愛は惜しみなく与う(2)
「お疲れー、兼守さん!」
地下機械室。
その扉を遠慮無く開け放ったのは赤茶の髪の青年。
黒の詰襟、黒のズボンを履いた彼の手には大量の蜜柑があった。
「ああ……またお前か」
鼠色の作業着を着た無精髭の男――兼守。伸ばしたまま、少しの手入れもされてないボサボサの黒髪はゴムで適当に括られていた。
見た目の年齢は四十代前半――最低限の手入れをすれば、正しい年齢である三十代前半には見えるだろうが。
機械油で汚れた手袋をした彼はかったるそうなため息を深々と吐き、青年を無視して中断していた作業を再開する。
「むむむむ…………じゃあ、蜜柑要らないの?」
「いる。さっさと置いて出てけ。給料泥棒」
「でも、10時だよ?おやつタイムでしょ?一緒に座って食べようよぉ。ね?」
「うるせぇ。休憩は昼だけだ。12時から一時間。当たり前だろ」
「……お、お役所様だ……………………じゃあ、構ってよ。俺を構うのもお仕事って思えばいい」
「は?寝言は寝て言え、阿呆」
床に胡座をかいて作業する兼守の隣で青年は目を大きく見開き、唇を尖らせるが兼守は目もくれず。肩を竦めて傾げて見ても、無反応。
青年は目を細くすると、「意地悪」と呟いてそっぽを向いた。
「今、俺に構わないと、他の人のとこに行くから。兼守さんに無視されたから邪魔しに来たって言うから。兼守さんのせいって言うから。てか、一人花火するよ?この前、おばちゃん達に外で買ってきて貰った『打ち上げ花火100本詰め』、そこの中庭でやるよ?」
「明るい内にやったって少しも楽しくねぇだろ」
「俺は楽しい。バンバン鳴るから楽しい。煙もくもくで楽しい。火花飛び散るから楽しい。みーんな集まってくるから楽しい」
「………………………………やめろ」
打ち上げ花火を取りに行こうと立ち上がった青年の腕を兼守は掴む。青年はニヤリと笑むと、「じゃあ、蜜柑?」と言って蜜柑を掴む手を振った。
「はぁ…………お前は本当に強引な奴だな…………分かった。茶にしよう」
「兼守さん、素敵!お父さん!」
「休憩するのやめんぞ?」
「あう!さっきの嘘だから!機嫌悪くしないで!俺がお茶入れるから!」
「いや、いい。この前、湯呑み割っただろ。それに、お前が淹れる茶は異常に薄いし。あっち座ってろ」
「うん!分かった!」
青年は勝手知ったる風に背の高い機械の隙間を縫って奥の休憩スペースへと歩いて行った。
休憩スペース――部屋の角にある小さなスペースに簡素な机と2脚の椅子が置かれているだけではあるが、そこに二人はいた。機械整備士の兼守と内部監査官のコウキ。
兼守の淹れた茶の匂いを嗅ぎながら、コウキはせっせと蜜柑の皮を剥く。兼守も茶とせんべいを用意してから、蜜柑を剥き出した。
「それで?お前、年中暇なのか?」
「だって、俺が暇だと、皆嬉しいものなんだから、これでいいんだよー」
食べたくなる衝動を抑えて、蜜柑の薄皮を綺麗に取っていくコウキ。兼守は「お前、内部監査だったけなぁ」と言いながら、薄皮ごと三房まとめて口に入れた。そして、手持ち無沙汰を解消するかのようにコウキの薄皮剥きに参加する。
「俺がお仕事をする時は、誰かがお仕事をクビになる時だから」
「そうだなぁ。…………お前、ひ弱そうに見えるのに、酷な仕事してるなぁ」
「頭撫でて褒めていいよ?」
「誰が成人した男の頭を撫でるかよ」
ちぇ。
分かりやすく舌打ちをすると、コウキは薄皮を剥ききった蜜柑をゆっくりと噛み締めた。
「甘酸っぱいね。美味しい」
「てかこれ、どうしたんだ?食堂からくすねてきたのか?」
じと……。
さらりと泥棒扱いされたコウキが湿った瞳を兼守に向け、彼は直ぐに「すまん」と謝った。
