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啼く鳥の謳う物語2  作者: フタトキ
あなたと共に歩む
388/400

愛は惜しみなく与う(5)

言うなれば、それは氷雪の城。

白く凍りつき、静寂に満ちた城。


城を見下ろせる高台に、黒服を纏う男女が立っていた。


「これは…………どうなっているんでしょうか?」

裾の長い黒衣を翻した茶髪の青年――リクは顎に手を当てて目を細めた。紅茶色の瞳が、周囲の緑から不自然に浮かぶ建造物を見る。

そんな彼の隣には、黒髪黒目、タイトな黒服と黒ズボン、黒ハイヒール、リクと同じ高身長の女がいた。名をアリアスと言う。

月葉(つきは)。どうだい?』

アリアスは同じく全身黒ずくめの赤毛の女に訊ねた。

「結界はあるわ。でも、抑えきれていないみたい」

腕を組んで答える月葉。

そもそもここは結界によって、存在を隠されていた。しかし、今回、結界で抑えきれなかった魔法によって敷地内は霜に覆われ、壊れ掛けのテレビのように、見る者の視界にはノイズが走っていた。

「俺達以外に彼を探しに来た人達に先を越されたとかですか?」

普段の状態ではないのは確かだろう。

リクの空いた手を黒いワンピースにパンプスの少女が掴む。リクは少女を見下ろし、空いたもう片手で少女の頭を撫でた。少女は長い睫毛に緋色の瞳を隠して満面の笑みを浮かべる。

『ふむ…………まぁ、いい。目的はどうあれ、今、ここは混乱している。ならば好都合。混乱に乗じてあの子を奪いやすくなる』

「はあ…………えっと、俺達はどう動けば?」

『キエはこのまま車で待機。月葉は外から見張ってくれ。リクはノワールと一緒に中へ。あの子を探しつつ、中の撹乱。それと、氷系の魔法使いの相手…………いや、相手はしなくていい』

「え…………」

『戦闘はなるべく避けて欲しい。あの子を見つける前に建物が倒壊なんて困るからね』

「分かりました。ノワール、勝手な行動は絶対にダメだからな」

細く長い髪。

黒服に眩いまでの白髪のノワールと呼ばれた少女は、リクを見上げて首を傾げる。

「お腹…………空いた…………」

『もう?ほら、これをお食べ』

「ちょっ、アリアスさん」

両手はリクの腕に絡み付き、ノワールは薄桃の唇を開けて、アリアスの手から角砂糖を直接口にする。

「…………甘い……美味しい……もっと……」

『リクにはノワールのおやつも渡しておかなければならないね』

「本人に渡しておけばいいんじゃないですか?嫌ですよ、世話係なんて」

「我らがシンデレラにおやつを渡したら、直ぐに全部食べてしまうわ。そしたら、今度はリクを食べ始めるわよ?」

月葉はくすくすと笑いながら、砂糖と一緒に口に入れてしまったノワールの白髪を摘んで出してやる。その間もリクから一歩足りとも離れない少女。

お守り役は嫌いだし、少女に特別優しくした記憶もない。寧ろ、月葉の方が服を着せてやったり、風呂に入れてやったり、添い寝したりと、世話を焼いているにも関わらず、ノワールはことある事にリクに引っ付いていた。何故、少女に好かれるのか分からないし、ここ最近、アリアスにノワールとセット扱いされることにリクは頭を抱えていた。

「…………ノワールのおやつは俺が管理します。ノワールはおやつを食べたければ、俺に従うんだ」

「…………お腹……空いた……」

「……………………………………………………はぁ……」

いつも通り、意思疎通は出来ず。

深々とため息をついたリクはアリアスから味気のない『角砂糖』と書かれたパッケージを受け取った。

『さて、私はシアンと共にあの子を探すのに専念する。いいね?シアン』

「……………………はい」

黒塗りの車から降りた青年。

前髪が彼の顔に暗い影を落とす。

彼は肩を落とし、土で汚れたスニーカーの爪先を見下ろしていた。

そして、黒ずくめの集団から一人だけ、彼の存在は異彩を放っていた。ワイシャツにベージュ色のカーディガン、ジーンズの格好もそうだが、何よりも、陰鬱で悲しげな表情は、そこだけ冷たい雨が降り注いでいるようだった。

