愛は惜しみなく与う(7)
バルコニーに腰を下ろす女性。安全柵の隙間から裸足を宙に垂らして座っていた。長い髪を夜風に揺らしながら遠くの水平線を眺める彼女はそっと耳元に手を当てる。
「こんばんは」
傍に人は居ない。しかし、彼女は頭を傾けて静かな笑みを見せながら語り掛けた。
『こんばんは…………もしかして、眠っていたかい?申し訳ない』
「いいえ。いついかなる時であろうと、あなたからの電話は大歓迎よ、アリス」
彼女は隣に置いたノートパソコンと耳に着けた小型の機械とをコードでつなぐと、通話相手の声が響く。
『オズ、早速、お願いが』
「いいわよ?ちょうどあなたにやって欲しい仕事があったし。何を知りたいの?」
『何でもする。言われたことなら何でもする。だから、今すぐ教えて欲しい。今現在、日本軍第四神域が外部から襲撃に遭っている。襲撃者は何者で、目的を知りたい』
「……………………」
画面の光を避けて海面に浮かぶ月に目を向ける。
それから波の寄せる足元を見下ろした。
黒のワンピースから伸びる白い素足を揺らす。
『オズ……?情報がないという情報だけでも知りたい。依頼料は払う』
「情報はあるわ」
『本当かい!?』
「第四域にいるのでしょう?危険よ。そこを離れて」
『無理だ。そこにいるのは僕の知り合いだ。奪われたものを取り戻す。しかし、想定外の何者かが現れた。こちらはぶつからずに済ませたいけど、そのためには彼らの目的を知りたい』
その時、小さな物音が背後から聞こえる。彼女が振り返ると、そこには金髪碧眼の少女がフリルの付いた薄桃色のパジャマ姿で立っていた。
少女はチカチカと点滅するパソコンの画面を見て肩を竦める。
オズが細い指で少女を手招きすると、こくりと頷いた彼女は音を立てないようにつま先立ちでオズの隣に座った。そんな彼女の頭をオズは優しく撫でる。
「アリアス・ウィルヘルムとそのお仲間。彼女も第四域へ奪われたものを取り返しに行っているわ」
『奪われたもの?』
「…………ええ…………………………何かは分からない。でも、あの辺りの精霊がザワついている。気を付けて。きっと今回は妥協してくれないわ」
『アリアスが軍に奪われたもの…………何かはともかく、どうして軍の……それも第四域に…………』
「私が彼女なら真っ先に中央を調べるわ。軍もそう思ったから、敢えて第四域なんじゃないかしら?これは情報ではなくて、ただの私の考えなのだけど」
『ありがとう、オズ。またあとで連絡するよ』
「ええ。あなたも取り戻せるといいわね……アリス」
そして、通信機の点滅が消えた。オズがノートパソコンを閉じると辺りは一気に暗くなり、暫くして月明かりが眩いまでに輝き出した。波にも月光が反射してキラキラと瞬く。
「悲しそう」
「……え?」
「リぜお姉様、とっても悲しそうな顔してるよ」
幼い妹の頭は低い。表情は見えない。
オズは自分の頬に触れると、小さく息を吐いた。
「さっき、私は彼の求める情報を持っていながら、彼に伝えなかったの…………」
「アリスさんのこと?どうして?」
「知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。きっとアリスは正しい判断を下せなくなる………………」
「争うから?」
「私は争って欲しくない…………二人とも目的は同じ……ただ、大切なものを取り戻したいだけなのだから…………」
「…………………………」
少女――ベルは波間に映ろう青白い光に手を伸ばした。柵の隙間は幼い彼女には十分広く、妹が落ちないようにと、オズが彼女の肩を抱く。
「あれは光る魚……?」
