愛は惜しみなく与う(6)
「はぁ…………寒いねぇ」
赤茶の髪に緋色の瞳。青年は白い息を吐き、遠くの山々を見詰めた。
チチッ。
窓枠に座る彼の傍で緋色の小鳥が鳴いた。彼は小鳥を見下ろすと、人差し指を近づけ、小さな頭に触れた。赤に浮かぶ黒色の瞳が気持ちよさそうに閉じられる。
「寒いけど…………美しいねぇ」
チチチ。
軽やかに囀る小鳥と柔らかく微笑む青年。
そして――
「コウキさん」
「おはー。今朝振りだね、嶺さん」
穏やかな朝を満喫する彼らを見て立ち尽くす嶺がいた。
えんじ色のジャージに黒色のウインドブレーカー。屋根へと姿を消した今朝と同じ格好。
「危ないですよ」
「高いとこ好きだから平気」
コウキは窓枠を掴んで細い足場の上に立っていた。
下は裸足で、爪先は赤い。
「何故ここに?」
嶺は逸る鼓動を抑えながら平静を装って訊ねた。出口へと続く道を塞ぐように立つ。
「え?だから、高いとこ好きだか――」
「ここは相楽さんの部屋です。勝手に入ったのですか?」
「だって気にならない?さがさんの部屋って。ま、なんにもなかったけど」
確かに、彼の私室は殺風景だった。机と椅子、ベッド、以上3点。
殺風景どころか、生活感が一切ない。あるのは元からあった備え付けの家具だけだ。
これが本当に相楽さんの私室なのか?
嶺は相楽がこの部屋で何を思い過ごしていたのか、ふと興味が湧いた。
「つまんない部屋だよね。でも、窓からの景色はいいから、のんびりさせてもらってた。ところで、嶺さんこそ何しに来たの?さがさんの部屋に勝手に入ってさ」
「あなたを探していました。コウキさんの部屋にも、相川さんの部屋にも行きました。念の為に相楽さんの部屋にも来れば、鍵が開いていた次第です」
「嶺さんは勘がいいね。賭け事とか強いんじゃない?」
「賭け事はしません」
「そうなんだ」と呟いた彼はポケットを探ると、何かのパッケージを取り出し、中からクッキーらしき物を取り出して咀嚼した。
探しに来たと言ったのに、彼は全く気にしていない様子だった。
腕輪をしてついてきてくださいと素直にお願いするか?
それとも、無理矢理…………。出来るのだろうか。
手に持った巾着が重たい。
「あの……」
「藤堂さんはさがさんを処分しろって言ったの?」
唇からチラと覗くコウキの前歯がクッキーを砕く。
そして、彼は手に残った欠片を小鳥の傍に撒いた。
「いいえ。そこまでは言いませんでした。ただ――」
「なら、俺を探してたのは嶺さんじゃなくて藤堂さんか」
「……はい。あなたを藤堂さんのもとへ連れてこいと命を受けました。ですが………………」
相楽を処分するとは言いはしなかったが、藤堂は許容範囲外とは言った。何らかの罰を与えるのは間違いないだろう。ならば何故、今、彼はコウキを欲するのか。答えは、それが相楽への罰に繋がるからだ。
弱らせたコウキを使って彼は一体何を……。
「コウキさんは誰の味方なのですか?」
藤堂さん?相楽さん?
