愛は惜しみなく与う(3)
「ふぇ……ふぇっ、く、しっ……あぐ……」
誰かがくしゃみした。
…………………………あれ?誰かって誰だろう。
だって、ここは私の部屋だ。
ルームシェアはしていない。一人部屋だ。
なのに、今、誰かがくしゃみした。
「…………うう……っ……さむ…………」
確かに、昨日よりも肌寒い。今だって、タオルケット一枚では寝心地が悪い。
だからこそ、誰かのくしゃみで目が覚めてしまったが。
「……………………どちら様ですか?」
目が慣れない。
眉間を揉み、部屋を見回す。
部屋の隅に黒い影。
しゃがんでいるのか、小さくて丸い。
「寒いなら、そこのクローゼットにウインドブレーカーが……」
「あ、ありがとう。今朝は冷えるね」
キィ……。
クローゼットのドアが開き、ガサゴソと彼が中を探る音がする。
「なんかここ、温かいなぁ。ねぇ、ここ住んでもいい?」
「え…………っと、それは……ご自分の部屋は……?コウキさん」
コウキさんがウインドブレーカー片手に笑顔を向けてきた。
「えへへ。ゴミ屋敷でさ。片付けって資格いるよね。俺、そういうの持ってないんだ」
「……………………………………私の部屋にはどうやって?鍵、開いてました?」
「窓、開いてたよ?」
ここは四階だが、彼は神出鬼没で、深くは考えない方がいいだろう。猫っぽいし。
「ですが、こんな朝早くに…………いえ、迷惑とかではなくて……」
部屋のドアをノックしてくれれば良かったのだ。
居場所がないのなら、恩人の為に喜んで自分の部屋を提供する。
「嶺さんはいつでも優しいなぁ。でも、迷惑なのは分かってるから、帰るね」
「え…………いいですよ。部屋、使って下さい。私がコウキさんの部屋で寝ますから。ついでに片付けます。多分、片付けの資格あると思いますので」
「上着貸して貰えただけで十分だよ。夜明け前は星が綺麗だから、星空観察の予定だし」
そう言って、コウキさんは窓を開け、ベランダへ。
靴を脱ぎ、両足の靴紐を結ぶと、首に引っ掛ける。下は裸足、両手を開けると、器用にフェンスに乗った。
「あ、危ない!」
「平気だよ。俺、木登り得意なんだ。ほら、子供の時に…………良く…………登った…………のかなぁ?」
コウキさんは一瞬だけ複雑な顔をすると、直ぐに空へと真剣な表情を向け、排水管に足を引っ掛けた。
彼はするすると登り、止める暇もなく、彼の裸足は私の頭よりも高くなる。
「気を付けて!」
「行きは降りれたんだから。帰りも登れるよ。…………っ、と、んー………………」
彼の背中は屋上へと消え、暫くしてコウキさんが手を振りながら現れた。
「おやすみー、嶺さん」
腕時計を見れば、午前2時。夜明けまではまだまだ時間がある。二度寝すべきだろう。
しかし、彼はこれから夜更かしだろうか。
「おやすみなさい、コウキさん」
「うん。……あ、今朝はまだまだ冷えるから、パジャマの上に何か羽織って寝た方がいいよ。上着、本当にありがとう」
ひらひらと手を振り、彼は直ぐに見えなくなった。
「あんばださー……お星様の光……きらきら……あんば………………」
メロディらしいメロディのない念仏のような鼻歌が風に乗って聞こえていたが、それも直ぐに聞こえなくなる。
嵐のように現れ、そして去って行った。
彼は本当に何をしに来たのだろうか。
上着を借りに私の部屋に窓から侵入………………私はクローゼットを開けた。
彼に貸したウインドブレーカーがない以外、特に変わりは――
「あ…………」
ストラップ?
