裏切りと正義(10)
俺が彼女に初めて会ったのは、父の職場だ。
父の仕事は研究者。
実験をし、結果を得、考察し、また実験をする。
世のためになる仕事――学校の授業の一環で、俺は父の仕事をそう発表した。
何故なら、父が自分の仕事をそう言っていたから。
『世の中を変えられる力がある。だけど、僕達はまだその力を使いこなせない。僕の仕事はその力を好きに使えるようにすること。例えば、世のため人のために使えるようにね』
さも誇り高い仕事かのように語っていた。
実際は幼い少女に薬物投与を行っていただけの、極悪非道な犯罪行為を行っていただけだったが。
とにかく、その日も授業を終えた俺は自宅を兼ねた父の職場にランドセルを背負って帰ったのだ。
父は研究所の中でもそこそこの地位にいるらしく、他の職員は俺を「神影君」と呼び、休憩時間にはお菓子やジュースをくれたりした。だから、研究所が俺の家だとしても、別に孤独感や寂しさは感じなかった。父が仕事で忙しい分、代わり代わり遊んでくれる職員が俺にとって家族のようなものだったからだ。寧ろ、所謂『鍵っ子』よりも俺は家族に関して恵まれていたと思う。
「ミカちゃん」
「ちゃんって呼ぶな」
俺はエントランスホールに入った所で、上方から聞こえてきた声に顔を向けずに答えた。
「つれないなぁ。ミカ、お帰り」
顔を上げると、吹き抜けになっている二階の手摺に凭れた白衣姿の父が俺に手を振っていた。
「…………ただいま」
小さい声だったが、父はきちんと聞き取り、嬉しそうに笑う。昔から父は俺が何かする度に嬉しそうにするのだから、少し気持ち悪い。だけど、喜んでもらえるのは悪い気はしない。
「ミカ、ちょっとお前に会わせたい子がいるんだけど。お友達と遊ぶとか用事はあるかい?」
「…………ないよ」
宿題ぐらいだ。それも直ぐに終わる。
友達は……いない。
いつも学校から真っ直ぐここへ帰り、部屋に引きこもる俺を見ている職員達は俺に同学年の友達がいないことを察しているが、研究命の父はそれを知らないし、知ろうともしない。そして、俺ももう気にしない。
「じゃあ、後で僕のラボに来て。待ってるよ」
それだけ言うと、父は通りすがりの他の研究者を追いかけ、「さっきの実験だけどさ」と話し始めた。
今日は割と父と話した方だろう。
そもそも偶然にも父に出くわさない限り、話なんてしないし、しても「行ってらっしゃい」「おかえり」「おはよう」「おやすみ」ぐらいだ。時には「久しぶり」や「大きくなったね」もあるぐらいだ。しかし、学期末に配られる成績表は時期になると必ず催促してくるのだ。良いとか悪いとか、成績表に関する感想を言われたことは一度もないが。放任主義……ただ面倒くさいだけではないのだろうか、とは思う。
『この親にしてこの子あり』とは良く言ったもので、こんな父親らしくない父を持つ俺は子供らしくない子供に成長していた。ようは、父に父親らしさを期待せず、かと言って失望もせず、淡々と日々を過ごす子供になっていた。
俺は今は使われてない研究室、現在の俺の部屋に行き、ランドセルを置いた。そして、父が使用するいくつかの研究室の中でも、特に父がラボと呼んで使用する研究室へと向かった。
「鎮静剤を!」
「早く!」
「早くしろ!」
ラボへと向かう俺の横を白衣をたなびかせた職員達がばたばたと追い抜いて行く。
そして、案の定、ラボの前まで来ると、部屋の中は騒然としていた。
人が右往左往。
