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啼く鳥の謳う物語2  作者: フタトキ
あなたと共に歩む
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裏切りと正義(12)

「どうして?」


「どうしてって、何が?あ……もう靴ぐちょぐちょだよ。気に入ってたのに……いいもん。帰ったら、新作ポチろっと」

「俺が囮になる話」

塀に積もった雪を払い、そこに腰を下ろした千里(せんり)さんはスニーカーを脱ぎ、渋い顔をして靴底の泥を傍の石の角でこそげ落としていた。

「僕だって怪我人出るの嫌だから」

俯き、靴紐を調整しながら答える彼。

「君は(あおい)さんの傍にいたいように見えた。……勿論、千里さんが俺と一緒に来てくれたのは有難いが」

驚いたり、喜んだり、怖がったり、とても分かりやすいジェスチャーをする彼だが、葵さんに向けるふとした表情はとても複雑だった。微笑んでいるようで考え込んでいるようで悲しそうで。

俺は心理学者じゃないから分からないが、葵さんのことを真剣に想い、本当に大切にしている。まるで宝物のように。――そう思った。

不意に透ける様な翡翠色の瞳が俺を真っ直ぐ見上げた。

表皮、筋肉、血管、心臓、更にその先を見透かすかのような瞳。不思議な引力を感じて、俺は彼の両目から目を離せなくなる。

「僕の一番は葵だからだよ。葵をあんな危ないとこに一人で行かせられない。だけど、僕が葵について行くって言ったって、葵はなんやかんや言って、神影(みかげ)さんと部屋に残るようにしただろうから。それに――」

立ち上がった千里さんの身長は俺よりも高く、彼の長い金髪が弧を描くのを見た瞬間、俺は瞳の引力から解放されていたことに気付いた。

「もう大切な人を失うのは僕も絶対に嫌だから。お父さんや(ゆき)さんみたいに」

背中を向ける彼の表情は分からないが、きっと複雑な表情をしているのは察した。

「よしっ」と呟いた千里さんは爪先をトントンとコンクリートの床にぶつけ、合流した際に葵さんから渡されていた黒色のモッズコートの裾を翻した。

あれは多分、柚里(ゆり)さんが生前に着ていたものだ。胸ポケットの刺繍に身に覚えがある。男物のコートに花の刺繍がされているのが気になってジロジロ見ていたら、亡くなる前に母親が縫った魔除の刺繍だと雪が説明してくれたのだ。その時に雪が被っていた毛糸の帽子にも刺繍が施されていた。

雪と柚里さんの母親は、将来の子供たちの為に、あらゆる衣類に魔除の刺繍を縫っていた。そして今、それは柚里さんの子供へと継がれている。

俺が父から継いだものなんて……ない。




『来る……!気を付けろ、千里!!』

知らない男性の――葵さんの声が耳の通信機を通して大音量で響き、俺は飛んでいた意識を戻した。

視界の端に立っていたはずの千里さんが一瞬の間に眼前に迫り、俺に抱き着いてきた。

「え!?あ、だ、大丈夫ですよ!?落ち着いて!」と言おうとしたが、そのまま背後に押し倒される。

腰骨が多分、雪に隠れていた岩に激突した。その痛みに、俺は声にならない悲鳴をあげてしまう。

「急にごめんなさいっ、神影さん」

「い、いいよ」

大人として、守られている身として、俺は必死に腰の痛みに耐えて上体を起こした。生理現象で薄く涙が出てしまうが、そこは鼻をすする振りをし、目じりを擦って誤魔化す。

『千里、今の……大丈夫か?』

「う……うん。神影さんは大丈夫ですか?」

もたつく俺に手を差し伸べてくる千里さん。俺は素直に彼の手を取った。

本音は全く大丈夫ではなかったが、「大丈夫です」と言って頷いた。立ち上がり、背中を伸ばした瞬間、怪しげな音が腰の方から響くが、それは聞かなかったことにする。

「でも、ヤバいね……リトラさんが居なかったら、どうにかなりそうなレベル……」

「え……」

なんの事かと思い、彼の動きに合わせて俺も周囲を見渡せば、直ぐ傍に氷柱が生えていた。

氷柱に対して『生える』と言う表現は怪しいところだが、今この状況に関して言えば、生えたと言う他ないだろう。

まるで樹木のように巨大な氷の針が地面から鋭く突き出ていた。

それも、俺を…………千里さんを避けるように。

「これも……千里さんの……」

「僕の魔法。ただ、範囲が狭くて」

抱き着いてどうにか、か。

だが、空間魔法は火や水とは違って見えない魔法であり、コントロールが相当難しいと聞く。自身の完全防御だけでも、驚くべきことなのに、僅かでも効果範囲を広げられるなんて、恥らずにむしろ自慢するべきだ。

