『…………………………』

ジャックは廊下の奥で蹲って動かない影を一瞥すると、リクとは別方向へと静かに歩みを進め、直ぐに光の粒となって消えた。



「あうぅ…………ぅぐ……ぐずっ…………」

買って貰ったばかりの靴だから、靴底が良く鳴った。

歩くのが楽しくて、アリアスが可愛いと褒めてくれたリボンが踵でヒラヒラと舞うのが嬉しかった。

それにリクと一緒に居られることが何よりも嬉しかった。

だから、転んでしまった自分を守るように被さってきたリクがとても格好良くて、誇らしくて、感激した。しかし、直ぐに気付いた。

リクの体重が掛かってきて「動けない」と言ったら、とても申し訳なさそうに「ごめんな」と謝ってきた。眉を寄せて、小さく笑って、熱い息を吐いて、まつ毛を揺らして、彼は微笑んだ。

そうして自分を見詰めてきた瞳は不気味な赤黒い色で、絵本に出て来た人間を食べてしまう怪獣と同じ目だった。

リクの目ではなかった。

自分の知る大好きなリクの姿ではなかった。

怖くなって咄嗟に手を突き出すと、リクの頬に自分の爪が引っ掛かり、彼は驚いた顔をして離れた。

それからゆっくりと手のひらで両目を隠すと、「……これは怖いよな」と囁いて口を閉じた。

もうリクの傍には居られなかった。

足を押さえながら目を合わせないように顔を背けるリクの姿を見ただけで、リクが心底傷付いたのが分かった。

だから、逃げた。

今更、謝ったとしても意味はない事を知っていたから。

リクを傷付けて、リクに嫌われた。

「ごめんなさい……っ、ごめんなさい…………」

もう何処にも帰れない。

「ごめんなさい……」


アア、オ腹ガ空イタナ。


「ごめんなさ――」

「もう謝らないで。ここにあなたを叱る人はいないのだから」

「あう……」

赤く腫らした瞼を重そうに上げた少女の目に緋色の瞳が映った。

赤茶のショートヘアーを揺らした女性は少女の手を取って立たせると、床に座り込んで薄汚れてしまったスカートを払う。

「誰…………」

「私はリトラ。リクの不肖の弟子です」

「リクの…………………………『ふしょう』?」

「不出来な弟子ということです。あなたの名前は?リクの知り合いだよね?」

「私…………………………ノワール…………不肖のノワール…………リクに迷惑かけて………………」

堪らなくなったのか、再びポロポロと涙を流し始めたノワール。リトラはハンカチを彼女の目元にそっと当てると、頭を優しく撫でる。

「リトラ!時間取らせん言うから許したけど、アリアスの仲間やけぇ。ほっとけばええ!」

雪癒(せつゆ)が腕を組んでムスッとして立つ。ノワールはぴくりと肩を震わせて縮こまった。

リトラは泣いている少女に追い打ちを掛ける雪癒に怒ることはなく、ただ静かに立ち位置を変える。

「ノワール。リクはあなたを迷惑だとは思っていません。勿論、不出来とも思っていません。もしもそう思っているなら、あなたを探したりしませんから」

「…………?」

「ノワール!」

約5メートル向こう。廊下の角から息を切らしてよろよろと歩くリクが現れた。左右前後、さっと見回したリクは深く息を吐くと、姿勢を正してつかつかとリトラとノワールに歩み寄って来る。3メートルの距離まで近付いたところで、リクはノワールの肩に手を添えて立つリトラを睨んだ。

「…………リトラ………………ジャックにノワールの居場所を伝えたな」

「はい。彼女は師匠の連れと認識しています」

「余計なお世話だ」

リトラに睨みを利かせたままリクは「こっちへ来い」とノワールを手招きした。ノワールはチラチラとリトラとリクを見比べると、小走りで駆け寄り、小さな手のひらでリクの手をしっかりと握った。