ユラユラと揺れる光は一匹の魚から発せられていた。
そこに二匹目と3匹目の魚が加わる。いずれも青白く発光していた。そして、違和感を感じた二人の視線は遠方へと向き、馴染み深い薄黄色の月がその姿を一変させて青く輝いているのを見つけた。
「……ベル、中に戻るわよ」
「どうして?綺麗だわ」
「そうね。とても美しい。でも、ほら、風が匂わない?」
すんと鼻先を上げたベルが目を閉じて空気の匂いを吟味する。潮の匂いに混じる青臭い匂い。天気の良い日の朝にリゼが薬作りの為に色々な種類の葉を擂鉢で磨り潰す時の匂いだ。
「…………この匂いは嵐の前触れ?ベルにも分かったわ」
「賢いのね。さぁ、もう寝ましょうか」
「はい、リぜお姉様」とスカートの裾を抑えて立ち上がったベルは素直に部屋の中へと戻っていく。
オズもパソコンを抱えると、最後にもう一度だけ月を振り返った。
すっかり青く染まった月が黒い雲に覆われていく。
湿っぽく重たい風が彼女の長い髪を吹き上げた。
「はぁ!?あの馬鹿の居場所なんて知るわけないだろ!」
開口一番にこれだ。
「この人が数少ない友達……?」
仏頂面どころか、洸祈の名前を聞いた途端に積年の恨み晴らさんと言いたげに捲し立ててきた。
初対面なのに……地味な神域と聞いていたけど、無駄に血の気の多い人の人口密度は高い気がする。
千里はこれまでの道中で出会した最初の人間が羽黒で心底良かったと思った。ファッションセンスは噛み合わないが、世話焼きだし、面倒事は嫌いと言いながら、目の前で発せられる洸祈への侮蔑の言葉から千里達を守ろうとしてくれた。根っこが優しい人間だ。
「友達?は?誰が?…………てか、羽黒。この人達誰よ?子供いんじゃん。お前、子供居たの?初耳なんだけど」
「俺はまだ独身っすよ。二人はお掃除のバイトの千さんと弟の呉さんっす。で、この人は雪之丞さんっす。安心してください。コウキさんの友達は別の人っす」
ジーンズ生地の作業着の上からファーの着いたモコモコのロングコート姿で、肩までの長髪をゴムで束ねた男――雪之丞。
見た目は二十代前半の青年。
「何?あいつに友達なんているの?」
「兼守さんっす」
「兼守さんはあいつの友達なんかじゃない!」
雪之丞が吼えた。
それにしても洸祈は嫌われ過ぎではないだろうか。
男だらけのここで『男対象の男のストーカー』はかなり気持ち悪いだろうが、自分に害がなければ無視すればよい話である。しかし、彼らは羽黒と違い、あからさまな嫌悪感を持っている。過去に直接的な害があった……?
「よくコウキさんのサボりに付き合ってあげてるって噂っすよ?」
「付き合わされてんの!勝手にやって来て、あいつが仕事の邪魔するから付き合ってやってんの!迷惑なの!」
実害があった。
洸祈との記憶は全然戻っていないが、千里は雪之丞に対して何となく申し訳ない気持ちになる。
「雪之丞?一体、誰と話して――」
「兼守さんはあっち行っててよ!」
「ん?って、あれ?あー……君は確か……………………羽黒さん?」
「え?俺のこと知ってるんすか!?うわ、感激!流石、コウキさんの友達!俺ともお友達になってくださいっす!」
ボサボサの黒髪に無精髭の鼠色作業着姿の男。取り敢えず、伸びた髪を後ろで括っただけと分かる姿と言い、身なりに関してはかなり適当な人間に見える。兼守は軍手を外し、顎を掻くと首を傾げた。
「コウキの友達……?誰がだ?」
デジャブ。
もう何度目かの反応に千里も驚かない。
「ほら言った!こっちは迷惑してんの!兼守さんも仕事してて!こいつら追い出しとくから!」
「そんな!待ってくださいっす!コウキさんのピンチなんすよ!」
「何それ、朗報じゃん」