「シアン君…………」

リクが同郷のよしみで元気のない彼に声を掛けるが、アリアスが構わなくていいという素振りを見せ、シアンから離れた。

『この仕事を終えれば、君も私もお互いの望みに近付ける。君のお陰であの子の居場所を見付けることが出来たんだ。大丈夫。君の望みが叶うまで、私達は協力関係だ』

アリアスの艶やかな唇がゆっくりと言葉を刻む。シアンは夜明け色の瞳を見開いた。

彼は腕を上げ、おもむろに耳を塞ぐ。

「僕は……聞きたくない……」

「…………………………アリアスさん、シアン君は車で待機させていた方が……」

『シアンは行けるよ。だって、私達は精霊に襲われてないだろう?』

「……そう……ですね……」

『二人は先に。そうだね、あそこかな。右端の建物。あの辺なら入りやすそうだ。私はシアンが落ち着き次第、左端から行く。月葉、二人が入れるまでのサポートを頼んだよ』

「分かったわ。行きましょう、ノワール。着いたら、リクがおやつくれるって」

こくこく。

小さく何度も頷いた少女は、縮こまるシアンを見詰めるリクの腕を揺らす。

リクは自身を呼ぶ彼女に気付くと、傍にアリアスを見付けて「先に行きます」とノワールの手を引いた。急かすように。

足を縺れさせながらリクを追い掛けるノワールの背中が遠ざかる。

「あらら?」

『月葉、いいんだよ。リクはシアンが心配なだけだ。弟子に対して過保護な所が、シアンに対してもあるだけだよ』

「あらそう。あなたがいいならいいのよ」

神妙な顔をした月葉はリクとノワールを追って歩き出した。






背後は絶対に振り向かず、ふくらはぎまで上がった水を意識しないよう前だけを睨み付ける。少しでも気を許せば湯水のように湧いて出てくる弱音は、歯を食いしばり、心の中でだけ吐く。千里(せんり)は鼻をすすっても、すすり泣くのは耐えていた。

「千里さん、壁の染みが……」

「僕、平気だよ。誰かの涙の跡だろうが、血の跡だろうが、そんなのは道路にへばり付いたガムとか、煙草の吸殻とかと同じだって気付いたから。マナーの悪い奴のせいだって思ったら、逆にムカついたから平気だよ」

ふんと鼻を鳴らし、そっぽを向いた千里。

しかし、(くれ)は彼と繋ぐ手を揺らすと、「そうではありません」と繰り返した。

「……どうかしたの?」

「僕はあの壁の染みをここへ来てから8回は見ました。同じ部屋の同じ壁の同じ大きさの同じ形の染みを」

「え?」

「僕達はここを8回は通っている。そう思うのですが……」

呉に指摘され、千里も慌てて例の染みを確認した。

同じ大きさだとか、同じ形だとかは一切分からないが、小部屋の壁にある染みが、何となく右端上よりの同じ場所にあるのは分かった。

「……………………ループ……してるの?」

「その可能性が高いです。これだけ歩いても端に着かないのはそのせいかと」

「僕の魔法は?無効になってるの?」

「攻撃性が無いため、無反応なのでは?僕の空間転移魔法を許容したのと同じで、選択しているのかと」

「なら、どうすれば僕はこのループを攻撃だって認識できるの?」

「……………………………………」

首を傾げた呉。

「心苦しい話ですが、師匠の家の別荘でお会いしたとき、僕はあなたの時間を悪意を持って進ませようとした。あなたの肉体が消滅するぐらいの時間を。その時は、あなたは僕の魔法を攻撃と認識した。やはり、肉体への負荷がなければ認識されないのかもしれません」