俺は部屋の前で入るべきか、帰るべきかを迷っていると、「ミカ、そこで待っていて」と言う父の声が聞こえ、俺は部屋の壁に沿って他人に踏まれないよう隅に立った。
「主任……緊縛調律は」
「駄目だ。彼女の魔力を奪えば、暴走は止まるが、魔法も解ける。毒にやられてしまう」
主任と呼ばれた父が珍しく頭を抱えていた。
そして、どこからとなく、ミシミシと軋む音がする。
ヤバいのではないだろうか。子供の俺でも皆の緊張は伝わってくる。
「神影君、ごめんね。ちょっとそこいい?」
言葉では訊ねながらも、既に作業に取り掛かる彼等に俺は居場所を奪われ、移動を余儀なくされる。
奥へ、隅へ、奥へ、隅へ。
背中が触れた窓ガラスを振り返ると、白いワンピースの女の子がガラス張りの小部屋の中にいた。長い黒髪を振り乱し、痛むのか、頭を押さえてよろめいている。
ガタン。
傍の棚に肩をぶつけた彼女が足をもつれさせた。
「危ない!」
俺は極当たり前に声を上げていた。
そして、至近距離にあったドアノブを見付けて開け放っていた。
「ミカ!」
父が気付いたようだが、遅い。
俺は彼女の腕を掴んでいた。
「ひゃっ」
まるで雪のようだった。
落ちた瞬間に溶けてしまう雪のよう。
今にも消えてしまいそうな儚い悲鳴。
真ん丸の黒目と俺は見詰め合う。
…………可愛い、んだと思う。
細い黒髪がさらりと俺の指の間をすり抜け、彼女の白く滑らかな肌を撫でた。
薄紅の唇が微かに開き、ゆっくりと閉じる。
そして、キツく目を瞑った。
眉間に皺を寄せて蹲る。
「ミカ、危ない。魔力が暴走している。離れるんだ」
肩に手が乗せられ、父が俺の耳に囁くように話す。だけど、俺の指は彼女の腕を強く掴んだままで、分かっているはずなのに、その手の放し方が分からなかった。
頭が痛いなら――
俺は彼女の頭を抱え込んだ。
少しだけキツく、耳や目を塞ぐように。
「ミカ……!?」
「落ち着いて。焦ると、痛みが酷くなるから」
落ち着いて、呼吸を整えれば、痛みは最小限にできる。
俺はもがく彼女に腕を引っ掻かれたが、それでも放すことはしなかった。
まだ焦っている。それでは痛みが増すだけだ。
だが、彼女は空いている手でもう片腕を引っ掻いた。白い腕には簡単に赤いミミズが這い出す。
「他の痛みで頭の痛みを紛らわしているんだ」
しかし、時間の経過にしては恐ろしく早く腕の炎症が消えた。
「ミカ、彼女の魔法は攻撃吸収魔法。悪意ある攻撃を吸収し、分解させる。だけど、彼女は魔法がコントロール出来ない。頭の痛みは増すし、腕の痛みは吸収される。魔力が暴走し始めた。だから、離れて。お願いだ、ミカ」
「……………………一人には出来ない。暴走は止められる」
「ここには魔法使いもいないし、魔力吸収の黒曜石もない」
彼女の魔力を力で抑える必要はない。
力は攻撃だ。攻撃は彼女の魔法を刺激する。そして、彼女自身をも蝕んでいく。
ならば、
君の意識の全てを奪うようなことを――
「ぅ…………っ……………………」
彼女の呼吸が止まるのを感じた。
彼女の睫毛が俺の前髪を揺らすのを感じた。
彼女の心臓の鼓動を感じた。
「み、みかちゃ…………それは…………」
父は言葉を失ったようだった。
だから、俺が答えよう。
それは接吻だ。
「ぃ、っ……………………んんっ!」
その時、小枝みたいな腕に俺は突き飛ばされた。俺は父の腕にすっぽりと収まる。
「ミカちゃん…………男前過ぎだよ……」
「ちゃんって呼ぶな」
女性の職員が彼女の肩に羽織を掛け、目も耳も頬も赤くした彼女を宥めるように抱き締める。
