裏切りと正義(11.5)
衣類が散乱した狭い室内。隅に置かれた簡易ベッドには青年が横たわっていた。
青年は薄目を開けると、薄汚れたレースカーテンの棚引く小窓に視線を向けた。
北向きの窓の向こうは薄暗く、開いたそこからはひんやりとした風が流れてくる。
「……………………寒い……」
「ただでさえ狭いのに、こんなにして。淀んだ空気を入れ替えようかと」
「ごめんなさい……ダルいんだ…………体洗いたいんだけど……動けない…………もう死んじゃうかも……」
毛布を体に巻きつけて蹲った青年は乾いた唇でボソボソと喋る。一方で、窓の横に立った男は冷めた目で青年を見下ろしていた。
「最後にご飯食べたのはいつ?水分は取ってるかい?」
「分かんない…………ずっと前………………気付いたら動けなくなってた……アンゼリカ様……どこ…………」
「ああ、お菓子のオマケね。下に落ちてるよ」
ベッドの下、横たわる青年からは見えない位置に転がるストラップを拾い上げると、それをベッドサイドに置き、男は微笑んだ青年の額に触れた。青年が「俺、汚いから」と僅かに首を振る。
「熱がある。雨に濡れた服ではしゃぐから」
「……ねぇ、藤堂さん……さがさんは?……お見舞い……来てくれない……さがさんも病気?」
「相楽はお仕事中。新しい相棒と一緒に。まぁ、相楽に君の状況を伝えてもきっと来ないよ。逆に祝福されるんじゃないかな」
「新しい……相棒……ね………………って……!?聞いてなっ…………」
ベッドの軋む音と共に、青年がガバリと体を起こし――大きな音を立てて吸い込まれるようにベッドに倒れた。
男こと藤堂は彼の勢いに目を丸くし、直ぐに笑い出す。青年はむすりとすると、布団に顔を埋めた。
「いいよ……俺なんてゴミだし……燃えるゴミとしてこのまま死ぬんだ……自力でゴミ箱に入れなくてごめんなさい……」
「本当に君ってマゾだよね。相楽にフラれてもなお慰み者にするなんて。相楽に教えてあげたら、きっと喜ぶ。銃を持って君を地の果てまで追いかけてくれるよ」
「それ……嬉しいなぁ…………なら、生きないと…………さがさんも地獄までは……流石に来れないから…………暑苦しいところ……死ぬほど嫌いだし……」
カシャン。
金属の擦れ合う音がし、ベッドに腰掛けた藤堂が青年の抱く毛布を捲る。空気に晒される骨ばった両足首には枷が嵌められていた。黒く光沢のある石が並ぶ足枷だ。
「君の無能っぷりに対するお仕置きのつもりが、すっかり忘れていたよ。はぁ、私も歳かな」
藤堂が枷に触れると、石が青白く光り、輪が開いて外れる。そうして両足の枷を外すと、赤紫に変色した青年の足首を毛布で隠した。
「それ……俺も忘れてた……藤堂さんからお仕置きとか嬉しくて…………でも、少しだけ楽だ……ありがとう…………」
「相楽じゃないけど、気持ち悪いね。まぁ、忘れていた私も悪いから、次会った人に君の看病を頼んであげるよ。ただし、お給料から看病代天引きだけど」
「うー……さがさんの為なら耐えられる……」
「その相楽なんだけど、また勝手に通信を切ってね。相川がいた時は一度もなかったのに。相川がいなくなった途端、君好みのサド男になった。単に私をおちょくっているのか、それとも…………。私は彼を疑わない訳にはいかないんだよ。だから、無能な男でも、君には死なれちゃ困るんだ。いざって時に相楽と相打ちになる者が必要なんだ。君だって、相楽に痛め付けられるのは満更でもないだろう?」
立ち上がり、窓を閉めた藤堂。彼は白衣の裾を翻すと、ドアを開けた。
「死なない程度に生きるんだよ、コウキ。君の出番はまだ終わってないんだから」
手を振り、藤堂は足枷を持って部屋を出て行く。暫くして、ドアは音を立てて閉まり、部屋には静寂が満ちる。
ギシッ。
