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啼く鳥の謳う物語2  作者: フタトキ
あなたと共に歩む
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裏切りと正義(13)

「随分前に麻酔は切れてるはずなんだけどね。まだ起きないって言うことは、普通に寝てるんじゃないかな。目の下、濃い隈になってるし。寝不足気味だね」

「寝不足であれか……どうせお前のことだから、全部見てたんだろ?」

神影(みかげ)は眠る男の様子を診る(れん)を見下ろした。

「どうせ、はさて置き、(あおい)君の所からね。魔法使いとしては優秀だけど、沸点が低過ぎる。小学生以下じゃないの?聞いてないよ。彼、話通じるの?」

「こんなに武器隠してさ」とボヤく蓮は膝に置いたトレーに積まれた頑丈そうな針や折り畳みナイフなどを見る。どれも小さく、精巧な作りで、十分な殺傷能力があった。

「口悪いんだ、その人。殺してやるって何回も言われた」

中腰になり、葵の背中に半身を隠した千里(せんり)はおっかなびっくりの顔で遠くから様子を伺う。それとは相対的に、葵は至って真面目な顔で「俺が話します」と言った。

崇弥(たかや)の君が?」

蓮は本気かい?と言いたげにズレた老眼鏡の位置を直す。どこからともなく、小さな溜め息も聞こえた。

千里はビクリと肩を竦め、葵は僅かに眉間にシワを寄せる。

「崇弥洸祈(こうき)の弟である俺が、話をします。それに、崇弥は(さくら)ほど軍人一族ではないし、たまたま自分達の能力の使い道が軍の武力だっただけです。兄を取り戻す為なら、親戚に恨まれたって構わない。崇弥の直系は兄と俺しかいないのだから」

「一応、現崇弥家当主の発言にしては、随分と、手前勝手だこと。確かに、武力もさる事ながら、資金源である煉葉(れんば)に次ぐ和泉(いずみ)に抜けられちゃあ、軍もかなわないからね。…………でもまぁ、どの道、彼の協力が得られなければ、僕らは手段を選ばずに崇弥洸祈を奪取し、全てを捨てて逃亡生活するだけだしね」

その台詞を『否定ではない』と捉えた葵は強ばらせた肩をリラックスさせた。

「冷静沈着な君なら、短気な彼の目線まで下がったりはしない。常に高い視野から彼を見下ろせると信じるよ」

「ありがとうございます」

葵が姿勢よく頭を下げ、蓮達の目の前に曝け出された千里は慌てて下を向く。そんな彼らに笑みを零した蓮は老眼鏡を外すと、部屋の隅に立つ遊杏(ゆあん)を手招きした。縦横無尽に茶色の長髪をはね散らかした少女は紺色のワンピースを翻して蓮の隣へ。