カリフラワーのような白色の花を多数付けた緑色の球体。よく見ると、球体には疲れたようなリラックスしているような顔が描かれている。
コウキさんの落し物だろうか。一週間に二回は掃除しているし、このストラップには全く覚えがないし、先程、彼がこの中を探った時に落としたとしか……。
「コウキさん!ストラップ落としませんでしたか?」
周囲への迷惑を気にしつつ、屋上に向かって声を掛けてみるが、返答はなし。
遠くへ行ってしまわれたようだ。
ならば、夜が明けたら、彼に渡しに行こう。
私は机の上にストラップを置き、寝床に入る。その前に、ジャージの上着を羽織ってから眠りに就いた。
用心屋一階。
事務所の奥。
簡易台所の先にある扉を開ければ、様々な本や小物の並ぶ棚に囲まれた小部屋だ。
そして、部屋の中央には複雑怪奇な陣が描かれている。用心屋を守る為に過去の洸祈と琉雨が描いた陣だ。
外からの攻撃を防ぎ、中の者を癒し、力を与える。
「行きはリビングのを使いますが、帰りはここに戻ります」
「うん。洸祈が戻ってきた時は何がなんでもここから出さない、だね?」
「はい。洸祈さんの好きな物を沢山置いて、逃さないようにしてください。洸祈さんの安全の為にも」
陽季は頷くと、自分の頬を叩いてから、呉と一緒に二階のリビングへと戻った。
「ほい、おやつ袋。軽くて甘いもん入れといたから、定期的に取ってな。エネルギー使うやろ?」
リビングでは由宇麻が小さな巾着を葵と千里に渡していた。そして、ハグの代わりに背伸びをして二人の頭を撫でる。
二人も少しだけ背中を曲げて「ありがとう」と微笑む。
「下の準備は整いました。よろしいですか?」
「うん。手、繋ぐんだよね?」
ソファーとローテーブルが退かされ、絨毯も端に丸めた状態で開けた床には陣が描かれていた。チョークで描かれたそれの中心に立った呉が葵と千里に手のひらを向ける。
「呉君も、これ、鞄に入れとくから!おやつ、食べてな!」
こくり。
返事の代わりに頷くと、陣を見下ろした。
「目を閉じてリラックスしてください」
陽季と由宇麻が離れて見守る中、陣は輝きを増していく。
「な、なぁ!」
由宇麻が声をあげた。
そして、
「行ってらっしゃい!」
と、笑みを見せて消えた三人を見送った。
「ほ、本当にこの先!?死んじゃうよ!」
へっぴり腰の千里が葵の腕に捕まり、今にも逃げ出したいのをどうにか堪える。
それもそのはずだ。
目を開けた三人の目の前には崖があった。ほんの数歩踏み出せば、底の見えない闇に吸い込まれてしまうだろう。
しかし、蓮の調べではこの先に第4神域を囲む柵がある。その柵を越えて三人は中へと侵入する予定だった。
呉が両手両膝を尽いて慎重に崖を見下ろすと、下から吹き上がってきた冷えた風が彼の前髪を揺らす。
「危ないよ!呉君!」
千里が届きそうもない手を必死に伸ばした。
計画が初っ端から狂ってしまった。
しかし、柵に取り付けられているはずの侵入者対策用センサーを相楽に切ってもらう予定の時間は刻一刻と迫っている。かつ、侵入がバレないように、一定時間が経ったら再びセンサーを作動させることになっているのだ。
相楽との連絡方法はなく、彼は分単位で決められた計画をただただこなして行く。だから、どんな想定外があろうと、洸祈を取り戻す為にはそれらを素早く解決して行かなくてはいけないのだ。特に最初の柵のセンサーだけは神域内にいる相楽にしか切れない。遅れる訳にはいかない。
「呉君、崖の向こうに瞬間移動するとか……」
『駄目だ。君達は確かに第4神域の外壁の横にいる。中に空間転移すれば、センサーに探知される。もしそこに崖があるのだとしたら魔法のはず』
「魔法ならなんで僕にも崖が見えるのさぁ」
頬を膨らませた千里が小さくボソボソと呟いた。折角の提案を検証する前に耳につけた通信機の向こうの蓮に否定され、拗ねたように頬を膨らます。その不満も通信機を通して蓮に筒抜けなのだが、葵はそれを教えた時の千里の取り乱し様を考えて伝えるのを辞めた。蓮も計画を優先してか、何も言わない。