コウキと呼ばれた青年はゆっくりと体を起こすと、膝を抱えて背中を丸めた。
「あいちゃん…………さがさんを助けてよ…………」
くぅ。
膝に頭を乗せ、何でもない爪先を見詰めるコウキの瞳に映る白い毛玉。毛玉はベッドに飛び乗ると、痕の残るコウキの足首に舌を這わせる。
コウキはキョトンとした顔で犬の形をした動く毛玉を観察していたが、震える手で優しく毛玉に触れた。
くぅん。
毛玉が鳴き、コウキの手のひらに鼻を付ける。
「美人さんだね……どこから来たの?……藤堂さんに見付かったら、お肉にされちゃうよ」
不意に現れた癒しに笑みを零したコウキ。
すると、くりくりとした丸い黒目がコウキを見上げ、酷い惨状の床を振り返ると、毛玉は尾を立てて衣類の山へと進んだ。コウキが「危ないよ」と言って伸ばした腕は届かず、毛玉は衣類に埋もれる。
「あーあ……行っちゃった…………」
くぅ。
「あ、美人さん」
どこかへ行ったかと思いきや、いつの間にか目の前にお座りをしていた毛玉は口に咥えた何かをコウキの前に落とすと、ぴくりと耳を揺らして駆け出した。
そして、壁をすり抜けて行った。
「え……………………?」
コウキは慌てて目を擦り、壁を注視したが、見えたのは確かに真っ白な尾っぽが壁をすり抜けて行くところだった。
毛玉が……真っ白な犬の形をした毛玉が壁をすり抜けて行った。
まるで壁などないかのように、しなやかな四肢を晒して。
「ヤバい……幻覚だ…………藤堂さんお見舞いに来たよね?……あれも幻覚かも…………もう俺、死んでるのかも………………って……」
頭を抱えたコウキが毛玉の行動を思い出し、置いていったものを見れば、パックのジュースと菓子だった。
すりおろしリンゴのジュースとアンバダサーシリーズの菓子箱。
それらを手に取り、先ずはパックに刺したストローに口を当てる。
「…………美味しい」
コウキも気付かぬ間にカラカラに乾いていた喉は水分をこれでもかと欲しがり、彼は一気に飲み干す。そして、菓子箱に入ったクッキーを鷲掴みにして頬張った。
パジャマも毛布もクッキーの屑で汚れるが、彼は構わない。
「失礼しますよ。今さっき、藤堂さんが水とご飯を渡してくれって――」
「おばちゃん、頂戴!」
返事も聞く前に、コウキは部屋に入ってきた年配の女性の手からひったくるようにペットボトルとおにぎりを奪う。女性は呆れ顔をしたが、早速、喉を詰まらせて咳き込んだコウキの背中を擦る。
「お腹空かせた犬みたいだよ。取らないから、ゆっくりお食べ」
「うー、んぐ、ん……」
米を喉に詰まらせ、ペットボトルの水で流し込み、また米を喉に詰まらせる。女性の助言を全く聞かずにコウキはこれでもかと食べ物を口に押し込んでいた。
「死にかけで熱もあるって聞いてたけど、杞憂だったかねぇ」
「ううん、ありがと、おばちゃん。でも、頭クラクラしてきたから、もっと看病して」
「急に食べるからだよ。ああ、手のかかる子だねぇ」
皺の刻まれた手でコウキの頭を撫で、彼の頬に付いた米粒を摘んだ女性。コウキは照れた風に肩を竦めた。
「そう言えば、相楽君が心配していたよ。コウキ君のことを見てないかって。それが、ろくにご飯も食べずに倉庫に籠ってたなんてねぇ。見付からないはずだよ。何してたんだい?」
「何って…………………………え、待って……さがさん、俺のこと探してた?寝ずに探してた?死に物狂いで探してたの!?」
「そうだねぇ。少し、顔色悪そうだったよ。コウキ君のことが心配であまり眠れてなかったのかも。良く食べる相楽君がここ最近は少食だったからねぇ」
「さがさんってツンデレかなり拗らせてるよね……」
「時々一緒にご飯食べてる相川君が異動になって、それでもご飯食べに来てくれるのは嬉しいんだけど、ひとりぼっちなのが寂しいのよねぇ……取り敢えず、コウキ君が元気になるのが先だね。ほら、寝なさいな」