コウキは視線をこちらに向けると、優しく微笑みかけてきた。
「変なこと聞くなぁ、嶺さんは。俺は俺の味方だよ」
「……………………誤魔化していますか?」
素直なコウキの素直な回答――そう思いたいが、もう無理だ。
何故なら、氷柱が垂れるこの空間で彼は『のんびり』しているからだ。
相楽が軟禁されていた部屋を無断で出て、この結界の中で強引に魔法を発動させた。敷地内をは大きな冷蔵庫と化し、異様な光景が広がる。それはどう言い訳をしても裏切り行為でしかない。そもそも、相楽が言い訳をするとは一切考えられないが。
「どうして?」
おかしな人だ、と言いたそうに喉を軽やかに鳴らすコウキ。
しかし、嶺が決して目を逸らさず、返答もしない姿を見てか、両端の吊り上がった唇を元に戻した。
端正な容姿と愛嬌のある目尻に勘違いしそうになるが、やはり彼の目は笑っていない。冷たい氷のようだ。
「俺が誰の味方なんてどうでもいいじゃん。ただ、俺は藤堂さんの飼い犬。藤堂さんにとってはそれだけでいいんだよ。聞き耳立ててたんだから、知ってるでしょ?」
「ならば、飼い犬とはどういう意味ですか?」
コウキの目から精気が失われた。隠しもせずにじっとりと不快なものを見る目をする。そして、彼は徐に上着のジッパーを下ろした。
ジャージの下はノースリーブの下着で、見えてきたのは彼の腕と肩。
それだけで彼の立場は分かった。
「………………………………もういいです。十分です」
彼は藤堂さんに鎖で繋がれた犬で間違いない。
コウキは直ぐにジッパーを顎の下まで上げた。
「コウキさん、これを付けてください。そして、私と一緒に藤堂さんのところまで来てください」
もう迷う必要はない。
嶺は巾着からひんやりと冷たい黒く輝く腕輪を取り出した。無知ではないコウキが睨んで来る。
「俺、嶺さんのこと嫌いじゃないし、苦痛だって、藤堂さんの愛情表現とか曲解すれば嫌いじゃない。だけど、それはヤダ」
「藤堂さんの命令です」
「それをすれば、俺は動けなくなる。嶺さんも大の男を背負うなんて嫌でしょう?」
「コウキさんは軽いですよ」
コウキは嫌がっている。だけど、嶺も退けない立場にいるのだ。
「…………嶺さんと喧嘩はしたくない。だから…………嶺さんっ、伏せて!」
目を見開いて背筋を伸ばしたコウキが声を荒らげ、窓枠から飛び降りた。そして、彼は嶺を目掛けて走ってくる。
嫌だと言っていた矢先にこれである。
驚きに我を忘れて立っていると、とうとう彼が目前に迫り、嶺の頭を抱き抱えて蹲った。体重をかけられて、ついしゃがんでしまう。
「なっ、なんですか!?」
その時、凍てついた爆風が身を包み、コウキごと背後へと転がる。コウキの言葉で構えていたが、予想外の強さで倒れてしまった。コウキが「ごめん」と嶺の胸の上で謝ってくる。
「今、何が……相楽さんですか!?」
「違う。さがさんのせいにしたいんだろうけど、これはさがさんじゃない。第三者だ」
「第四域が外部から襲われてるということですか!?」
外が騒がしい。
相楽の魔法は威力も範囲も大きい。しかし、いくら寒かろうと、厚着をすればどうにか耐えられる。けれども、今のは直接的だった。居住区画の窓が割れる音がし、遠くの方で微かな悲鳴も聞こえた。
窓から下を覗き込めば、警備員がわらわらと集まっている。
「このタイミング……相楽さんの協力者……?コウキさん、何か知って――」
嶺が振り返ると、そこにコウキの姿はなかった。
ただ、一羽の小鳥がチチッと鳴いて嶺を見上げていた。
「嶺です」
『さぁ、報告してくれるかい?今の音は何だい?』
「…………分かりません。コウキさんは相楽さんとは別の者が襲撃に来たと」
『そうか。なら、放浪癖のある猫の方は捕まえてくれたのか。仕事が早いね、嶺は』
正直に報告をしてから過ちに気付いた。