「確かに風は吹いている…………が……そんなに深くは無さそうだな」
下から拭きあげている。それにこの匂いは……。
「あと5分です。どうしますか?」
呉が時計を見て淡々と告げる。
もう迷っている暇はない。
「あお…………」
「飛ぶ」
「え!?」
「俺が先に降りるから、二人は待っててくれ」
「は!?え!?」
意味分かんないよ!――そう叫んだ時には遅く、千里の手を振り解いた葵は迷いなく闇の中へと飛び込んで行った。
「っぅ」
半ば確信はあったが、受け身の姿勢で落ちると、ひんやりとした感触の後、一気に水中へと沈んだ。
真っ暗闇で上下が分からなくなるが、どうにか水面に上がる。
崖下に水面が広がっているのは風で分かっていたが、落ちた時の衝撃を和らげられるだけの水があるかは自信がなかった。しかし、深さも十分にある。千里と呉君は俺より軽いから、これなら飛び込んでも大丈夫だ。千里は泳げるし、呉君は……泳げない時は俺達で支えればいい。
「二人とも、下は池みたいに――」
「死ぬからぁああ!」
千里が悲鳴をあげながら落ちてくる。
「ちょっ、千里!?待てって言ったろ!?」
そして、盛大な水しぶきを上げて千里が水中に沈んだ。それから、俺の腕を掴んで直ぐに顔を出す。
「っ、ぷはっ、はぁ、呉君、い、いいよー……はぁ、っ、はー……」
「僕、泳ぐのは得意ではな――」
言い切る前に呉君も沈んだ。千里程ではないが水しぶきが高く飛び……。
「あ、え、呉君?」
ぶくぶくと泡が生まれては消えていくが、呉君が上がってこない。
「千里、これ持って下を照らしといてくれ!」
「う!?あ、うんっ」
防水対策をしておいて良かった。防寒、防火対策もしているが。
俺は千里に持たせた懐中電灯の灯りを頼りに潜り、呉君の姿を探して目を凝らす。
『……あお!蓮さんが通信機の光探してって!緑の!』
水でくぐもった声の千里が灯りを消した。辺りは真っ暗になる。
そして、はっきりと見えた。
呉君の耳につけた通信機が星のように瞬いているのを。彼は目をつぶって腕を僅かに揺らしている。
多分、衣類と荷物の重さに耐えられなかったのだろう。
底に足の着いた呉君の両脇に腕を入れると、驚いたのかビクリと体を揺らす。水の中でもふわふわの彼の髪を撫でると、俺の首に腕を回してくれた。千里も察したのか、灯りを付けてくれる。
俺は硬直状態の呉君を抱えて水面へと上がった。
「呉君、大丈夫!?」
千里が一緒に呉君を抱えてくれる。
「思っていた以上に僕は泳ぐのが得意ではありませんでした。新たな発見です」
溺れていたと言うのに……呉君らしい。その時、彼の耳元の通信機の光が消えた。蓮さんが操作したからだとは思うが、使い道の少なそうな仕掛けでも、今回は通信機の点灯がなければ危うかった。蓮さんには本当に感謝だ。
「良かったね、呉君。今度、僕と一緒にプールで泳ぐ練習しようよ」
「はい。……ところで………………どういうことでしょうか…………確かに僕は上から落ちたはずですが」
「うん…………天井があるね……」
千里が懐中電灯で周囲を照らした。
湿った天井が光を反射させる。
崖を落ちたはずが、何故か水の溜まった洞穴のような場所にいた。周囲は壁で、ただ一箇所は奥へと続く道が出来ていた。
アーチ状のそこは煉瓦壁で、懐中電灯の光では最奥まで見ることが出来なかった。
「うう……どこまでが幻覚なのか全然分かんないよ。崖も水も天井も本物じゃないの?」
「…………だが、ここで立ち往生している時間もない…………今は先に進もう」
空気の流れがあるから何処かには繋がっているはず。
『神域は戦時下に作られた軍基地を再利用しているから、思わぬ隠し通路も多い。君達がいる所もその一つだろう。ただ、監視カメラの情報から作った神域の見取り図の外だから、僕はあまり力にはなれない。出来る限りのサポートはするけど……すまない。…………気を付けてくれ』