「僕、もう歩かない!疲れた!」――大きく伸びをした千里はすっかり不貞腐れ、壁に凭れる。呉も立ち止まり、息を整える。

「逆に言えば、近くに出口があるからこそ、ここにループが作られているのかも…………………………ですが、流石に歩くのが大変になってきました……」

「あ………………」

千里にはふくらはぎ程度の水位でも、呉には腰ぐらいの水位だ。

歩くのもやっとだろう。

「気付かなくてごめんね」

「いいえ。若い方々の足を引っ張るような年寄りにはなりたくないので……僕の方こそ、このような事態に弱音を吐いて申し訳ありません」

「え…………あ…………ご、ごめん……なさい……」

弱音ばかりの千里は情けない自分を思い返し、恥ずかしくなる。たとえ、呉が千里よりも何百年も長く生きていたとしても、千里にとっては、成長を手助けすべき弟のような存在だ。葵がいなくても……葵がいないからこそ、千里が彼の見本にならなければいけないのだ。

「……………………分かった!あのさ、呉君はここで数を数えててよ。おっきな声でね。僕が歩いて、もし、ループの端っこに来たら、声が聞こえてくる方向が変わるでしょ?そしたら、大体の境目がどこか分かるよ!何もしないよりマシでしょ?」

「そうですね。やってみましょう」

「じゃあ、数えます」と答えた呉は早速、数え始める。千里も暗闇を一人ぼっちで歩くことになると知りながらも、兄として、歯を食いしばって歩き出した。



それは呉君の「11」と数える声が聞こえた時だった。

葵が傍に居ないそれだけで、心が押し潰される直前だったが、葵と離れ離れのまま死ぬ方が絶対に嫌だった。それが運命だと言うのなら、どこの誰だか知らない『神様』を殺しに行く覚悟だった。

不意に足首に水以外の何かを感じて、僕はライトで揺らした。

背中を気持ちの悪い汗が伝うのを感じながら、誰かの髪の毛じゃなければいいと思った。

だけどそれは、黒くて、長い……。


「うぎゃぃやぁぁあああああ!!」



――――天を突くような悲鳴が上がった。





「いやぁああああああ!うげっ!?」

あう、うぇ、あぐっ……――

『ねぇ、千里君!千里君!返事して!返事してよ!ねぇ!』

「あぅ……」

少しだけだが、水を鼻から吸ってしまった。頭が痛い。かつ、暗い。懐中電灯を落としてしまった。衝撃でスイッチも切れてしまったようだ。何も見えない。

「うにぁああ……」

『千里君!千里君ってば!』

「もー、なんなのさ!うるさいよ!(れん)さん!今更心配するぐらいなら、懐中電灯探してよ!!」

『千里君……!良かった…………やっと通じた……………………はぁ……………………懐中電灯ね。待って、遠隔で付けるから』

「え?付けられるの?」

『遠隔で小爆発も起こせるよ。でも良かった。ループから抜け出せたんだね』

視界の隅に明かりが見えた。近寄れば、揺れる水面に光を反射させた懐中電灯が歪んで見えた。

遠隔で小爆発を起こせるとか、いざと言う時に僕達を殺す気に違いないと思った矢先、彼の台詞が胸に引っかかった。

「……ループ……?」

ループを抜け出した……?

「あれ……?」

あの子の声が聞こえない。呉君が数を数えていたのだ。僕はそれを聞きながら、どれくらい歩いていたか考えていて…………そしたら……。

「蜘蛛…………が……流れてきたから……」

虫は大嫌いだけど、その中でも蜘蛛が一番嫌いなんだ。想像しただけで……しないけど。取り敢えず、足元にいた蜘蛛は居なくなっていた。

すっ転んだ時に潰したり…………絶対に想像するもんか!