「ありがとう。助かったよ」

「……………………」

千里さんは無言でふるふると頭を左右に振り、コートにまとわりつく雪を払った。

「神影さんのことは僕が守るから。でも、スルーされたね」

「ああ……」

来るかと身構えたが、先の攻撃から次の攻撃は来ず。また、遠くで氷柱が木々を破壊するのが聞こえた。

俺達を狙ったのはリトラを狙うついでか、たまたまこちらへ飛び火しただけか、様子見か。

理由はどうあれ、俺達はリトラの後と考えられている。そして、俺達はそれを許すわけにはいかない。

「……ちょっと派手に行くしかないよね」

『千里、何考えてる?』

「大丈夫だよ。強がりとかじゃなくて、今日はなんか頑張れる。やっぱり、ご褒美が楽しみだからかな」

『………………………………なら、頑張れ』

「うん!」

子供のように弾む声で返事をし、千里さんはそっと耳に付けた通信機の電源を切った。

そして、

「最高だよ、あお。好き放題していいなんて考えただけでもう……!」

笑顔はニヤニヤに変わり、引き伸ばされた唇で両手では隠しきれないほど大きな不敵な笑みを浮かべる。肩を震わせた彼は喉を鳴らして喜びを堪えるのに必死な様子だった。

『神影さん、千里に通信機の電源付けろって言って貰えますか?一通り喜びのダンスしたあとでいいので』

「風で分かるんですか?」

『ずっと一緒の幼馴染なので。千里の行動は魔法を使わなくても何となく分かります』

「でも、やる時はやってくれますから」と微笑した葵さんは千里さんを大層信頼しているようだった。






女は腰を低くしてどんな攻撃にも対処できるよう息をひそめていた。

風系魔法の効果もあるだろうが、女はなかなか素早い。反射神経だけを取るなら、僕が今まで処刑してきた裏切者の中でも一番の速さだ。

だが、逃げるのが速いだけならただのゴキブリと同じ。

罠を仕掛ければいい。

例えば、餌でゴキブリをおびき寄せ、強力粘着シートで捉えるとか。

「お前は既にシートの上のゴキブリなんだよ」

女が瞬時に顔を上げた。

何を察したかは知らないが、

「もう遅い!」

僕は女の足元に張られた氷を一気に砕いた。

女の足場は崩れ、咄嗟に伸ばされた手は崩れ行く氷の板を掴み、滑り落ちる。

そして、ため池の中へと呑み込まれる。

「っ、はっ、っぅ」

首に巻いた布を取り、無様な女の顔が空気を求めても醜く歪む。

もがく腕で、泳ぐフリだけするが、無駄な装備が重しになっているようで、少しずつ沈んでいく。――苦しみ死ぬ様をじっくりと見ていてもいいが、残念ながら、今回は時間がない。

女がため池の縁に立つ僕を見付けた。

「っ、あなた、が……」

赤い瞳が僕を睨む。吐き気がするほど気持ち悪い彼と同じ目で。

「雑魚が」

わさわさと蠢く足を失った害虫はただのゴミ。

だから僕は砕いた氷を張り直した。ゴミ箱に蓋をするように。

歪みのない美しい氷は空を映し、僕の靴の踵は乾いた小枝を折るような心地よい音を奏でる。そうして、必死に氷を叩く女を真下にして見下ろすと、多数の気泡と共に浮かぶ顔が人魚かと僅かに錯覚した。彼女は力の入らない拳で握った剣で氷に一本の細い線を描く。

しかし、それも直ぐに霜で見えなくなった。


「…………………………さて、と……次は……――」


先は大人しく待てばいいと言ったが、撤回しよう。わざわざ会いに来てくれるとは有難い。



「お前だな、日比野(ひびの)神影」



「っ、リトラ!」

何も考えられなかった。

見知った人間が地面に沈み、消えるのを目の前にして、俺の思考は停止した。雑草を掻き分け、開けた場所に出る。靴底が滑り、雪解け水に滑ったのかと思ったが、気付いた時には池に出来た見事なスケートリンクの上にいた。

「リトラ!おい!リトラっ!」

確か、ここだ。

霜が張り、摺りガラスとなった氷の向こうは暗くてよく見えない。しかし、数秒前の出来事なのだ。見間違えるはずがない。この氷の下にリトラは沈んだ。

早く助け出さないと……!

ポケットを探り、ないよりはマシだろうと、百円玉を摘まんで氷を削る。真っ赤になった指先は力が上手く入らず、何度も小銭を取り落とすが、諦めるわけにはいかなかった。

大丈夫、3ミリは削れた。

大丈夫、リトラは助かる。

大丈夫、シアンだって「リトラさんは強いです」と言っていた。

「大丈夫……」

「誰も守れない手なんて、お前も要らないだろう?」

「っ!?」

片腕を掴まれて引っ張られる。

リトラを池に落とした男が俺を見下ろしていた。黒色の詰襟。その胸元には五芒星。俺でも知っている、軍の紋章だ。

氷のように冷めた黒目で俺を見詰め、それから憎々しげに眉を顰めた。そんな彼の手には開かれた銀色の折り畳み式ナイフ。

警告音が脳に響き、咄嗟に腕を引くが、びくともしない。

俺が捕まれば、全てが水の泡になってしまう。


「吟ちゃん!」


この声は千里さんだ。

俺が無我夢中で茂みから飛び出した時、「一人で行っちゃ駄目だよ!」と叫んでいた声と同じ。

その声にいち早く反応した追っ手の男は俺の手を離すと、舌打ちと共に大きく後方へ飛び退いた。

次の瞬間、男が立っていた場所に質量のある何かが振り下ろされた。

粉雪が舞い、 次第に晴れた視界から分かったのは頑丈そうな獣の皮膚を纏う尾だった。右から左へと太くなる尾の先には大きな爪を持った四肢。見上げるも、その巨大さから分かるのは長く広い翼と鋭く尖った角を持つ竜のような生き物ということだけ。