「ホンマに余計なお世話やけぇ。リトラの手を煩わせおって。そこをどくんや。我はその先に用があるんけ」

小さいながらも雪癒の声は通り、神影(みかげ)の静止を振り切って雪癒が前に出る。怯えきったノワールがリクの背中に隠れ、リクは紅茶色の瞳を細めた。

「傍観者のあなたが?」

片手を懐の獲物に添えた彼は胸を張って少年を見下ろす。大きな壁を前にした雪癒――しかし、見上げてきた雪癒の表情はリクが今まで目にしてきたそれと完全に異なっていた。

「図に乗るなよ、ガキ」

その体つき、容姿に似つかわしくない低く太い声。

雪癒の目が紫色に光る様は獣……それも捕食者の顔だった。

「傍観者だからなんや?我は『許さへん』と言ったはずや。さっさとどくか、ここでやるかやけぇ」

「そう言われて大人しく道をあけるような中途半端な覚悟は、俺も持ち合わせていません」

獲物を抜いたリクはノワールを下がらせる。彼に引き下がる気がないのはとうに知れていた。

「神影、先に行くんけ。シアンが拒めば、アリアスにはどうしようも無い。我は一度失敗しとる。せやから、お人好しなお前さんの説得の方が効果あると思うけぇ」

「雪癒…………勝ち目はあるのか?」

その口調は疑うものではなく、ただ確認するものだった。神影は小さな背中を向けて立つ雪癒に勝てるかどうか問い掛ける。

しかし、それに応えたのはリトラだった。

「雪癒、私に任せて欲しい」

「我は力不足か?」

「ううん。雪癒は師匠よりも強い。きっと師匠を殺す。だけど、師匠を殺せば、シアンにもそれが伝わる。そしたら、シアンは誰も信じなくなる」

彼女のハッキリとした物言いに神影が目を見張る。リトラも雪癒ほどではなくとも、思ったことをそのまま口にするタイプなのは感じていたが、よりにもよって『師匠』に対してもそれが発動するとは思わなかった。

リトラからリクへと向けられる矢印は紆余曲折しているようだ。

「お前さんはリクよりも弱いけぇ」

「うん。でも、今の師匠は手負いだから。勝てるよ。絶対に。……あそこの階段をずっと降りて。そしたら、シアンがいるはずだから」

「……………………シアンがアリアスに協力する理由はお前さんに違いない。シアンを説得するにはお前さんも必要やけぇ」

「そうだね。シアンとはちゃんと話さなきゃいけなかったんだ。だから――」

リクとリトラの二人が見詰め合う。

小回りが利く刺突剣を構えたリク。リトラもまた背中に回した手で腰に隠していたナイフを取り出した。

「師匠、シアンと私の問題に首を突っ込まないで下さい」

「なっ、俺が……首を突っ込む?は?一体いつ……」

弟子からの思いもよらない言葉にリクは固まる。リトラという人物の大部分を構築したのはリクだと言うのは、彼自身分かっていた。幼い彼女と誰よりも長く傍に居たのはリクだけなのだから。

しかし、師匠に対するその態度は予想外だった。

リトラは壁になる様に立つと、雪癒達を奥へと進ませる。雪癒は一瞬だけ振り返り、さっと視線を前に戻した。

「私がこの先どう生きるか、師匠はもう道を示すことはないと言いました。もう出来損ないのお前なんて知らない、と。ですが、師匠はシアンを追い詰める為に私の存在を利用した。シアンと私の問題です。師匠に言われることではありません」