「分かりました。二人は俺から離れて着いて――」
「来ないよ。もう葵に先には行かせない。ここからは僕の出番だよ」
千里が俺に呉君を押し付け、さっさと前を行く。金色の髪がまるで天の川のように輝きながら水面を流れていた。
「……分かったよ。だけど、何かあった時は俺も待たないからな」
お前のように何も考えずに飛び込む。勿論、お前の文句も聞かない。
「陸に上がったら、僕も、待ちません」
「それは心強いよ」
呼吸が覚束無いながらも、呉君は必死に顔を上げて浮こうとする。まだまだ泳げてはいないが、覚えは早いようだ。きっと直ぐに上手くなる。
「あ、足着いた!早く上がろっ!」
どうやら、床がスロープ状になっているらしく、程なくして俺も足が着いた。石畳のようだ。呉君も足が着き、ほっとした顔をする。
『時間だ。……どうやら僕らは神域内に潜入出来たようだ』
どこから神域なのかは分からないが、敷地内には入ったらしい。しかし、これでもう俺達は引き返せなくなった。
「あお、あれ……」
「…………梯子か」
「うん。でも……更に下だ」
上がってきた水路を除けば、残りは壁。進める先は隅に空いた四角い穴のみ。懐中電灯で照らしてみるが、底まで光が届かなかった。しかし、風はここからかなり強く吹いている。地下で行き場を失った風がここから吹き出しているようだった。
問題はただでさえ、崖を降りてきたというのに、更に下に向かうということ。
「蓮さん、この建物ですが、何処まで地下があるんでしょうか?」
『彼の情報では、そこの建物は地上5階の地下4階。監視カメラから作成した見取り図は最大で地下3階まで。それより地下はカメラがないようだ。カメラの偏りから考えるに、地下はあまり重要視されていない。不用品の物置扱いかもしれない。手薄なところと言えば、そうだね』
だが、洸祈がいる可能性も低い。
かと言って、進まないわけには行かないが……。
「よし!行こう!行くしかないし!」
『………………君達のいる西側は彼の言っていた《処分場》が近い……もしかしたら……』
その時、千里が耳の通信機を外して「なんで蓮さんって僕のやる気を削いでくるの?怖いじゃん!なんで怖いこと言うのさ!」と小声で怒った。
しかし、
『聞こえてるよ。ごめんね、千里君』
思った通り、蓮さんには丸聞こえだった。苦笑気味に謝る声が俺と呉君だけには聞こえており、俺達は顔を合わせる。
「蓮さんは心配してくれてるんだよ。ほら、通信機付けて」
「むぅ…………」
千里は渋々ながらも通信機を耳に付けた。
「じゃあ、ここは夜目のきく僕が先に。名誉挽回です」
「え!?呉君!?ダメだよ!僕が!」
「年寄り扱いしないでください。確かに、皆様からしたら僕は超のつく年寄りですが、悪魔の年齢としてはまだまだ若いんです。子供です。………………泣きますよ?」
泣きそうもない無表情で言われ、息を詰めた千里。
子供扱いのはずが、全く伝わっていないことに唖然としているのだろう。俺もビックリだ。
「安心してください。暗闇も高所も閉所も苦手ではありませんので。むしろ、高くて狭くて暗くて静かな場所は僕の好みです」
そう言い残すと、彼はさっさと梯子を降りて行く。一人分の隙間しかない為、遠くなる彼のふわふわした頭を見下ろすしか出来なかった。
「あ……ぅっあ!」
「え!?呉君!?」
懐中電灯で照らしていた呉君の頭が今、消えた。というより、足を踏み外したと思われる。
「大丈夫!?呉君!」
「…………っ、あた…………大丈夫です。ぎっくり腰にはなっていません……」
反響した声で聞こえた。
「もー!意味わかんないよ!」
千里も慌てて梯子を降りて行く。「待って下さい!こちらに来ないで――」と言う呉君の言葉を聞こく余裕もないぐらいに。
「千里!ちょっと待て!」
「あえ!?うわっ!」
「千里!」
「あ……足踏み外した…………うう……」
「おい!千里!」
見えない。この懐中電灯では何も見えないのだ。
千里は無事なのか?呉君は?早く答えろ!