「あ、あえ、滑るっ!神影さん、大丈夫!?あ、あわ、あわわっ、ぎ、吟ちゃん!」

妙な踊りをしながらフラフラと近付いてくるのは千里さんだ。

両手を広げ、前に後ろに上体を揺らしている。

と、転けそうになった彼の前に獣の尾が移動し、千里さんはそれにしがみついた。

「ありがとう」

ぐるぐる。

低い地響きに似た唸り声は、正直、獲物を狙う仕草としか思えないが、嬉しそうな千里さんの笑顔を見る限り、愛情のある行為なのだろう。

「っ、リトラ!」

竜の出現には驚いたが、一刻も早くリトラを助けなければ。

無意味で愚かなことだとしても、俺は小銭を手にして氷を見下ろす。

「そんなにあの女に会いたいなら会わせてやるよ!!」

ピキ。パキ。

この不吉な音は――

「なん……っ」

バキッ。

乾いた樹木が折れるような音がし、「ひゃっ」と言う千里さんの小さな悲鳴と共に竜の片足が池に落ちた。

竜の尾に捕まる千里さんが青ざめた顔で「あおぉおおお!」と葵さんの名を呼ぶ。多分、パニックになっている。

俺も程々にパニックだ。

リトラを探したいが、あの竜がここに落ちたらリトラが下敷きになる可能性がある。それに、この極寒で水に落ちたら数秒で意識を失う自信がある。だからと言って皆を置いて逃げる訳にはいかない。

追っ手が追ってきたのは誰でもない俺なんだから。

「リトラっ!!」

何でもいいから返事をしてくれ……!!

「神影、手を!」

そう言われて反射的に手を伸ばせば、痛いくらいしっかりと誰かに手を握られた。

見上げれば、リトラだ。

それも白馬……否、白いトナカイに跨ったリトラだ。

窮地に颯爽と現れる王子。

シアンじゃなくても吊り橋効果も併せて彼女に惚れるだろう。

俺もこの時は彼女に惚れた。

彼女は俺の王子様だ。

「そこ、足掛けて後ろに乗って」

「え?」

目線を下げれば、トナカイの背中には鞍が掛かっており、鐙がプラプラと揺れていた。

しかし、さらりと乗ってと言われても、馬に乗ったことすらないのに、トナカイなど無理に決まっている。かと言って、リトラが生きていたにも関わらず、乗らずに溺死するのは絶対に嫌だ。

取り敢えず、鐙に足を引っ掛けて重たい腰を揺らしながらあたふたしていると、強い力で腕を引かれ、あれよあれよという間に俺の視界は高くなり、リトラの顔が傍に来る。

あとは跨ぐだけの状態になり、柔軟性ゼロの脚でどうにかほんのりと温かいトナカイの胴に跨った。股関節がポキッと鳴った気がしたが、きっと降りる時に悶絶する。……考えないでおこう。

「千里さんは……」

彼も助けないと。と、思えば、涙目の彼の為に竜が背を低くしていた。千里さんも「もう嫌だよぅ」と駄々をこねながらもしっかりと竜の背に乗る。

「大丈夫だね」

「ああ。………………だけど、俺は確かにお前が池に落ちるのを見たんだが…………」

「うん。落ちたよ。心配かけてごめん。でも、それはあとで説明するから、私に掴まって」

“掴まる”

いざそう言われると、目の前の華奢な背中は女性のものなんだと意識してしまう。

「どこに?」

ここはリトラに指示を仰ごう。間違いはないと思うが、選択を誤れば、何かの拍子に蓮にバレて、それをネタに一生からかわれる気がするからだ。

今もこの状況を小型カメラで隠し撮りしているかもしれない。

「そうだね……腰、かな?振り落とされないよう力込めて」

「腰…………」

いいのか?女性の腰に腕回していいのか?二人乗りの馬しかり、バイクしかり、映画では腰に腕を回しているが……。

「ジャック、避けて!」

「え!?」

リトラがトナカイのことを「ジャック」と呼ぶと、不意にトナカイは足踏みをし、氷の割れた池から飛び上がった。あまりの勢いにリトラの腰を見ながら悶々と考え事をしていた俺の背中が反り返り、足が宙に浮きあがる。

落ちるっ!?