『さっきの悲鳴は蜘蛛だったんだね…………だからかな…………教えてくれる?周りはどうなっている?』

「えっと………………」

一本道の通路。ではない。

確かに僕が歩いて来た道は、「この先立ち入り禁止」と書かれた張り紙付きのコンクリート壁に変わっていた。

「なんで壁になってるの!?呉君!呉君どこ!」

『落ち着いて。そこが君達の言っていたループの端なんだ。君は抜け出せた。だから、僕からの通信を受けられるようになったんだ』

「は?」

壁だから!ループの端っこって何!?勝手に喋りながら勝手に納得しないでよ!だって、攻撃性がないと、僕の魔法は発動しないって……現にさっきまで僕達は同じ道を何回も往復していたのだから。

『今の君なら、もう一度ループに入れると思う。全身入れると飲み込まれるから、手だけループに入れてみて』

「はあ?」

い、み、わ、か、ん、な、い!!

壁だ。って、言ってんじゃん!!

この人ホント苦手!

――千里、この壁は幻影魔法だと思う。インテリに従う訳じゃないけど、触ってみて――

氷羽(ひわ)が久々に声を出した。

いつ以来……と言うほどでは無いけれど、今日はこれが初めての会話だ。

ここ最近の氷羽は奥に引き篭っていた。一切会話をしない訳では無いけれど、心ここにあらずな返事ばかり。

体は共有していても、僕達の魂は違う。別々の存在だ。だから、それぞれ勝手に色んなことで悩むのが当たり前だ。でも…………ちょっとは相談して欲しい、なんてのは、図々しい考えだろうか。

氷羽とはこの機会に色々と話したいことがあったが、まずは呉君と合流することが優先だと考え、僕は壁に手を伸ばした。

氷羽のことは信じてるし。

「あ…………おお……」

僕の頭の中には最近話題の『プロジェクションマッピング』の言葉が浮かんだ。

見た目は質感まで想像出来そうなコンクリート壁だし、ライトの光も映る。しかし、僕の指は壁をすり抜けた。空を切る感覚以外の感覚はない。

――この壁はここがループの端であることをわざわざ忠告している。つまり、ここは職員が来る場所ってことだよ。間違って入ってしまわないようにしているんだ。ということは、出口はこちら側にある。だから、どうにかして呉をこっちへ連れて来ないといけない。分かった?――

氷羽の声は混乱の最中にいる僕を落ち着かせてくれる。

「……うん…………でも、壁の向こうの呉君が見えない。多分、声も遮断されてるよ?顔入れて呼ぶとか……?」

『え?誰と話して……………………………………千里君、ループ内に居たとしても、呉君の通信機からの受信はできるようなんだ。さっきも、僕は二人の会話を聞くことは出来ていた。こっちからの声は一切届いていなかったようだけど。だから、君だけでも抜け出してくれて助かった』

「あ……………………」

聞くことだけはって――散々二人で蓮さんの悪口を言っていた気がする……。

『呉君は君を探して、4度目のループを繰り返しているところだ』

「そんな……!戻らないと!」

お兄ちゃんとして、呉君を守らなきゃって思ったばっかりなのに。

水は彼の腰まで来ていた。早く助けないと、呉君が溺れてしまう。

『それは駄目だよ、千里君。ループに戻れば、君はまた抜け出せなくなってしまう』

「なんで!?さっき出れたんなら、同じ方法を使えば出れるじゃんか!」

どうして出れたのかは分からないけど、それこそ、蓮さんが僕に教えて欲しい。

『蜘蛛だ。今までとさっきで違うのは蜘蛛だよ。君はループの端で蜘蛛に出会し、それを攻撃だと勘違いした君の魔法が、空間転移魔法から君を守ったんだ。だから、次も出れるとは限らない』

確かに、この世の全ての蜘蛛は地球が生み出した僕の敵だけどさ!なんで僕の魔法は僕に似てそんなにも適当なのさ!