その間も俺は涙目で睨み付けてくる彼女と見詰め合っていた。
「でも、ミカのお陰で止まった…………」
はぁ……。
父が溜息と一緒に額を俺の背中に付けて体重を掛けてくる。重い。
しかし、こんな父は久々で、今回の暴走はこの研究室で数ヶ月前に起きた小規模爆発などの比ではなかったようだった。
「って…………噛まれたの!?」
「何が?」
「唇!血、出てる!」
取り敢えず、唇を軽く舌で舐めると、確かに鉄の味がした。
下唇を噛み切られたみたいだ。
「ティッシュ取って。あ、雪ちゃんは休ませてあげて。ミカにはキツく言いつけるから。本当にごめんね。でも、ミカはキス魔とかじゃないから。僕に似て紳士な子だから」
父が大量のティッシュペーパーを俺の唇に押し当ててくる。それは俺の視界を防ぐ程に。そして、彼女の顔も見えなくなる。俺は血を拭って邪魔なティッシュペーパーをさっさとゴミ箱に捨てる予定だったが、父は手を離さない。俺の好きにさせず、結局、彼女が部屋から出て行くまで俺を捕まえて放さなかった。
「っ、暑い」
「ごめんね。でも、ミカもミカだよ。初対面の女の子にキスなんて。雪ちゃんは学校に行ったこともないし、きっとファーストキスだよ!いや、ミカが雪ちゃんに不釣り合いとかって意味じゃなくてね。ほら、その、トラウマものだよね。いや、僕はミカのキスなんて勿体ないぐらいだと思ってるよ?お父さんはいつでもミカの親愛のキスを待ってるよ?でも、知らない男の子から突然唇奪われるとか、訴えられたら…………」
「責任は取る」
「どこで覚えたの……今時の小学生は早熟だよ……お父さん、怖い」
父はヘラヘラと笑って俺を解放した。やはり、彼女とこれ以上拗れるのを回避しようとしたようだった。
しかし、俺は後悔なんてしていない。
あのまま暴走していたら、俺も父も、彼女も死んでいた。
彼女を傷付けずに、止めるにはあれしか方法が思い付かなかった。
だから、後悔なんてしない。
「それで、会わせたい子って?」
「え?さっき会ったよね?ほら、美人の櫻雪ちゃん」
さくらゆき。
桜と雪。季節外れな名前だが……俺は嫌いじゃない。
「学校行ったことないって言ったでしょ?ミカと歳が近いし、雪ちゃんの初めてのお友達になれないかなって。ファーストキスの相手にする気はなかったんだけど……さ」
「俺のファーストキスの相手は父さんだろ?」
「……………………ミカは本当に………………ミカ、女の子の友達いないの?」
女の子の友達も、男の子の友達もいない。
「友達なんていないし、要らない」
「要らないじゃないよ。確かに子供の時の友達とかってただの遊び友達だ。ひとり遊びの出来るミカには不要かもしれない。でも、大人になったら、必要になる。ひとりぼっちじゃ限界があるからね。ほら、僕の研究友達みたいに」
父は当たり障りのない笑顔を周りの助手達に向け、彼らは知らん振りで片付けに勤しむ。
「友達とは言わないよ。大人の友達はそれが利益になると知っているからつるむんだ。利害に縛られた関係を友なんて呼ばない」
「え…………辛辣………………でも、分かったよ。ミカにとっては友達じゃなくてもいい。ミカは友達が不必要なだけであって、いたらいたで構わないよね。だから、ミカは雪ちゃんの友達になるんだ。いいね?」
結局、いつもこう。
父は父で自分の意見を通す。
俺の話なんて二の次。30分もしないうちに忘れる。
それから、そんな父の意見に反対もしないのが俺だ。
一瞬だけ俺に笑顔を向け、父は立ち上がると、モニターと睨めっこする女性研究者の隣に行き、「さっきの数値どうだった?」と直ぐに父親から研究者の顔に戻る。