これでは、『猫』が見つけられないどころか、見付けたにも関わらず、逃してしまったことがバレてしまう。
「…………………………………………申し訳ございません。先程の混乱に紛れて見失ってしまいました」
『一体、あの化け猫に何を吹き込まれたんだい?君は愚かな程空っぽなんだから』
「…………………………探します」
馬鹿にされているのは分かる。分からないほど、空っぽではないからだ。
目の前にいる訳では無いのに、嶺は藤堂の声に自然と体が強ばるのを感じた。口腔内の渇きも意識させられる。
『いや。君は音の方を頼んだよ。コウキは別の者に捕まえさせる。猫好きよりも猫嫌いの方が適任のようだからね』
「私は…………」
彼を探すのに適任――ではない。どうしてもコウキを疑っても憎めないのだ。
その理由が、俗に言う可愛い顔だからではない。コウキは追求をすればする程、彼は風に煽られる蝶のようにヒラヒラと躱してくるが、時々揶揄うように使う含みのある言い方の奥底に、深い悲しみが見えるからだ。
『何者で目的は何か。必要とあらば殺しても構わない。それが出来るのならね』
「………………了解しました。引き続き、支障のない範囲でコウキさんも探します」
『その余裕な返答の前に、君は猫を逃した自分の姿を見るといい』
プツ。
無線を切った時の雑音が鼓膜を叩いた。
葵は処分場を抜け出したところで、呆気に取られた。
細い通路を抜けると、まるで別世界だった。
「これは……」
壁には霜が這っており、氷柱が天井から下がる。曇る電球は周囲をぼんやりと照らしていた。残暑の季節に暖房が急速稼働しているが、一度水に浸かっているため、冷気で冷やされた衣服が背中に触れる度に、氷の欠片を襟首から入れられたような気になる。もしくは、真冬日にベッドに腰掛けた千里が裸の俺の背中に触れた時みたいな………………耳が熱い。
葵は思わず耳を塞いだ。
しかし、耳に付けた通信機はお構い無しに音が鳴った。
『葵君、千里君達は無事に処分場を脱出できたよ。ただ、職員に見付かって、今はアルバイトって体で凌いでるところ』
「あ……………………え?」
千里は恋人である葵の贔屓目なしに見目麗しく目立つ。かつ、出自も特殊で、『櫻』が有名なのは当たり前だが、一族前代未聞の軍学校中退の落ちこぼれ。しかも、現当主を差し置いて『櫻』の象徴でもある吟竜の主。千里の存在は軍関係者であれば噂ぐらいは聞いたことがあるだろう。
そんな千里をアルバイトと勘違いしてくれる職員とは。
蓮の言葉に偽りはないと漠然と信じる葵は、一緒にいるはずの呉が機転をきかせてくれていると願った。千里もいざと言う時は口がよく回るし。
『今も千里君がトンチンカンな武勇伝を聞かせながら、社員食堂を案内をしてもらっているから、合流は後にしよう』
「…………え!?」
『そこから左、右、右で上への階段がある。上は地下駐車場だから人も少ないだろうし、隠れる場所もある。それに、各棟に繋がっているからね。目指すは居住区だ。まずは彼の部屋を探そう。良く朝寝坊をすると言っていたから』
「はい」
その情報は洸祈の元同僚にあたる相川幸徳からのものだ。集合時間になっても現れず、同じく同僚の相楽には憤慨され、部屋まで相川が起こしに行くことが多々あったらしい。
異世界に迷い込んだのではと勘違いしそうな氷雪の建物の中でまだ寝ていられる程に図太い神経なのかは怪しいが、少しでも可能性の高いところから探すのは当たり前だ。
葵は蓮の指示通り、居住区を目指すことにした。
途中、案内板もあり、居住区へは難なく着くことが出来た。
部屋番号と同じ形と色の扉がズラリと並ぶ通路。そして、階段。
『彼の部屋は三階の316。部屋の利用率は低いが、死角になるものが少ない。無人と判断したら、あまり長居はしないで』
