愛は惜しみなく与う
「おばちゃん!ご飯おかわりあるー?」
赤茶の髪に緋色の瞳。
青年はご飯茶碗をカウンターに置いた。
「あるよ。ほら、じゃんじゃんお食べ。ここの人は軍人だってのに皆して少食なんだから。あんたの為にご飯炊いてるようなもんだしねぇ。……しっかし、あんたは食べても食べても細っこいねぇ」
白の頭巾にエプロン。年配の女性は青年から茶碗を受け取ると、大きな炊飯器の蓋を開け、白米を山盛りに盛り付ける。
「おばちゃんのご飯いーっぱい食べれるように運動してるから。敷地の端から端まで探検してるんだ。秘密基地も作ったんだよ」
「へぇー。どこに作ったんだい?」
「秘密だよ!秘密基地なんだから!」
屈託の無い笑顔を見せた青年は両手で茶碗を受け取った。
「そうだったねぇ。あ、カツおまけね」
「本当!?ありがとー!俺、おばちゃん大好き!皆もね!」
白米の山にトンカツを二切れ。
おかずの追加に目を輝かせた青年はおかわりをよそってくれた女性と後ろで食器洗い等他の作業をする女性達に手を振った。
「はいはい。おばちゃん達もコウキ君のこと大好きだよ!」
女性達もまた、各々の手を止め、優しく笑った。
「あんば、あんば、あんば、ば、ばーぁぁ……あ…………あれ?」
意気揚々と鼻歌交じりで自席に戻ろうと並んだテーブルの間を歩くコウキが不意に足を止めた。そして、隅の席で黙々と食事する男の横に無言で座る。
「ねぇねぇ」
テレビのバラエティ番組を見ながら、コウキが隣の男に語り掛けた。
「………………」
男は俯き、蒸されたインゲンを摘んで口に入れる。
返事が一向に返って来ない為、コウキは手のひらを男の目の前で振った。
「え…………………………あ」
とうとうコウキの存在に気付いた男は口を半開きにしたまま彼を見下ろした。
「こ、コウキさん!?」
「やっほー」
「え……………………やっほぉ?」
「ねぇねぇ、どうしたの?その腕」
コウキの人差し指が男の左腕を指す。それも、ギプスで固定された左腕を。
「折れたの?お仕事で?大変だねぇ」
「え……あ…………いえ、ヒビが………………お気遣いありがとうございます……」
「誰にやられたの?そいつ捕まえた?まだなら俺が仇討ちしてあげるよ?」
眉根を上げ、渋い顔をし、男の腕を心配するコウキ。男は「大丈夫です」と言うと、「私の不注意ですから」と自嘲めいた薄ら笑いを浮かべた。
「ふーん。じゃあ、一杯食べて、早く元気になってね。お疲れ様!」
手元の茶碗に乗ったトンカツの一切れを摘んだコウキは、それを男の皿に移すとさっさと立ち上がって自席へと歩いて行く。
「お、お疲れ様です……」
遠くへ行ってしまったコウキの背中を見送った男。コウキは席に着くと、テレビで流れるクイズに「答えは絶対にAだよ!」と一人で喋りながら食事を再開する。そして、男は増えたトンカツを見下ろした。
灰色の天井、壁、床は多分コンクリート製。縦長の白熱灯が照らす四畳半の小部屋。
そこに存在するのは、木製の簡素な机に簡素な椅子と、「忘れ物がないか今一度確認を」と書かれた貼り紙。
そして、彼。
コンコン。
合金製の黒色の扉がノックされ、俯いていた彼はゆっくりと顔を上げた。
キィ……。
「あ、おかえりー」
ひらひらと手を振りながら部屋に入ってきたのは上下えんじ色のジャージを着た青年――コウキ。
「…………………………てめぇ……」
部屋の壁に凭れて座る男がコウキの登場にこれでもかと眉間のシワを量産した。
「『てめぇ』じゃなくて、コウキだよー。最近物忘れ激しくなったの?さがさん」
「それはお前だろ。僕への口の利き方を忘れたようだな?老いぼれはさっさと死ね」
「その切れ味はいつも通りのさがさんだね。お腹すいてるよね。はい、ご飯。食堂のおばちゃんが夕食の残り物を詰めてくれたんだ。今日はトンカツ定食。お味噌汁は冷めちゃうし、零しちゃうかもって貰ってこなかった。ご飯はおにぎりにして貰ったよ。トンカツ用の味なし、ネギ味噌、おかか……あと、梅!多かったら俺が夜食に食べるけど」