ケラケラと愉しそうに笑う雪之丞。羽黒が拳を作って抗議するも、取り合う気はなさそうである。
嫌いな洸祈がピンチでさぞ嬉しいのだろう。
雪之丞達には実害があるとは言え、こっちは真面目なのだ。
千里も我慢の限界が来ていたその時――
「行きましょう、千兄ちゃん。時間の無駄です」
――千里に任せて大人しく着いてきていた呉が声をあげた。
嘘偽りのない素直な言葉選びの呉が、『時間の無駄』と言い切った。千里は理解していたはずの呉の本気を感じて青ざめる。そして、巻き込まれた側というのに、羽黒が力になれなかったことに苦しそうな顔をする。
「あの…………すみませんっす…………」
そんな彼の姿を見て胸を痛めたのは千里ともう一人。
俯き加減の羽黒を盗み見た雪之丞がバツの悪そうな顔をした。
「…………知らないし。あいつのことなんか……羽黒こそコウキのことなんて話もしなかったじゃん。何さ、今更…………」
肩を揺らしてこの場から逃げたそうな仕草の彼。
そして、「そう……っすね……」と呉に続いて部屋を出て行こうとする羽黒に、深く傷付いた顔をした雪之丞が。
ぎりっ……――
誰かの歯軋りが響く。
「悪かった!待ってくれ!」
雪之丞を背にして兼守が前に出た。呉が足を止めて振り返る。
「コウキはよくうちにサボりに来ては仕事の邪魔をするが………………彼には蜜柑の恩がある。協力させてくれ」
少しだけ猫背の兼守が深々と頭を下げた。
ちびっ子妖精こと、護鳥と呼ばれる魔獣の少女――琉雨の案内で到着したそこは山の中だった。
神影はレンタカーを降りて辺りを見回す。
「リトラはどこに――」
「ここです、神影」
声の主を探して自然と顎を上げる神影。上へ上へ。
首筋が痛くなるほど見上げた神影の目に映ったのは背の高い木の枝から優雅に見下ろしてくる女性の姿。そして、5メートル以上はありそうなそこから彼女は飛んだ。
神影の喉がひゅっと音を立てる。
「っ、馬鹿が!」
「馬鹿?誰が?」
「お前だ!リトラ!」
「?」
神影が噛み付かんばかりの勢いで怒鳴った。しかし、怒鳴られたリトラは神影が憤慨する理由が分からずに神影の肩に乗る琉雨に目を向ける。
琉雨は目線を逸らすように左右を見、結局、リトラに向き直って肩を竦めた。
「神影、何故、私は馬鹿なのですか?今後のためにも教えて下さい」
馬鹿げた質問――と、返したいところだが、それはリトラ以外が質問した場合だ。
彼女は至って当たり前の返しと言わんばかりの生真面目な顔で神影をじっと見詰める。神影は渋い顔をすると、くるりと背を向けて「びっくりさせんな、馬鹿」と言い終わる前に車の影に隠れた。しかし、リトラが良く聞き取れずに追いかけようとしたところで、それを阻む様に小さな影が現れた。
「雪癒」
少しだけ癖の着いた黒髪の隙間から寝起きに似たジメジメとした瞳を覗かせた少年。半ズボンのポケットに両手を突っ込んで立つ姿はひねくれた子供にしか見えないが、この場において断トツに歳を重ねた大人である。
「状況を説明せぇ」
命令口調の雪癒を止める者はこの場にいない。リトラも素直に頷いて彼らが到着するまでの出来事を話し始めた。
「アリアスの具体的な目的は分からない。でも、師匠と機械兵器がアリアスと離れた方から中に入ったから、あっちは撹乱要員だと思う」
「アリアス一人なら問題あらへんが、シアンがいるからな。怪我でもして精霊が大暴れしたら大変なことになるけぇ。だから、リクはかなり派手なことをして軍人達の目を集めるはずや。こっちも混乱状態なら侵入は簡単……と言いたいところやが、赤毛の女か」
「うん。見つかったら、きっと邪魔してくる」