「はい」
そう返事をした瞬間だった。
全くの余震もなく、不意に階段を踏む靴底を通して、体が微かに浮くのを感じた。同時にガラスと思われる破砕音が廊下に響く。個室の窓が続々と割れた音だろう。
葵は手摺を掴むと姿勢を低くし、振動に耐えた。
『葵君っ、千里君達の方で何か爆発する音が聞こえたって……』
「こちらもです。窓が割れる音もしました。かなりの振動も」
『なら、君の方が爆発の原因に近い。人も集まってくるだろう。少し離れた方がいい』
「コウキさん!どこですか!」
「!?」
2階と3階とを結ぶ踊り場にいた時だった。その声は上の方、4階もしくは5階の方から聞こえた。
足音は一名分。成人男性。
『今の、洸祈って言ってたよね!?』
「は、はい!」
葵は高鳴る鼓動を抑えて上階へと音を立てずに登る。
そうして4階の様子を探ると、視界の端に確かに赤毛が見えた。そして、直ぐに消える。
葵は慌てて階段を上がり、廊下を覗くと、えんじ色ズボンと黒色の上着の裾をはためかせて走る人の後ろ姿が。裸足なのか足音はなく、直ぐに突き当たりを曲がって見えなくなった。
『葵君?』
「………………多分、洸祈を見ました」
『え!?』
自分の詳しい位置を伝え、人影の消えた方向を伝えると、蓮は「研究棟か」と呟く。
「コウキさんを探してください。ですが、見付けても手を出すことはしないで下さい。私が行くまで引き止めて頂ければ、それで結構です」
1つ上の階――5階から先と同じ男性の声。他人の気配はしない為、通信機の類だろう。
「私は爆発の方に向かいます。大人しかった相楽さんが行動し始めて直ぐ…………やはり偶然とは思えない。相楽さんに協力者が……?一体、何を考えているのか。いえ、よろしくお願いします」
コツコツと靴音が近付いてくる。
階段と廊下しかないここで、呑気に降りてくるのを待つのは危険な行為でしかないが、貴重な情報源である。葵はギリギリまで堪えると、気配を殺して洸祈らしき人影を追って走り出した。
「蓮さん……」
『ああ、聞こえたよ。彼らの誤解は程なくして解けることだろうし、訂正は不要だが、寧ろ僕達には好都合じゃないか』
「はい。ですが、それは長引かなければ、です。長引けば、本部から応援が来るでしょう」
『そうだね。彼はどこへ行ったと思う?』
「洸祈も追われているようでした。相川さんが裏切り、相楽さんが動き出したことで、彼も疑われたに違いありません。しかし、外へ逃げるのは難しい。ならば、取り敢えずは隠れるでしょう。俺も魔法が使えれば…………」
『相楽が現場の錯乱と索敵防止の為に力技で魔法を使っているとはいえ、君が魔法を使えば、結界で直ぐにこちらの位置がバレてしまうよ。まぁ、荒手の動きによるけど』
「分かりました」
地道なのは分かっていた。
しかし、洸祈が内部からも追われる立場で、逃げ隠れている状況なのはかなりマズイ。蓮が監視カメラの情報から神域の地図を7割程は作成したが、カメラの死角は不明だし、奥まったエリアは把握出来ていない。
そして、カメラは計画通りに相楽の魔法で全て破壊された。
カメラは葵達が自由に移動する上で一番の障害だった。強力な結界があるからか、外の警備を除くと、中の人口密度はかなり低い。主な機能も魔法研究と内部監査で、研究者は研究に付きっきり、内部監査官は大抵外に出ている。カメラを制御する手もあったが、後にデータが残るのを避けるために相楽の魔法の巻き添えを食らった体で破壊した。
カメラが使えない今、洸祈や他の軍人達と比べて、初潜入の葵達がかくれんぼの鬼役を務めるのは分が悪い。しかし、洸祈が隠れるとすれば、カメラを避け、人気のない場所を選ぶだろう。蓮も葵と意見は同様で、ひとまずは洸祈の走って行った方向を中心にして地図の外と倉庫等の無人の部屋を探すことにした。