「神影、どこでもいいから掴まって!」

背後にひっくり返りかけた俺の手をリトラが掴み、問答無用で自身の腰に腕を回させた。緊急事態の最中にいなければまだ抵抗しただろうが、つい今しがた死にかけた俺はリトラの腰をきつく締めあげ、彼女の背中に頬を付けるようにしてしがみついていた。

無駄死にするくらいならいくら無様でも構わない。

クソ親父のせいで死ぬなんて真っ平御免だ。




確かに沈めたはずの女が生きていた。


それに、灰白色の巨大な翼竜の姿は書庫整理時代に読み漁った資料の中で見た。

間違いない。

あれは(さくら)の守護魔獣――吟竜だ。攻撃最強と名高い竜の外見を持つ魔獣。

そして、吟竜を「吟ちゃん」と呼ぶ巫山戯た髪色の外人は櫻の末裔に違いない。櫻現当主である爺さんの顔写真は見たことがあるが、何がどうあって金髪緑目のおかしな顔の孫が出来るのだ。母親の血だろうが、黒髪黒目の方が優勢遺伝子じゃないのか?それでも代々櫻に仕える吟竜を呼び出したのだから、彼の体内を流れる血は間違いなく櫻の血なのだろうが。

で、だ。

何故、櫻がいる?

勿論、日比野神影の協力者なのだろうが、『日比野』は櫻の仇みたいなものだろう?

軍の指揮から手を引くだけでなく、少なくとも櫻本家は完全に軍の敵になったと言うことだな。

「櫻の吟竜……か」

櫻の立場は分かったが、流石に僕の一存だけで櫻の次期当主を殺る訳にはいかない。礼儀作法を何処かのマナー講師以上に重んじる『櫻』は御家とやらを崇拝している。本家が退こうとも、それは『軍』から退いただけで、『櫻』から退いた訳ではない。本家を辱める行為は櫻一族を辱める行為になる。安易に本家の次期当主を殺せば、僕が吊るし首になるだろう。

証拠を集め、言い逃れできないようにしてから櫻の餓鬼を殺す。今はお預けだ。

「だが、味見ぐらいはいいだろう?」

あの外人の皮膚片でも取って来れば、櫻も目を逸らせまい。

日比野神影は後回しだ。それと、あのゴキブリ女は直接凍らしてから割ればいいか。

今はこっちの方が断然面白い。



『千里、煩い!』

「煩いじゃないよ!煩いなぁ!死んじゃうじゃん!」

『だからさっさとぼくに代われと言っているだろう!!』

「怒鳴らないでよう!」

『きみと心中する気は毛頭ないと言ってるだろう!吟竜を遊ばせるだけじゃ無駄に魔力を失う!!魔力が尽きれば、ぼく達は直ぐに人間串焼きになるぞ!』

「出来るよ!吟ちゃんとの絆は僕の方が深いんだから!吟ちゃんをコントロールすればいいんでしょ!?」

『じゃあ、今すぐして!ほら!来るよ!』

「ひゃぁっ!!」

頭上を掠めた何かに千里はひっくり返ると、そのままバランスを崩して吟竜の背中から落ちそうになる。そんな主の短い悲鳴にゴロゴロと喉を鳴らした吟竜は体の向きを変えると、鋭い爪で自ら氷を砕いた。

「あわわわわ!あう!うう!」

『ちょっと!落ちるよ!』

巨大な竜にとっては些末な動きでも、背中に乗る千里は外の景色を見る暇もなく、必死にしがみつくだけだった。そもそも、吟竜の背中で掴まれる場所と言えば、精々翼の付け根ぐらいだが、飛び上がった瞬間に振り落とされる危険がある。あくまで吟竜は他と競争する魔獣であり、人間の生活を豊かにする訳でも、ましてや飛行機のように人間を乗せる為に背中がある訳では無い。

吟竜は背中の千里を狙って氷の床からせりがってくる氷の針を尾や翼で弾く。その間も千里の甲高くて途切れ途切れの悲鳴が続いた。

『千里!飛ばして!取り敢えず空に逃げて!』

「あわ、あう、吟ちゃん!空!空ぁあああ!!」

グゥゥゥゥヴヴ!!

空に響き渡る獣の咆哮が凍てつく空気を揺らす。

そして、巨大で分厚く丈夫な翼を高く上げた。その風圧で周囲に生えていた氷柱が全て根元から折れ、蜘蛛の子を散らす様に飛び散る。その一本が飛ばされまいと背を低くする追っ手の直ぐ隣を掠めて行った。

翼を動かす度に砕けた氷も雪も等しく空へと舞い上がる。僅かな光をキラキラと反射させ――

「うひゃうぁぁぁあ!」

『口、閉じて!舌噛むよ!』

――吟竜が空へと飛び上がった。分厚い雲を切り裂いて。




「はぁ……はぁ……も、限界っ…………」

走れない。

追っ手の有利なフィールドである池を離れ、陸地に来たが、押し寄せた疲労に足が震え、分厚く積もった雪で上手く進めない。

吟竜が雪の広範囲魔法を破壊したことで、既に降り積もった雪は残っているものの、新たに降ってくる雪は止み、凍てつく空気は消え失せた。しかし、吟竜を長く呼び過ぎた。無意識に自己防衛する空間断絶魔法と違い、吟竜を呼び出している間、魔力は刻一刻と奪われていた。短時間で大量の魔力を失い、反動で目眩と疲労感が一気に押し寄せてきたのだ。

