麦畑の少年(14)
加賀は由宇麻を捜そうと病院を飛び出したのはいいが、美恵子に連れられているだろう彼の居場所はさっぱりで、途中から佐藤に連れ戻された。次の日の朝、美恵子の離婚を聞き付け、今後のことを訊きに東京にやって来ていた美恵子の祖父、司野寛二に連絡が取れた加賀は美恵子の家を知り、そこへ向かった。しかし、美恵子の家は留守で、寛二が美恵子に連絡をして遊園地にいることが分かった。急いでそっちに行ったが、遊園地の救護所には由宇麻しか居らず、遊園地内で倒れたらしい彼は命に別状はないが、微熱があった。美恵子のことは寛二がどうにかすると言うことで、一先ず病院へと、加賀の乗ってきていた車で行くことになった。
「全部、私のせいなんですわ」
司野寛二は膝で眠る孫の頭をしわくちゃの骨ばった手で撫でて言った。赤信号で車を止めた加賀は灰色の空を見上げる。
「何故ですか?あなたがいたから由宇麻君を見付けられました。あなたのせいでは―」
「先生、本当は…由宇麻、殺す予定だったんですよ」
「!?」
そのたった一言で踏みそうになったアクセルを慌てて留め、加賀は背筋をぶるりと震わせた。そして、心を必死に落ち着かせると次の言葉を構えて待つ。
「いんや…生まれさせるつもりはなかった…美恵子の腹ん中で殺そうとしてたんです」
由宇麻は生まれた時から病院で暮らしてきた。加賀はそれしか知らない。美恵子の出産の状況は知らないのだ。
「ただの推測ですが、由宇麻君のお母様は随分とお若い。その…」
「そうですわ。美恵子は誰だか知らん子をその身に宿したんです」
つまり、由宇麻の父親は不明。
加賀が初めて周防病院に行った時に美恵子と言い合っていたのは本当の父親ではないと言うことになる。
「それじゃあ由宇麻君のお父さんは…」
「儂は美恵子に迫ったんです。お腹の子を殺すか、家を出ていくか。美恵子は我が子を取り、家を出ていきました。源さんは美恵子が東京に宛もなく出た時に助けてくれたそうなんです。源さんは美恵子のお腹の子を知りながら、美恵子の姓を名乗り、父親として結婚し、美恵子を支えてくれた」
加賀は口を閉じる。そして、何も知らずに心の中で彼らを罵った自分を憎んだ。
「先生、言い訳にしか聞こえんかもしれないですけど、儂らは美恵子を愛してたんです。だから、道徳などと口うるさくしながら儂らは美恵子にチャンスを与えたつもりでした。今回は全てなかったことにして、またやり直すんやって」
父親の分からない子が腹の中にいると言う事実を消して、由宇麻の存在をなかったことにして、また、ただの親子に戻ろうと…―。
「美恵子は言ったんです。ここにいるのは私の子。と…。先生、道徳って何なんでしょうね。娘の幸せを願って娘の犯した間違いをなかったことにして…儂は親なんでしょうか。美恵子は家を出るとき、最後にこう叫んだんです…人殺し…と。儂は親じゃなくて人殺しなのかもしれないんですわ」
加賀は反射的にズボンのポケットに片手を突っ込んでいた。
指先に触れるのは鎮静剤の小瓶。しかし、眠くなることに運転中だということでどうにか抑えた。
内心、薬が欲しい。
たったの一言なのだ。
たったの“人殺し”という言葉が重い。
加賀の異常に気付いた寛二が大丈夫ですか。と訊いてくる。
「大丈夫です」
加賀は苦笑いで返した。
やがて、薬に手を出さずに病院の駐車場に着く。
育ち盛りの由宇麻を抱っこした加賀に寛二は頭を下げた。
「今更かもしれへんですけど、儂、もう美恵子からも由宇麻からも逃げません。最初から二人を支えていれば良かった。それが“親”だった。今からでもいいなら、儂は少しでもいいから罪滅ぼしをしたいんです」
「司野さん…」
「先生、美恵子も源も若かった。長い目で見れば何てなかった。ただ、がむしゃらに生きていた。美恵子も源も由宇麻を愛していた。それだけは分かってください」
加賀は深く頷くと、美恵子を捜しますと言う寛二に車で送ると言い、由宇麻の傍に居てやってくださいと断られたのでよたよたと歩く彼の後ろ姿を見詰めていた。
灰色の空が何だか切ない。
「…せんせ?」