その時、彼はハッとした。
目を丸め、口をポカンと開き、背筋は伸び、肩まで上げた両手を硬直させる。ティーカップを落としはしなかったが、もう片手のフォークはカランと音を発ててテーブルに転がった。
隣で俯いていた呉が今にもくっついてしまいそうな瞼をしょぼしょぼとさせながら見上げる。
「どうかしましたか?」
「いや、どうもするよね!?」
「?」
「なんで僕達、ケーキ食べてんの!?」
驚愕の事実に今気付いたと言わんばかりの悲鳴を上げた千里。呉はテーブルの上に組んだ腕を乗せると、ため息を吐いて、再び俯いた。
「いつ来てもここのガトーショコラは美味しいっすね!呉君も遠慮しなくて良かったんすよ?あ、もしかして虫歯っすか?」
「僕は生まれてこの方、虫歯とは縁がないんです。ただ、お腹が空いていないので。なので、僕に遠慮せずにゆっくり食べてくださいね、千兄ちゃん」
普段と変わらない感情の乏しい声音の呉。だが、一瞬だけ千里に向けてきたのは冷ややかな視線だった。
呉が静かに呆れている。
千里は青ざめると、フォークを握り直してケーキを口の中へと掻き込んだ。
いつもなら苦しい状況でも葵のフォローが入るため、千里の体裁がなんとか保たれていたが、今は呉との二人きり。千里のだらしない姿が包み隠さず呉に見られてしまう。
「ぼ、僕達行かなきゃ。これ以上サボってたら怒られちゃう」
「なんでっすか!これからなんすよ?俺の愚痴タイムは!」
空の食器の乗ったお盆を手に立ち上がろうとした千里の腕を羽黒が掴んだ。
「ええ……」
羽黒が話好きなのは食堂でスイーツを食べる時まで一呼吸も置かずに延々と自分語りをしていたことから分かっていたが、まさか、未だに上司への不満を語っていなかったとは。生年月日と星占いの話辺りから千里の耳の機能は自動的にシャットダウンしていたために気付かなかった。
呉は頭を幾らか揺らした後、居心地の良い体勢を見付けたのか、小さな寝息を立て始めた。
まだまだ時間が掛かると察して睡眠に入った様子である。
「それに、どうせ研究棟がヘマしたせいでこんな冷凍庫みたいになってるんす!機械類もどれもこれも故障しちゃったし、カメラも動かない。今日くらい掃除をサボったってバレないっす。俺も夏休み明けの上司にコテンパンに言われて……俺に文句言う前に、監査室の白衣のオッサンと研究棟の気取ったインテリメガネオタク達に文句言えって話っすよね!?」
――なんなの?こいつ。口から先に生まれたに違いないね。まぁ、ぼく達にとっては良い情報源だったけど、ずっと聞いてる訳にもいかないし。メールでも来たっていう風にして逃げない?――
氷羽の提案に千里が石油ストーブの傍に置いたリュックから携帯を取り出そうとした時、通信機から『ちょっと待って』と言う蓮の声が聞こえた。同じ声を聞いた呉も顔を上げる。
『監査って内部監査の事だと思う。だとしたら、崇弥洸祈がいるところだよ。それとなく話題を逸らせないかな?』
「…………やってみます」
食堂の隅で暖を取りながら、千里達と同じくサボっているらしい職員を指さして「監査室の白衣のオッサンってあの人のこと?」と訊ねると、羽黒は肩をビクつかせて「お、オッサンだなんて思ってないっす!」と慌てて釈明した。しかし、千里が指したのはその場に居合わせただけの適当な職員だ。監査室の白衣のオッサンである偶然は起きない。白衣でもないし。
羽黒は驚いた職員と目を合わせると、千里の言う者が全くの別人と分かって胸を撫で下ろした。
「監査室の室長っすよ。藤堂さん。あの人ホントおっかないっす!影で珈琲ヤクザって言われてるんすよ!」
「コーヒーのヤクザ?コーヒー好き過ぎて迷惑がられるくらい拘り強い人?」
「コーヒー憎んでいて、コーヒーを部下に淹れさせては遠慮なくゴミ箱に直で捨てる人っす」