「じゃあ、どうすればいいのさ!」

『……なんでそんなに君は僕に対して喧嘩腰なわけ?敬えとは言わないけどさ、仮にも年上だよ?僕。君よりも大人だから言わないけどさ、不本意だろうとも、僕達はチームなんだから――』

――は?何?千里に喧嘩売ってんの?インテリナルシスト。ぼくがキレるよ?――

氷羽が怒った。絶対に相楽(さがら)さんに悪影響受けてる。

お陰様で、焦って言葉遣いが雑になっていた僕は、蓮さんに対して冷静になれた。僕は相楽さんみたいにはならないもん。

『蓮様、落ち着いてください。千里さん、カバンの中にあるものとかを利用出来ませんか?伸びる棒とか…………』

この声は董子(とうこ)さんだ。蓮さんとの関係が……かなりあやしい人。良い意味でね。一癖二癖……百癖はありそうな蓮さんとやっていける秘訣を教えて欲しいぐらいだ。僕はもう挫けそうだよ。

『ないよ。僕が入れてないから』

通信機を通して蓮さんが答える。素っ気なくて、つっけんどん。

でも、カバンだ。蓮さんが用意してくれた防水性のカバン。無事にお店に帰れたら、貰えたりしないかなと思ったカバン。由宇麻(ゆうま)とか陽季(はるき)さんも色々入れてくれた気がする。

「ちょっと、見てみます!」

まずは呉君が気付いてくれれば、それでいいんだ。

『………………蓮様、妬かないでください』

『妬いてない』

――妬いてんの?ツンデレナルシスト――

これ幸いと煽る氷羽だが、勿論、僕にしか聞こえないし、僕も代弁する気はない。だって、怒られる時は氷羽だけでなく、僕もだからね。僕は蓮さんが怖いんだから、争いは避けたい。

僕は全て聞かなかったふりをして、カバンを探ることに集中した。



「どこですか…………」

千里さんが消えた。悲鳴を上げて。

最悪の状況を考えて、水に沈んだ死体を探したが、なかった。そうしている間に、6度目のループに来てしまった。

ループを抜け出せたのか?それとも、まだここには別の仕掛けがあるのか?

千里さんの声は11秒目と12秒目の間で消えた。

大体の位置は分かるが、ウロウロしていたら、いつの間にか例の染みの所まで来てしまう。それに、僕の体はとうとう水の浮力に負け、ろくに進めなくなってしまった。

………………悪魔の僕は溺死出来るのだろうか?

食べずとも死なないし、寝なくても死なない。暑くても寒くても死なない。

僕は師匠以外の悪魔を知らないし、寿命もしくは悪魔退治用の魔法を喰らえば、悪魔は消えてしまうとは教えてもらったけど…………。

そもそも、僕はこんな所で消えたくない。

美しい桜の記憶を捨て、僕は未来に賭けたのだ。

「僕は…………進むんだ」

僕は進まなければいけないんだ。

その時、チラと光が反射するのが見えた。僕の持つ懐中電灯の光が水面で乱反射しているのかと思ったが、スイッチを切り、壁にしがみついて息を殺していると、再び、遠くの方が光った気がした。