手持ちのビニール袋から使い捨て容器を取り出したコウキは机の上に並べていく。そんな彼の背中を男――相楽は睨む。
「なんで来た」
「え?」
コウキがキョトンとした顔を相楽に向け、どこかで誰かが歯軋りする音が聞こえた。
「藤堂に言われたか?僕を見張れ……いや、情報を取って来いと」
「何それ。やましいことがある人の台詞だよー?俺はただ、おばちゃんがさがさん最近ご飯食べに来てないって言ってたから、きっとお腹空かせてるなーって思って。抜き足差し足忍び足でこっそり来たのに。あ、嶺さんの怪我は骨にヒビが入っただけみたい。俺の分のトンカツで謝っといたから、安心してね。って………あー!!!!!!」
ランチョンマットを敷き、容器を綺麗にセッティングし、割り箸を美しく割ったコウキが突如悲鳴をあげ、相楽が僅かに目を見張る。コウキの背中はわなわなと震えていた。
そして……。
「…………………………トンカツにソース掛けてくるの忘れた!どうしようどうしよう!?あ…………あう…………えっと……えっと……………………じゃあ、ソース忘れたお詫びに、トンカツは俺が食べちゃ――いだぁっ!」
「食うな、乞食。それは僕のだ」
コウキの背後に立った相楽が、トンカツの入った容器の蓋に指を掛けた彼の手の甲を思い切りつねった。
「酷いよぉ!前にソースのないトンカツは万死に値するって言ってなかった!?俺はそれを回避しようと……」
「だったらソース取って来い、クズ」
「えー。ここから食堂遠いよ。ヤダ。そもそも、もう食堂閉まってるし。ほら、10時。今、閉まりましたー。残念だった――あうちッ!」
ベチンッ。
小気味よい音が鳴り響き、つねられた所に平手打ちという追い打ちを掛けられて、コウキは蹲る。
「あうぅぅ……さがさん、本当に乱暴な人だよぉ。俺じゃなかったら離婚の危機だか――あわわわわわ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいッ!嘘ですぅッ!」
「地獄に堕ちろ、カス」
相楽は振り上げた拳を下ろすと、椅子に座り、早速カツを一切れ口に入れた。コウキも直ぐに持ってきた水筒から茶をコップに注ぎ、相楽の手元に置く。
「さがさん、足りる?」
「…………………………」
「これ、置いとくね。お菓子沢山入れといたよ。あと、俺オススメの安眠枕。俺を殴る代わりにこれサンドバッグにしてもいいから」
コウキは肩に掛けていたナップサックを床へ。それを相楽は千切りキャベツを食べながら横目に見る。
「それじゃあ、帰るね。…………何かある?」
「…………………………」
勿論、相楽から返事はない。静かに葉物を咀嚼する音を響かせるだけ。コウキはつねられた手を見下ろすと、少しだけ長く息を吐き、小部屋のドアノブを掴んだ。
「……………………おい」
「え?…………っ」
振り返ったコウキは思わず飛んで来た『それ』を受け止めた。
親指サイズの小さな直方体。
黒色のそれは金属質で所謂、USBの形状をしていた。
「えっと…………これは…………」
これは何?
と、聞こうとしたコウキが顔を上げた瞬間、相楽の手がコウキの肩を鷲掴み、ドアに押し付けた。空いている片手がコウキの首筋に添えられる。
全ては瞬きの間の出来事。
「うっ!?え!?」
現在の状況に理解が追いつかないのもあるが、今の今まで一度たりとも相楽が許してこなかった超近距離にコウキは口をぽかんと開け、視線を右往左往させた。そして、鷹のような相楽の鋭い視線に喉仏を大きく上下させた。
「あ、う、んっ、え、っと……」
「黙れ」
「っ!」
それは短く低い声だった。
コウキは息を止め、口を固く結ぶ。額は緊張で薄く汗ばんでいた。
「僕への返事は頷くか、首を振るかだ。『分かった』は頷く。いいか?」
「う、うん…………あ……」
ジロっと睨まれ、コウキは慌てて首を縦に振った。
「お前は何も考えずにさっき渡したのを第一管理室のメインパソコンに挿す。分かったか?」
第一管理室は分かる。
メインパソコンに、挿す…………?