「何それ。僕ら清掃員の敵じゃん。怖い。ヤクザじゃん」
「掃除のおばちゃんが、熱々のコーヒーに耐えられるように、ゴミ箱の袋は分厚くて丈夫なビニール袋にしたって言ってたっす」
「会いたくないなぁ…………監査室の人って皆ヤクザなの?」
勿論、藤堂と言う人間の印象は真っ黒だが、それよりも流行る心を抑えつつ、千里は監査室の話題を掘り下げようと試みる。
「そうっすねー…………ヤクザと言えば、相楽さんっすよ!」
それは知っている。
「相楽さんなら知ってるよ。いっつも僕のこと親の仇みたいに睨んでくるもん」
「え…………千さん何したんすか!相楽さんは食堂のおばちゃんとか他部署の俺らとかには丁寧なのに、監査室の同僚相手だと人が狂ったみたいに口が悪くなるって。クソとかゴミとか死ねとか言うって。まぁ、噂でしか知らないんすけど」
間違ってはいない。それどころか、噂以上に口が悪いことも千里は知っていた。ついうっかり出そうになる相楽への恨み辛みの言葉を飲み込み、千里はどうにか冷静になる。
「僕が洸と仲が良いから嫉妬してるんじゃない?」
「コウって…………あのコウキっすか?そりゃあ、相楽さんに睨まれるっすよ」
『誘導が上手だね。ありがとう、千里君』
上手い具合に話が進んだ。千里は「なんで?」と聞き返す。
「相楽さんのストーカーだからっすよ。友達の千さんに言いたくはないんすけど、怒った相楽さんに対して『今日も切れ味抜群。もっと罵って良いよ』って言ってたらしいっすよ。あの相楽さんが若干顔色悪くしてたって。マゾって噂があるし……友達なのにすみませんっす。逆に、コウキさんってどんな人なんすか?」
「え…………えと……」
相楽のストーカーが洸祈?マゾ?頼れるお兄ちゃんな性格をイメージしていた千里だったが、衝撃の言葉に返答が出てこなくなる。
しかし、
『崇弥洸祈は程度は分からないが、マゾで間違いないよ。僕の過去のカルテを見る限り、崇弥は痛みを愛情と感じているようだ。これ以上、同意なしに彼の性癖を晒すのは避けるけどね』
――ヤブ医者め。存分に晒してるじゃないか――
氷羽は千里にだけ聞こえるように言うが、葵に対して虐めたい衝動を抱えている千里は背筋を嫌な汗か伝うのを感じた。
葵も後ろめたさがありながらも痛みにも快楽を感じていることを千里は知っている。
血の繋がった兄弟なのだ。
崇弥洸祈にそのケがあっても、おかしくは無い。
ただ、洸祈と言う人間が見えなくなってしまった。なんと返せば、『仲良し』を維持しつつ、怪しまれない回答を出来るのか。
――彼はね、寂しがり屋なんだよ。だから、自分に意識を向けてくれるのなら、それが歪んだものだとしても構わない。もし、何もせずとも構ってくれる人なら、きっと、欲しがりの甘えたになる。大きな赤ちゃんさ――
「甘えただよ。こう見えて僕、世話好きだから」
普段、葵に世話をしてもらっているが、夜の情事の最中は葵の世話をしていると考える千里は、呉の疑う様な目線に胸を痛めながら大きく息を吸った。
「あ……千さん、お兄ちゃんっすもんね!」
「ねぇ、羽黒さんは洸と話さないの?羽黒さんならきっと好かれるよ」
「…………いや、ああ見えてコウキさんも監査室っすからね。俺、男に甘えられるのも、相楽さんに睨まれるのも、監査室に目を付けられるのも遠慮したいんすよね。セキュリティセンターは別枠って良く皆が言うけど、絶対、窓際っすから。俺はここで穏便に過ごし、一秒でも早く他の神域に異動したいんす」
「監査室に目を付けられるとクビになってしまうんですか?千兄ちゃんも?」
これ以上、この話題での会話は難しいかなと千里が思っていると、呉が横から口を挟む形で会話を続けようとしてくれた。