リトラ達に合流したいが、耳に付けた無線機が吟竜にしがみついてあたふたしている間にどこかへ行ってしまった。

ならば、目指すはあそこしかない。風も心做しか背中を押してくれている。

限界だが、限界でも、進まなければいけない。


千里は小刻みに震える膝を拳で叩いて、走り出した。



『千里っ!』

「ふぇ?」

氷羽(ひわ)の声にも反応するのが疲れ果てていた頃だった。

僕の名前を呼ぶ前に、何で呼んだのか簡潔に言って欲しいとか、伝えている場合でもなく、僕の眼前に一本の氷柱が生え、避けようと右に逸れたそこにまた氷柱が生えた。「ななななんだよぉ!」と右足に左足を縺れさせ、ヘンテコな踊りをしてしまう。そして、その場でひと回転した時には僕は氷柱の檻の中にいた。

「どういうこと!?」

『攻撃しかしてこないかと思えば、多少なりとも頭を使えるみたいだね』

「もしかして、僕、捕まった!?」

『そういうこと』

それは困る。

僕は拳で氷柱を殴ってみるが、勿論、痛い。

『千里の魔法は強力だけど、範囲が狭いし、防衛範囲に対する直接攻撃にしか反応しないからね。吟竜呼ぶ?』

「ジュース飲んで一眠りしたら呼べるかも」

『こういう時の為に、陣魔法を勉強しなさいって葵に言われるんだよ?』

「僕の魔法って僕より捻くれてるよね…………でも、僕が捕まったらヤバくない?」

『櫻本家のご長男様が軍の裏切り者を助けたとあっちゃあ、本家が軍から退こうとも、他の分家の首が飛ばされかねないよね。きみ、一族全員から恨まれるんじゃない?』

疎まれるのは慣れてるけど、恨まれるのは流石に遠慮したい。

その出生のせいか、周囲には良く勘違いされるが、僕は櫻一族自体は嫌いでは無いのだ。寧ろ、普段は互いに悪態を吐きながらも、季節毎に一族総出でイベント事をしている彼らを見るのが好きなのだ。笑って、喧嘩して、また笑って、コロコロと表情を変えながらも、頻繁に集まる。

大きな家族だ。

その中に僕がいないとしても、割と上手くいっている彼らの関係を僕のせいで破壊したくはないのだ。

かと言って、僕は陣魔法が使えない。皆無ではないけれど、僕の魔法属性と同じ、空間系をちょこっとだけだ。陣魔法の良さは自身の魔法属性以外の属性の魔法も使える点にあるが、何故か僕はいくら踏ん張ってみても空間系以外の陣魔法が使えないのだ。璃央(りおう)先生は空間系の魔法使いとそれ以外の属性の魔法使いとでは魔力の使い方が違うんじゃないかと言っていた。空間系以外の魔法属性の魔法使いも、陣魔法で空間系の魔法が使える者は珍しいと言っていたし。

言い訳じゃないけど……いや、言い訳だけど、兎に角、今この場で一二分踏ん張っても、炎系の魔法とか風系の魔法は使えないということだ。

つまり、誰かの助けがないと、僕はこの檻からは出られない。

「お前、ここから出たいか?」

「そりゃあ、出たいよ!…………ぇ」

黒色の詰襟に五芒星のエンブレム。凍てついた空気を纏うその男は軍人で、氷系の魔法使いで、追っ手だ。

黒髪黒目。坊主でも刺青を入れているわけでもなくて、平々凡々な20代な感じだが、目が……怖い。

眉間に皺を寄せ、憎たらしくて堪らないと言いたげな目だった。

『なんとまぁ、初対面なのに失礼な目付きだね。友達いなさそう』

「ちょ、そんな事言ったら……」

失礼だよ。と、言おうとしたが、氷羽の声は僕以外には聞こえないことを思い出した。

一人言喋ってる痛い子になっちゃう。

「出たいなら、これで無駄に長いお前の髪を切って渡せ」

「…………え……」

折り畳みナイフをチラつかせながら、手の届かないギリギリのところに立つ男。

この人、何言ってるんだろう。

髪を切れって、意味分かんないんだけど。

髪を切ることの意味は分かるよ?ナイフで髪を切るってことだよね?

分かんないのは、何で僕が髪を切るの?

それに渡せってことは、切った髪をどうする気なわけ?

もしかしてこの人、重度の髪フェチ…………。僕の金髪で何する気!?

あお以外の、それも赤の他人が僕の髪に頬擦りなんて――うげ、気持ち悪い。

『ついさっき話したでしょ?この男がきみの髪を軍に持って帰ったらどうなる?軍の裏切り者を追っていたら、櫻の長男に邪魔された――証言だけでなく、きみの髪という名の証拠もあるんだ。軍に残るきみのDNAデータで偽物じゃないことは直ぐに証明されるしね』

「はう……」

『彼に髪を差し出せば、櫻は言い逃れ出来ない。空間断絶魔法を使うきみの髪だ。そうやすやすと手に入れられるものじゃない。生身の人間じゃなくても、櫻一族の十分な失脚材料になる』