「これ、俺が貰ったの。盗んでないから。それに、食堂からくすねたのはソースだけだもん」
「くすねたことはあるんだな」
「だってトンカツにはソースが必須って……後でちゃんと返したし…………でね、蜜柑いっぱい貰ったから、お裾分け。半分あげる」
コウキは持ってきた蜜柑の半分。4個の蜜柑を兼守の方へと寄せ、何を思い立ったのか、それらを縦に積み上げた。
「今朝も蜜柑もりもり食べたら、朝食おかわり出来なくて、食堂のおばちゃん達に心配されたから、少し控えることにしたんだ。で、全然減らない蜜柑が腐っちゃう前に恩売りながら蜜柑のお裾分けしてるの」
「恩返しを期待してるのか」
「うん。俺がピンチの時は助けてね」
コウキが両目を瞑って、開けた。
生理的現象である瞬きとは力の入れ加減が違う。
兼守は不器用な彼がウインクをしようとしたのだと察した。
「分かった分かった。お前から貰った恩は忘れない。ありがとうな」
下手くそなウインクに笑ってしまうのをどうにか堪え、兼守はコウキの頭に手のひらを乗せた。すると、コウキは目を見張り、頬を赤らめ、唇を横に引き伸ばした。それは笑窪が見える程の笑みだった。嬉しくて堪らない――尻尾をはち切れんばかりに振り、舌を出して息を荒らげる犬のように、彼は兼守が頭を撫でてくれた事に歓喜の表情を見せる。もっと撫でてと頭を寄せてくる。
兼守は「やらかしたかな」と思いつつも、自分から撫で始めた以上、辞めるに辞められず、切り上げる機会を逃しては純粋に喜ぶコウキに胸を温かくさせた。
「はぁ……はぁ……」
撫でられていただけなのに、コウキの息は荒い。
兼守は何故か疲れ果てたコウキを見下ろし、久方振りに生き物を撫でまくった手首をいたわるべく揉んだ。
「気は済んだか?」
「はぁ…………疲れた…………」
「何でお前が疲れんだよ。疲れたのは俺だよ」
「上手く撫でられるのも、技術と愛がいるの。あと、興奮した」
もじもじ。
太ももの間に両手を挟み、腰を揺らすコウキ。少女漫画でよく見掛ける、思春期の女子が照れる仕草そのもの。ベタなそれに兼守は呆れるどころか、愉快で堪らなかった。それを顔に出すことはないが、明るい気分にさせてくれたコウキに兼守は微笑し、彼の湯呑みに茶を継ぎ足す。
「兼守さん、ありがとね。元気出た」
「は……?」
どこをどう見たら、彼は元気がなかったのか。
ハイテンションで兼守の仕事の邪魔をし、ハイテンションで撫でられていたと思っていたが。
「あ、そうだ。これ見て」
コウキは着ているの詰襟のボタンをいくらか外すと、襟首からそれを取り出して兼守の眼前に掲げた。
ネックレス…………革紐の先には銀色の指輪。
「俺、ここに来る前の記憶が全く無いんだ。気付いたら、ベッドで寝てた。藤堂さんは仕事中にヘマやって記憶すっ飛ばしたんじゃないかって………………でも、この前、藤堂さんが許可してくれたから『中央』に行ったんだ。俺の元職場らしいところ。そこで「俺の事、誰か知らない?」って聞き回ったんだけど、誰一人、俺の事は知らなくて…………根暗の引き籠もりニートだったのかなって……記憶喪失の原因は仕事じゃなくて、トイレでぼっち飯食べてる時に地震が起きてパニクってトイレの壁に頭ぶつけたせいだったのかも」
「やけに具体的だな。でも、神域は人が多いからな。たまたまだよ。気にすんな」
コウキが摘んだ指輪には小さくとも眩しく輝く赤色の宝石が。
コウキは「そうかもしれないね」と指輪を見ながら乾いた笑いをする。
兼守が励まそうとしているのは分かっているが、何一つ得られなかった絶望は無視できない――そんな顔。