「遊杏、我が家のは解いていいから、ここの結界に集中してくれるかい?」

「……にーが言うなら…………」

「武器も魔法もない空間で、彼と対等な立場で話したいんだ。お願い」

「うん。分かったよ」

遊杏は頷くと、蓮の膝のトレーを奪い、空いたそこにふわりとスカートを膨らませて座った。そして、頭上の蓮の顔を真ん丸の瞳で見上げる。

「にーのお願いに、ボクチャンが応えないわけにはいかないよ。ボクチャンはにーの最高傑作であり、にーの愛され系ロリ妹だもん」

深い海の底と同じ色の両目が蓮を見詰め、向日葵に似た大きな笑みを見せた。蓮も目を細めると「いつもありがとう」と優しく微笑んだ。








ガシャンッ――


「えっ!?」

自分と少女だけのお茶会と思いきや、背後で突然鳴った音に葵は驚き、手近なフォークを掴んで振り返る。

そんな彼の前には既に少女――遊杏が背を見せて立っていた。

「……これはどういう事だ?」

「あ…………」

前髪が妙に濃い影を作り、追っ手の男――相楽幸生(さがらゆきお)が鋭い目付きで葵と遊杏を睨み付けていた。

相楽の片腕は上がり、どうやら、先の音は拘束用の腕輪から伸びる鎖が鳴った音のようだった。

「僕をいくら拷問しようと、僕は何も喋らないし、軍は僕を助けになんか来ない。寧ろ、お前達共々僕を消しに来るぞ」

ニタリと引き伸ばされた唇は、二人を嘲笑う仕草だった。

「………………俺の顔を見て、何か感じませんか?」

「は?」

相楽の目が鋭さを治め、誘拐犯の素っ頓狂な台詞に一瞬、目を丸めた。彼は葵をじっと見詰め、目を逸らした。

「知らない」

一言。それだけ。

その時、遊杏がスカートの裾を翻して飲みかけだったジュースのコップを掴んで椅子に腰掛けた。

ついさっきまで相楽を警戒していたはずの少女がジュースを飲み、菓子を頬張る。もう興味無いと言った様子だった。

葵も微かに笑みを見せると、そっぽを向く相楽を放って茶器を手に取る。

「何も喋らなくていいです。俺の話を聞いて頂ければ、それで。……申し訳ございません。冷たいお茶とお菓子ですが」

プラスチック製の軽いコップに冷えた緑茶を、同じくプラスチック製の小皿に何枚かのクッキーを乗せたものを、相楽が手を伸ばせばギリギリ届く位置に並べて置いた。

相楽は見向きもしない。しかし、常に周囲の様子を伺っている気配は葵も感じていた。

「ドッペルゲンガーではありません。あなたが思い浮かべた『彼』は俺の双子の兄です」

「………………………………」

相楽は何も言わないが、遊杏がごくごくと喉を鳴らす音に紛れて、微かな金属音が響いた。

「兄は白魔法を使い、全ての人間から自分に関する記憶を消した。そして、俺達の前から消えた」

葵は椅子を相楽の足元に置くと、腰掛け、軽く息を吐く。

「俺の名前は崇弥葵。兄の名前は崇弥洸祈。あなたは兄の居場所を知っている」

葵が自分の顔の横に掲げたのは一枚の写真。

微笑む葵の肩に手を置き、ニッと歯を見せて笑う葵と同じ顔の男。赤茶の髪に紅色の瞳の青年。

「単刀直入に。あなたは兄を鬱陶しく思っていると聞きました。あなたは兄を追い出したいし、俺は兄と元の家族に戻りたい。協力して頂けませんか?」

葵が口を閉じ、静寂の流れる空間にクッキーが割れる音と小さな口の小さな歯がクッキーを噛み砕く音が響く。

「…………まぁ、あなたは答えないし、答えても、『兄を裏切り者として処分する方が手っ取り早い』と言うだろうと聞いていましたから」

その時、相楽がゆっくりと振り返り、葵の喉元を眉間の寄った目で睨んだ。しかし、何も喋らない。

「あなたの名前は相楽幸生。きっと俺はあなたの考える以上にあなたの事を知っている」

「……………………僕の事を知っている?それがなんだ?僕の名前が分かり、僕の生まれた地が分かり、僕の育った環境が分かり、僕の仕事が分かり、僕の性格が分かる。それで?僕を脅す材料でも見つけられたか?そうだな。あるのなら、是非とも聞きたいな」

彼は鼻で笑い、そして、葵の用意した皿も、コップも払い除けた。

プラスチックのぶつかる軽い音がし、遊杏が横目に床に落ちたクッキーと零れたお茶を見る。

「あなたの過去に脅せる材料はありませんでした。ですが、俺達はあなたに相川幸徳(あいかわゆきのり)さんの身柄を用意出来るとお伝えしたら?」

ガタンッ!

相楽の両腕の拘束具が騒がしく鳴り、指が宙を掻いた。

「相川は僕が殺す!あいつは僕が!」

葵の首根っこを掴もうと手を伸ばすが、勿論、届かない。葵も冷静な表情を崩さない。

「洸祈を取り戻せたら、相川さんに会わせます。中立の妨害は入りません。あなたと相川さんの二人きりにします」

「お前がその約束を守るという保証はないだろ」

「あなたが相川さんに執着していることを、彼自身に聞きました。相川さんもあなたとの決着を付けたいと。ですが、(きり)はそれを許さない。軍の内通者だとバレた今、彼の身は中立にとっても脅威。桐は彼を外国に行かそうとしています。対して、あなたはこの国から出られない。俺に協力しなければ、あなたはこの先永遠に、相川さんに会うことは出来なくなるでしょう」

相楽は微かに口を開き、固まる。

「最後のチャンスです。……今、決めてください。協力するか、しないか」

「……………………………………」

「……………………………………」

相楽が黙り込み、葵も黙り込む。

葵は落ちたクッキーを床に転がっていた皿に乗せ、コップも掴んだ。零れたお茶を雑巾を掴んだ遊杏がテキパキと拭く。

「洸祈を取り戻した後であなたを解放します。それまではあなたをここで監禁させてもらいます。直ぐにバレることとは言え、軍にはギリギリまで俺達のことを知られたくないですから」