唖然とするリクだったが、リトラはナイフの切っ先を真っ直ぐ彼に向ける。

「シアンに協力を求めたいなら、師匠の言葉で説得するべきでした」

「………………お前は俺の目的を知らないだろう?」

「はい、知りません。ですが、このような卑怯な手を使ったことを私は許しません」

リクの横顔をこっそり見上げたノワールが声を掛けようと手を伸ばしかけてやめる。眉間に皺を寄せたリクの目が赤黒く光っていたからだ。

「……………………………………クソが……」

たったの3文字。されど、そこにはあらゆる負の感情が詰め込まれ、今にも棘となって出てきそうだった。

ただノワールにできことは、逃げ出したい気持ちを必死に抑えてその場に留まるだけだった。

「嗚呼……お前を弟子にした俺が馬鹿だった。お前は……本当に…………出来損ないだよ、リトラ」

小さな針にノワールの胸がチクリと刺された気がした。

「………………シアンの気持ちはあなたにも伝わっているはず。それでも邪魔をするなら、精霊王の騎士として、私はあなたを排除する」

「ならしてみろ!」

先に足を踏み込んだのはリクだった。ノワールの横から姿が消えたと思えば、彼は腰を低くし、リトラの首を狙って刺突剣を突き上げていた。

しかし、たとえ出来損ないと呼ばれようとも、リトラは数年前までリク自身から戦闘技術を実践を通して教えて貰っていた身。つまり、リクの動きには慣れていた。

特に心に余裕を失ったリクの動きは単調になりやすく、かわすのも容易い。

リトラは必要最小限の動きで避けると、逆手に取ったナイフでリクの刺突剣の柄を力強く弾く。細い柄に切っ先が触れ、甲高い金属音が生まれる。リクの獲物を手から落とせれば、それで良しだったが、力差で敵わずに尖った音だけが響いた。

しかしながら、初手で弟子に優勢を奪われたことに、リクは動けなくなっていた。

追撃を警戒して離れていたリトラだが、リクの状態に気付いて走り出す。リクは目を見開いたままの横顔をノワールに見せたまま微動だにしない。

このままではリクが傷付いてしまう――


「リクの『負け』はヤダ!リクは勝つの!!」


ノワールがありったけの声量で叫んだ。

「リク!勝って!!」

「っ!?」

リクは手放しかけた剣を握り直してリトラから距離を取る。

しかし、リクに余裕を持たせまいとするリトラも背後に跳んだ彼を追い掛けて踏み込む。

リクの足を狙い、横に一線。

首でも胸でもなく、足。リクは引き攣った顔をすると、踵を鳴らしながら足を大きく広げて腰を落とす。リトラの斬撃はリクの脇を掠め、ハッとしたリトラの表情を横目にリクはナイフを手にする彼女の腕を掴んで力強く引いた。飛び込んだ勢いもあって、容易く引き寄せられるリトラ。踏ん張ろうにも、身長差もあってつま先にしか力が入らない。

片手でリトラの腕を捻りあげ、彼女の背後に回ったリクは全体重を使って彼女の体を地面へと叩き付けた。ナイフが手から落ちて音をたてながら滑る。

「ぁっ………」

頭を守ろうと上げた彼女の苦痛に満ちた顔がノワールの目に映った。

「足を狙ったのは、俺が傷を負った場所だからか?違うだろう?そんな安直な考え方は教えてない。お前が俺の足を狙ったのは俺への同情心だ。致命傷を避け、手っ取り早く俺の戦意を削ぐために。俺は弟子にそんな気遣いされるような師匠だって言うのか?馬鹿にしてくれたな」

「……………………………………」

リトラから返事はない。

それこそがリクにとっては返事そのものだった。

僅かに動いたリトラの片手を踵で押さえ付けると、リクは膝で背中を押さえ付けながら腕の捻りをきつくする。

リトラは声に出さないが、呼吸は確実に早くなっていた。

そして、おおよそ人体の筋肉の動きを逸脱した方向へ曲がっていく腕にノワールは恐怖を覚えて両手で自分の目を隠した。

「お前にこの腕は不要だ。…………本当なら失っていたんだ。正しい状態に戻してやる。そうすれば……………………」

リクの目的は果たされるのだから。

「……モールス!」

骨が折れてしまう――その寸前、リトラが『それ』を呼んだ。すると、まるでその言葉を待っていたかのように間を置かずして、黒い影がリクの背中に掛かる。

「クソッ!」

リクは背を低くして床を転がり、彼のいた空間を細長い何かがが裂いた。

二本の鋭い銛――否、乳白色の牙が床材に深い溝を彫る。

そして、地面をその巨体で揺らした『何か』はリクからリトラを守るように二人の間に割り込んだ。

「お前…………卑怯なのはどっちだって言うんだ」

「卑怯?シアンを守るのが私の役目。そして、シアンを守る為にはこの腕が必要だから助けを借りたまでのこと」

肩を押さえながら立ち上がったリトラの前には黒色の生物。大きな前ヒレで胴長の上体を起こし、小さな丸い頭に大きな青い目と左右に伸びる無数の髭。上顎から地面に向かって伸びる二本の牙は太く、まるで象牙のよう。