「でもね、この指輪だけは違うんだ。俺が最初に目が覚めた時、俺の首にはこれがかかってた。藤堂さんも最初から首にしてたって言ってた。つまり、これは俺と俺の記憶を繋ぐものなんだ」
「……見てもいいか?」
「いいよ」と言ったコウキは首から外して兼守の手に乗せた。
「綺麗だな。お前にピッタリの赤だ。………………「Haruki to Koki」?」
指輪の内側。刻印に目を凝らした兼守。
「「ハルキからコウキへ」。俺の名前は「コウキ」。言ってみて、しっくり来た。ああ、これは俺の名前なんだって。……「ハルキ」が誰なのかは全然分からない。でも、「ハルキ」って名前を聞いたら苦しくて堪らないんだ。喉の奥がギュッてする。俺はハルキのことを本当に…………大切に想ってたんだ。……っ、ハルキ……会いたいよ…………ぅぅ……」
ぐすっ……。
鼻をすすり、肩を震わせ、コウキはテーブルに突っ伏す。
「っ、泣くな、泣くな……コウキが泣くと俺も泣いちまうだろ?」
グスッ……。
兼守がその髭面に似合わず、渋い顔をし、腕で顔を隠した。
「泣いてない……泣いてない……俺の涙……そんな安くないもん。泣いてるのは……兼守さんだよ……」
「うるせぇ……お前が泣いてないってんなら、俺だって泣いてない……」
ぐずっ……ずず……ぅぐ……。
二人とも泣いていないはずなのに、鼻をすする音や、喉をひくつかせる音が機械音に混じって部屋中に響く。
「かーなーもーりーさんっ!何サボってメソメソ泣いてんすか!小汚い髭が目に入ったんすか!」
「うげ…………雪之丞……」
目元を上着の裾で擦り、コウキがしかめっ面で隅に移動する。
そして、兼守とのお茶会を邪魔した青年を睨んだ。青年もまた、コウキの視線に負けじと睨み返し、コウキが直ぐに目を逸らした。
「兼守さん!また、こいつ入れたんすか!」
作業用の厚手の手袋をした彼は片手にドライバー、もう片手にラジオペンチを握っており、ジーンズ生地の汚れた繋ぎを着ていた。地毛である黒髪混じりの茶髪は肩まであり、兼守と同じく適当に後ろで括られている。かと言って無精髭が生えているでもなく、寧ろ、肌はツヤツヤとし、少年寄りだった。そんな彼は、兼守の部下であり、『雪之丞』という名前である。
今年、27歳になる彼はその童顔と低い身長から、初めてコウキに会った時に「兼守さんの子供?」と言われたことをずっと根に持っていた。以来、コウキのことを毛嫌いしており、コウキが兼守に近付く度に邪魔をしていた。
「俺は泣いてなんかない」
兼守はゴシゴシと目尻を拭って顔をあげる。そして、コウキの顔を見て、また目尻を押さえた。
「どーでもいいよ!こいつ、追い出して!」
涙脆い兼守に頭を抱えた雪之丞が怒鳴る。コウキが兼守は自分の味方と言いたげに鼻を鳴らした。それに更に機嫌を悪くした雪之丞が拳を振り上げ、「ぼーりょく反対だから!」とコウキが慌てて牽制する。
「っ、コウキ……ぐすっ……雪之丞もそう言ってるから……」
「そんな!…………うぐぐ……雪之丞め……」
「ふん!兼守さんが言うんだから、さっさと監査に帰れ!」
腕を組み、得意顔の雪之丞。コウキもこの部屋で一番偉い兼守に言われた以上、出て行くしかなく……しかし、楽しい兼守との休憩時間を邪魔された立場で、抵抗しない訳にも行かない。男が廃る。
「うぬぬぬ…………雪之丞の小姑!意地悪!馬鹿!」
「結局、馬鹿しか言えないお馬鹿め!馬鹿のせいで馬鹿が伝染る!帰れ!」
「雪之丞、馬鹿なんて無闇に使うな」
「職場で泣いてるいい歳したおじさんに言われたくないんすけど!」
「だから、俺は泣いてな――」
「あ!せんべい置いてけよ!卑劣な!」
「うるさい!ばーか!」