「あ……………………あお、大丈夫だよ!怪我してないよ!あ、腰はちょっと痛いかな……。あのね!この梯子、途中から……あ、ちょっと待って!」
途中から?
「見える?見えるかな……」
「!光が見えたぞ!」
千里が懐中電灯で照らしてくれているのか、仄かな明かりが穴の底から見えた。しかし、光量からして、千里達はかなり奥深くにいるようだ。
「そっちの様子は?」
「大きなドームみたいになってる。ただ、梯子が切れてる……?……呉君をおぶったとしても届かない。そっちには戻れない」
「…………………………どこか進めそうか?」
「んー…………道ある?」
「…………あります。風も吹いてます」
「先には行けるっぽい」
「……………………………………………………俺は……」
ここは行き止まりのはずだ。だが、この先はきっと……。リスクは分散させないと行けない。
『葵君、君は行くな』
俺の心境を見透かさんばかりの蓮さんの声。
俺の考えでは、ここはただの隠し通路ではない。幻影魔法で隠れていたとは言え、一切の柵もなく、ここは外部からの侵入が許されている。そして、梯子だ。
途中までしかない梯子。
有事の際に逃げ出す為なら、梯子が途中までなのはおかしい。多少はさび付いているが、使用にはなんら問題はない。接着面も頑丈そうだ。
ならば、この梯子は意図的に短くされている。となると、下の様子を見る為の確認用だろう。
何の確認だ?
『罠の可能性が高い。だから行くな』
「《処分場》……ですね。蓮さんが言いたいのは」
下がホールのようになっている為か、呉君の声が穴から拡声器のように溢れて来る。
「う……うそだよね……?呉君まで怖い話しないでよぉ!」
「あ………………はい。嘘です」
「嘘じゃないよねぇ!?」
「あの…………はい。嘘ではありません」
「嘘って言ってよぉ!」
「じゃあ、嘘で――」
『ストップ。そこは《処分場》の可能性が高い。だから、なるべく早くそこを離れる必要がある。葵君は戻って。別の道を探すんだ』
つまりは別行動。
「そんな……!あおを一人にはさせられないよ!」
千里が俺を心配してくれる。その理由が…………俺を好きだから、大切だから…………そう思われていたらいいのに。
呉君は何も言わない。決断を俺や千里、蓮さんに託している。
ならば、俺が決めないと話は一向に進まないだろう。寧ろ、時間が経てば経つほど事態は悪い方向へと進んでしまう。
『葵君』
催促する蓮さんの声。
俺が決めないと……。
「………………………………千里、呉君と先へ進んでくれ。俺は別の道を探す」
「でもっ、一本道だったじゃん!」
そうだ。俺達は崖から落ち、次の瞬間には洞穴のような空間にいた。どれもリアルで、しかし、どちらかが偽物だった。どちらかが偽物なら、何処かに別の道が隠されていてもおかしくない。
この梯子が確認用なら、ここへ来る為の安全な通路があるはずだ。
「俺を信じて欲しい……千里」
お前が俺を止めたがる理由は、俺を好きだからだけでは無いのだと俺は知っている。千里の中では、まだ俺は彼の背後にいて欲しい人間なのだろう。つまり、守られるべき存在なのだ。
傍にいてくれないと安心できない。
…………それこそ、好きだから、とも言えるが。
「……………………信じてるよ。いつだって。僕は君を信じてる。ね、葵」
「…………ごめんな。ありがとう」
俺は穴の底へと向けていた懐中電灯の電源を切った。千里も向きを変えたのか、俺達を繋げていた僅かな光も見えなくなる。
「呉君、行こっ」
パタパタ。
小走りの足音が小さく響いた。
『辛い決断をさせてすまなかった』
謝るくらいなら言わなくて良かったのに――俺は最低な人間だな。俺が言い出せなかったことを蓮さんが率先して言ってくれたというのに…………。
「いえ……………………」
『……………………出入口があるとすれば、「人除け」で隠してるんだろう。人除けに使われている呪具さえ見つけられれば、出入口も見付けられる。僕も分かっているところの見取り図と敷地図で隠し通路のありそうな場所を絞ってみるよ』