『あっち』こと第四神域は雪癒達からは見えない。それも赤毛の女――アリアスの仲間の見張りから逃れる為に距離を取っているからだ。わざわざ撹乱要因を用意しているからには、見付かればきっと邪魔をしてくるだろう。見付からずに、混乱に紛れて侵入を……。
「僕の出番ですね。かくれんぼは得意分野ですから」
眞羽根が前に出た。
「せやな。リトラ、シアンの正確な位置は分かるんけ?」
「建物に入れば分かる」
「迷子にはならなそうやな。ほんで?」
じろり。
低い背丈ながらも、振り返った時の彼の瞳に宿る圧は強い。
並んで立つ青年達の覚悟を計るように雪癒は右に左にと眼球を動かした。そして、暫く口を閉ざしていた二人だったが、沈黙を破るように神影が一歩前に踏み出した。
「一緒に行く。シアンを保護する役だ」
「……………………」
雪癒は何も言わない。
残された夏はグッと顎を引いて自分以外の全員を見詰め返した。自分の意思に反して後退りしそうになる足を踏ん張る。
「多勢に無勢。俺も行きま――」
「お前さんはダメや。護鳥とお留守番や」
神影への態度とは違い、遮る様に言葉を重ねた雪癒。しかし、夏は諦めずに身を乗り出す。
「でも、さっきは……」
「お前さん、言わんと分からんのか?死にかけたお前さんは一体誰から逃げてると思ってるんや。アリアスの目的地が神域やて知ってたら許さんかったけぇ」
「その時は俺を囮にしてください!」
「お前……言うに事を欠いて『囮』やと!?っ……リトラ!こやつを崖にでも放り投げてこい!」
身支度を整えていたリトラがくるりと振り返り、夏がギクリと肩を強ばらせる。流石の夏もリトラの実力行使には敵わない。
リトラは怯えた子犬の面影を重ねる夏の表情を見て、神影に判断を任せるように立ち位置を変えた。
神影の判断は……。
「全員で行く」
「なっ……神影!付かず離れずで夏の怪我を治したんはお前さんやけぇ!せやのに、恩を仇で返そうとしてるこやつを行かせるんかや!?」
旧友である蓮の願いとは言え、寝ずに夏の治療に専念していた神影。傷を塞いだあとも、頑なに目覚めるのを拒んでいた夏に頭を抱えて思案していたことを雪癒は知っている。基本的に互いのやることなすことに口を出さない関係だが、それでも雪癒は黙っていられなかった。神影もそれを承知の上で「すまない」と小声で謝る。
「全員で行くが、誰も囮にはしない。もちろん、俺もだ」
「…………………………我は……」
「お前は俺をずっと守ってくれていた。だからこそ、夏の気持ちが分かるんだ。このまま永遠に守られる存在でいたくない。俺達は前に進みたいんだ。お願いだ。頼りなくても自分の足で歩かせてくれ」
押し黙った雪癒。言葉はなくても、夏の同行について雪癒が神影に譲ったのは分かった。
「夏は無理をするなよ。特に魔力を扱うまでのリハビリが完了してないんだから。それと、ちびっ子騎士は…………え……でかい……」
妖精サイズのはずの少女騎士は大きくて白いふわふわの毛並みの犬……ではなく、狼になっていた。何食わぬ顔で頭部を撫でる眞羽根に尻尾をゆっくりと振る。
魔獣の中でも護鳥という種類と聞いていたが、鳥の姿ではなくて狼の姿になるとは予想しておらず、神影は動揺せずに受け入れる眞羽根が何かしたに違いないと疑いの目を向けた。しかし、その答えは直ぐに出た。
「はひ。呼びましたか?」
狼の背後から現れたのは少女。けれども、羽は無くなり、ちびっ子には変わりないものの、手のひらサイズから人間の少女サイズになっていた。
「やっぱりでかいし………………その獣は……」
「伊予柑さんです。ルーの旦那様の契約魔獣です。怖くないですよ。心の温かいルーの尊敬する女性です」