コウキは湯呑みの茶を一気に飲み干すと、机の上のせんべいを引っ掴み、雪之丞の背後を通ってダッシュで逃げだした。その時、コウキの腕から蜜柑が一つだけ落ち、今にも泣きそうな顔でそれを見下ろすと、取りに戻るか僅かに迷い、直ぐに「お前にくれてやるー!」と叫んでドアから出て行った。
嵐のように過ぎ去り、一瞬で静まり返る機械室。
そして、
「一生許さねぇぞ!せんべいドロボー!」
雪之丞も負けじと声を張り上げたのだった。
「……琉雨ちゃんはお出かけ……?」
いつもなら、玄関に入った瞬間に全力で駆け寄ってくる彼女が今日はおらず、リビングに入っても彼女の姿はどこにもなかった。魔力が足りないと妖精さんモードになってしまうらしいし、もしかしたら小さくなって飛んでいるのもと、目を凝らしたが、やはり、おらず。彼女の陽だまりのような匂いもしなかった。
「陽季さん、琉雨ちゃんがお目当てなの?へぇ……」
肌寒くなって来た頃だと言うのに、半袖半ズボンの千里君はソファの肘掛に頭を乗せて横になっていた。伸ばした手でローテーブルに広げられた菓子の袋からせんべいを摘み、寝転がったまま片手間に食べる。そんな彼の目は翡翠のように美しく、皿のように据わっていた。
誤解されてる……。
幼女を狙う変態だと思われてる……。
「いや、ほら、洸祈の話って葵君言ってたから……洸祈の話なら琉雨ちゃんもいるだろうなって……」
「琉雨ちゃんはお仕事中。大阪にいるよ」
「え!?大阪!?もしかして一人で!?」
なにわの大阪!?金融ドラマとか良くやってるイメージのとこ!?たこ焼きとお好み焼きの聖地!?
「一人だけど、あおの親戚の人いるから――」
「どうしよう……帰ってきて、『陽季さん、久しぶりやんけ!』とか言われたら……『ほんま久しぶりやん!』って返せるかな……」
「え?」
千里君が「何言ってんの、この人?」な顔になるが、俺は多分、大真面目だ。
「俺、今からネットで大阪弁講座受けたとして、琉雨ちゃんが帰ってくるまでに間に合うかな?」
ヤバい。間に合う自信ない。
「何言うとるん?俺といたかて、陽季君大阪弁にならんやんけ」
この大阪弁は……。
「司野さん?ど、どないしたんどす?」
「無理くり過ぎやで」
はぁ。溜息を吐いた司野さんは俺の背後から千里君の向かいのソファーに腰掛け、せんべいに手を出す。本日の彼はラフな丸首のシャツに長ズボンだった。いつからいたのか。
「んで……陽季さん、久しぶりやんけ!」
ぱりっ。
そう言ってせんべいを噛んだ司野さんの視線は千里君と同じで冷たい。
「……ほ、本当にお久しぶりです…………」
にこ。
何かを許してくれたのか、司野さんはいつもの満面の笑みに戻り、「隣、空いてるで、陽季君!」と弾むような声で俺を呼んだ。
「久しぶりやなぁ。元気しとったか?これ、俺からのお土産。七味せんべい。職場の近くに京都の老舗せんべい屋の支店が出来てな。すっごい美味しいからお裾分けや」
追加のせんべいを取ろうとした千里君の腕を掴み、司野さんは俺の膝にせんべいの袋を置く。確かに、スーパーのせんべいとは違ってとても濃い、香ばしい匂いがしてくる。
「ありがとうございます。いただきます」
お醤油がこれでもかってぐらいに染みている。それに、かなり分厚くて噛みごたえがある。そして、旨味が広がる舌に来る唐辛子の刺激。胡麻が何となく懐かしさを引き立たせ、山椒が仄かな爽やかさを演出する。あとはよく分からないが、感想を言うなら、文句無しに美味しい。
「美味しい……」
「せやろ!?次は違う味の買ってくるから楽しみにしとってな!」
屈託のない笑顔で素直に喜びを表現する司野さん。俺の癒し空間はここにあった……!