「起きたのかい?」
加賀は少し赤い頬の少年を見下ろした。由宇麻は加賀の抱っこされていると分かると笑顔で首に抱き付く。
「うん」
そんな彼の頭を片手で黙って撫でると、加賀は一気に冷え込んだ風を頬で感じながら歩みを進めた。
「加賀先生」
「ん?」
「ぼく、今さっき思い出したんだ」
「何を?」
「雪の日にぼくはお父さんとお母さんと動物園に行ったんだ。お母さんはおっきくて凶暴な動物見ると怖いって言いながら楽しんでて、途中で迷子の女の子に出会ったんだ。ぼく達は女の子がお父さんお母さんを見つけるお手伝いをしてあげた」
由宇麻が両親のことを加賀に話すのは珍しい。そのことを察した加賀は遊園地で母親と何かあったのかと思った。
「ぼく達は放送をいれてもらいに行ったんだ。ぼくは女の子の手をしっかり握って歩いていた。それでね、放送がすっごい大きな音で流れたのにどんなに待っても誰も来なくて…女の子、泣き出しちゃったんだ」
「それでどうしたの?」
「そしたら、お父さんが捜してくるって。だから、ぼくもって。お母さんが女の子と一緒に待ってて、僕達はあゆちゃんのお父さん、お母さんはどこですかーって捜したんだ」
降りたそうに体を揺らした由宇麻を降ろしてやるとふらつく足を心配して加賀は手を繋ぐ。
「沢山走って、建物の中で見付けたんだ。人が多すぎて放送が聞こえてなかったみたい。あゆちゃんのお父さん、お母さんもあゆちゃんを捜してて、ぼくらは急いであゆちゃんのとこに案内したんだ」
由宇麻の体が揺らいだ。
否、膝から崩れ落ちる。その勢いに加賀と手が離れ、由宇麻は地面に倒れた。
「由宇麻君!?」
「その時のあゆちゃんの顔も…お父さん…お母さんの顔も…綺麗で…綺麗で…」
倒れた彼を抱き上げようとして手を払われる。由宇麻は地面に寝、空に手を伸ばした。
「加賀先生…加賀先生…」
「どこか痛いのかい?」
「怖いよ…もう思い出せないんだ…お父さん…お母さん…」
「思い出せない!?由宇麻君!?」
由宇麻の体は小刻みに震え、指先が宙を掴む。
「分からないよ。ぼくは…ぼくは…」
「由宇麻君…忘れたの?由宇麻君?」
「先生…ぼく…ぼく………」
佐藤に携帯電話を掛けようとした加賀は混乱する由宇麻の声が消えたのに気付いて由宇麻を見下ろした。
そこには由宇麻がいた。静かな穏やかな表情で。
「由宇麻君?」
「雪だ…」
由宇麻の枯草色の瞳は空を見詰め、加賀も空を見上げる。
灰色の空に白い雪。
それらは由宇麻の小さな手のひらに落ちていく。
「由宇麻君、落ち着いた?」
「姫野さん、言ってた。雪は天から降る桜だって。その時、ぼくらはお願い事をしたんだ。姫野さん言ってたよ」
「?」
「加賀先生…ううん。龍ちゃん」
加賀は姉しか呼ばなかったそのあだ名に反応した。
そして、ここからは姐さんの言葉だと悟る。
「『龍ちゃんが泣けますように。龍ちゃんが沢山泣けますように』」
「ど…して…」
「『龍ちゃんはいつも背負ってばかりで泣けないから、龍ちゃんが沢山泣けますように』加賀龍士先生、姫野さんのお願い事叶ったね」
「みたいだ」
涙が止まらない。
電話中の携帯が落ち、佐藤の名前を呼ぶ声を聞きながら由宇麻は加賀の手を握っていた。加賀の涙が由宇麻の頬に落ちるのを構わずに由宇麻は加賀の手を握って空を見詰める。
雪を見詰める。
「由宇麻君の記憶がなくなった!?」
いつの間にか熱で倒れていたらしい加賀は勢いよく体を起こした。
「親に関することがな。今覚えてる、てか、感じているのは親に捨てられたことだけ」
佐藤は職員用の仮眠室の扉の前で車椅子に座って加賀に無邪気な笑顔を振り撒いて手を振る由宇麻を見詰める。
「そんな…」
歩くことさえ困難になった彼はそれも苦にしないで「先生!」と笑っていた。
「原因はストレスらしいし、今の由宇麻君にはいいんじゃないか?由宇麻君のお祖父さんがいて、お前がいて。笑ってくれる」
確実に由宇麻の病気は由宇麻の自由を奪っていっている。加賀達医者の予想では二十歳まで…か。
少しでも幸せな時間を過ごして欲しい。