そして、リクの身長の2倍の長さがある背中は美しい曲線を描き、リクを見下ろして静かに佇む。

『我ら精霊は彼女の側につく。それが王の望みだ』

髭がピクリと揺れ、開いた口から落ち着いた男の声がする。若者と言うよりは、掠れ具合から老年者の声だった。

見た目がオットセイの精霊『モールス』は頭を振りながら目を光らせる。

「………………その中に俺はいない。いつだって……」

リクはじっとモールスを見上げ、そのまま後方に立つリトラへと視線を移す。少しも意志の揺るがない彼女の表情は、彼女が花のような笑顔を見せることはもうないことを意味していた。

小さな頭を見下ろしながら撫でていたのが、遠くの昔のように感じる。

「俺は彼の望みを叶える。お前達が勝手に群がって勝手に祭り上げた王様としての彼ではなく、昔馴染みとしての彼の望みを」

そう言ったリクの表情からは怒りの感情が抜け落ち、赤黒く光っていた瞳は紅茶色に戻る。

「…………ノワール、手伝ってくれるか?」

背中を向けながら、縮こまっていたノワールがゆっくりと振り返った。まさか、呼ばれると思っていなかったノワールはぱちぱちと瞬きすると、少し困り顔のリクの姿が徐々に見えてくる。弱りきった子犬みたいだった。

もう怖くない。

「…………………………うん。ノワールはリクの味方」

返事は無かったが、ノワールにはリクが照れた様にはにかんだのが分かった。

ノワールは靴底を鳴らしてリクの隣へ。

「リトラ!ノワールはリトラと戦う!」

「うん。私も手加減しないよ」

リトラの影から青色と茶色の美しい蝶が現れる。1頭、2頭、3頭…………ひらひらと舞う蝶達。

リトラの師匠として精霊を良く知るリクが、数を増やしてゆく蝶の意味を察して剣を構える。しかし、先行しようにも、モールスの巨体が盾として目前に君臨する。

「リク…………ちょうちょ……」

数え切れないくらい増えた蝶達が突如青い光の粒となって消えた。

そして、モールスを残してリトラの姿も消える。

「消えた……!」

「シータの能力だ。あいつは消えちゃいない。見えなくなっただけだ。だから、ノワールは動くな」

「あぅ…………うん……」

見えなくなっただけで、リトラは存在はする。少しでも動けば必ず気配を感じるはず。

リクはリトラの気配の片鱗を見付けようと集中する。

その時、リクの首筋を本当に軽く風が撫でた。生活する上で感じる隙間風などのごく当たり前な風と言えばそうだが、リクが育てたリトラならば周囲の環境に溶け込んで動く。

リクが刺突剣を宙に突き出すと、硬い金属音が鳴り響き、地面が揺れた。

目に見えない何かの存在にノワールが驚いて肩をすくめる。

再びリクが背後を振り返って剣で突くと、衝突音の後に離れた場所でリクが弾いた何かが床を滑る音がした。

「ノワール、あそこを思いっ切り爆発させろ!」

「でも……ここが壊れちゃう」

「俺が何とかする!気にするな!」

ノワールがリクに指示された場所に目を向ける。

ノワールの目が赤く光り、彼女の足元から一気に廊下の奥へと赤く光る幾何学模様が浮かび上がった。

天井から伸びる氷柱が赤色を反射して、空間全体が赤へと染まる。

その時、彼女の背後からモールスが襲ってくる。しかし、吹っ切れたリクにとって今優先されるべきはノワールの安全であり、彼は力づくでモールスの横っ腹に突っ込むと、剣の先端をモールスの目に突き刺した。リクの予想通り、モールスの体は無数の蝶々へと姿を変えて消え去る。それでも、ノワールの為の時間稼ぎが出来たのなら、リクにとって満足のいく結果であった。