「ど、どないしたん!?泣いとるん!?」
「あ……感激の涙が……」
「泣くほど美味かったんか。ほら、遠慮せんでもっと食べたらええよ。別にお持ち帰りの分もあるからな」
ああ、司野さんの優しさに涙が追加されてしまう。序に変な笑いも生まれてしまった。
千里君が「せんべいのパワー恐ろしいね」と若干、ひいた声で語るが、俺が恐ろしいのは『せんべい』と言うよりは『司野さん』のパワーだ。本当に恐ろしくて、泣けてくる。
「あ、こんにちは、陽季さ………………泣いて……る?」
「せんべいが美味すぎて泣いてるだけや。気にせんでええよ」
「え…………せんべい……凄い……」
葵君の声だ。
そして、皆が盛大に勘違いしてる。が、涙が止まらないのだ。否定もできない。
結局、俺は司野さんに背中を撫でられながら、コントロールを完全に失った俺の涙が止まるのを待っていた。
はぁ……。
久々に泣いたせいか、凄く気分がいい。
何に泣いたのかも分からないのに、何故か落ち着いた。
千里君は冷たい濡れタオルをくれ、葵君は温かい紅茶。司野さんは肩を貸してくれた。
至れり尽くせりで感謝の言葉もない。
そして、寝惚け眼の呉君がリビングに現れた時、俺は『洸祈のことで話がある』と電話口で言っていた葵君に呼ばれたのだと思い出した。
「おはよう、呉君」
「おはようございます」
ぺこり。
力の抜けたお人形のように項垂れた呉君は立ったまま動かなくなる。葵君は呉君の肩に手を置くと、足元の覚束無い彼をソファーまで誘導した。
呉君はいつも眠たそうだが、病気とかではないらしい。葵君曰く、呉君は睡眠が趣味なんだとか。俺も昼寝は好きだが、趣味……とは違う気がする。したい時にいくらでも出来るわけではないし、結局はただの休憩でしかない。だが、葵君が言うからには呉君にとって睡眠はしたい時に好きなだけ出来る趣味なのだろう。
呉君は目を閉じたまま背伸びをすると、長い長い欠伸をした後で、やっと長いまつ毛の下の瞳を覗かせた。
「葵さん、二之宮さんから連絡があったんですよね?」
呉君が話を切り出す。その顔は子供の顔ではなく、仕事仲間の顔だった。
「うん。それで、まずは由宇麻さんと陽季さんに今の状況を説明したいと思うんだ」
葵君も呉君の迫力に圧されたのか、緊張した面持ちで、今、何が起きて、何をしようとしているのかを俺達に教えてくれた。
「――この計画が順調に進めば、明朝、俺達は洸祈を連れ戻しに第四神域に向かいます。そして、先程、蓮さんから計画の第一段階が終了した、と報告がありました」
「てことは、相楽さんって人は無事に例のUSBを機械に挿せたってことやな?」
二之宮の用意したコンピュータウイルス入りのUSB。それを軍内部の協力者――相楽さんが神域内のパソコンに挿すことで、二之宮がそれを遠隔操作出来るようになるとのこと。そうすることで、神域の監視カメラを見たりできるのだ。
仕組みは全然だが、インテリなことに関しては不本意ながら、俺は二之宮を信じている。性格に難アリだが、負けず嫌いな奴の歌も芝居も医術も科学もITも一級品なのは知っている。
「洸祈の姿は……」
「今は神域の見取り図作成に時間を掛けているとの事でした。やはり、シークレットな部分もあるらしく、出来る限りの部分は完成させると」
……二之宮も洸祈を探したい気持ちがあるだろう。だが、無事に全員で帰る為にも、神域の見取り図は必要不可欠だ。二之宮には二之宮だけの役割があるし、葵君達も、明日、彼らだけの役割を果たすのだろう。
なら、俺は……。
「葵君、俺も何か…………」
「待っていてください」
……………………俺は無力な男だ。待つしかできない。