「加賀先生ーっ。大丈夫?先生、熱だから近づいちゃいけないって言われているけど熱は下がった?」
「んーっと、ちょっと待ってな。ほら、龍士」
佐藤は加賀の服に遠慮なしに手を突っ込むと体温計を引き抜いた。
「ちょっ!?佐藤さん!」
「35.4。平熱低いな。いいぞ、由宇麻君」
佐藤は車椅子の操作にもたもたする由宇麻を抱き上げて加賀の腕に納めた。由宇麻は加賀の顔を見ると女の子のようにはしゃいで加賀の腰に抱き付く。
「由宇麻君は本当に加賀先生が好きだな」
「佐藤先生にはあげない」
「いや、龍士は俺にベタ惚れさ」
「佐藤さん!」
「じゃあ、加賀先生はどっちの方が好き?ぼくだよね!?」
由宇麻は必死だ。
加賀は溜め息を吐くと、当然のように由宇麻の頭を撫でて言った。
「由宇麻君だよ」
「加賀先生さすがだよ!」
「空気読めよ!龍士!」
「空気は十分読んだつもりですが?」
加賀は真面目に返したつもりだったが、
「龍士の阿呆!」
佐藤はツンとして外へ出て行ってしまった。
よく分からなかったが、それでも看病してくれたお礼は言おうと加賀は心に決めて、佐藤の後ろ姿に微笑む。
「加賀先生?」
「ねぇ、覚えてる?姐さんのお願い事の話。私が泣けますようにって」
「うん」
「由宇麻君は何を願ったの?」
ただ単に疑問に思って聞いてみたつもりなだけであった。
由宇麻は真剣な表情で加賀を見ると、頬を赤くしてモジモジとする。
子供と言えど、その姿がなんとなくじれったく見えたり。
「由宇麻君のお願いは秘密?」
「あのね…ぼくはね……パパになりたいってお願い事したんだ」
「パパ?」
「ぼく…家族が欲しいんだ」
加賀は無意識に息を止めていたことに気づいた。
「家族?」
「もうやめよ?加賀先生」
首を傾げるその姿が少し…怖かった。
「由宇麻君」
「何?」
「家族、紹介してね」
「うんっ!」
―……………―
「りゅーしー!!!!!」
「はぇ?」
「起きろ!」
目を開けると至近距離に佐藤さんの顔があった。
彼は私の顔を覗き込んでいた。
「近いです、佐藤さん」
「この天然たらし魔!」
何なのだろう。起きて早々。
「何のことですか?」
「患者とキスしてんな!」
あぁ…。寝る前のことを思い出せば、確かに熱っぽいらしい患者に突然診察途中に告白され、キスしてとせがまれ、キスした…ような。
「悪かったですか?あ、熱、移っちゃいますね。ごめんなさい。お願いされたから…つい」
「ついかよ!バカ!」
「バカです。分かりましたから、近いです」
「いいか、俺達付き合ってるよな!」
なんだろう。この人。
「好きですよ?佐藤さん」
「ハテナ入れんな!」
「好きですよ。佐藤さん」
我儘な人だ。
軽く唇を触れてあげると、佐藤さんは俯いてしまう。
「佐藤さん?」
「たらし」
「響さん」
「!!!龍士のバカ!!!!」
真っ赤な可愛い顔で私に触れるだけのキスをした佐藤さんは診察室のドアを勢いよく開けた。
「今日、飲みに行くぞ」
「少しだけなら」
「ああ」
佐藤さんは明るい笑みを見せた。
あぁ、私は佐藤さんが大好きだ。
数日前、洸祈君がやってきた。
由宇麻君が洸祈君達の父親になったとか。
「お願い…叶ったね」
嬉しいはずなのにちょっとだけ、複雑だったりする。
由宇麻君のお願い事が叶ったのは嬉しい。しかし、由宇麻君の体が心配だ。
病院に帰ってきてなんて、そう簡単には言えない。
彼の幸せを願う。
それが私の願い事だから。
だけど、怖い。
どんなに彼が幸せでも、病気は治らない。治っていない。
洸祈君の話を聞く限り、昔よりは病気に対して強くなっている。
それもいつまで続くか。
あれから私は年をとった。
これ以上ボケが進行しないか、この年齢にしては早い気がするが一応気にしている。
「由宇麻君…」
君は成長を止めたね。
君はまだ二十歳のままだね。
由宇麻君、君はそのことをどう思っている?
由宇麻君、洸祈君は19歳だ。どう思っている?
由宇麻君、君はもう直ぐ彼に年を越される。どう思っている?
由宇麻君、君は幸せかい?
由宇麻君、私は君の幸せを心から祈るよ。
「姐さん、今年も桜を降らせてください」