俺が不快に思ってしまったことを蓮さんはきっと分かった。分かっていて、俺を気遣った。
そんな風に考える俺がとても嫌で、俺は「了解しました」と言いながら、握り拳を胸に抱いていた。
傍に誰もいなくて良かったと思いながら。
俺は…………恥ずかしい人間だ。
「…………あお………………」
千里はふと足を止めると、真っ暗闇の背後を振り返った。勿論、葵の姿はない。
「信じているのではなかったのですか?」
呉も足を止めて、振り返る。懐中電灯で照らされた千里の横顔は少しだけ泣きそうだった。
「そりゃあ、信じてるよ。僕と違って、あおは頭が良いもん。だから、絶対に別の道があるし。ただ、僕が心配なのは…………葵が僕達を見捨てたと思わなきゃいいんだけど…………あ…………そういうわけじゃなくて……」
「何に言い訳しているんですか?僕は見捨てられたとは思っておりません。本当に出口のない処分場ならば、死体があるはずです。腐った肉片とか、人骨とか。しかし、それらしいものがない。焼却処理や溶解処理をしたとしても、片付けなければ、残る物があるはずです」
懐中電灯の明かりを千里から壁へと向ける。
途中までの梯子があった広いコンクリート造りのドームから細い道を通り、今度は立方体の味気の無い小部屋が左右に並ぶエリアへ。どの部屋も壁は薄汚れ、一部は風化して凹凸が出来ていた。
そして、黒く滲んだ跡……――
「ああ、これはただのシミですね」
「ちょっ、やめてよ!怖い台詞は禁止だって!」
「いえ、ここは誰かが片付けに入る場所。と、言いたかっただけです。寧ろ、今のところ凶悪犯とか居ないようで一安心です」
「いやいやいや!怖いから!」
胸を撫で下ろした呉に対して、青ざめた千里が涙を浮かべる。
至って真面目に話される方が、冗談交じりで話されるよりも怖いのだ。
今にもナイフを振りかざした不審者が現れて来そうで、世の人に最強の防御魔法を持っていると噂される千里でも、背筋を震わせて呉の肩に掴まった。
「早く出ようよ!」
「ええ。早く先に進みましょう。……………………変な音が聞こえますから」
………………………………ザー……。
微かに聞こえたのはテレビのノイズに似た音。
遠く遠くの……歩いてきた方から。
「もうこんなとこ嫌ッ!悪霊退散ッ!」
そう叫ぶと、千里は聞き耳を立てる呉の腕を引っ張って、逃げるように走り出した。
「う…………」
「あ……起きた。眞羽根さん」
「え?あ、本当ですね。起きてください、神影さん。彼、起きましたよ」
「ん……んん……」
「……なんやぁ…………騒がし………………っ、シアッ!」
ごちん。
深くて重い音。
起き抜けに上体を起こした雪癒は、頭上にあった神影の額に勢い良く自分の額をぶつけた。
「っ、たい、わ!阿呆!」
「ちょっ、雪癒、それは酷いですよ。神影さんは――」
「……っ…………眞羽根、いい。…………雪癒、もう大丈夫か?」
ウトウトしていた神影は雪癒の頭突きで起こされ、痛む額を擦りながら、蹲る雪癒を見下ろした。
「……………………」
雪癒は不機嫌な表情を隠しもせずに周囲を見渡し、自分を見下ろす男達を睨み付ける。
「大丈夫そうだな。なら、シアンを取り返しに行くぞ」
神影は雪癒が離れたことで、腰掛けていたダブルベッドを降りて窓の側へ。咄嗟に夏が水を入れたグラスを雪癒に渡す。雪癒は揺れる水面を見下ろすと、一気に飲み干した。
「ここは?今は何時やけ?」
服の裾で口を拭い、神影の背中にぶっきらぼうに訊ねる雪癒。
「ここは静岡市内のホテルだ。今は朝の10時。蓮の家を出てから6時間は経ってる。それで、シアンのことはリトラが監視してる。お前が起きたら連絡してくれと言っていた」
「連絡するんや」
「分かった」
くるりと振り返った神影は、携帯電話片手にベッドの脇を通り、部屋を出て行った。
「雪癒」