俺は片付けの邪魔にならないよう、そっと研究室を出た。
俺は……雪と俺は友達になった。
最初は父の指示通り――懲りずに会いに行けば、顔面にスリッパを投げ付けられ、キス魔の変態男としか認識されていない俺はまるでゴミを見るような目で睨まれた。しかし、いくら蔑まれようと、責任は取ると言った以上、引き下がる訳にはいかない。
引き下がる時は話し相手のいない彼女に新しい話し相手が、友達が出来た時だけだ。だから、それまでは俺は「近付かないで!」に対して「近付かない。ここで宿題するだけ」と応えるのだ。
そうして2週間。
好奇心を抑えられなかった彼女は俺の宿題を覗いてくるようになった。
俺がテキパキと鉛筆を走らせる様に首を傾げ、傍らに置いた教科書をパラパラと眺めるように。
「…………んー?」
唸る彼女は白紙の紙にミミズを作り、「分かんない」とブツブツと喋る。そんな彼女に俺は簡潔かつ端的に助言した。そうすれば彼女は静かになり、俺の言ったことの意味を長々と考えるようになったから。
しかし、次第に彼女は俺の解説に更に質問してくるようになり、解説はやがて会話へと発展していった。まぁ、その頃には俺達は初めて会った時にあったあれやこれやをすっかり忘れていた。
彼女は俺を「ミカくん」と呼び、俺は彼女を「雪」と呼んでいた。
父が言ったからではないが――俺と雪の関係は不思議なぐらい長続きしていた。それどころか、親密な関係……だった。ただし、俺や彼女の性格にしては、という点において。
そして、俺は雪の家にお呼ばれするようになった。
つまり、父の所属する日本軍の幹部の一人、櫻の家にだ。
雪は殆ど毎日を研究所内で過ごしていたが、時々父が許すと彼女は家に帰ることが出来た。そんな時は彼女はとても嬉しそうにし、俺は無言で彼女の背中を見送ることしか出来なかった。
彼女には彼女の家族がいる。
俺はただの友達。
だから、彼女が家に帰れるのは良いこと。
「ミカくん、パパがね、ミカくんに会いたいって。ねぇ、雪のおうちに来ない?」
「ブフッ」
はしたない声を出したのは俺ではない。
父だ。
コーヒーで咳き込んでいる。
「お義父さまにご挨拶……ッ、げほっ、ご、ごめ、あ、ッ、げほごほ」
「日比野さん!?」
ティッシュボックスを掴み、俺の胸にそれを押し当てた雪。処置の仕方が分からないから、取り敢えず、使えそうな道具を俺に寄越したようだった。
俺はティッシュを出すと、父の顔を前に差し出す。
すると、父はティッシュを口に当てて咳をした。
俺は空いた手で父の背中をさする。
「あ、ありが、と…………っ、ごめ」
「落ち着いて…………あの私、変なこと言いました?」
「雪は何も変なことは言ってないよ。父さんが勝手に噎せただけだ。でも、さっきの返事だけど、俺、いいのかな」
「いいって?」
真ん丸の瞳が俺を見上げる。
「だって、俺は…………」
父さんの息子だ。
最愛の娘を実験に使う男の子供。
雪は「誰かの役に立てるなら」と父の研究に付き合っているが、それでも人体実験であることには変わりない。父の目的が何か、具体的なことは俺にも分からないのに、雪の父親が好意で呼んでいるとは思えない。
別に、俺の父への文句を聞きたくないわけではないのだ。雪と親しくしている以上、俺には聞く責任がある。ただ……俺に怒りをぶつける父親を見たら、きっと雪が傷付く。
「ミカくんが嫌なら無理はして欲しくない…………雪もミカくんのことパパに一杯知って欲しかったけど……………………」