確かに、俺が特別出来ることなんて、扇を持って踊るぐらいだ。魔法が使えるわけでも、何か武器を扱えるわけでもない。包丁を持ったって、料理しかできない。
忙しい中、葵君に己の役割を貰おうとする方が迷惑な行為だろう。
だが…………何かしたかった。
洸祈の為に…………何か…………。
「明日は俺も休みなんや。一緒に待とう?洸祈君、帰ってきた時、お腹空かせてるかもしれへんし、洸祈君の大好きなお蜜柑一杯用意して二人で待とう?な?」
司野さんはそう言う。――何となく分かっていた。
俺と最も近しい立場にいる司野さんなら、俺を気遣って、一人でも出来ることをあえて一緒にやろうと言ってくると分かっていた。――そう考える俺を俺は絞め殺してやりたい。
最近、洸祈のことばかり考えていてあらゆる事が手につかなくなっているせいか、何もできない自分に無性に腹が立ってくるのだ。皆が洸祈を必死に探してくれている中、俺に出来たのは家の中に散りばめられた洸祈の痕跡を見つけるぐらい。
何故が二本ある歯ブラシや、何故か二個あるマグカップ。
いつの日かの買い物メモには「みたらし団子(洸祈分)」と書かれていた。
そう。洸祈はいつも傍にいた。
だからこそ、知れば知るほど苦しくなり、無力な自分が恥ずかしくて堪らなくなる。
「あの……洸のこと、ここで待ってて欲しいってのは、呉君の魔法で洸を連れ帰った時、二人にフォローして欲しいから。洸もきっと記憶がない。凄く混乱すると思う。でも、僕達には説明する時間はないし、呉君とは別行動で時間稼ぎに回るから。だから、二人は洸を落ち着かせて欲しいんだ。洸も大好きな二人の顔を見たら、思い出さなくても、きっと安心出来るだろうから。ほら、二人って癒され顔だし」
癒され顔なんて初めて言われたんだが。
司野さんは確かに癒され顔だし、事実、癒され過ぎて涙も出てくるぐらいだ。だが、俺が癒され顔ってのは中々…………それでも、何も言われずにここに飛ばされた洸祈を落ち着ける人間は必要だろう。暴れた時も考えると、司野さんだけでは心許ない。
「あ…………誤解なさったのなら謝ります。陽季さんにはここで洸祈を待って、彼が帰ってきたら、落ち着かせてあげて欲しいんです。もしかしたら、混乱してここから逃げようとするかもしれない。だから、ここは安全なところ、洸祈の家、家族と暮らしていた場所。それを教えてあげて欲しいんです」
千里君に続けて葵君がフォローに入る。
…………俺の態度で皆にいらぬ心配を掛けてしまったようだ。
でも、俺がここにいる理由はきちんと存在する――それが分かったのは本当に嬉しい。
ここで洸祈を待つことも洸祈の為になることなのだ。赤の他人には出来ないことだ。
「……ありがとう。俺、ここで司野さんと一緒に洸祈を待つよ」
「せやな。俺、お蜜柑買ってくるから」
「じゃあ、俺はみたらし団子を」
「渋めの緑茶も用意せなあかんな」
いかにもなおじいちゃんラインナップだが、これも俺が洸祈の事を調べた結果だ。
冷凍庫の奥で眠っていた冷凍みかんに貼られた付箋には「好物の為、与え過ぎ要注意。今度、焼きみかんをご馳走する」と。俺も蜜柑は嫌いではないが、「与え過ぎ」のあたり、洸祈のことだと直ぐに気付いた。食材には色々と付箋が貼られており、気にした事はなかったが、改めて読み返すと、調理方法だけでなく、栄養価がどうの、好きな料理名など書かれていたら、きっとこれは洸祈の為に俺が俺に向けて書いた付箋だと気付いた。
風邪の時、機嫌が悪い時、お腹を壊した時、ちょっと羽目外したい時、がっつり食べたい時など……きっと全部、洸祈の為。
何処までも細かい自分を気味悪く思わないと言えば嘘になる。だけど、清々しい程に洸祈に入れ込んでいた自分を羨ましいと思わないと言えば、それも嘘になる。
俺はもう一度、昔の自分に会いたい。記憶を失う前の俺に。