リクが壁に触れ、壁が淡く青色に染まる。

「やれ!ノワール!」


まるで生き物の様に波打った赤色の光は突如消え去る。眩しいぐらいだった光源の消滅に、辺りは水底のような深い青色になる。そして、風が手前から奥へと駆け抜けると、一瞬だけ静寂が満ち、舞い上がったノワールの白髪が遅れてふわふわと落ちた。

再び廊下の奥が赤く光ると同時に爆発音が響いた。砂埃が舞って白く霞んだそこに生まれる新たな光と爆発音。

廊下の奥から手前へ。

連鎖的な爆発の衝撃で擬似的な地震が発生する。

リクは鼓膜が叩かれる感覚に眉を顰めると、よろけるノワールを支えた。飛んでくる細かい瓦礫から彼女を守るように強く抱く。

「リク…………ありがとう」

「それは俺の台詞だ」

ノワールは両の拳をリクの胸に付けて目をつぶった。





チチチ。

せっせと歩みを進める小鳥の尾がふりふりと上機嫌に揺れる。

「ホントにコウキさんいるんすかね…………ここ何処っすか……」

「書庫とか物置とかだったっけなぁ。ほとんど来たことないな」

チチッ。

「あ。止まった」

小鳥はある扉の前まで来ると、進むのをやめてその場をウロウロとする。小鳥がその扉の向こうに用があるのは全員分かった。

開けるか否か。

兼守(かなもり)が味気無いドアノブを回すと、案の定、扉は開く。

鍵は掛かっておらず、薄く開いた扉からは闇しか見えなかった。しかし、小鳥は迷わず部屋の中へ入っていく。

闇に消え行く小鳥の軌跡に、兼守は意を決して扉を開け放ったよ

「真っ暗っす……電気…………」

「スイッチは何処だ……」

チチッ……チチチ……。

「なぁ、お前、スイッチの場所を…………ああ、携帯にライトあったか」

呑気に部屋の隅の一角を小さく照らす鳥を尻目に、自らも光源を持っていることに気付いた兼守は携帯を取り出す。そして、覚束無い手捌きで携帯のライトを付けた。

「うわっ、何かに躓いたっす!!」

「大丈夫か?…………ソファーにテレビにマンガ………………これは倉庫じゃないな。絶対にあいつの秘密基地――」

これ以上被害を受けないように床にしゃがんだ羽黒(はぐろ)を照らした兼守。周囲を確認すると、生活感に溢れていた。

そして、扉の前で立ち尽くす少年の足が。

兼守が(くれ)の顔を僅かに照らすと、彼は目を見開いて兼守の背後を凝視していた。

「呉君?大丈夫――」

「こんなことしたくない……」

直ぐ傍。兼守は耳朶を撫でる吐息に背筋を伸ばした。

「……だけど、ごめん……」

「……!?」

振り返る間もなく、両腕を捕まれて背中に回される兼守。携帯が落ちて僅かに床を照らすだけになる。

しかし、部屋の中は一気に暗くなるはずが、兼守の視界は異様に明るかった。

「全員、動かないで。今は誰も傷付く必要がないんだから」

炎の小鳥ではなく、炎のナイフが兼守の頬を煌々と照らす。

ただの光るナイフではなく、炎のナイフなのは痛いくらいの熱で分かった。

産毛が燃えているのか、怪しい臭いがしてきて、兼守の無精髭が燃えだすのも時間の問題だった。

「どうしてだ………………コウキ……」

「状況が変わったんだ。俺の身体は一つで、俺の腕は二本しかないから、兼守さんを護るにはここに兼守さんを閉じ込めるしかない。漬け物の人もここにいた方が安全だよ。でも……君はダメだよ。部外者だ」

その時、呉の乏しかった表情にあり過ぎるぐらいの感情が浮かんだのが兼守には分かった。呉とコウキとの関係を知った後では、彼がどんなに傷付いているか容易く想像できた。そして、彼の悲しみは兼守の想像を遥かに超えることも感じていた。