「ありがとう、遊杏ちゃん」と言った葵は少し残念そうな顔で濡れた雑巾を受け取り、遊杏もまた「どういたしまして!」と高く弾むような声音で答えた。

「また後で食事と飲み物を持ってきますので」

「……………………………………」

やはり、相楽は何一つ喋らぬまま。

葵はチラと彼の横顔を見ると、お茶会用の食器を持った遊杏の頭を撫で、彼女と共に部屋を出た。




リビングのドアを開けると、ソファーに並んで座っていた神影さんと千里の瞳が同時に俺に向いた。

遅れて、二人の向かいに腰掛け、老眼鏡を掛けて書類に目を通していた蓮さんが俺を見上げる。

「あお……どうだった?」

「行こう。俺達だけで構わない。どんな手を使っても洸祈を取り戻す」

「………………駄目……だった?」

ふぅ……。

誰かが息を吐く音。千里、神影、葵の順で揃って同じ人間を振り返る。――二之宮(にのみや)蓮だ。

「蓮?」

神影が怪訝な顔をして蓮の横顔を見る。蓮は眼鏡を外すと、畳んでテーブルに置き、走り寄ってきた遊杏を膝に乗せた。

「駄目じゃないよ、彼は」

「相楽さんは自分のことをいくら知っていようと、脅す材料にはならない、と。相川さんの話もしましたが、結局は……」

駄目だった。

反応は見せたが、それも最初だけ。彼が決める時は即決するタイプなのは事前の情報から分かっていた。その彼が葵の問い掛けに黙りを決め込んだ。彼が今後いくら待とうと、口を開くことはないだろう。

「言ったろう?僕は情報屋で医者だ。それも、結構、優秀な」

「自信家だな」

神影の呆れ顔に蓮は微笑み返した。

「真実さ。なんせ、ほら――」


「……………………なん……っ!?」


神影が首を伸ばした体勢で固まり、隣に座っていた千里が勢い良く立ち上がる。

「櫻の糞ガキが」

「ひぃっ!!」

神影の首に腕を回し、銀色に光るメスを彼の片目に向けた男――相楽が千里を睨み付けた。咄嗟に千里が両手を顔の前で広げ、相楽の視線から逃れようとする。

「どうやって拘束を!?」

相楽の腕に嵌められていた鎖付きの腕輪はなくなっていた。

葵には、「軽いが、頑丈な素材で出来ている」と、蓮は言っていたが……。

「嫌だなぁ。我が家には幼い女の子がいるんだよ?そういう汚い言葉は遠慮していただきたいね。これから協力してこうってところなのに」

「はあ?」

「拘束を外せたんだ。逃げようと思えば、君は逃げることができた。なのに、ここにいる」

日比野(ひびの)神影は連れて行く」

相楽が神影の首を締める腕をキツくし、神影は思わずソファーから立ち上がる。

「俺はクソ親父を憎んでたんだ!お前達の求めるものなんて、なにも貰ってない!」

「そうだよ。彼を連れて行っても何も得られないよ。彼自身は何も持ってないから」

「蓮!!」

神影が蓮の方に身を乗り出すが、相楽の拘束で動けず。

「彼のお父さんが彼に残したのは情報を詰め込んだ『もの』じゃない」

「蓮!!それ以上言ったら――」

「情報を持った『ヒト』だよ」

「お前っ!!何で!!!!」

声を荒げ、腕を伸ばし、頭を振った神影の瞼をメスの刃先が掠める。蓮が険しい顔をして俯くと、片足を摩った。

「その『ヒト』はね、神影君が傷付くのを許さないんだ。…………遊杏」

遊杏がゆっくりと顔を上げ、波色に輝いた瞳が相楽を見詰めた。目を見開いて固まる相楽。

「僕はその『ヒト』ではないけれど、僕もまた、神影君が傷付くのは許せないんだ」

「糞ガキ……っ」

「君は相川幸徳を恨んでいる。殺したい程に憎んでいる。何にも執着しなかった君が。それは彼が、毎日ただ呼吸をするだけだった君に出来た、たった一つの生きる理由だからだろう?」