狼の姿をした魔獣に『女性』とは。
神影はしっくり来ずにまじまじと伊予柑を観察したが、魔獣の琉雨もまた『女性』なのだと思い立って深く考えないことにした。
「旦那様って……手伝いに来てくれたのか?」
琉雨は『旦那様』の護鳥だ。つまり、琉雨は『旦那様』の契約魔獣。そして、伊予柑もまた『旦那様』の契約魔獣。
雪癒が好かないと言った契約主。
普通、一人の人間に契約魔獣が何体もいるものなのだろうか。
魔法使いとはそういう……ここ最近の神影の記憶にあるのは櫻の吟竜ぐらいだ。ほとんどの場合、魔法使いの名家には名の知れた魔獣がセットだが、そもそも魔獣は契約主の魔力で働く。魔獣に与えるだけの魔力がなければ、契約しても損しかない。だからこそ、魔法使いとしての基礎能力が高い名家は大量の魔力を食われるとしても、魔獣の計り知れない力を得るために契約をする。吟竜の破壊力を見ればそれは明らかだ。
そして、蓮が紹介し、雪癒が強いと言うからには、護鳥の少女は強いのだろう。その分だけ魔力を必要とするはず。狼がどれ程のものかは知らないが、護鳥とは別で更に魔獣と契約する契約主とは何者なのか。もしくは、複数の魔獣と契約するために魔獣に多重契約を強いているのか。
まぁ、裏表のない笑顔をする琉雨が『旦那様』と呼ぶのだから、強いられての多重契約ではないのだろうが。
「いいえ。伊予柑さんはルーと同じ。旦那様を探しているんです」
「探す……?」
「お前さんには聞いておきたいことがあったんやけぇ」
雪癒が会話に割り込んだ。
琉雨の助っ人を訝しんでいた彼は初対面から神影を通してでしか彼女と会話をしてこなかった。そんな彼が直接尋ねてきた。
夏は有耶無耶になったお留守番問題が雪癒の中で完全に他所に行ったことに安心するが、神影はまた新たに問題が増えそうな気配を感じて眞羽根に視線を送った。
しかし、眞羽根は狼の頭を撫でるのに忙しく、神影の熱い視線には気付かない。
「何故、多重契約しとるんけ?まさか、お前さんの言う『旦那様』は二人いるんやあるまいしのぉ?」
「はひ?」
雪癒と変わらない身長の彼女は首を傾げる。
「軍に追われる夏の護衛をしてくれるんはええ。お前さんは強いやけぇ。安心出来る。せやけど、ここからは違う。シアンを取り返しに行くんや。多重契約する魔獣も、それを許す契約主も信用ならへん。理由を言えんなら、これは蓮からの依頼の範疇外やから着いて来なくてええ。…………主の為を思うのなら、多重契約はしない。それとも、お前さんが崇め奉る『旦那様』が多重契約を望んだん言うんか?」
「確かに、ルーは多重契約をしています。ですが、それはルーの意志で、ルーが旦那様には内緒で契約をしました」
雪癒の問いに対する言い訳を語る風ではなく、彼女は淡々と真実だけを語っているようだった。
「内緒?どんなカラクリかは知らないが、確かに二種類の魔力があるのは微かにしか感じない。だけど、我でさえ分かったんやけぇ。他人の臭いに契約主が気付かない訳がないやろ」
「そうですね。気付かないで欲しいというのはルーの勝手な願いでしかありません。きっと旦那様はこんな卑しいルーのことを見て見ぬふりしてくれたのでしょう。…………ルーは旦那様との繋がりが消えた時の保険として、多重契約をしました。ルーは旦那様を守りたい。存在を名前を愛をくれた旦那様を守りたい。その為なら、ルーはなんだってします」
「我が『旦那様』の敵なら、我も殺すかや?」
「旦那様を傷付ける気なら、ルーは許さない」
静かに緋色に輝く少女の瞳。それに呼応するかのように紫色に光り輝く雪癒の瞳。