洸祈(こうき)……さん……僕は…………あなたの過去を知っています……」

「そうっす!呉君っす!コウキさんを探してここまで来たんすよ!?」

「……………………俺は……君を知らない……」

コウキが求めていた自分のことを知る者。しかし、兼守の腕に触れる彼の指は震えていた。

呉もまた眉を寄せて目を細める。

「…………それでも構いません。僕は先へ進みます。家族と一緒に。あなたと一緒に……」

そして、兼守の視界から呉が消えた。羽黒も「あれ!?呉君っ!?」と慌てて立ち上がる。いくら目を擦っても、消えた呉は現れない。兼守も頭の片隅では魔法だと思いながらも、動揺を隠せずにキョロキョロと周囲を探る。しかし、コウキだけは焦るどころか震えすらも止まっていた。呼吸は一気に遅く小さくなる。

「………………来る」

コウキの囁き声が呉を探して目玉を左右に動かす兼守の耳に響いた。そんな冷静沈着な彼の声は頻繁にサボりに来るコウキの声とは似つかないものだった。

コウキは鼻先を上げて「漬物の人、兼守さんをよろしく」と言うや否や、兼守を羽黒の方へと強く押す。筋肉質とは言い難い年下の青年に軽々と押され、唖然とする兼守は羽黒もろとも床に倒れ込んだ。

そして、荷物を減らしたコウキは素早く立ち位置を変えると、くるりと体の向きを変えて炎のナイフで宙を割いた。

「……ぃっ!!」

兼守の目には突如現れた少年が映った。それも腕を胸に抱えて後退る呉の姿が、だ。

「空間系…………幻影……いや…………確かに一度気配が消えたから空間転移だ。俺を何処かへ連れてこうとしている?だけど、俺は何処にも行かないよ。兼守さんと漬物の人をここに閉じ込めたらやることがあるんだから。……でも、君が居たら兼守さん達をここに閉じ込めても意味がなくなるな…………」

「おい!コウキ!呉君を傷付けたのか!?」

蹲る呉が着るだぶついた作業着が、僅かに赤く染まるのを兼守は見逃さなかった。子供を傷付けたこと、家族を傷付けたこと――兼守はコウキの記憶喪失に同情しながらも、呉を傷付けたことを許すことが出来なかった。

兼守の激しい怒鳴り声にコウキは怯えたようにビクリと肩を揺らす。

「……だって…………動かないでって言ったのに……動くから…………俺のせいじゃ…………」

親に叱られた子供の様に急に狼狽えるコウキ。

兼守は言い訳を並べて呉を見ようとしないコウキに歩み寄ると、ナイフを持つ手を掴んで強く振った。

ナイフはコウキの手を離れ、光の粒となって消える。ちょうどその時、羽黒がスイッチを見付けて部屋が明るくなる。

「呉君は敵じゃない。お前を探しに来た家族だ。……家族なんだ、お前の」

『家族』と繰り返した兼守にコウキは何かを言い掛けて口を開く。しかし、痛みに堪える少年の姿を見てうなだれた。

「………………その話は今は聞けない」

俯いたコウキの表情は見えない。

「何でなんだ。お前が探していたハルキさんのことも彼は知っているんだ。お前がずっと待ち望んでいた――」

ふるふるとコウキの頭が振られた。

「コウキ………………お前、何があった?」

コウキは涙を流すほど「ハルキ」を欲していた。しかし、彼は目の前で眩しく光る希望の糸を拒絶する。

肩を落として立ち尽くす彼の姿からはありとあらゆる負の感情を混ぜ、自身すらも混乱しているようであった。そこまで彼が取り乱す何かが連れ去られてからの短時間にあったに違いなかった。

そして、案の定、コウキは今にも泣きそうな顔を兼守に向けた。

「…………(まき)くんが……槇くんが撃たれたんだ…………藤堂(とうどう)さんに………………」

「どうして槇さんが撃たれるんだ」

『槇くん』はコウキを藤堂のもとへと連れて行った人物。

藤堂の命令を遂行した――相楽とコウキが勝手な行動をする中、槇は藤堂にとっては都合の良い人間のはずである。

「俺があと40分以内にさがさんを処分できなければ、藤堂さんは槇くんの治療を辞めて見殺しにする」

「お前のやる気を出す為だけだって言うのか!?……あの人は……狂ってる……」

そう評価しながらも、兼守の脳裏には藤堂の命令に従って冷めた目で何度も銃声を響かせた槇の姿がよぎる。裏切り者の処分に余念がない藤堂の手段を選ばないやり方も、槇の度を越した残酷さも、同じ様に狂っていると感じた。