一度、部屋を出、掃除道具等を乗せた台車から新しいシーツを持ってきた女性はコウキの使っていたシーツを取り、代わりに新しいものを膝に乗せる。
「それと、これに着替えなさいな。丁度、洗い立ての作業着あったから。コウキ君は細いし、着れるよ。ちょっと短いかもだけど、それよりはマシだから」
「う……臭う?」
「男所帯で何年勤めてると思ってんだい。元気になったら、ゆっくりお風呂に浸かればいいよ。おばちゃんは色々足りないもの取りに行ってくるから、着替えて大人しく寝るんだよ」
「お水ももっと欲しい」
「それも取ってくるからね」
女性は微笑み強請ったコウキの頭を撫で、使用済みシーツを持って出て行った。
今はもう使われていないホテルの一室。
片耳に手を当てた葵はさび付いた錠前を外し、半ば無理矢理窓を開けた。何年も時が止まったままのそこに一気に入り込む冷気。埃っぽい空気が外へと押し流され、代わりに氷に負けないぐらい冷え切った空気が広がる。それが美しい金髪を撫でた瞬間、ウサギのように飛び上がった千里が窓から一番離れた部屋の角に逃げた。
「え、な、何!?おばけ!?って、開けたの!?あおか風邪引いちゃうよ!」
「俺の心配ありがとうな。だが、俺は風がないと。少しでもリトラさんの力になりたいんだ」
「約束は高台だろ?寧ろ離れてないか?」
葵の隣に神影が立ち、雪が降り頻る林の中にポツポツと現れる氷柱を目で追う。千里もおどおどと縮こまりながら葵の背中にくっついた。
「ええ。追っ手を高台にまで誘き出せれば、麻酔銃を打ち込むことが出来ます。しかし、あちらもそれが分かっているのか……リトラさんを近付けさせない」
「逆に奥に追い立てられてるってところだな」
「リトラさんの体力が奪われるだけ…………俺の魔法は……誰かを傷付ける武器として使うと、リトラさんも巻き込んでしまう」
「かと言って、ここで手をこまねいていては、奴の思う壺だろうな。最初にリトラを狙い、俺達の攻め入る手段を断った後で、ゆっくりと一人ずつ確実に――」
「うう……僕は実践向きじゃないんだよう……あおはサポートで、僕は盾で……無能で……」
神影のセリフに怯えた千里はいっそう葵の影に身を潜める。そんな彼を守るように立ち位置を変えた葵は「俺が出ればいい」と言った。
「なんで!?あおはダメだよ!あおはほら、あんまり心臓が…………っ、ごめん…………」
「本当に千里は心配性だな。でも、俺のこと想ってるからだよな?ありがとう」
後ろ手に千里の指に触れた葵。千里も一回だけ強く彼の指に自分の指を絡めると、「あおは大切なんだ。何よりも」と小さく小さく囁く。
「なぁ、守られているところ済まないが、俺が囮になるのが確実だと思う。追われているのは俺であり、俺が持つ父の研究データだ。追っ手は俺を無視出来ないし、俺を殺さない。俺を殺したら研究データの在り処を聞けなくなるしな。だから、俺が囮になって、高台まで誘き寄せる」
「それは承諾しかねます」
神影の提案に葵はあくまでも冷静に答えた。神影が眉をひそめ、ひょっこり出ていた千里の顔が再び葵の背に隠れる。
「何故?追っ手を捕まえるのが目的のはずだ」
「蓮さんはリトラさんに追っ手の確保を依頼し、俺達にあなたの保護を依頼しました。あなたの安全が最優先です」
トン……。
神影の指先が窓枠を叩いた。葵は反射的に音の発生源に目を向け、小さな物音一つが異様に響くような静寂に包まれた空間になっていたことに気が付く。
「リトラは知り合いだ。仲良しってわけじゃないが、同じ友人を持っている。リトラが怪我をしたら、その友人が死にそうな顔をして嘆き悲しむんだ。わーわーと早口で捲くし立てて、俺は耳が痛いし、家主は俺に小言を垂れる。だからお願いだ。リトラを助けさせてくれ」