「つまり…………」

この人は髪フェチではないし、髪を渡せば、一族全員から恨まれる。

「ぼ、僕はそんな脅しには屈しないんだから!」

あおが綺麗だって言ってくれた髪なんだ。絶対に渡さない。他の何も渡してやるもんか。

「ふーん」

僕の意見には大層興味がなさそうに鼻を鳴らすと、男は上体を揺らし――

「うぁっ!?」

男の手元が光ったかと思えば、僕の両腕が顔を守るように上がった。そして、僅かな衝撃を腕に感じた後、爪先に何かが落ちる感覚がした。僕の大嫌いな虫かもと思って直ぐに確認すれば、ナイフだった。

先程、男がチラつかせてきた折り畳みナイフだ。

氷羽が勝手に僕の腕を動かさなければ、切っ先は僕の右眼に当たっていただろう。と言っても、僕の魔法は腕だろうと目だろうと、無条件で僕を守っただろうが。それでも目に衝撃が来たら、少し不味かったかもしれない。

氷羽が無理矢理守らせたと言うことは、それだけ危ないと思ったのだろう。

「あ、りがと」

『礼はいいよ。それより…………腕、重い?』

「え?」

ピキ、ピシ。

細い木の枝が折れる時のような、火の粉が弾ける時のような、そんな音がした。

確かに、腕が重い。

それもそのはずだ。

氷が僕の右腕を這っている。そして、地面から生えた氷柱と右腕の氷がくっつき、いつの間にか僕は氷で出来た鎖に繋がれた犬みたいになっていた。

「何で何で何で!?」

痛くも寒くもないけど、硬い氷で指先すら動かせない。

『落ち着いて。日比野神影を助けた時みたいに集中すれば、きみの魔法の効果範囲は広がる。そうすれば、この氷は形状を維持出来ずに割れるはず』

「落ち着いて!?集中!?何言ってるの!?」

氷が二の腕まで来てるんだよ!?手で払っても、寧ろ、払った爪に霜が這ってきたんだよ!?氷じゃなくて、バイオハザードだよ!!

「僕がこんな時に冷静になれる優等生だって言うの!?」

成績万年平均以下の劣等生だよ!!

『取り敢えず、怒鳴ってたら落ち着けないよ。ほら、足が――』

「足?…………って、何これ!?」

びちょびちょでぐちゃぐちゃな靴の感触を忘れたくて、意識しないようにしていたら、片足が足首まで氷漬にされていた。

精一杯力を込めて氷から足を引っこ抜こうとしたが、脹ら脛に痛みが走って止めた。

「ところで、お前は窒息死するのか?餓死はするのか?」

物騒な言葉ばかり。

目付き悪いし、口悪いし、暴力的だし、友達いなくて当然だよ。

『そうだね。窒息死するし、餓死するよ』

あと、氷羽は氷羽で答えなくていいよ。

落ち着かせる気ないよね?パニック発作で殺す気だよね?

「……………………」

ちょこっと刺激的なエッチが好きな僕と違って、天性のド鬼畜っぽい男に快楽の素を与えてなるものかと、僕も頑張って眉間に皺を寄せて睨み返した。他人の慰みものにされるなんて真っ平御免だしね。

まぁ、葵に興奮して貰えるなら、いくらでもネタを提供するが。

「空間断絶魔法。最強の防御魔法だと、聞いていたが、違うようだ」


はッ。


…………今、鼻で笑われた。

音量は小さかったけど、明らかに僕を小馬鹿にした笑いだった。

『……すっごい、ムカつくね』

「うん」

『でも、冷静になれたね』

「うん」

『見返してやろうか。……さあ、深呼吸して』

もしかしたら、氷羽も焦っていたのかもしれない。心の奥底が澄み切ったように晴れるのを感じた。

『きみの魔法は自分を守るだけじゃない。大切なものを守る魔法なんだってところを見せてやろうよ。きみの大切なものを思い浮かべて』

「僕の大切な…………」

いつなんとき聞かれても、僕の大切なものは変わらない。僕の一番は――葵だ。

肩まで氷が張り、肩も腰も動かなくなる。

だけど、葵の事を考えると、胸がぽかぽかと温かくなった気がした。心配事も消え去る。

お前の魔法は最も優しい魔法だよ。と、言ってくれたのは誰だっけ。

グリグリと頭を撫でながら、誰かが泣き顔の僕に微笑んでいた。

そうだ。

僕の魔法は優しい魔法。誰も傷付けず、誰かを守る魔法。

――葵のこと、お前に頼んだぞ……ちぃ――

「………………ちぃ……」

『千里?…………ほら、きみはこんなにも才能があるのに、面倒くさがってそれを活かそうとしないから』

突然照れ臭い文句を言われ、一瞬彼方に飛んでいた意識を戻すと、開放感を感じると共に、氷が砕けて足元に散乱していた。

「出来た!」

学校の先生は『櫻』に期待をしては裏切られたような顔ばかりして来た。挙句の果てにはいつも『どうせお前には出来ないんだろう?』と言いたそうな顔をして、現実も僕は何も出来なくて、でも、先生達は怒りもアドバイスもしなかった。

誰でもない僕を見てくれたのは、葵や璃央先生……そして、氷羽。氷羽は出会ったその時から『櫻』じゃない僕を見てくれた。大抵、ダメダメな僕を素直に怒って、助けてくれた。そして、本当に時々、僕を褒めてくれた。

『上出来だ、千里』

今みたいに。


「糞ガキ……っ」

「あぅ……怖いよ……不良だよ……」

氷の檻の隙間から覗く、親の仇を見るような目。追っ手の方が犯罪者じゃないの?