「……………………」
眞羽根が呼びかけるも、雪癒はベッドに胡座をかく自分の足を見るだけで何も言わない。
聞こえていないのでは無く、無視しているのはこの場の誰もが分かること。
夏はグラスを洗いに行く名目でバスルームに入る。
「シアンさんの件、神影さんから聞きました。彼女と争うんですか?」
「……………………」
「…………僕達は傍観者ですよ?彼女と争えば、アークがまたリセット――」
「しない。アークは我の復讐を知っておる。愛子の物語とは無関係と言った。そもそもあいつは我がシアンを奪われるところを覗き見した上で、我を無様と笑いに来たけえ。どうせ、我がアリアスに勝負を挑んで、また負けるのを見たいんやろ。ま、彼奴の暇潰しに付き合う気はあらへんけどな」
「なら、僕にも手伝わせてください」
眞羽根が雪癒を見下ろし、雪癒が眞羽根を鋭い目付きで見上げた。
「お前は蓮に夏のことを直に頼まれた。違うけ?」
「…………はい」
「なら、お前は来るべきやない」
「ですが……!彼女は…………多くの仲間を従えています…………」
「夏はどうするんや?置いてくんけ?それで、軍から夏を守れるんけ?」
「僕は…………」
「眞羽根さんはあなたが心配なんだ。俺もシアンさんには世話になった。だから、俺も手伝いたい」
長い引きこもり生活で伸びた髪を切りに理髪店へ行った夏は、襟足は刈り上げ、スッキリとした印象になっていた。そんな彼は洗ったグラスをテーブルに置き、苛立つ雪癒の眼前に出る。背後では眞羽根が両手を合わせて祈っている。
「お前に何が出来るんけ?毎日、テレビを見ていただけのお前に」
「雪癒!その言い方は失礼です!」
容赦ない言い方ではあるが、雪癒の発言は間違いではなかった。
軍に追われる夏は、居場所が知られるのを恐れ、かつ、身を隠してくれる幻影魔法を使える眞羽根に負担を掛けたくないとして、殆ど外出していなかった。大抵の時間をシアンや神影の雑用を手伝うことで潰していた。それ以外の時間は、テレビを見て、外界との僅かな繋がりをどうにか得ていた。
けれども、それは夏が真に望んだ生活ではなく、蓮との約束を守ろうとする眞羽根の為にと選んだ生活だった。
夏自身は既に人並みの生活を諦めており、一人で山奥に隠居してもいいと考えていた。――しかし、それは眞羽根が許さない。
全てを知る眞羽根が雪癒に噛み付くように言い返した。語気鋭く言い放つ彼に雪癒は目を見開く。
「お前…………!」
眞羽根が雪癒に歯向かった。
雪癒は拳を強く握る。
「今のあなたは頭に血が上っています!あなたは良くても、リトラさん一人に彼女の仲間全員の相手をさせるつもりですか!?」
「煩い!我一人で行く!リトラには居場所を見付けて貰ってるだけやけぇ!」
「それは俺が許さないよ、雪癒」
連絡を終えた神影が部屋に戻る。
「リトラには連絡した。案内を寄越してくれるらしいから、ここで待てって」
「……………………我は……一人で行く」
「眞羽根達にシアンのことを伝えたのは俺だ。手伝って欲しくて伝えた。それに言っただろ?どう考えたって、雪癒一人で混乱するシアンを連れてアリアスと勝負するのは無理だ。雪癒はアリアスに集中しろ」
「筋力はまだ戻りきってないけど、魔法は使える。癒すことは出来ないけど、戦うことは出来る。だから、手伝わせてください」
神影が夏の隣に並び、夏は雪癒に対して深々と頭を下げた。
雪癒は何かを言いかけて口を開き、神影の真摯な眼差しを横目に見て、口を閉じた。
「僕も彼と一緒に行きます。それが蓮さんとの約束だから」
「………………あとで蓮に怒られようが、我は知らん」
「ありがとうございます、雪癒」
にこにこ。
聖人君子のように笑顔を振りまく眞羽根は、つい先程まで怒りを露わにしていた青年とは同一人物に見えなかった。雪癒は他所を向き、ため息を着くと、「居候の癖に、家主に生意気なのしか居らん。帰ったら全員追い出したるけぇ」と呟いて体を横たえた。