恥ずかしくなんてない。洸祈を想うお前はかっこいいよ。
馬鹿みたいだけど、そう言ってやりたい。
「よろしければ今夜、洸祈の部屋に泊まりませんか?」
「え…………」
「ゲストルームも別にあるんですけど、もし、よろしければ……いつ洸祈が帰ってきてもいいように綺麗にはしてありますので」
「いいのかい?」
「もしかしたら辛くなるかも…………」
洸祈の思い出に触れたら、きっと辛くなる。俺はこの思い出を覚えていないし、洸祈も覚えていない。それが辛い。
誰にも思い出して貰えない思い出は寂しい。
「嬉しいよ。寧ろ、洸祈の部屋に泊まらせて欲しい」
ここ一週間程、双灯と相部屋でビジネスホテルに泊まっているが、正直、狭い。それに、酔った双灯は裸で部屋の中を彷徨くし、最悪だ。ことさんは部屋交換に一切応じないし。
年下とは言え、俺の方が先輩なのに…………とは言えないし、双灯がそれを全力で邪魔してくるし。
毎夜、やよさんとの恋バナを聞かせる為だけに俺を相部屋にしているのは知っているのだ。
だから、今夜ぐらいは壁に恋バナを聞かせればいい。序に隣部屋のことさんに煩いと怒られればいい。
「ほな、三人は明日のことで準備とか忙しいやろうし、体力も温存せなあかんから、俺達二人で夕飯とか買い出し行ってくるで。欲しいもんあったら言ってな。車あるし、大きいのもいけるで」
「じゃーねー、昨日発売のー、分かるかな、ルーチェって雑誌でー、えーっと、今月はー、確かー、あの人が表紙なんだけどー、ほら、月9の……」
雑誌なんて殆ど買わない。
買っても、女性陣のお使いか、月華鈴の取材記事が載ったものぐらいだ。と言っても、俺のコメントは数える程だし、写真は写っても小さい。それでも、情報が溢れている現代で雑誌に載せてもらえるのは嬉しいから保管用に一冊は買うのだ。
脱線したが、千里君はハイセンスな芸能人のグラビア付き、流行雑誌を読む男の子だったようだ。思えば、真にお洒落な人だけが着こなせるらしい破けたジーンズ履いてたことあるし。ノースリーブをかっこよく着れるとか、大きな声では言えないが、羨ましい。
「こら、千里。由宇麻さんは気にしなくていいですよ」
「雑誌やろ?ニーチェだっけ?ええよ。月9の人は分からんけど、きっと、なんかかっこいい男の人が表紙の奴やろ?腕組んでる背の高い眼鏡の人探すから」
ニーチェだったっけ?……そうだったかも。まぁ、司野さんが言うからにはそうなのだろう。
「あー……いいよ。発売日明日だった気がする」
「そうなん?他にはあるか?」
千里君は葵君をちらと見ると「ううん。夕飯楽しみにしてるよ」と言った。葵君が目で「これ以上、由宇麻さんに迷惑をかけるな」と訴えているのを察したのだろう。
「なら、皆はゆっくり休んでてな。欲しいもんあれば、陽季君に電話してや。俺、運転係やから」
「分かりました。ところで、陽季さん」
「え?あ、呉君。どうしたの?」
呉君に話しかけられたのは久しぶりだ。普段、喋っても挨拶程度の言葉しか交わさないのに、今日は呉君から俺の名前を読んでくれた。
「聞いたところによると、気味の悪い着信音を変えられなくて困っているとか」
「え…………あ、うん」
あんば、あんば、あんばっばっば、あんあんあんあんあんばっばーって奴かな。
「よろしければ、僕が変えましょうか?」
「…………………………でも、パスワード掛けられてるらしいんだけど」
「陽季さんのお誕生日ですよ。洸祈さんは四桁の数字の場合、8割の確率でこの数字を使います。と、過去の僕の分析結果にありました」
なんでそんな分析をしたんだい?過去の呉君。
疑問が多すぎて、洸祈が俺の誕生日を大切にしてくれていたことに素直に喜べない。取り敢えず、言われるがまま操作すると、パスワード入力画面へ。