『そうだね、どうにかここから出ないと』

落ちたナイフを掴み、硬そうな氷を切り付けてみる。が、街路樹ぐらいの太さの氷に細い線が描けただけだった。

窒息死は免れたが、このままでは軍に捕まる。そうしたら、親戚共々、投獄されかねない。

通信機もどっか行ってしまったし…………どうしたら…………。

『千里、分かった?』

「…………この僕だよ?」

今、葵の風が僕の手のひらを突いた。撫でたというよりは、突いたのだ。

葵の言葉がなくても、その意味は分かった。

だから、僕はしゃがんで背中を丸めた。


ザァザァと聞こえてきたのは雨ではなく、木の葉が互いにぶつかり、擦れ合う音。

それは次第に大きく禍々しい音へと変化して行く。

追っ手も直ぐに氷の壁を作って防御の体勢になる。が、そんなのはきっと意味が無い。

何故なら、今から来るのは葵の魔法なのだから。

ぼたぼたと音がして、顔を上げれば、小さく刻まれた氷柱が雪崩のように地面に落ちる音だった。

遠くの方で、大砲を撃ったような音も聞こえたが、多分、何処かの木が根元から切断され、倒れた音だ。

地面に残っていた雪も、その下の雑草も、土も、木の葉も、僕を囲む様に高速で回転する。時折、僕の頬を小枝が掠めるが、僕の魔法が守ってくれている為、傷一つない。葵はコントロールが効かなくなると言っていたが、これだけの威力を保っているのだから、とても優秀な魔法使いだ。在学中、常にトップの成績だった葵に対して、目も当てられない成績の僕が言えたことでは無いが。

僕は低い姿勢のまま破壊された氷柱を踏み付け、檻から脱出した。横目に見れば、追っ手の生み出した壁が破壊と再生を繰り返していた。

葵の風が鎌鼬になって、壁を切断し、直ぐに追っ手も壁を創造する。

何だか、追っ手の男は酷い暴言を吐いているようだが、生憎と風で良く聞こえない。

それに、葵は敢えて手加減をして男の魔力を消費させ、僕が逃げる時間を稼いでくれているのだ。手加減してなかったら、壁を破壊し、再生させる前に彼の首が飛んでる。僕には一生のトラウマものだが、葵博士の僕に葵の分野で間違えることは断じてない。だから、僕は最初に言われた通り、例の場所を目指すことに集中した。

僕が意を決して立ち上がり、走り出すと、まるで台風の目が移動するみたいに風の渦が僕を中心にして動いている気配がした。

『そこ、足元気を付けて』

葵の鎌鼬で切れ、倒れた樹木だろう。目の前を塞ぐ丸太によじ上り、また進む。正直、虫がうじゃうじゃしてそうな薮とか、木とか触りたくなかったが、これも僕が望んだこと。彼にもう一度会えるなら、虫ぐらいへっちゃら……は無理だけど、後で洋服全部お洗濯に出して、お風呂に入るし。

「うげ!い、今、蜘蛛の巣!!蜘蛛の……巣だよ!!!!口に入った気がするよ!!!!!!!!!!」

その時、風が止んだ。

強風でくっ付いた蜘蛛の巣を飛ばそうと考えた矢先にこれだ。

僕の魔力消費と追っ手との距離を考慮して、葵は魔法を止めたのだろうが、蜘蛛の巣の事も考慮して欲しかった。

『蜘蛛の巣はタンパク質で出来てるってテレビで言ってたでしょ?お肉と一緒だから食べても死なないよ』

「あんな気持ちの悪いフォルムの奴が出した得体の知れない糸だよ!?お肉と一緒にしないでよ!!それに、蜘蛛の巣には蜘蛛がセットでしょ!?蜘蛛!!蜘蛛だよ!!」

『あーもう。髪ぐしゃぐしゃ』

頭洗いたい。もう、この雪で洗っても構わないかも。降ったばっかりだし、蜘蛛がくっ付いているよりは……。

僕が積もった雪に頭を突っ込みたい衝動に駆られていると、突然、後頭部を強く押され、目の前の雪に頭から突っ込んだ。

「あぐっ!!」

『ごめっ、気付くの遅れた!千里が蜘蛛蜘蛛煩いから』

僕のせいだって言うの!?蜘蛛だよ!?世紀末だよ!!!!

「とろいクセに、魔法属性だけは一級品。お前には不釣り合いな魔法だなぁ?黒曜石の檻に詰めて、いたぶってやる」

「ひあ!!」

上体を起こそうとした所に、背中を押された。と言うより、踏まれた。痛くは無いが、起き上がれない。

足早くない?それとも、僕が遅いの?