神影は雪癒の瞳の変化を過去に見たことがなかった訳では無いが、少ない例に基づくと、雪癒の瞳が光るのは感情が高ぶった時。それも、怒りの類の感情で、だ。つまり、雪癒は琉雨にかなり怒っている。かつ、琉雨も雪癒にかなり怒っている。しかしながら、それこそが『琉雨は旦那様を敬愛し、旦那様の為に行動する』の証拠であり、多重契約は決して旦那様を害する目的ではないことが分かる。
ならば、雪癒に変わって神影が琉雨に訊ねることはあと一つだけ。
「もしも……万が一、お前が多重契約によって暴走してしまった時、お前はどうする気なんだ?」
彼女が旦那様を守るためだけに多重契約をしたとして、暴走のリスクは変わらず付きまとう。保険と言うからにはもう一人からの魔力の使用は必要最低限なのだろうが、『旦那様を探している』発言から察するに、彼女は今現在、その保険を適用しているのではないだろうか。
「ルーが旦那様の敵になる時は、伊予柑さんが旦那様を守るためにルーを排除します。そう契約を結んでおります」
「え…………」
「ルーは旦那様を守ります。その為ならば、手段は選びません。もしも、ルーが旦那様を守れない時は、ルーが旦那様を傷付けてしまう時は、ルーは琉雨を許しません」
『伊予柑さん』とは、お座りをした状態でも琉雨よりも背が高い狼のことだ。そして、同じ契約主を持つ同胞。いざという時は、この狼が彼女を……――
「旦那様が近いんだね?なら、一緒に行こう。琉雨」
「リトラ!勝手に決めるんやないけぇ!」
「うん。でも、私もシアンに居場所を、生きる意味を貰ったんだ。だから、シアンを守りたいんだ。何に代えても。琉雨の気持ちが分かるから、途中までになると思うけど、一緒に行きたい。それと、シアンを安全な場所まで連れて行けたら、私も琉雨の旦那様探しを手伝うから。雪癒、神影、ごめん」
「俺は…………別に構わない」
リトラがここまで自己主張したことなど今までなかった。リトラからは師匠ことリクへの矢印しか出ていないと聞いていたが、説明し難い固い絆とやらがリトラからシアンへ繋がっているのかもしれない。
それに、嘘のない覚悟を琉雨の中に見た神影は反対する気は既になかった。
そして、残る最難関の雪癒は――
「リトラが居らんとシアンを探し出すのに時間が掛かる。ただし、我らの動きの邪魔になる時は、我は『旦那様』の敵になるからな。リトラもや!シアンの奪還がお前さんの最優先や!ええな!」
「うん。ありがとう、雪癒」
ふん。
鼻を鳴らした雪癒は一人で歩き出した。慌てて夏が着いて行く。狼も何食わぬ顔で立ち上がり、雪癒を追い掛ける。その様子を眞羽根は観察するかのようにじっと見ていた。
「雪癒は誰かに協力を頼むような性格ではないんだ。寧ろ、一人で抱え込む奴だ。だから、お前が気にすることじゃない」
「いいえ。ルーが我儘なんです。伊予柑さんにも言われました。いっぱいいっぱい欲しがってるって………………でも、最後まで欲しがらずに諦めたから、ルーは何もかもを失くした。失くしたことも忘れて、自分が空っぽであることも分からなくて。旦那様はそんな欲しがりのルーを拒絶するかもしれません。ですが、旦那様に出会うまで何者でもなかったルーにとって、拒絶されること以上に忘れてしまうことの方が怖いんです。どんな繋がりでも構いません。繋がってさえいれば……」
「その気持ちなら俺も分かる。…………いつかは失う。だけど、そのいつかなんて誰にも分からない。まだ手を伸ばせるなら、奪う気持ちで欲しがればいい。いつか本当に失った時に後悔しないように」
小さくなる雪癒の背中。琉雨の背中を押した神影は「頑張れよ」と言ってリトラに着いてくるよう目で促した。