ぷくり。
雪が分かりやすく不貞腐れた。
そんな彼女を見たら、断れる訳が無い。雪のお父さんと仲良くなれずとも、雪を泣かせたくないという点ではきっと意見が一致するはず。……………………行くしかない。
「行く…………行きたい」
「ありがとう!!」
雪が白いワンピースを翻して、俺に抱き着いた。咄嗟に支えようと彼女の背中に回した腕に絹に似た滑らかな彼女の黒髪が触れる。
「ミカちゃん、挨拶用のお菓子は部下に買わせるから。頑張ってね」
鼻をかんだ父はグッと親指を立てた。まだ小刻みに肩を震わせている。
俺は何か勘違いしている父に睨みを効かせ、さっさと支度して雪の家へ行くことを決意した。
「俺は櫻柚里。雪の兄です。で、こっちは父さん」
「私は――」
「パパ、ミカくんだよ!」
「あ…………」
着物を着こなす「パパ」は雪に台詞を遮られて、固まる。彼の隣では雪の兄の柚里さんが笑いを堪えていた。
「あの、日比野神影って言います。娘さんにはお世話になってます」
と、言ってから直ぐに『お世話』だと、まるで実験協力に感謝しているように取られるかもと気付いた。研究しているのは俺ではなくて父だが、同じ「日比野」だ。雪の父親には父も俺も区別がつかないかもしれない。
しかし、雪の父親は深々と俺に頭を下げた。
「君のことは雪から聞いている。こちらこそ雪が世話になっている。私は雪の父の櫻勝馬だ。初めまして」
雪の父親は怒っていなかった。俺の発言に怒ることも無かった。
………………俺の考え過ぎだったみたいだ。
雪と彼に血の繋がりはないが、それでも彼は親だ。子は親の背中を見て育つ。優しい雪の性格は間違いなく父親譲りだ。
俺は彼と固く握手をした。
「二人だけで話をいいかい?」
縁側で柚里さんと雪に挟まれて質問攻めにされて困惑していた時、背後から声を掛けられた。
勝馬さんだった。
ドキンと鼓動する胸を隠れて撫でる。
「あ……………………はい」
断れない。――断る訳にはいかない。
「パパがミカくんひとりじめした」とボヤく雪と、「妬かない妬かない」と笑う柚里さんの声が遠くに聞こえた。
俺は光の射す縁側から奥の座敷へ。
奥ゆかしい日本家屋である櫻家の座敷は妙に暗かった。俺の心理状態の影響もあるだろうが。
北向きの薄暗い障子窓の下には背の低い長机。
書物や硯、筆、便箋が置かれていた。
部屋の真ん中には座布団が二枚。
「座ってくれ」
促されたのは出入口に近い座布団。
長机の前であり、部屋の奥である座布団に勝馬さんが座る。
俺達は自然と向かい合うように座った。
何を言われた訳でもないが、緊張で手汗が滲み出てきて気持ち悪い。背中が冷える。
唯一の救いは雪のことは柚里さんが見てくれているということ。
父親が俺を怒鳴る姿を雪が見ることはないということ。
「さて…………」
はぁ。
勝馬さんの吐息が部屋に響く。
「日比野君」
俺は目を瞑った。
……………………………………………………………………。
「雪のこと……ありがとう」
額を畳に付けたのは櫻次期当主だ。
この俺に土下座をしている。初対面で頭を下げた比ではない。
「ちょ…………頭を上げてくださ……」
俺は怒鳴られるのではなかったのか?怒鳴らずとも文句を言われるはずでは?
「俺は感謝される立場じゃ……!」
この人は知らないのか?雪から実験のことは聞いてないのか?だが、雪は養子だろうと、櫻の子。父親の許可なしに実験に協力などさせられないはず。ならば、何故、彼は感謝する?