コウキは首を傾げた。
相楽の相手を蔑む瞳が絶対零度の瞳へと変化する。取り敢えず、土下座して謝りたいところだが、それをすれば、家畜の肉を捌く様にすっぱりと舌を切られるだろう。
「第一管理室入って真正面のパソコン画面の右に、黒くて無駄にデカい直方体の箱がある。緑色のライトが横に一直線に並んでいる箇所があるから、ライトのすぐ下、形の合う穴を見付けて挿せ。分かったか?低脳」
「…………ちょっと難し…………あ、ごっ………………んんッ……!!」
「分かったか?無能」
相楽に首を掴まれ、呼吸の出来なくなるギリギリまで締められたコウキの顔色は、水に入れた絵の具が溶けるように直ぐに赤色に変わった。そして、苦しそうに眉をしかめた。
赤い顔は赤茶の顔へ。徐々に土気色へと変化して行く。
コウキの瞳から生気が失われかけた時、相楽がパッと手をはなした。
「………………………………」
「っ、はっ、はっ……っ、げほっ……は、っ……は……」
喉を押さえたコウキは咳き込み、背中を丸める。
「ぁ……なんで…………っ、放して……くれ……たの……?」
「僕は変態の嗜好に付き合う気は毛頭ない」
「へ…………………けほ…………………はぁ……………………残念…………さがさんのお仕置期待したのに………………」
頬を赤く染めて微笑むコウキ。恥じらう様子もなく、汗をかきながら嬉々とした表情を隠せない彼に相楽が額に手を当てて離れた。
「もういい。さっさと出て行け」
「……………………さがさん、嶺さんとお仕事中にいなくなったって。……どこ行ってたの?東京で異常気象、局地的に大雪が降ったって。あれ、さがさんだよね?」
「お前には関係ない」
「関係ないって…………藤堂さん、さがさんのことを疑ってる。事情があるなら、説明すればきっと許してくれるから」
「二度も言わせるな。お前には関係のないことだ」
「………………………………」
二度も冷たくあしらわれたコウキ。縋るような視線を向けるが、相楽は彼に背を向けて黙々とおにぎりを食べている。
見た目では無視しながらも、相手の話をきちんと聞いてくれる時もあるが、今の相楽の背中からはこれ以上聞きたくないし、聞く気もないというオーラが出ていた。
コウキは眉間を寄せて肩を落とすと、「関係なくないよ……」と囁いて部屋を出て行った。
喉が乾いた為、飲み物を買おうと廊下を歩いていると、奥の角に赤茶の髪が見えた。
「あ、コウキさ……」
夜間帯用の薄暗いダウンライトに照らされるのは、えんじ色のジャージを着た青年。彼は何かを見付けたのか、私の声には気付かずに駆け足で行ってしまった。
時間も時間だし、夕飯にトンカツの追加を貰ったことを今すぐ感謝する必要もないだろう。明日また、出会った時に「トンカツをありがとうございました」と言おう。
私は自販機で水を買い、部屋に戻る為に踵を返した。
何となく目をやった小窓に水滴が付いており、私はふと、明日には雨は止むだろうか。と思った。
その時だ。
「――っ、約束と違うよ!!」
コウキさんの声。それも、嫌がる声がした。
私の腕を心配してトンカツをくれた人が危険な目にあっているのか……!?
私は更に踵を返し、コウキさんへの恩を返しに戻った。
「言ったじゃん!さがさんのこと密告したら、さがさんのこと悪いようにはしないって!」
密告…………相楽さんの?