「………………俺が直接追っ手を追います。だから千里は神影さんとここに残って――」
「俺は……!――」
「あお。僕が神影さんの傍に付いてるから」
囮になろうとする神影とそれを頑なに止めようとする葵が睨み合った時、葵の肩に手を置いたのは、誰でもない千里だった。息を詰めた葵は自分の額に刻まれた眉間の皺を消すと、背中から離れた千里を振り返った。
「千里……」
「僕が一緒に行く。僕が一緒に居れば、神影さんのこと守れるから。いいよね?葵」
「千里さん……」
「…………無茶だけはするな。それと、俺が無理だと判断した時は全員でここから退避する。リトラさんも含めて。全員で、だ。約束できるなら許す」
「うん。約束。行こう、神影さん」
葵ではなく、自分に味方した彼に最初は戸惑った神影だが、部屋のドアノブを握った千里の決意を感じ取って、荷物を肩に掛ける。そして、葵に「ありがとうございます」と頭を下げて部屋を出た。
――葵は胸に手を当てて、そんな二人の背中を静かに見送っていた。
「チッ……日比野神影……動いたな。大人しく震えて待てばいいものを」
軍保有特殊危険生物0001。
人類で最初に神から魔法というものを授かった者達。彼らはカミサマと呼ばれた。
全知全能の神ではないが、不老不死の彼らはカミサマと呼ばれるに申し分ない力を持っていた。
彼らは神のように崇め奉られ、時に厄として恐れられた。しかし、科学技術が発展すればするほど、人は未知のものへ惹かれていくもので、それは必然のようにカミサマの存在へと繋がった。
そして、ある冬の日、軍はカミサマの捕獲に成功した。
最初、探せばどこにでも居そうな小柄な青年を、軍は半信半疑で檻に閉じ込めていた。確かに、触れただけで砂と化しそうな古い書物に記されたカミサマの風貌と彼の容姿は全く相違がなかった。
黒髪。色白の肌。
そして、他国を知らない島国に住まう昔の日本人らしからぬ翡翠色の瞳を持つ青年。
彼は自らを『氷羽』と名乗り、間違いなく、自分はカミサマだと答えた。
それでも、正しく一捻りで、ある科学者を再起不能にした彼はそれなりに長けた魔法使いだとしても、カミサマと信じるには値しなかった。カミサマは神話上の生き物。空想の生物。科学者達はいくら矛盾しようとも、魔法は信じても、カミサマは信じられなかった。
しかし、飲まず食わずで平然と30年は生き、相変わらずの容姿を保つ青年を見た科学者は、老いに敵わなかった自分の頭脳を嘆くと共に、カミサマの存在を認めた。
それが軍保有特殊危険生物0001――氷羽という名のカミサマだ。
しかし、青年がカミサマと認められたところで、実験出来ることはごく限られていた。何故なら、不老不死である以前に彼の魔力は黒曜石では抑えられず、彼に指一本触れる事が出来なかったのだ。正確には、彼に許可なく触れれば、その者は例外なく死んでしまった。どんな仕組みかはしらないが、ある者は触れた瞬間に心臓を押さえて悶え死に、ある者は一週間後に眠るようにして息を引き取った。その者は前日までは健康な二十代の若者だった。
そうして死者が10人を過ぎた時、不幸な連続した死はカミサマの持つ未知の魔法が原因と察し、誰もが檻の外から青年の姿を見るだけに留まった。幸い、彼は檻を破る力は持っていないようで、彼は見物人に話し掛けては無視をされ、退屈そうに頬を膨らませて床に寝転がっていた。
そもそも、軍はどうやってカミサマを檻に入れることが出来たのかと言えば、子犬みたいな目をした彼に「ここに入ってくれたら、君の友達になってあげるよ」と言ったから。そして、彼は喜んで自ら檻の中へと入ったのだ。