その時、相楽の手からメスが滑り落ち、葵がすぐ様それを拾い上げた。神影も緩んだ彼の腕からどうにか逃れる。

しかし、それらが相楽の意思からでないことは明らかで、相楽は動く口でギリッと歯軋りをした。

「お前は僕に詳しいらしいが、お前が約束を守る保証はどこにある?僕が興味を示しそうな事柄を並べただけかもしれないだろう?」

「そうだね」

蓮はポケットを探ると、二つ折りの携帯電話を取り出した。それを広げ、操作してからテーブルに置いた。

『はい。相川です』

スピーカーフォンに切り替えられた携帯電話から零れた声は男のものだった。

「僕だ。二之宮蓮だ。早速だけど、ここに相楽幸生がいる。崇弥洸祈を助けた後、本当に君に会えるのか保証が欲しい、と」

そんな蓮の問い掛けに、暫しの沈黙の後――

『相楽さん、あなたに協力を頼むよう言ったのは俺です。そして、俺を交渉材料にするように言ったのも。保証…………あなたは守る者があるもの程容易く裏切るといいました。ですが、俺はそうは思いません。俺は俺を助けてくれたコウキさんを助けたい。自分の主張を曲げないために、俺はあなたの前に絶対に現れます』

「お前は現れない」

『俺が現れなければ、あなたは地の果てまで俺を追いかけて来る。ですが、俺が現れれば、それは俺が正しかったと言うこと。あなたは自分の正しさを証明する為、俺を無視することができない』

「お前は絶対に現れない!」

『……だから、賭けをしましょう。賭けるのは、俺の命です。あなたを裏切った俺の命です。あなたが正しいと言うのなら、この賭けに乗って下さい……――』

ぷつり。

通話は一方的に切れ、蓮は携帯電話を閉じてポケットに戻した。

「遊杏、解放してあげて。彼に拘束はもう不要だ」

こくりと頷いた遊杏。

瞬きをすると、彼女の瞳は波色から深い海の色に戻っていた。

相楽も宙を掴んでいた手を下ろすと、三歩下がり、壁に凭れる。

千里は怯え顔で葵の背中に隠れ、葵は手の中のナイフを確認するかのように握り直した。神影もチラと蓮の顔を見下ろすと、視線を変えて何でもない壁を見る。




「相川は絶対に現れない…………僕はそれを証明する」




と、彼がボソリと呟いたのはお湯を沸かし直した董子(とうこ)が湯気の立つティーポットをテーブルに置いた時だった。







カーン。

良く響くが、耳に優しい鐘の音は、蓮宅の訪問を知らせるチャイムの音だ。そして、直ぐ後に蓮の部屋のドアをノックする音が控えめに鳴った。

『……蓮様』

「起きてるよ、董子ちゃん。今のチャイムの音だろう?僕が出るよ。手を貸してくれるかい?」

かちゃり。

パジャマにガウン姿の董子がひょっこり顔を覗かせ、机に向き合う蓮を部屋の隅に見付けると、彼に駆け寄った。長い黒髪がルームランプの光を反射させながら棚引く。

「もう真夜中ですよ?夜更かしはお体に障ります」

「君に言われたくないよ。夜更かしは美容の大敵って言うんじゃなかった?」

「今日は乙女の胸キュン補充の日なので、深夜ドラマを見る為に起きてました」

「え?胸……キュン……?え?」

「切なくて甘い恋を見て、胸がギュッとする……――って、何言わせるんですか。蓮様、肩掛け忘れないでください。冷えちゃいます」

椅子の背に掛かった羽織を蓮の肩に掛け、ずり落ちないようボタンを留める。そして、パジャマ姿の蓮に背を向け、彼をおんぶした。

「いつもありがとうね」

「こうやって蓮様に触れられる時間を少しでも増やそうと考えている悪い女です」

「あー………………董子ちゃん、今の台詞で胸キュンしたかも……」

「え?今のでですか?蓮様耐性無さ過ぎですよ。世の胸キュン女子はちょっとやそっとじゃ動揺しないんですよ。……でも…………蓮様が言うと……私も………………」

言葉尻を窄め、俯く董子。無言になった彼女は蓮を背負いながら慎重に階段を降りる。蓮はそんな彼女の肩に頬を寄せると、「…………君といると心臓が痛いや……」と小さく零したのだった。