確かに、槇の置かれた状況に心が傷まない訳では無いが、槇は藤堂の危うさを承知の上で付き合っていたはずだ。槇は相手の言い分を聞くこともなく、兼守の目の前で部下を惨殺した。槇の時だけ、相手が言い分を聞いてくれるなんて虫が良すぎる話だ。

「あ……え…………そんな……槇さんが…………」

真っ青な顔の羽黒が兼守の目に映る。

いつか痛い目を見ればいい…………そんな考えが一瞬でも浮かんだ自身に、兼守は酷く後悔した。

「このままだと槇くんが死んじゃう!俺、嫌だよ!…………それに、槇くんの次は兼守さんだ…………だから、兼守さんはここにいて!お願いだから!」

「だからってお前…………相楽(さがら)さんを殺すのか……?」

目尻を赤くしたコウキが兼守を見上げ、へなへなと座り込む。

「…………どうしてさがさんはこんなことをするの……?俺……さがさんのこと、いっぱい手伝ったんだよ?さがさんが自由になれるならって…………なのに、どうして……さがさんは…………」

「それは、僕達が家族を…………あなたを取り戻す為です」

片腕を押さえた呉が立ち上がってコウキを見詰める。身長の低い少年と床に座る青年の目の高さは同じだった。

「相楽さんは僕達に協力してくれています」

少年の口から出てくる『相楽』の名前に固まるコウキ。

軍人とは思えない少年から彼の名前が出てくるのは、相楽と少年は何らかの関係が確実にあるからである。特に上辺以上の人付き合いを嫌う相楽との関係は浅くないものだとコウキは察した。

「あ…………さがさんが協力…………そんなわけ………………」

相川(あいかわ)さんも協力してくれています」

その名前で納得がいった。相楽が今一番執着している名前だ。

「あいちゃんが……………………」

呉は血濡れた手を開く。慌てた羽黒がポケットからハンカチを取り出したが、それを呉は拒んだ。

「お察しの通り、僕は空間転移魔法です。この手を取ってくれれば、僕はあなたを陽季(はるき)さんのもとへと連れて行けます」

呉は静かにコウキを待つ。コウキは暫し、その手を見詰めると、上げようとした顔をさっと俯かせた。


「…………………………ハルキさんは元気……ですか?」


コウキが震える声で小さく溢す。

「………………はい。あなたの帰りを待っています。ずっと……」

呉は開いていた手を閉じた。両手を背中に回し、一歩下がる。コウキを警戒させないようにという配慮なのは誰もが分かった。

コウキも呼吸を深くして頷く。

「……………………ここに心残りがあるんだ」

「…………はい」

「だから、俺は……まだ帰れない」

「……はい」

「俺は……薄情な人間だ」

頭を振った呉が小さな笑みを見せた。下がった目尻に優しさが滲む。

「洸兄ちゃん、僕はあなたの行く末を見届けます。幸福も不幸も等しく最後のその時まで。それが僕の存在理由だから」

少年の穏やかな笑みがコウキの胸に染みていく。妙に渇いていた喉が鎮まってくる。石板で挟まれたかのように締め付けられる感覚のあった頭が少しだけ軽くなる。

そして、「嗚呼……」と呟いたコウキは自らがどうしようもなく焦っていたことに気付いた。視界が晴れてきて、兼守や羽黒の顔も見えるようになる。

「俺を…………見付けてくれて……ありがとう……」

記憶がなくても分かった。

手放したのは自分(コウキ)の方だと。しかし、呉は再び頭を振った。最初から答えは決まっていると言いたそうに、淀みなく左右に振る。

「始まりは僕ではありません。あなたが僕を見付けたんです」

「おれ……が…………」

「僕を家族にしてくれて……ありがとうございます」




少年が俺をじっと見詰めていた。

目尻を透明な液体でキラキラさせて、彼は俺に微笑む。

だけど、俺は彼のことを覚えていない。

覚えていないのに感謝されて……――


腹がたった。


彼を泣かせてしまった自分にとても腹がたった。

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