勿論、友達になってあげると言う言葉は、長年探していたカミサマに出会して頭が真っ白になっていた科学者の口からポロリと零れた嘘だ。本当に軽い気持ちで吐いた嘘。まさかカミサマが「わあ!嬉しいなあ!」とはしゃぎながら檻にスキップで入るとは、ほんの少しも思っていなかったぐらいの嘘だった。
だから、「これでぼく達は友達だよね?」と言った青年に対して「お前は私が見つけた貴重な化け物だよ」と答えてしまった科学者は、次の瞬間には自分の首が180度回って絶命するなど予測出来るわけがなかった。
見物していた他の科学者や軍人も流石に大小の悲鳴をあげ、泡を吹き、目を見開いて死んだ科学者を見下ろしたカミサマは「嘘吐き」と言って、檻の隅へと遺体を足で蹴飛ばした。
再起不能――と言うより、カミサマに関わって最初に死んだのが、その科学者だった。
誇張の大小はあるだろうが、カミサマに関する最も古い資料を要約すると、こうなる。
それから数百年、彼に関する情報は途絶える。
理由は簡単だ。
彼の見た目は何一つ変わることなく、実験のネタも尽きたからだ。
毒ガスの種類も変えてみても、咳払いの数ぐらいしか変化はなく、そんなものの統計を取ってみても、規則性は勿論ない。あとになって真面目に取り組んでいた自身の愚かさに身悶えるだけ。
だから、実験は一時中断し、ダラダラと日々を過ごすカミサマのくだらない独り言が暫し書き残された後、それすらも面倒になって彼は放置された。
彼の情報が更新されたのはカミサマ研究班班長が日比野と言う男に変わってからだ。
カミサマの生体を調べるのではなく、カミサマを操れる人間を作ることに焦点を当て、特に複雑で多様な性質を持つ空間魔法に目を付けた。
治癒魔法に始まり、攻撃吸収魔法から空間断絶魔法へ。
空間断絶魔法は一種の防御魔法であり、魔法によって空間を断つことであらゆる攻撃から対象を守ることが出来る。それはカミサマの持つ太古の魔法からも、だ。
空間断絶魔法の使い手にカミサマを取り込ませる――日比野は櫻の末裔を使い、実験を成功させた。
と言っても、カミサマが空間断絶魔法に完全に屈服したという訳でなく、幼い櫻の子供に思うところがあったのか、カミサマの方が少年と契約を交わして「あげた」と言うのが正しい。多分、この少年がひとりぼっちのカミサマにやっと出来たトモダチだったからかもしれない。
それでも成功は成功であり、日比野は評価された。
カミサマを捕らえてから何も出来ずに数百年。カミサマをヒトに取り込むことまで出来たのだ。評価されて当然だろう。
成功までに一人は意識不明、また一人は死んでしまったが、それも成功に必要な失敗。考えようには失敗という名の成功だ。
さて、今回の僕の任務に関わってくるのはここからだ。
実験の成功から数年後、櫻の子供に取り込まれたカミサマ――氷羽が呪いを受けた。
呪いの内容は分からないが、氷羽は深手を負い、カミサマとしての力のほとんどを失った。器である櫻の子供も一時危篤状態となり、安定後も櫻当主は孫である少年と外部との一切の接触を絶った。軍の上層部を牛耳る櫻一族の本家当主が「孫は誰にも会わせない」と言った以上、軍人でも手を出せる訳はなく、実質的に軍のカミサマ研究は凍結となった。一部では櫻によるカミサマ独占の為の策略じゃないかと噂されたが、現在では分家が残っていると言えど、櫻本家は表面上は軍から手を引いている。かつ、カミサマ持ちの子供は、軍学校入学時には既に自身の魔法をいくらかコントロール出来ており、彼の強力な防御魔法はカミサマへの実験が行うことが今後もほぼ不可能であることを示していた。挙句の果てに、櫻の子供は軍学校を中退し、軍だけでなく櫻本家とも離れ、攻撃最強と名高い櫻の契約魔獣を従えて、ド田舎で隠居生活をしている――らしい。
そうして、半世紀ほど続いた軍のカミサマ研究は、盾と矛を持った少年にカミサマを持ち去られた、というオチになる。