「千さんは大丈夫っすよ。監査室は内部監査室で、俺達軍関係者の裏切り者を探すところっすから。外部の人は監査対象外っすよ」
「内部監査って……嫌な仕事だね」
「まぁ、しゃーないっすよ。うちは人が多い上に閉鎖的なんで、誰の目も届かない場所で変なのが出来てたりするんすよ。ほっとくと癌みたいに至る所に転移して悪さするようなやつっす。悪化する前にそれを見付けて、誰かが取り除かないと。そのせいで、仲間にすら嫌われちゃってるんすけど。あ、俺は内部監査室の人だから嫌いじゃなくて、単純にあそこの人達の性格が苦手なだけっすからね?」
「…………まぁ、今は僕も洸と喧嘩中みたいなものだし……」
「え?」
羽黒が首を傾げる。
「前は仲良かったはずなんだけどね…………今は違うみたい。僕に会ってくれない。何を間違えたのかな……」
「千さ――」
突然、低い破裂音と共に地面が揺れた。
羽黒が椅子から転げ落ちそうになり、咄嗟に呉が腕を伸ばした。そんな彼の小さな頭を千里が胸に抱き抱える。
調理場で働く年配の女性達は息付く間もなく火の始末を終えると、料理や食材を守り、食堂に集う客達に「大丈夫ですか?」と声を掛ける余裕を見せた。
揺れも直ぐに収まる。
「っ、何なんすか!研究棟の人達マジで許さないっすよ!ここを破壊する気っすか!」
「今の…………地震……?」
「いえ、今のは音の方が先だったと思います。どこかで爆発があり、揺れた――ではないかと」
千里の腕から顔を出した呉はボサボサの髪を更に乱雑にしながら千里の顎の下で喋る。食堂でサボっていた他の者達もこの状況に困惑しているものしかおらず、事前に分かっていたものはいないようだった。
『千里君、居住区側で爆発だ。僕達以外の侵入者がやったようだ』
「は!?侵入者!?こんなド派手な!?そいつら何考えてんの!?」
千里は呉を盾にして無線機に小声で怒鳴る。
水責めに逢いながらどうにか潜入出来たと言うのに、どこかの誰かが盛大な登場をしてくれたのだ。その誰かのとばっちりで千里達も危うくなる可能性がある。
『侵入者の目的は分からないが、それとは別に葵君が崇弥らしき人影を見たようだ。研究棟方面だ』
「ホント!?僕達も行かなきゃ!」
呉が肩越しに千里と目を合わせて頷く。
「ねぇ、羽黒さん!僕達もう行かなきゃ!」
「え!?どこにっすか!?」
「洸のとこ!」
「コウキさんなら大丈夫っすよ。凡人の俺達と違って、監査室っすよ?食堂にいた方が安全でしょ!てか、怖いんで一緒にいて欲しいっす!」
羽黒は服の趣味しかり、かなりオープンな性格だとは感じていたが、跪きながら両腕で呉と千里を抱き締め、涙を呉の胸元に擦り付ける様は開放的と言うより、全てをさらけ出して丸裸状態に近かった。
呉が棒のように固まって動かなくなる。
「俺だって上司が許可してくれんなら、今すぐ早退して夏休みしたいっすよ!でも昨日、珈琲ヤクザが俺の上司のパソコンをバットで破壊し尽くしたんすよ!夏休み明けで出勤したら粉々のパソコン!俺、理不尽に怒鳴られる前に逃げてきたんす!休みくださいなんて絶対に言えないっすよ!だから、俺と一緒にいて下さい!お願いっす!!」
もしも、軍人として、同僚としてこの場に居たのなら、千里は他人とは思えなくなっていた彼と一緒にサボりを決めていただろう。しかし、千里の目的は親友を探すこと。
「………………でも、僕は――」
「なら、俺が『それ』をここへ連れてこようか?ちょうど珈琲ヤクザから命令が入ったし。まぁ、無傷で、は保証出来ないけどね」
派手な金髪と思いきや、頭頂には黒髪が混じる。下がった目尻に人懐っこい笑みを浮かべる男。しかし、黒色の瞳の奥は氷のように冷えているのを、千里は男に見下ろされながら感じた。
見た目、20代後半。黒色の制服の胸元には銀色の五芒星が光る。
相楽と同じ匂いがする。千里は普通の軍人ではないと察した。