水の音もあり、声などは聞こえてこないが、光が見えるとすれば、それは千里さんの可能性が高い。

「千里さん!今、行きます!」

爪先ぐらいしか足が付かなくなっていたが、僕は壁の隙間に爪を立て、空気を目一杯吸い込むと、冷たい水に顔を付けて地を足で蹴った。






「呉君…………見えてるかな………………」

――(あおい)に感謝だね――

今朝、葵が綺麗に結んでくれたリボンだが、こんな所で役に立つとは。

蓮さんは用意してないと言ったが、伸びる棒の代わりになりそうなものは難なく見付かった。そう、僕の髪紐だ。

葵が買ってくれた大事なもの。

大事だけど、葵は呉君を助けられるなら使えと絶対に言うのが分かっていたから、僕は惜しまずに使えた。また休みの日に一緒に買いに行ってくれるだろうし。

「あっちではどう見えてるんだろう。……お願い、気付いて……」

リボンを結んだ懐中電灯を歪みの向こうに投げ入れてみたが、呉君が見れる状態にあるのかどうかの確認をする方法がない。僕にできることは、ただ祈るだけだ。

――千里、感じた?――

「……………………………………………………うん……多分」

今、奥へと引っ張られた気が…………。

『千里君、今だよ!呉君が掴んだ!』

「え!?」

まるで蓮さんの言葉を合図にして、リボンが強く引かれた。僕と氷羽の心臓が同時に高鳴る。

――千里、慎重に……でも、急いで――

難しい指示だ。でも、やらなきゃいけない。

大丈夫。懐中電灯とリボンはネットで話題の外れないらしい結び方で結んだ。本当はいざって時に、葵の手を縛って………………コホンコホン。

リボンは長く使っているものだけど、まだまだ現役だから。

「呉君……っ、頑張って」

慎重に、でも、急いで。僕はリボンを手繰り寄せる。

すると、歪みの向こうに入れていた手に何か大きいものが触れ、僕はもう片手も突っ込んでそれを掴んだ。そして、大物を釣り上げる漁師の気分で、目一杯の力を込めて引っ張った。



フグみたいに頬をふくらませた呉君が釣れた。

呉君の腕を取り、僕の肩に掛けてやる。すると、彼は僕の首にしがみつき、漸く口を開いた。彼の濡れた頬が僕の首筋に触れるのを感じる。

「はぁ……はぁ………………ありがとう……ござい……す」

「ごめんね?ひとりぼっちにして。でも、懐中電灯に気付いてくれて良かった」

「光る魚…………ではなくてですか?僕は沢山の光る魚を見て……………………」

「………………………………魚?一体、なんのこ――」

『ご無事なんですね!?良かった!蓮様、良かったですね!』

董子さんだ。呉君が聞き耳を立てて顔を上げた。

『喜ぶのはあとだよ………………時間がないことに変わりはない。周囲の様子はどうだい?』

そして、ずっと拗ねていたらしい蓮さんだ。僕が呉君救出作戦を遂行している最中、沢山の応援してくれた董子さんに対して、蓮さんは無言だった。

まだ拗ねているようだ。

僕が話し掛けると逆効果にしかならないだろうし、そっとしておこう。

「あ、千兄ちゃ………………千里さん、後ろに赤い光が見えます」

「うん。行ってみよう」

僕は疲れ切った呉君を背中におぶって奥へ。

赤い光はゆっくりと点滅しており、近付くと、頑丈そうな合金の扉があった。取っ手も付いている。しかし、取っ手の傍にある小さな画面には『処理作業中』『閉』の文字が。

「この水を止めないとダメってこと?」

「…………あ、そこを見てください。緊急停止ボタンです」

「よし!押しちゃえ!」

これ以上水が増えれば、呉君が溺れてしまう。それに、僕も冷たい水に体力を奪われてきた。そもそも、僕達は自分達のことで時間を取られているわけにはいかないのだ。

崇弥洸祈(たかやこうき)を連れ帰る。だから、水責めに遭っている場合じゃない。

――いいよ。押しちゃえ――

氷羽が僕の背中を押す。

そして、僕はこのボタンに望みを託して強く押した。




急速に水が引いて、扉の文字が『通常運転中』『開』に変わり、僕が取っ手を引いた時だった。

「あーもう!どこの迷子っすか!」

一難去ってまた一難。

僕達は黒地に金色の豹柄シャツに紫色パンツのヤンキーに出会してしまった。

「え、あ、あの、っ、えと……」

正直、個人的には有り得ない服の組み合わせだが……。

――千里、ダサ男の服なんてどうでもいいよ。敵でしょ?シャキッとして!――

無理だよ!

誰かに見付かってしまった時はどうすればいいんだっけ!?