大事に大事に閉まっておいた秘蔵っ子のカミサマを失い、軍は怒りをカミサマ研究チームにぶつけた。
特にリーダーである日比野に対して。
降格、減給、等々……。研究命と周囲から名高い日比野に最も効いたのは、研究費削減や研究棟出入り制限よりも、「お前の息子の将来を奪う」と言う言葉だったらしい。唐突に父親から離れ、行方を晦ました息子の日比野神影。生死も分からない息子の『将来』という幻と言う他ないものに、意外にも研究者の日比野は恐れた。
彼は確実な研究進歩を見せる為に黒魔法と代償に関する研究を始めた。しかし、その一方で、日比野はカミサマ不在の中でも過去に採取した膨大なデータのみでカミサマ研究を続けていたらしい。それが分かったのは、彼が自身の研究データの残るビルに放火して車で逃走、崖から転落し、事後調査で日比野の研究仲間が吐いたからだ。
日比野はカミサマ研究を続けていた。そして、ある結果を得た。
内容までは研究仲間にも秘密にしていたようだが、引きこもっていたラボから出てきた彼は、放火の直前までずっと息子の居場所を調べていた。
『主任は神影君の為に研究を続けるんだって言っていました』と研究仲間は言っていた。
カミサマの研究データを消し去って逃げた――研究データを何らかの方法で息子に託した、託そうとした、そう考えるのが妥当だろう。
日比野は死亡扱いとなったが、軍は息子の神影の居場所をしつこく追っていた。
何も得られないどころか、カミサマを失い、研究データを失い、研究施設も失った。だから、軍は日比野が最後に得た『結果』を無視することが出来なかったのだ。
しかし、日比野神影の行方は中々掴めずにいた。
自宅を兼ねていた研究所を去り、日比野神影は児童養護施設に身を寄せていた。が、ある時、誰にも行き先を告げずに施設から姿を消した。それ以来、行方知れず。
そして、とうとう死んだかと思っていたら、彼は急に表に現れた。それも呑気に墓参りだ。墓参りの相手が父親の研究で死んだ女という冗談もセットで。
だが、現場に来てみたら、妙にきな臭い。
風が臭うのだ。
そして、この臭いには覚えがあった。
空間索敵の風系魔法。
風系魔法の魔法使いがやましい事を隠す為にこぞって使う姑息な手。日比野神影は魔法使いではないから、これは他の者の魔法。序に言えば、規模がでかい。僕の位置も直ぐにバレた。が、問題は僕が来る前から風が臭っていたことだ。藤堂以外にも日比野神影を狙っている事情通な奴がいるかと思えば、それは明らかに僕が情報集めに降らせた雪から日比野を守る風だった。
尽く風が僕の魔法を邪魔してくるのだ。お陰様で、日比野の位置がぼんやりとしか分からない。確かに、索敵の分野で風系魔法に勝てる魔法属性はないとされているが、この僕を上から目線で邪魔する奴など、許せるはずがない。
序に、女だ。
ちょこまかちょこまか逃げ回るゴキブリみたいにしぶとい女。
だが、近接戦を望んでいる女の前に出てやる優しさを僕は持ち合わせていない。
ゴキブリがバテるか、僕の魔力が尽きるか。言わずもがな、ゴキブリが先にバテる予定だが、隅で震えていた日比野神影と身元不明の協力者一名が動いたのだ。それも、逃げ惑う女の方に向かって。
仲間を助けたい、とか馬鹿な理由だろう。
だが、こちらに来られると、僕としては面倒くさい。
ゴキブリは駆除してもいいが、日比野神影は殺さずに捕らえろと命令を受けている。誰を殺し、誰を生かすか。一々見極めてられない。
そうすると、僕の選択肢は二つ。
女と近接戦か、女を無視して日比野神影にターゲットを変えるか。
しかし、ターゲットを変えても、女はきっと僕を追い掛けてくるだろう。
「先にゴキブリを潰さないとだな」
女を殺し、日比野神影を捕まえる。
僕は弾倉を数え、拠点にしていた山小屋の屋根から飛び降りた。