「随分と待たせてごめん――」

「蓮!リトラはどこけぇ!!」

董子が開けたドアの隙間を縫って雪癒(せつゆ)が飛び込んできた。玄関先にたった彼は深夜帯にも関わらず、声を張り上げる。

何より、彼は半ズボンにTシャツ、上からカーディガンを羽織っただけの姿で、遅くから降り出していた雨で全身を濡らしていた。

「え?せっちゃん、どうしたの?」

「リトラはどこや!そう聞いてるんけぇ!!」

周囲を見渡し、リトラの影を見つけられなかった雪癒が車椅子に座る蓮の膝を掴んだ。目付きを悪くし、少年顔に似つかわしくない般若顔で睨む。

蓮も一向に見えてこない雪癒の意図に口を開きっぱなしにしていた。

「雪癒。私ならここだよ」

「リトラ!!」

雪癒が廊下の奥から現れたリトラを見付けて蓮から離れる。リトラは昼間と変わらない上下黒の服で、各ポケットやベルトには小さな武器などが仕込まれていた。要はいつでも闘える体勢だった。

テーブルを囲み、夕食を共にしたのが午後7時頃。そして、現在11時。

董子は彼女に用意していたはずのパジャマを着ていないことに残念そうな表情を見せ、ドアを閉めた。

「アリアスにシアンが奪われた!!奴の居場所はどこや!!」

「……ジャック」

リトラの背後からひんやりとした空気が広がり、仄かな青色の光と共に、トナカイが現れる。その動物は頬を寄せる代わりと言わんばかりに立派な角で彼女のショートヘアを撫でた。

「どう?」

『我が王は憂いておられます』

「うん。……そういう事だよ、雪癒」

トナカイの横顔に触れ、リトラは雪癒を真っ直ぐ見下ろした。そんな彼らの反応に、雪癒は唇を噛み、眉間を一層狭くした。

「リトラも我に喧嘩売ってるんけ?」

低い声で一言。

それはタオルを持ってきた董子の手を蓮が止める程の迫力があった。

「違う。シアンは自らの意思でアリアスについて行ったんだ。だって、何者だろうと、シアンのことを無理矢理に連れて行くことは出来ないから。……でも、シアンは今、嘆いている。それは看過できない」

『大地を統べる我が王の悲しみは大地の涙そのもの。大地が狂い泣くことになりましょう。それは王も望んでおりません。ですから、我々は王の憂いの元凶を見付け、王の悲しみを止めなくてはなりません』

「つまり、シアンの意思だろうと、彼がその選択によって悲しんでいるのなら、アリアスの傍には居させられない。私達はシアンを連れ戻す。6時間でいい。雪癒、時間をくれる?必ずシアンの居場所は見付けるから」