でも、魔法属性だけは一級品って…………褒め言葉だよね。ついさっき、空間断絶魔法なんて〜と貶されたばかりだが、考えを改めるのが早い。割と素直な人なのかも。

『千里、褒められ慣れてないとは言え、馬鹿にされてるんだからね』

でも、僕は確かに劣等生だけど、魔法を褒められたのだ。僕のせいで全然評価されないこの魔法の良さを彼は見付けてくれた。それはやはり嬉しい。

「――がと」

「は?」

「……ありがとう」

「湧いてんだろ?糞ガキが」

「っぅ!!」

髪を捕まれ、馬の手網を引くみたいに強引に引っ張られた。頭が上がり、首が伸び、背中が反る。しかし、男の足が僕の背中を押すせいで、窮屈な格好になる。

『千里っ!!』

痛くないけど、苦しい。

苦しいけど、痛くない。

まだ大丈夫。

「櫻のガキが日比野を助ける理由なんてどうでもいい。日比野は捕まえる。あとはお前の中のカミサマと、お前の皮膚片を頂ければ、それで良いんだよ。僕の手を煩わせるな、ゴミ」

ナイフが僕の首筋に触れた。そして、横へと滑らせた。躊躇もなく。

「…………僕は切れないよ」

僕の魔法は僕を勝手に守る。

特に、あからさまな殺意には敏感に反応する。

鬱陶しいだけの蚊に対して、不意に湧く抑えきれない真っ黒な感情みたいな殺意には。

その時、背筋を氷が滑る感覚がし、後頭部を鷲掴みにされたかと思えば、地面に押し付けられた。溶けてきた雪が口の中に入ってくる。

「あぅ」

『ぼくに代われ!!この糞ガキはぼくが殺してやる!』

耳の奥から響くドクドクという音は、氷羽が僕の心臓を叩く音かもしれない。だけど、僕は氷羽が前に出ようとするのを必死に抑えた。

酷い口調が移った氷羽がぎゃーぎやー文句を言っているが、僕はそれを無視して蹲った。危機感を感じているらしい僕の魔法が、僕を強固に守っているらしく、痛みどころか、腕や足の感覚も薄れてくる。

それは耳や目にも。

僕の魔法は僕と僕の周りの空間を切り離す。どうやら、度を越すと、僕の魔法は僕の五感全てを外部からシャットアウトしてしまうらしい。

そんなのは……生きているとは言えない気がする。

『千里!どうして反撃しないのさ!』

「僕の魔法は……最も優しい魔法だから……だよ」

それに何より、僕は葵を信じているから。


パン……ッ…………――

男が多分、僕の髪にナイフを当てた時、膜を張ったような耳に一音。

銃声が聞こえた。


音の出処はかなり遠く。敢えて言うなら、廃ホテルあたり。

そう、葵がライフルを構えて待つ、廃ホテルの屋上からだ。


その瞬間、全てが鮮明に見え、聞こえ、感じた。

繊細なのに柔らかく、温かい。葵の風が僕を包み込む。僕は背後の男を払い除け、3メートルは距離を取ってから振り返った。

「……………………っ、てめぇ、絶対に、殺してやる……!殺して殺して殺して殺してやるっ!絶対にころして――」


――やる。


は、言えなかった。上体が傾き、男は吸い込まれるように地面に倒れた。

それも、顔面から。

木々の隙間から顔を出した神影さんが目を丸くしている。多分、敵無しのターミ〇ーターと思っていた男が意図も容易くノックアウトしたのが大層驚きだったのだろう。

それはこの男の人も。

葵が銃の限界を軽く越えた長距離で、たった一本の矢を男の首筋に命中させたのだから。

学生時代の葵の狙撃命中率を知る僕からしたら驚くことではないし、ここ(高台)まで来れば、葵が必ず麻酔銃を撃ち込んでくれると信じていた。

「凄い効き目……生きてる?」

『生きてるよ。憎たらしいけど』

撃たれて十秒もしない内に眠ってしまった。

「起きる前に縛ろう。……この男、どこに何を隠しているか分からないし、衣服全て脱がせたいところだけど」

リトラさんが男の手から滑り落ちたナイフを拾い上げ、彼の腰の小銃も抜き取る。

『丸裸にしてやれ。千里に働いた蛮行、その体で払わせてやる』

「僕が調べるよ。脱がせるのは……ほら、この人には協力をお願いする予定なんだし」

「そうだね」

『千里が許しても、ぼくはこいつを絶対に許さないからな!』

許さなくていいよ。だって、氷羽が僕を大切に想ってくれている証拠だから。

ただ、今は我慢だ。

この人の協力が得られなければ、僕達は荒事に手を出さざるを得なくなる。櫻分家の失脚も目と鼻の先だ。それに、洸祈(こうき)を奪い返しても、軍に追われる身となれば、最悪、陽季さんとはもう二度と会えなくなるかもしれない。

それでも、僕らは欠けたものを埋める為に、葵の痛みを取り除く為に、全てを敵に回してでも洸祈を取り返すつもりだが。



「さあ、葵さんと合流して、(れん)さんのところへ行こう」


リトラさんはそう言って、縛られた男を軽々とお姫様抱っこした。

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