俺の誕生日を入れてみる。
「あ…………開いた……」
まさか。
「ここ、変えれば好きな着信音にできます」
着信音のタイトルは『あんばださーのうた』だ。
ずっと変えたいと思っていたが、こうあっさりと解決すると……。
「………………………………」
「やっぱり、やめときましょうか」
「え…………」
「この着信音がある限り、陽季さんは洸祈さんの存在を忘れることはありませんから」
細い指先がぱっぱと画面を操作し、あっという間に最初の画面に戻る。画像ファイルに残っていた笑顔の洸祈の壁紙に。
「あの、これでいつでも変えられるので、代わりにべっ甲飴が欲しいのですが」
伏し目がちに少しモジモジとしながら、呉君が頼んでくる。
「了解。べっ甲飴買ってくるね。あと、代わりにじゃないよ。このお礼はまた後でさせてね」
口数は少なく、いつも眠たげで、見た目は不思議ちゃんだが、喋れば彼の純粋さや素直さ、素朴さが滲み出てくる。悪魔は長生きと聞いたが、長生きの分だけ、人間の愚かさを嫌という程見てきただろうに。しかし、彼は闇に染まらないでいる。こうしてヒトの傍にいてくれる。
優しくて芯の強い子だ。
俺より年上だとしても、この小さな頭を撫でたくなる。
そう思っていたら「呉君、沢山買ってくるからな」と微笑んだ司野さんが呉君の頭を撫でた。猫のように目を細めて、戸惑いながらも気持ち良さそうに撫でられる呉君。
…………俺も撫でたかったな。
はる!はる!撫でて!
また聞こえた。
携帯に残るビデオの音声と同じ、彼の声。
撫でていたら、彼はまだここにいただろうか。
「んー、これはー、ヤバいっす」
「そうだね。私も知らずに君の上司のパソコンに挿したら、うんともすんとも言わなくなってしまったよ」
「え……それもヤバいっす。夏休みから帰ってくるの明日っすよ。内部監査室の白衣の人がやったって言うっすからね」
「で?これ、なんだい?スー君」
「スー君?誰っすか、それ。……いいっすか?これ、ようは接続機器を取り敢えず破壊するハイテク兵器っす」
「ふーん。破壊だけ?」
「見た目は都の気象情報なんすけどね。本部のネットを通して、既に軍の殆どのPCに入り込んでいるウイルスを起動キーにして、このUSBを挿した瞬間から破壊が起きる仕組みになってるっす。そこのパソコンを通してうちのサーバーも連鎖的にやられる予定だったんすが、藤堂さんが電源ぶち切ってバットで物理的に破壊したからギリ大丈夫でした」
「既に入り込んでいるウイルスってなんだい?一体いつから」
「もうずっと前っすよ。俺が生まれるよりも前……軍にパソコンが普及した時からじゃないっすかね。ま、これ単体じゃ悪さは出来ないっすから、ずっと見逃されていたみたいっす。今ここの駆除しても根っこが本部っすから、意味ないっすね」
「これ、外部と不正に通信した形跡はあるかい?」
「それはないっす。壊すだけっす。混乱させる為だけみたいっすね」
「そう」
「で?どこからゲットしたんすか?これ」
「勿論、我が軍の裏切り者からだよ」
「……………………もう聞かないどくっす」
「賢明だね。……さて、と。念の為、警備室に言っとくかな」
「なんすかなんすか!怖いっす!俺、非戦闘員っす!」
「すーすー煩いなぁ。夏休み取ればいいだろう?帰って来た上司に頼めばいい」
「あんたが粉々にぶっ壊したパソコン見たら、夏休みくれるわけないっすから!」
「じゃ、これは返してもらうよ、スー君」
「あ!明日、藤堂さんから説明してくださいよ!それと、俺、スー君のスの字も入ってないっす!羽黒っす!」
システム管理室の羽黒の叫びも虚しく、USBを回収した藤堂は白衣を翻してさっさと出て行った。