「びしょびしょじゃないっすか!風邪引いちゃうじゃないっすか!タオルタオル……あと、この作業着に着替えたらいいっす!」

「え………………」

扉の向こうは小部屋で、ピカピカと点滅する機械のような金属の箱が隅にある以外は、机の上に沢山の紙。雑誌の並ぶ棚、ロッカーなどが所狭しと配置してあった。

ダサ男さんはロッカーから畳まれたタオルを取り出すと、僕に押し付けた。

『…………千里君、取り敢えず、彼に合わせてみて』

なんかいい人っぽいし、僕は蓮さんの言う通り、合わせることにした。

「ありがとうございます」

よく分からないが、タオルは有難く使わせてもらう。濡れそぼった呉君の髪は水気を拭き取れば、直ぐにふわふわに戻る。

僕も水の滴る髪を拭いた。

「もう、ホントにポンコツっすよね。前もあったんすよ。処分場に入り込んだネズミに反応して、勝手に処分モードが起動。可哀想な新人さんが処分されちゃって…………でも、俺の上司が作ったシステムっすからね!俺のせいじゃないっす!植物状態になっちゃった新人さんのことも不幸な事故で揉み消されちゃったんすけど………………」

ダサ男さんは遠くを見て、顔を顰める。何を思い出しているのか、聞きたくはない。

ダサ男さんはこの施設の人で、システムエンジニアなのだろうか。軍人だけど、インドア派。服装は冒険しているだけなのだろう。服装だけなのは、切り揃えられてスッキリとした黒髪や整えられている爪、腕時計以外の装飾品を着けていないのを見れば分かる。

「それで、緊急停止ボタンを中に設置したのは俺っす!中からも開けれるようにしたのは俺っす!褒めていいっすよ!」

「あ、うん。僕達の命の恩人だよ」

「命の恩人だなんて……!言われたの初めてっす!超嬉しいっす!ありがとうっす!」

「命の恩人に感謝されたのは僕も初めてだよ」

お言葉に甘えて呉君の着替えを手伝う。下着は替えられないが、それ以外が乾いているだけ有難い。しかし、呉君用に借りたのはSサイズだが、流石に大きかった。肩紐をギリギリまで短くし、裾を折りまくり、どうにか様になる。

葵以外の前で脱ぐのは勘弁だが、ダサ男さんが機械を弄っている隙に僕もさっさと着替える。

今朝の僕は機能性の中にセンスを詰めたコーデだったが、意を決して、かび臭い作業着に袖を通す。ずぶ濡れよりはマシだ。

神域に侵入するための変装と思えば、ちょっとだけ楽しいし。

「あ、俺、羽黒(はぐろ)って言うっす。セキュリティセンターで働いてるっす。二人は…………兄弟っすか?」

ダサ男さん改め、羽黒さん。

「え…………あ……そうです。僕の弟の呉君。僕はせ……せんです!」

櫻の僕が名乗るのは不味い。今は『せん』にしよう。

「美人な兄ちゃんすね!呉君のこと羨ましいっす!」

「ありがとうございます。僕には勿体ない兄です」

「で?二人はどうして迷子なんすか?てか、どこの部署の人っすか?呉君とか子供じゃないっすか」

『特殊清掃係。呉君は学校がお休みで、預かれる所がないから、兄の職場見学中』

蓮さん、特殊清掃係って何?

時間があれば聞きたいが、答えに詰まっていればいるほど怪しまれてしまう。

「千兄ちゃんは特殊清掃のお仕事をしています。今日は僕の学校がお休みなので、見学に来ました。僕のせいで溺れて死ぬかと思いましたが、とても良い経験ができました。羽黒さん、ありがとうございます。兄のこと、これからもよろしくお願いします」

そんな馬鹿な……。これからはないからね!?

――上出来じゃない、『弟』は。さぁ、頑張りなよ、お兄ちゃん――

「え……あ、うん。よろしくっす、千さん」

「あ…………よろしくお願いします、羽黒さん」

僕達は握手を交わした。

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