「ダメや!もっと早く――――っくし!」

「シアンは大丈夫。シアンが傷付いたら、私達には分かる。アリアスも精霊達を敵に回そうなんて考えはしないと思う。したとしても、師匠が絶対に止める」

リトラは董子の手のタオルを取ると、雪癒の頭を優しく拭く。最初、雪癒は嫌がったが、リトラは髪を拭く手を止めなかった。

「雪癒はお風呂に入って、乾いた服を着て、一眠りする。その間に私達でシアンの居場所を見付ける。そしたら、シアンを取り戻しに行こう」

「我は………………」

「後で神影に会ってあげて。お父さんが亡くなったことを知って、口にはしないけど、辛そうだったから」

キョトンとした、大きくて丸い黒目がリトラを見上げ、次に蓮を猫のように細くした瞳で睨み付けた。蓮が小声で「ごめんね」と謝る。

「…………ええよ……………………神影には我が最初に伝えるべきやったんや………………リトラ、探すの頼むけぇ」

「うん」

リトラの手が離れ、雪癒は頭を垂れた。

まだ濡れそぼった烏の翼みたいな髪を蓮が腕を伸ばして触れる。雪癒は力なく微笑むと、トナカイと共に玄関を出たリトラを見送った。






少し……寒い。

慣れないベッドだからか――何となく気配を感じて、俺は目を開けた。

薄暗い。何時だろうか。静かだ。

ふわりと俺の頬を撫でたのは風だ。

誰も居ないはずの部屋で…………。

視界の端をレースのカーテンが靡いた。

窓が開いているのか。微かに雨音と雨の匂いもする。

窓の向こうは小さなバルコニーのはず。と言っても、せいぜい植木鉢を置く程度の広さだが。

「雪癒」

小さな背中の彼がバルコニーの柵に腰掛けていた。

黒の着物は蓮のお下がりだろう。施設に居た時に着ていた気がする。懐かしいな。

黒髪がゆらゆらと揺れている。表情は見えないが、遠くを見詰めていた。

「濡れるぞ」

屋根はあるが、雨を完全に防ぎきれてはいないだろう。

俺は椅子に掛けたままにしていた上着を雪癒の背中に掛けた。雪癒は頭を振ると、俺の上着をしっかりと掴む。

――何故、大阪にいたはずの雪癒が東京にいるのか。

――何故、この時間のこの部屋にいるのか。

聞きたいことだらけだが、これ以上の深入りは雪癒が望まないし、俺達の関係には似つかわしくないだろう。

俺は「風邪引かないようにな」とだけ告げ、覚めてしまった脳が落ち着くまで椅子に腰掛けることにした。



「神影」

「ん?」

「シアンがアリアスに誘拐…………いや、あいつは自分からあの女についてったんや」

眞羽根(まはね)(なつ)もあの小さな女騎士と一緒に外へ出掛けた。それが悪いことじゃない。昼間から好きに出掛けられるのだ。夏には息抜きが必要だった。俺も一人になりたくて墓参りに来たのだし。だから、家で雪癒とシアンが留守番をしていたはず。

そこにアリアスがやって来た。

雪癒の結界が施されていたはずの家に。

「リトラがシアンの居場所を探してくれてる」

「そうか…………ごめんな」

「なんで神影が謝るんけ?」

「……………………お前、調子悪かったんだろ?気付けなかった」

シアンが大阪の家にいるのは、行く宛てがなかったのもあるし、何より、結界という名の雪癒の保護があったからだ。だから、シアンは俺や雪癒の許可なしに家を出ない。そして、雪癒の結界にアリアスは近付けない。

なら何故、アリアスはシアンとコンタクトが取れたのか。

そもそも、雪癒の結界が弛んでいたと考えるべきだ。

結界が弛んでいた理由は、雪癒が故意にやらない限りは、彼の体調が優れなかったからだ。

俺が気付くべきだった。

雪癒は疲れている、と。

他人に弱い所を見せたがらない雪癒の内面を知っている者として、夏やシアンを守ろうと無理をしていると気付くべきだった。

「ただの我のミスや」

トン……。

とても軽い――雪癒は軽々と床に着地すると、ベッドに乗り、布団に入った。俺の位置から見えるのは彼の小さな背中と、少し癖のついた細い黒髪だけ。

「…………シアンを取り戻すの、俺も手伝うから」

「……………………いい。我とアリアスとのタイマンやけぇ」

俺も布団に潜り、雪癒と背中合わせに横になる。その時、蹲った雪癒に布団がいくらか持っていかれた。

「タイマンなら尚更だ。リトラはその他大勢相手で、俺はギャーギャー煩いシアンを引っ張って帰る。お前はアリアスを怒鳴るなり、蹴り入れるなりすればいい」

「……………………怒鳴るけど、蹴りは入れん。我の足はあいつより短いけぇ」

ベッドから僅かに振動が伝わり、どうやら雪癒は笑ったようだった。

「神影、お前さんの父親のこと、シアン連れ帰ったら教えるから、ちょっと待っててな」

背中に感じる小さな手は雪癒の手のひらだ。

「雪癒の好きな時で構わない。だから、明日に備えて……もう今日だったな。今日に備えて眠ろう」

体の向きを変えれば小さな頭が俺の胸に引っ付いた。ツヤツヤな黒髪からは仄かに花の香りがする。

昔に戻ったみたいだった。

俺が雪癒の家に居候して直ぐの頃、一つのベッドで、雪癒は俺を守る様に傍らで蹲って眠っていた。近いけど、近過ぎない距離で眠っていた。

俺の成長を見届けた雪癒はいつの頃からか、違う階の違う部屋、違うベッドで眠るようになった。それでもたまには深酒した雪癒が俺のベッドに入ってくる。

雪癒のその行動の理由は分からないが、俺は熟睡できるから嬉しい。百歩譲って、俺も雪癒の睡眠の質を少しでも上げられていればもっと嬉しい。俺は誰かに貰うばかりで、あげられることは少ないから。

だから、雪癒が近付いたのをいいことに、俺は奪われた布団をかけ直し、目をつぶった。


今夜は良く眠れそうだ。

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