「……誰?」
「あ……この人は……」
「槇だよ。監査室にいる」
「そ、そうっす。あ、あの、槇さん。珈琲ヤクザは俺が付けたんじゃないっすからね?」
「知ってるよ、そんなこと。だって、俺が付けたんだから」
「ねぇ、『命令』って?洸をどうするつもり?」
じろり。
羽黒から見えない位置で、確かに槇は負の感情を乗せた視線を千里に向けた。
――なんか嫌な奴……――
氷羽が警戒し、千里の胸は徐々に高鳴っていく。
「あ、こう見えて、俺達はコウキさんと茶飲み仲間なんす!ほんのちょっとだけ心配っていうか。藤堂さんはどうするつもりなのかなって。あはは……」
弱々しく笑いながら、槙の視線を逸らさせる羽黒。槇も千里に背を向けて羽黒に向き直る。羽黒が槇から千里への興味を遠ざけようとしたのは千里も分かった。それは千里を邪魔する為ではなく、千里を何かから助けようと言う感情からなのも。
「『あれ』に茶飲み仲間なんていたんだ。残念だけど、俺は『あれ』と同じテーブルにつきたくはないね。気持ち悪い」
「……………………そうなんすねー……」
「唯一マトモだった相川がいなくなって、相楽のこの暴走っぷり。言われなきゃ何も出来ない嶺と頭のおかしな『あれ』。保護者のいないガキの集まりだ。藤堂は相楽を処分したがっている。だけど、相楽は力だけはある。クソガキが力を持つとこーなるわけだ。で、藤堂はコウキを俺に探すよう命令してきた」
「あー……槇さんは相楽さんを探さないんすね」
「相楽の処分は『あれ』にさせるのが効率的だろ?」
槇が腰のホルスターに長い指を滑らせ、羽黒がぎこち無い笑みを強ばらせた。彼の背中が千里の腕に触れる。
千里は唾を飲み込むと、ぐいと羽黒の肩を後方へと押して強引に槇の目前に入り込んだ。氷羽が『ちょっと、やめた方が……』と言うが、散々な思いをしてばかりの羽黒を放っておくことが出来なかった。大元の原因は千里達にあるのだし。
「あのさ、別に連れてこなくていいよ。僕が先に洸を見付けるから。あと、本当に口悪いね。クソガキって呼んでる相楽さんと五分五分だから」
「は?」
「行こっ、羽黒さん!」
ふんっ!高い鼻音を鳴らした千里はそっぽを向くと、羽黒と呉の手を取って、大股で歩き出した。呉は眠たそうな瞳のまま、小走りでついて行くが、羽黒は「あ、ちょっ、えっ、そんな、え、まって」と、何もかも理解できないまま千里に引きずられて行く。そして、槇を置いてきぼりにして食堂を後にした。
「槇さんはヤバいっすよ!」
「なんで?僕は嫌い。チャラ男とかヤンキーとか嫌い」
「機械室の件を知らないっすよね。どちらかと言えば俺達みたいな非戦闘員に対して、槇さんは処分対象だからって…………同僚達の目の前で撃ち殺したんす。昼休憩中の機関室に入ってきて、誰も何も言う前に、バンって。それも、至近距離で何回も。倒れた後も。辺り一面血塗れで…………最後が『掃除呼んで片付けさせてください。作業の邪魔になるでしょう?』って。…………そういえば、相楽さんが毛嫌いしてるって噂が……………………そんなことより、ああ、もう!コウキさんを探すっすよ!で、俺は夏休み取るっす!てか、有給全部消化するっす!」
「…………ありがとう……」
「コウキさんの居場所はあの人に聞けばいいんす。千さんみたいに数少ないお友達っすからね。きっと知ってるっす!」
――トモダチ……ね――
今、僕の胸がちくりと傷んだ。
違う。
氷羽だ。
早く洸を見付けないと。これは僕の焦り。
家族を取り戻す。これは僕の決意。
洸くんはぼくのものだ。これは氷羽の執着。
だから、洸くんは誰にも渡さない――――これは氷羽の嫉妬。
そして、狂おしい程に深い感情。
まるで氷羽から洸祈に向けられる憎悪を孕んだ愛情。
僕はきみのこの想いの理由を知らない。