「分かっている。君は雪で実験する研究者の息子……雪の言う「日比野さん」の子供」
「分かっているなら――」
「ならば、君も分かるはずだ。私は雪の父親。私のあずかり知らぬところで実験がされているわけではないことを」
顔を上げた勝馬さんは床を見詰めていた。
「雪は実の子ではない。妻が拾い、名付けた子。だが、彼女は私の娘だ。家族だ。………………だが、雪を実験に参加させなくては、彼女は本当に軍に奪われてしまう。…………私が当主ではないから………………父親なのに……私は無力なんだ」
涙は落ちない。ただ、彼は声を震わせていた。
これが父親というものなのか。
俺と父の関係とは全くの別物だった。
俺が彼女を大事に想う気持ちとも違う。
まるで雪は彼の魂の一部。
「君は日比野さんの子供だが、日比野さんとは違う。雪の話や話す時の顔を見れば分かる………………だから、お願いだ」
静かだが、鋭い眼光。獣に似た瞳。
これが櫻の目。
「雪を守ってくれ」
獲物を見張る目が俺の首筋を見詰めていた。
俺に懇願する瞳では無い。
「無力な父親が君に願うなど、筋違いなのは分かっている。だけど、願わせてくれ」
脅迫ではないことは分かっているが、何事にも耐え難い願いと言う名の牙を喉元に突き付けられている――それだけの迫力があった。
安易に答えてはならない。
これは血の盟約と同じだ。
違えることの無い約束だ。
俺にそれだけの覚悟があるのか?――彼は俺を見極めているのだ。
だけど、
無力な息子が彼に答えるなど、筋違いなのは分かっているが、
「俺が雪を守ります」
彼女と唇を重ねた時に誓った。
責任は取ると。
彼女の全てを背負うと。
だから、俺は額を畳に付けた。
「雪癒さんは行かないんですか?」
「あいつが日中に出掛けられるなんてええ事やないか。邪魔者は一人でも少ない方がええ」
ソファーに座り、炭酸ジュースの入ったペットボトルに口をつけて喉仏を大きく上下させた雪癒。彼の膝には小さな獣――フェレットだ。そんな彼らをカーペットに女の子座りで洗濯物をせっせと畳むシアンが見上げた。
「僕は皆でワイワイお出かけしたかったなぁ」
「せやから、留守番役のお前さんに付き合っとるんや。感謝せぇ」
シアンが山から引き抜いた黒色のカーディガンを雪癒がさっと取り上げる。そして、彼はそれに腕を通した。
シアンの「お洗濯したばっかりなのに」とボヤく声は無視される。
「神影さんもどこかにお出かけしちゃいましたし…………いつものとこって言いますけど、いつものとこが何処なのかは教えてくれないし……………………リトラさんも朝会ったきりだし…………………………はぁ……」
「そんなに心配なら聞けばええやろ?ちゃんと聞けば神影もリトラも答えてくれるけぇ」
「それは分かってます…………でも僕は居候だし……ただの学友だから……………………人でもない……」
ぐしゃぐしゃの洗濯物を見下ろし、手が止まるシアン。彼は何度と知れぬ溜め息を吐いた。
「うじうじうじうじ、ほんま疲れるのぉ。そこまで自分を肯定出来んやつに何を言うても無意味やな。我は眠る。おやすみ」
「あ……雪癒さ……」
パタン。
慌てて顔を上げたシアンの目にはドアを閉める雪癒の手しか見えなかった。
ジジジジジ……――
昼過ぎ。
来訪者を報せるベルが鳴った。
シアンは咄嗟に客人担当の神影を探すが、直ぐに外出中と気付いた。いるのはシアンと雪癒だけ。この場合、居候の身のシアンは家主である雪癒の判断を仰ぐが、数時間前に気まずい雰囲気で別れたばかり。階段前で暫く雪癒を待ってみるが、物音一つせず。
ジジジジ……。
またベルが鳴った。
「どうしよう……」
居留守か、出るか。
ハッとしたシアンはリビングに戻ると、壁の受話器を取り上げた。