「密告して、疑いが晴れたら、の話だよ。裏切り者を見逃す?それじゃあ、君に密告させる意味がない。君は本当に………………馬鹿だ」
藤堂さんの声だ。
一体どういう状況なのか……。
くれぐれも見付からないよう、私は廊下の角から二人の様子を窺った。
藤堂さんはいつもの白衣にマグカップ……ではなく、何か小さな黒いものを持っていた。口元は笑みを含んでいるが、瞳は冷たい。それこそ、いつもの顔ではあるけれど。
コウキさんは背中が見えるだけで表情は見えない。
「じゃあ、それ返して!俺はさがさんのこと裏切れない!」
コウキさんが藤堂さんが手に持つ黒色のそれを指さした。
「ちょっと……君、馬鹿だって。僕に相楽の言葉を伝えた時点で君は相楽の裏切り者なんだよ。僕は今更聞いてないとは言えないし、このUSBを返すつもりは勿論、ない」
「……っ!」
コウキさんが藤堂さんの手からUSBを奪おうと腕を伸ばすが、直ぐに堪えるように肩を丸めて後退りする。藤堂さんも、驚くことも怒ることもなく、ただただコウキさんの反応を見るだけだった。多分、藤堂さんは、コウキさんが結局、自分に手を出さない事を分かっていたようだった。
「君は既に裏切り者。だったら、相楽がこの後どう出るか観察すべきだ。相楽はこれをどうしろとは言ったけど、裏切りの決定的証拠にはなり得ないからね。まだ挽回のチャンスはあるってことだ。そうだろう?」
「…………………………」
藤堂さんとぶつかり、相楽さんと自身の立場を更に悪化させるか、相楽さんを信じるか。
「君は僕と相楽の真ん中に立っている気でいるようだけど、君は圧倒的に僕の側だ。これは自信じゃない。君は相楽と何の繋がりもないが、僕達はある。切っても切り離せない、固い繋がり。いや、太くて固い鎖、か」
藤堂さんは踵を鳴らして、動けないでいるコウキさんに近付くと、彼の肩に手を乗せて囁く。
「君は誰の飼い犬か自覚しなさい。コウキ」
それが彼らにとって……藤堂さんにとって会話終了の合図だった。藤堂さんはUSB片手に行ってしまう。そんな彼の背中をコウキさんは見ることなく、ひたすら俯いていた。
藤堂さんは階段を降りて行き、俯いていたコウキさんは空気の抜けた風船みたいによろよろしながら蹲った。
行くべきか。行かぬべきか。
「…………嶺さん」
「!?」
くるりと顔だけ後ろを向く。
隠れて聞き耳を立てていた私をじっと見詰めていた。
もう隠れていても意味はない。
「あの……大丈夫ですか?」
「うん……大丈夫……」
儚い笑み。
少しだけ目尻が赤い。
「…………立てますか……?」
コウキさんはしゃがみ込んだまま。手を差し伸べれば、彼は「ありがとう」と言って掴んだ。
冷たい……手だ。
「あの…………………………」
聞いて良いのだろうか。藤堂さんのこと……相楽さんのこと……。
先日、元軍人で科学者である日比野研究主任の息子を追って相楽さんと任務にあたった。「僕は相棒なんて要らない」と相楽さんには言われたが、藤堂さんに命令された以上、相楽さんから離れる訳には行かなかった。しかし、注意していたにも関わらず、東京駅で相楽さんに撒かれてしまった。
藤堂さんには「君一人じゃ使えないから帰って来なさい」と言われ、一人帰らざるを得なかった。そして、単独で帰って来た私に藤堂さんは何も言わなかった。執務室に入る事さえ、許されなかった。
藤堂さんは私に期待などしていない。
ただの人数合わせ。人事に逆らえない、逆らわないだけだ。
いても居なくても良い存在。出来れば相楽さんを監視してくれればいい……ぐらいの。
そうして、不意に戻ってきた相楽さんは大人しく軟禁された。
私の腕はただの不注意だ。相楽さんの背後から声を掛けた私が悪い。
しかし、あれからコウキさんは相楽さんに会ったのか。
相楽さんはあからさまな態度でコウキさんへの不快感を滲ませていたが、本当のところは違かったのだろうか。
だとしたら、相楽さんは策士だし、それはコウキさんも同じ…………。
いや、彼は素直過ぎる人だ。裏表がないから人を警戒させないだけだ。
きっと。
「……嶺さん?」
「……………………夕飯のトンカツ……ありがとうございました」
「あ…………う、うん……どういたしまして?」
素っ頓狂な顔。そして、彼は微笑んだ。可笑しそうに。
少し元気になっただろうか。
「お部屋まで送ります」
「本当?嶺さん、ナイトみたいだね。俺、お姫様になった気分だよ」
騎士だなんて……反応に困る。しかし、お姫様さながらに俺の手に並べた指先をちょこんと乗せたコウキさんはゆっくりと立ち上がった。
「夜道は危ないよね。送ってくれる?」
首を傾げて上目遣いに尋ねてくる姿は幼く見える。一応、二十歳過ぎた青年には場違いな感想だろうが。
「了解しました」
コウキさん、密告ってどういう事ですか?
コウキさん、相楽さんと何を話したんですか?
コウキさん、さっきのUSBは何ですか?
コウキさん、鎖って何のことですか?
コウキさん、相楽さんは『裏切り者』なんですか?
コウキさん、貴方は『裏切り者』ですか?
私は何一つ聞けずに彼を部屋まで送り届けた。