「あ、あの、えと、ど、どちら様ですか?」
いっその事、聞こえなければ良いと思いながら、彼はインターホンと繋がる受話器に喋る。
耳をすませば、車が通り過ぎる音が聞こえた。
来訪者は諦めて帰ったのだろうか。
シアンは内心でホッとしながら、受話器から耳を離した時、
『こんにちは』
「……!?」
女性の声。
無機質で抑揚のない――氷の声。
「あ……………………」
早く神影に伝えなくてはいけない。彼女が来た、と。
しかし、震える手は受話器を耳に付けたまま、思うように動かない。
シアンの顔は瞬時に青ざめる。
『良いんだよ、シアン。私が会いに来たのは君にだ。開けてくれるよね?』
勿論、開ける訳にはいかない。
だけど、彼女の声に逆らうことも出来ない。
「開けるんやない!シアン!!」
カチャリ。
シアンが冷たい合金扉のロックを解除した時、少年の声が響いた。
「え……」
半開きの口を閉じ、振り返ったシアンの目には、黒色のカーディガンを羽織り、半ズボンから素足を見せた雪癒が階段の踊り場から睨んでいる姿が映る。
怒りのような……それよりも焦りの篭った表情を雪癒はしていた。
『久しいね、雪癒』
「…………勝手に上がり込むとは……我を怒らせたいんかや?」
『勝手に?今、正に、シアンが招き入れてくれたんじゃないか。心外だなぁ』
黒髪、黒目、黒手袋、黒長袖、黒ズボン、黒靴。
全身黒色のスラリとした長身の女がシアンの両肩に手を置いて立っていた。
シアンはどこからともなくやってきた寒気にぶるりと背筋を震わせ、しかし、縮こまろうとした背中を肩を掴む女の手によって阻まれる。
「あ、雪癒さん……ごめんなさい……」
『君が謝る必要はないよ、シアン。全ては結界を緩めた雪癒のせいなんだから。調子悪いの?』
「え………………」
「アリアス、我に喧嘩売ってるんけ?」
『喧嘩、ねぇ?売ってもいいけど……高いよ?雪癒一人に払えるかな?』
蝶番の軋む音と一緒に青年が玄関に入って来た。
俗に言う甘い顔の男は目を見開くシアンにニコリと笑みを浮かべる。
「久しぶり、シアン君。俺の馬鹿弟子がお世話になってるね」
「リク……さん……」
「あの子が最後の一歩を踏み止まれるのも、君のおかげだ。だから、俺は出来たら穏便に済ませたいと思ってる」
見た目は笑顔だが、目の奥は深海の様に深く、暗い。
テレヒを眺めてのんびりしていた頃のシアンなら、学生時代先輩だったこの男――リク・シノーレントに言いたかったことが山程あった。しかし、耳にタコができるくらい神影に注意しろと言われていた女を前にして、シアンは固まるしか出来ない。
「我はお前さんが何をしようが傍観してきた。せやけど、シアンを連れてくんは許さへん」
『許す。許さない。それは君の決めることではないんじゃない?傍観者は傍観するだけ。それがあの女と君が交わした約束。それを破りたいなら、君は私に協力すべきだ。あの女を引き摺り下ろすために』
女に促され、シアンの背後に回ったリク。彼は「一緒に来てくれるよね?」と言い、シアンの耳に何かを囁いた。
その行為の意味を悟った雪癒は一層目付きを悪くする。
シアンも目を丸くしてリクを見詰めた。
「何を吹き込まれたか知らんが、こいつらはお前さんの力をいいように使いたいだけや。行くんやない」
「…………………………僕は…………………………本当にごめんなさい…………」
「シアン!!」
リクの脇を通り、玄関ドアを開けたシアン。
ドアの隙間からは一台の黒塗りの車とアリアスとは別の赤髪の女が見える。
赤髪の女は雪癒と目が合うと、頭を傾けて手を振った。笑顔は忘れない。
そして、軋んだ扉はシアンの影を隠して閉じた。
『シアンが決めた道。傍観者の君はそれでも売る気のない喧嘩を買うかい?』
「シアンに何させるつもりや!」
『雪癒には内緒だよ。君は傍観だけしていればいい。それとも、精霊の恩恵が無くなると、困るかい?シアンの力がないと困るかい?』
「アリアスさん」
リクがアリアスに耳打ちする。
その間も彼女は雪癒の目をじっと見詰めていた。
『じゃあね、雪癒』
リクがドアを開け、アリアスはさっさと外へ。
「待つけぇ!!」
走り出した雪癒。ぺたぺたと裸足を鳴らして走る。
そして、その進行を邪魔するように立ったのはリクだ。
アリアスと五分かそれ以上の高身長でリクが立ち塞がる。
「リク…………」
「シアン君は自ら我々の下へ来ました。あなたが出ても彼の意思は変わりません」
まるでマジックのように右手に銀ナイフを掴んだリクは紅茶色の瞳を細めた。
「それに、あなたは傍観者です。どうか、俺達の行く末を見届けてください。…………それが俺達の望む未来でなくても」
左手の小指にナイフの先を触れさせ、米粒のような血の雫を床に一滴落とした。指先で小さな血の円を描くと、「お邪魔しました」と頭を下げてドアの向こうへと消える。
「まっ…………………………ッ……!」
紫色の光が一瞬現れ、前へと伸ばした腕に走る痛みに、雪癒は反射的に腹に抱えて蹲った。その間に扉の向こうでは車のドアが閉まる音がし、続けて走り去る車のエンジン音が。
「ぃ………………くそっ……………………アリアス………………くそっ!!」
痺れの取れない腕を無事な手で掴んで耐える雪癒。
彼は額を床に付け、ひたすら「くそ……くそっ……」と繰り返す。
「許さへん……絶対に許さへん……あの女……くそっ!!」
ごつ。ごつ。ごつ。
廊下に響く鈍い音は雪癒が額を床に打ち付ける音。
リン……――
何処かで鈴が鳴った。
雪癒の動きがピタリと止まる。
――あらあらあら。ご立腹かしら?私の可愛い楽兎――
高くて儚い女の声。姿のない何かが雪癒に語りかけて来る。
雪癒は震える手で宙を払った。それも途中で力尽きて床に落ちる。
――本当に無様なんだから。楽しくて笑えちゃう――
クスクス。転がる鈴に似た笑い声。
雪癒が憎たらしくて仕方がないと言いたげに顔を歪めた。
「お前だって笑えんのは今のうちや。アリアスは本気やけぇ……お前さんの箱庭をめちゃめちゃにする」
――それはそうね。あの子、神様にでもなったつもりかしら?――
「そしたら、お前さんの愛子は早々に生贄になるんやろうなぁ?」
――その時は皆が生贄になるの。終わらない物語を繰り返す為に――
「…………………………シアンを奪い返さんと……」
風が雪癒の手を撫で、震えが治まる。雪癒は肩を落とすと、壁に凭れた。
――奇跡は嫌いだわ。だって、奇跡は私のシナリオの外だもの――
「だからや……アリアスにみすみすシアンを使われるわけにはいかない。それに、奴は我を侮辱した…………絶対に許さない」
――本当に楽兎は可愛い子。でも、気を付けて。傍観者による物語への介入を世界は許さない――
「奇跡は物語の外。物語の外への介入は禁止されていない」
――そうね。あなたがたこ焼きを食べるのも、あなたが彼女を慕うのも、あなたが少年を拾うのも、あなたが精霊を取り返すのも、私の愛子の物語とはきっと無関係。こうして私とあなたが話すのもきっと無関係ね――
リン……――
鈴の音が遠くに聞こえ、雪癒は手を着いて立ち上がった。
無意識に揺れる膝を叩き、彼は玄関の血文字を見下ろす。
血で書かれた小さな円。
雪癒がつま先を近付けると、紫色に仄かに輝いた。
「アリアス…………お前は我の城を穢し、宝を奪った。たとえ同郷の友だとしても、許されない一線を越した…………」
紫色に輝き出す雪癒の目。
彼は円を睨むと、勢い良く裸足で踏み付けた。
「その喧嘩、いくらになろうが、我が買う」




